キリストの実物教訓

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第3章 神の力による成長

本章は、マルコ4:26~29に基づく COL 1209.1

種まきのたとえは、さまざまな疑問を人々の心にいだかせることになった。聴衆の中には、キリストが地上に王国を建設なさらないことを悟った者もあったが、不思議な感に打たれ、とまどう者も多かった。キリストは、このような人々の当惑をごらんになった。そして、別のたとえをお用いになって、現世的王国の迷夢から覚めさせ、魂の中に働く神の恵みのことに人々の心を向けさせようとなさった。 COL 1209.2

「また言われた、『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。』」 COL 1209.3

「刈入れ時がきたから」かまを入れるのは、キリストにほかならない。最後の大いなる日に、地の収穫を刈り取るのは、キリストである。ところが、種をまく者は、キリストに代わって働く者を表している。「種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」といわれているが、神のみ子は、そうではない。キリストは、命ぜられた仕事をなおざりにして眠ったりなさらない。彼は、昼も夜も見守っておられるのである。種がどのように育つかを知らずにおられるのではない。 COL 1209.4

種のたとえは、神が自然界に働いておられることを示している。種の中には、神ご自身が植えつけられた発芽力がある。しかし、種をそのままにしておいたのでは、発芽する力はない。種の発芽を助けるために、人間の側でしなければならないことがある。人間は土を耕して肥料をほどこし、そして種をまくのである。また、畑の耕作もしなければならない。しかし、人間の力には限度がある。どんな能力と知恵をもってしても、種から作物を発生させることはできない。人間は、力の限りを尽くしたあとでもなお、神の力に依存しなければならない。神は、種まきから収穫までの驚くべき段階を1つずつ、全能の力によって結びつけられたのである。 COL 1209.5

種には命があり、土には力がある。無限の力が昼となく夜となく活動していなければ、種は、実を結ばない。乾燥した原野にうるおいを与えるために、雨が降らなければならない。また、太陽は熱を与え、埋もれた種には電力が通じなければならない。創造主が植えつけられた命は、創造主だけが呼び起こすことができるのである。どの種の発芽も、どの植物の成長も、みな神の力によるのである。 COL 1209.6

「地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる」(イザヤ61:11)。自然界の種まきと霊の種まきは同じで、真理を教える者は、まず心の土地の用意をしてから種をまかなければならない。しかし、命を発生させる力は、神からだけくるのである。人間には限界があって、それ以上はどんなに努力してもむだである。わたしたちは、み言葉を宣べ伝えるのではあるが、魂を生きかえらせる力を与えることはできない。また、義を生じ賛美の声をあげさせることもできない。み言葉の宣教には、人力以上の力が働かなければならない。ただ神の霊によってのみ、み言葉は、生きた力を持つようになり、魂を造りかえて永遠の命に至らせる。キリストが弟子たちに印象づけようとなさったのは、このことであった。弟子たちの持っている力が、彼らの働きに成功をもたらすのではなくて、神の奇跡を行う力が、み言葉に力を与えることを、お教えになった。 COL 1209.7

種をまく者の働きは、信仰の働きである。彼は種の発芽と成長の神秘を、理解することはできない。しかし、彼は、作物を豊かに実らせてくださる神の力に信頼している。種をまくということは、家族の食糧となる尊い穀物を投げすてるようなものである。ところが、それが、さらに増加して返ってくることを信じて、 今あるものを地にまいているだけである。そのようにキリストの僕たちも、まいた種が豊かに実ることを期待して働かなければならない。 COL 1209.8

よい種は、しばらくの間は、冷淡で利己的な世俗を愛する心の中に置かれて、それが根をおろしている様子を外部からは見ることができないが、やがて、神の霊が魂の上に吹きかけられると、埋もれていた種から芽が生えてきて、神の栄光のために、実を結ぶようになるのである。わたしたちの一生の仕事の中でも、どれが実るようになるのかよくわからない。これであるか、あれであるかがわからない。しかしこれは、わたしたちの決定すべき問題ではない。わたしたちは、自分の本分を尽くして、結果を神にゆだねればよいのである。「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは2つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」(伝道の書11:6)。「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、……やむことはないであろう」と神のお与えになったお約束は語っている(創世記8:22)。農夫は、この約束を信じて、土地を耕し、種をまくのである。わたしたちも、霊的な種まきを、これと同じようにすべきである。「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ55:11)。「種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩篇126:6)という、神の約束を信じて働かなければならない。 COL 1210.1

