キリストの実物教訓

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第4章 庭園の雑草

本章は、マタイ13:24~30、37~43に基づく COL 1211.7

「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、『天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれた』。」 COL 1211.8

「畑は世界である」とキリストは言われた。しかし、わたしたちは、これを世界の中にあるキリストの教会を意味するものと解釈しなければならない。このたとえは、神の国と人類を救済する神の働きに関するものであり、これは、教会によって行われるものである。たしかに、聖霊は、全世界に行きわたり、いたる所で人々の心に働かれるのではあるが、わたしたちが熟して、神の倉に収められるようになるのは、教会の中においてである。 COL 1211.9

「良い種をまく者は、人の子である。……良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。」良い種は、神のみ言葉、すなわち真理によって生まれた人々を代表している。毒麦は、あやまり、すなわち、虚偽の原則がもたらした実、そのあらわれた結果である。「それをまいた敵は悪魔である。」毒麦の種をまいたのは、神でも天使でもない。毒麦は、常に、神と人類の敵である悪魔がまくのである。 COL 1211.10

東の国々では、復讐のために、種をまいたばかりの敵の畑に、一見麦と少しも変わらない毒麦をまいたりした。それが麦といっしょに成長して作物を損ない、畑の持ち主に迷惑と損害を与えた。同様にサタ ンは、キリストに対する敵意から、天国の良い麦の間に悪い種をまき散らすのである。サタンは、自分が種をまいておきながら、それを神のイエスのしわざのようにみせかける。悪魔は教会内に、キリストの名はとなえるが、キリストの品性を受け入れない者を入り込ませて、神のみ栄えを汚し、救いの働きを誤り伝えて、魂を危険におとしいれるのである。 COL 1211.11

キリストの僕たちは、教会の中に、真の信者と偽りの信者が混じっているのを見て、心を痛める。彼らは、教会を清めるために、なんとかしなければならないと考える。たとえにある主人の僕たちのように、今すぐにでも毒麦を引き抜こうと試みるのである。ところが、キリストは、「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで両方とも育つままにしておけ」と言われるのである。 COL 1212.1

公然とした罪を犯して悔い改めない者は、教会から除外しなければならないことは、キリストが明らかに教えておられるところであるが、人の品性や動機までさばくことは、わたしたちにまかせられていないのである。キリストは、わたしたちの性質をよく知りぬいておられるから、こうしてさばくことはおまかせにならない。もしわたしたちがにせクリスチャンであると思う人々を教会から引き抜こうとするならば、必ず間違いをするにきまっている。キリストがご自分に引き寄せておられる大切な人々を、わたしたちは全く見込みのない者だと考える危険がある。わたしたちが、自分たちの不完全な判断に従って、これらの魂を扱おうとするならば、おそらく彼らの望みの綱を断ち切ってしまうことであろう。自分こそクリスチャンであると思っている者の多くが、最後には、量が不足していることに気づくことであろう。隣人たちからは、全然天国に入れるとは思われなかった人々が、多く天国に入ることであろう。人は外の形によって判断し、神は心を評価なさるのである。麦と毒麦とは、収穫までいっしょに成長する。そして、収穫というのは、恵みの時の終わりのことである。 COL 1212.2

救い主の言葉の中には、もう1つの教訓が教えられている。それは、驚くべき忍耐とやさしい愛が必要であるということである。毒麦の根と良い麦の根がからみ合っているように、偽りの兄弟も、真の弟子とかたく結びついている。そして、これらのにせ兄弟の正体がまだ十分にあらわされていない。もし彼らが教会から除外されるとすると、固く信仰にとどまるはずの者までが、そのためにつまずいてしまうのである。 COL 1212.3

