キリストの実物教訓
どのように隠されているか
福音の宝は、隠されているといわれている。自己を高く評価し、むなしい哲学思想に心を奪われた高慢な者には、贖罪の計画の美と力と神秘とを認めることができない。彼らは目があっても見ず、耳があっても聞かず、知力はあっても隠された宝を認めないのである。 COL 1223.1
時には、宝の隠されている場所の上を通ることもあろう。足の下に高価な宝が隠されているとはつゆ知らず、疲れて木の陰に腰をおろして休んだりすることもあろう。ユダヤ人がちょうどそのようなありさまであった。ヘブル人には、真理が黄金の宝のように、託されていた。天にあるものにかたどって定められたユダヤの制度は、キリストご自身が制定なさったものであった。贖罪の大真理が、型や象徴の中におおい隠されていた。それにもかかわらず、キリストがおいでになった時に、彼が、こうしたすべての象徴の指示していたお方であることを、ユダヤ人は認めなかった。彼らは、神の言葉を持っていた。しかし、むかしながらの伝説や、聖書に対する人間的解釈のために、イエスの説かれる真理がおおい隠された。そして、聖書の霊的意味を見ることができなかった。彼らの前には、あらゆる知識の宝庫が開かれていたのに、それに気づかなかった。 COL 1223.2
神は、神の真理を、人から隠したりなさらない。彼らは、自分で、それをわかりにくくしているのである。キリストは、ご自分がメシヤである証拠をユダヤ人に十二分にお与えになった。彼の教えは、人々の生活に決定的変化を要求した。もし彼らがキリストを受けいれるならば、彼らが尊重している人間の教えと伝説、利己的で不敬虔な習慣を捨てなければならなかった。永遠に変わらない真理を受けいれるには、犠牲を払わなければならなかった。このようなわけで、彼らは、キリストを固く信じることができるように、神から与えられた最も確かな証拠を、拒んでしまった。彼らは、旧約聖書を信じると公言しながら、キリストの生涯と品性とがどんなものであるかがしるされている聖書の証しを、認めなかった。もしそれを認めるとすれば、彼らも悔い改めなければならず、先入観も捨てなければならなかった。彼らは、それを恐れたのである。福音の宝であり、道であり、真理であり、命であるお方が彼らの中におられたにもかかわらず、彼らは天からの最大の賜物を拒んでしまったのである。 COL 1223.3
「しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである」(ヨハネ12:42)。彼らは疑いもなく、イエスが神の子であることを信じたけれども、イエスに対する信仰を告白することは、彼らの野望と相いれなかったのである。彼らには、天の宝を彼らの物とさせるだけの信仰がなかった。彼らは世の宝を求めていたのである。 COL 1223.4
今日も、人々は、熱心に地上の宝を求めている。彼らの心は、利己心と野心に満たされている。世の富と名声、権力を得るために、人間の教えや伝説、人間の戒めなどを、神の戒め以上に重んじるのである。神の言葉の宝は、このような人からは隠されているのである。 COL 1223.5
「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(Ⅰコリント2:14)。 COL 1223.6
「もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(Ⅱコリント4:3、4)。 COL 1223.7