キリストの実物教訓
土地の準備
種まきのたとえ全体を通じて、種まきの結果がこのように相違しているのは、土地の状態いかんによるものであることを、キリストは示された。どの場合を見ても、種をまく人と種は同じである。神のみ言葉が、わたしたちの心と生活になんの効果もあらわさないとすれば、その原因は、わたしたちにあることを、こうして教えておられるのである。しかし、このような結果も、決してどうにもならないというものではない。確かに、わたしたちは自分を変えることはできない。けれども、わたしたちには選択の力がある。そして、自分が将来、何になるかは、自分が決めるのである。道ばた、石地、いばらの地の聴衆は、いつまでもそのままでいる必要はないのである。神の聖霊は、常に、世のことに心を奪ってしまう迷夢から、わたしたちをさまし、永遠の富に対する願いを起こさせようと働かれる。人々が、神の言葉に無関心であったり、おろそかであったりするのは、聖霊を拒むからである。心がかたくなで、よい種が根をおろすことができず、悪がはびこって、よい種の成長をふさいでしまうのは、その人々自身の責任である。 COL 1206.1
心の畑は、耕さなければならない。土地は、罪に対する真心からの悔い改めによって、くだかれなければならない。悪魔的毒草は、ぬかなければならない。いばらが一面に生えていた土地は、けんめいに努力してこそはじめて回復することができるのである。そのように、生まれながらの心の悪の傾向も、イエスの名と力によって、熱心に努力してこそ、打ち勝つことができるのである。神は、預言者によって命じておられる。「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。」「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取」れ(エレミヤ4:3、ホセア10:12)。神は、このようなことを、わたしたちのために成しとげようと望んで、わたしたちの協力を求めておられるのである。 COL 1206.2
種をまく者は、人々が福音を受けるようになるために、彼らの心の準備をしなければならない。み言葉を人々に伝える伝道においても説教が多すぎて、人の心に真に接する時が少ないのである。失われた魂に個人的に働きかけなければならない。キリストの持っておられたような同情をいだいて、個人的に人に近づき、永遠の生命という大きな事柄に彼らの注意を呼び起こさなければならない。彼らの心はふみつけられた道のように固く、救い主について語ってもむだのように思われる場合がある。しかし、論理が動かし得ず、議論も説得する力がないと思われる時にも、個人的な奉仕のうちにあらわされるキリストの愛は、石の心をも和らげ、真理の種が根をおろすようになるのである。 COL 1206.3
このようにして、種をまく者は、種がいばらにふさがれたり、または、土が浅いために枯れたりしないように、手入れをしていなければならない。まず、クリスチャン生活の出発点において、すべての信者に、その基本的原則を教えなければならない。ただキリストの犠牲によって救われたということだけでなくて、キリストの生活を自分の生活とし、キリストの品性を自分の品性にすべきであることをも教えなければならない。重荷を背負うことと、生まれながらの傾向に勝利すべきことを、すべての者に教えなければならない。キリストの自己犠牲にならい、キリストのよき兵卒として 苦難に耐えて、キリストのために働くことの幸福を、彼らに教えなければならない。 COL 1206.4
また、キリストの愛に頼って、すべての思いわずらいを主にゆだねることを学ぼせ、主に魂を導く喜びを味わわせなければならない。失われた者に愛と関心を寄せることによって、彼らは、自己を忘れてしまうのである。世の快楽は、引き付ける力を失い、世の重荷も苦にならなくなる。真理の鋤(すき)はその任務を果たし、未開の土地を掘り起こすのである。こうしてただ、いばらの上の部分を切るばかりでなくて、それを根から引き抜いてしまうのである。 COL 1207.1