このたとえの中で明らかに教えられていることは、人間や天使に対して、神ご自身がどのような取り扱いをされるかということである。サタンは欺く者である。サタンが天で罪を犯した時に、忠実な天使たちでさえ、彼の品性を見ぬくことはできなかった。そのために、神は、直ちにサタンを滅ぼされなかったのである。もし、滅ぼしてしまわれたならば、聖天使たちは、神の義と愛とを認めることはできなかったことであろう。神の慈愛に対する疑惑は、悪の種のように、罪と悲しみの苦い実を結んだことであろう。このようなわけで、悪の創始者は滅ぼされることなく、その品性を十分にあらわす期間が与えられた。神は、幾世代に及ぶ長い悪の活動をながめて、心を痛め、カルバリー山上で、イエスという無限の賜物をお与えになった。こうして、サタンがどんなに誤ったことを伝えても、人々が、それに惑わされないようになさった。毒麦を引きぬけば、必ず大切な麦まで引きぬいてしまう危険があるからである。わたしたちも、天地の主がサタンに対して忍耐なさるように、兄弟に対して忍耐深くあるべきではなかろうか。 COL 1212.4

教会内にクリスチャンの名に値しない人々がいるからといって、世の人々がキリスト教の真理を疑ってもよいという理由にはならない。また、クリスチャンもにせ兄弟がいるからといって失望すべきではない。初代教会はどうであったであろうか。アナニヤとサッピラは、弟子たちの仲間に入っていたのである。魔術師のシモンもバプテスマを受けた。パウロを去ったデマスも、信者であると思われていた。イスカリオテのユダは、使徒の1人に数えられていた。あがない主は、魂を1人でも失うことを望まれないのである。イエスとユダとの経験は、かたくなな人間の性質をイエスがどれほど忍ばれたかを示すために記録された ものである。主は、わたしたちにも、ご自分と共に忍ぶことを命じておられる。にせ兄弟は、世の終わりに至るまで教会の中に残るであろうと主は言われるのである。 COL 1212.5

こうしたキリストの警告があったにもかかわらず、毒麦を引きぬこうとした人々があった。悪い行いをしたと思われた人々を罰するために、教会は政権の援助を求めた。既定の教理と異なった意見をいだいた者は、投獄、拷門、死刑などの刑に処せられた。しかもこうしたことが、キリストの承認のもとに行動すると言っていた人々の扇動によって行われた。しかし、彼らにこのような行動をさせるのは、キリストのみ霊ではなくて、サタンの霊である。これが、世界を自分の支配下におくための、サタン自身の方法である。教会が、このようないわゆる異端者に対して取った処置は、神に対する誤解を人々にいだかせることになったのである。 COL 1213.1

キリストのたとえは、わたしたちが人をさばいたり、罰したりしないで、へりくだった気持ちを持って、自己過信におちいらないことを戒めている。畑にまかれた種が全部よい麦ではない。ただ教会の中にいるだけで、その人がクリスチャンだという証拠にならない。 COL 1213.2

毒麦は、青葉のうちは、麦とよく似ている。ところが畑が色づいて収穫時になると、価値のない雑草は、穂がよく熟して、その重みで頭を下げる麦とは少しも似ていない。敬虔の形をした罪人は、しぼらくキリストの真の弟子の間に混じっている。そしてクリスチャンとよく似ているために、多くの人をあざむくのであるが、しかし、世界の収穫の時には、善と悪との間には、なんの類似もないのである。その時、教会には加わったが、キリストにつながっていない者は、明白にわかるのである。 COL 1213.3

毒麦は、麦の間で成長し、同じように太陽の光や雨に浴すことが許された。しかし、収穫の時には、「その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる」とある(マラキ3:18)。天の家族とともに住む価値のある者がだれであるかを決定するのは、主ご自身である。主は、各自の言葉と行為によって、おさばきになる。口で言うことには、なんの値うちもない。運命を決定するのは、品性である。 COL 1213.4

やがて毒麦が、全部、麦になる日が来るということを、救い主は教えておられない。麦と毒麦とは、収穫、すなわち、世の終わりまでいっしょに成長する。そして、毒麦は束ねて、火に焼かれ、麦は神の倉に収められるのである。「そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。」「人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」 COL 1213.5