キリストの実物教訓
よい地に
種をまく者は、いつも失望ばかりを味わうのではない。救い主は、よい地に落ちた種についてお語りになった。これは、「御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、100倍、あるいは60倍、あるいは30倍にもなるのである。」「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」 COL 1207.2
「正しい良い心」とたとえの中でいわれているのは、罪のない心のことではない。なぜなら、福音は失われた者に宣べ伝えられるからである。キリストも、「わたしがきたのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」といわれた(マルコ2:17)。それは、聖霊のささやきに従う正しい心の持ち主で、罪を告白して、神の憐れみと愛の必要を感じる人のことである。また、真面目に真理を学び、それに従おうとする人である。よい心とは、信じる心のことで、神の言葉を信じる心である。信仰がなければ、み言葉を受け入れることができない。「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)。 COL 1207.3
これは、「御言を聞いて悟る人のことであ」る。キリストの時代のパリサイ人は、見ることがないようにと目を閉じ、聞くことがないように耳をふさいでいたので、真理を悟ることができなかった。彼らは、自分たちの故意の無知と、ことさらに自分たちの目を盲目にした刑罰を受けなければならなかった。しかし、キリストは、弟子たちに、心を開いて教えを受け、快く信じるようにとお教えになった。彼らは、目で見、耳で聞いたことを信じたので、さいわいであると、主はいわれたのである。 COL 1207.4
良い地の聴衆は、「それを人間の言葉としてではなく、神の言として——事実そのとおりであるが」——受けいれた(Ⅰテサロニケ2:13)。聖書を自分に語りかける神の言葉として受けいれる人だけが、真に学ぶ者である。彼は、み言葉に強く心を打たれる、言葉は彼にとって生きた実在なのである。彼は、み言葉を受け入れるために心を開いて理解しようとする。コルネリオと彼の友人たちは、このような人々であった。そして、使徒ペテロに、「今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」と言った(使徒行伝10:33)。 COL 1207.5
真理の知識が与えられるのは、知力がすぐれているからではない。それは、純粋な目的をもって、熱心にすがっていく単純な信仰によるのである。心を低くして神の導きを求める者に、天使は近づく。真理の豊富な宝を開くために、聖霊が彼らに与えられるのである。 COL 1207.6
良い地の聴衆は、み言葉を聞いてそれをしまっておく。サタンとすべての悪天使たちも、彼らからみ言葉を奪い去ることはできない。 COL 1207.7
ただ単に、み言葉を聞いたり、読んだりするだけでは十分でない。み言葉から恵みを受けたいと思う者は、示された真理についてよく瞑想しなければならない。わたしたちは、細心の注意と熱心な祈りとをもって、真理の言葉を深く考えつつ学び、み言葉の精神を体得しなければならない。 COL 1207.8
偉大でしかも純粋な思想をもって、わたしたちの心を満たすようにせよと、神は命じておられる。神は、わたしたちが、神の愛と憐れみを瞑想し、偉大な救済の計画の中にひめられた、神の驚くべきお働きを研究することを望んでおられる。そうすれば、わたし たちの真理に対する認識は、ますます明瞭になっていく。そして、純潔と明快な思想に対するわたしたちの願いがますます強まってくる。清い思想をいだき、純潔な雰囲気の中に宿っている魂は、聖書を研究して、神と交わることによって、変えられていくのである。 COL 1207.9
「実を結び」。み言葉を聞いて、それをたくわえている者は、服従という実を結ぶ。魂の中に受け入れた神の言葉は、よい行いとなってあらわれる。キリストのような品性と生活とが、その結果となってあらわれてくるのである。キリストは、ご自分について次のように言われた。「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)。「それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである」(ヨハネ5:30)。「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」と聖書にある(Ⅰヨハネ2:6)。 COL 1208.1
しばしば、神のみ言葉は、人間の先天的、あるいは後天的性質、または、社会の習慣などと衝突することがある。けれども、良い地という聴衆は、み言葉を受け入れる時に、その一切の条件と要求とを受け入れるのである。そして、これまでの習慣や風習などを神の言葉に従わせるのである。彼にとって、有限で誤りやすい人間の命令などは、無限の神の戒めとは比較することができないほど全く無意味なものになってしまう。彼は、まっしぐらに、ただ永遠の生命のみを追い求め、どんな犠牲も迫害も死さえもいとわずに真理に従うのである。 COL 1208.2
また、彼は、「耐え忍んで」実を結ぶのである。神のみ言葉を受け入れる者には、困難や試練がないというわけではない。しかし、苦難に臨んでも、真のクリスチャンは、動揺したり、疑惑をいだいたり、失望したりはしないのである。たとえ、事態がどのように発展するかをはっきりと見ることができず、神の摂理の目的を悟ることができないとしても、確信を投げすててはならない。そのような時には、主の情深い憐れみを思い起こして、わたしたちの思いわずらいを主にゆだね、忍耐して、主の救いを待たなければならない。 COL 1208.3
戦いを経ることによって、霊的命は強められるのである。試練に耐えることによって、品性は堅固になり、霊の結ぶ美しい徳が養われる。信仰、柔和、愛といった美しい完全な実は、暴風と暗黒の中で最もよく成熟するものなのである。 COL 1208.4
「農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」(ヤコブ5:7)。そのようにクリスチャンは、神の言葉が自分の生活の中で実るのを、忍耐して待たなければならない。わたしたちが聖霊によって与えられる美徳を祈り求める場合に、神は、わたしたちをそのような実を結ぶことができる環境におくことによって、わたしたちの祈りに答えてくださることが度々ある。しかし、わたしたちは、神の目的が理解できないで、うろたえてしまう。しかし、この成長と結実の過程を通らなければ、だれ1人として、このような実を結ぶことはできないのである。わたしたちのなすべき分は、神の言葉を受け入れて、それをしっかりと心に保ち、み言葉の支配に全く自分をゆだねることである。そうすれば、み言葉の与えられた目的が、わたしたちの中に完成されるのである。 COL 1208.5
「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」とキリストは言われた(ヨハネ14:23)。わたしたちは、強く完全な神の意志に心を引きつけられてしまう。それは、わたしたちが、尽きない能力の源と生きたつながりを持つからである。わたしたちの信仰生活は、イエス・キリストに全く捕らえられてしまう。もはや、ありきたりの利己的生活は送らなくなり、キリストがわたしたちの内に住んでくださる。イエスの品性がわたしたちの中に再現される。このようにして、わたしたちは、聖霊の実を結び、「30倍、60倍、100倍」にもなるのである。 COL 1208.6