種の発芽は、霊的命の発生を示し、作物の成長は、クリスチャンの成長の姿を美しく象徴している。自然界と同様に恩恵の世界でも、成長がみられなければ命があるとはいえない。作物は、成長するか、枯れるかのどちらかである。作物は、黙々と、人知れず、成長し続けるが、クリスチャン生活の成長もそれと同様である。成長中のどの段階においても、わたしたちの生命は完全であり得るのである。しかし、神がわたしたちのために備えられた目的を達成するためには、継続的に前進する必要がある。きよめは一生の仕事である。わたしたちの機会が増加するにつれて、経験も広くなり、知識も加わるのである。そして次第に重い責任を負うことができるようになり、特権が与えられるにつれて、ますます円熟するのである。 COL 1210.2

苗木は、その生命を支えるために、神がお備えになったものを受けて、成長するのである。苗木は地中に根をおろし、日光を浴び、露や雨にうるおされる。空気中から生命を支える養分を受ける。それと同じように、クリスチャンも神がお備えになるものを受けて成長しなければならない。自分たちの無力を感じつつも、豊かな経験を得るために、与えられたすべての機会を活用しなければならない。苗木が地の中に根をおろすように、わたしたちは、キリストの中に深く根をおろさなければならない。また、苗木が太陽の光や露や雨を受けるように、わたしたちも、心を開いて、聖霊を受けなければならない。それは、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」と万軍の主は言われる(ゼカリヤ4:6)。わたしたちの心がキリストを瞑想し続けているならば、主は、「冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」のである(ホセア6:3)。主は、義の太陽のように上り、「その翼には、いやす力を備えている」(マラキ4:2)。わたしたちは、「ゆりのように花咲き」「園のように栄え、ぶどうの木のように花咲」くのである(ホセア14:5、7)。キリストをわたしたちの個人的救い主と仰いで信頼することによって、わたしたちは、すべてのことにおいて、わたしたちの頭であるキリストのように成長するのである。 COL 1210.3

「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。」農夫が種をまき、作物の手入れをするのは、穀物を実らせるためである。飢えたものに食を与え、将来の収穫に備えて種をたくわえることを望むのである。そのように、天の農夫であるキリストも、ご自分の労苦と犠牲に対する報いとして収穫を期待なさるのである。キリストは、人々の心の中にご自分のかたちを再現しようとしておられ、現に彼を信じる者によって、このことが実現されているのである。クリスチャン生活の目的は、実を結ぶことである。すなわち、信 者の中にキリストの品性が再現され、それがまた他の人々の中に再現されるようになるためである。 COL 1210.4

草木は、ただ自分のためだけに芽ばえ、成長し、実を結ぶのではなくて、「種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える」ためである(イザヤ55:10)。そのように人は、自分だけのために生きるものではない。クリスチャンは、キリストの代表者として、他の魂を救うために、この世界に存在しているのである。 COL 1211.1

自己中心の生活には、成長もなければ、実を結ぶこともない。もし、キリストを自分の救い主として信じたならば、自分を忘れて、他を助けようと努力するはずである。わたしたちは、キリストの愛と憐れみについて語り、負わせられるすべての義務を果たし、心には、救霊の責任を感じて、失われた者を救うために、力の限りを尽くさなければならないのである。 COL 1211.2

もしも、わたしたちが、キリストの霊、すなわち、他に対する無我の愛と働きの精神を受けるならば、自然に成長して、実を結ぶのである。あなたの品性にはみ霊の実が熟し、信仰は増し加わり、確信は強固になり、愛は完成される。そして、すべての純真なこと、すべての尊ぶべきこと、すべての愛すべきことにおいて、ますますキリストのみかたちを反映するようになるのである。 COL 1211.3

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」である(ガラテヤ5:22、23)。この実は、決して滅びうせることがなく、永遠の命に至る収穫をもたらすのである。 COL 1211.4

「実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。」キリストは、ご自分の教会の中に、ご自身をあらわそうと熱望しておられる。キリストの品性が完全にキリストの民の中に再現された時に、彼らをご自分の所に迎えるために、主はこられるのである。 COL 1211.5

主イエス・キリストの再臨を待ち望むばかりでなく、それを早めることが、すべてのクリスチャンの特権である(Ⅱペテロ3:12・文語訳参照)。キリストの名をとなえるすべての者が、神のみ栄えのために実を結ぶなら、福音の種は、どんなにすみやかに、全世界にまかれることであろう。世界の最後の大収穫は、急速に熟すであろう。そして、この尊い実を集めるために、キリストはおいでになるのである。 COL 1211.6