キリストの実物教訓
取りあげられたタラント
「さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、10タラントを持っている者にやりなさい」という宣言が、なまけた僕に下された。これは、忠実に働いた者に与えられた報いと同じく、最後の審判の時の報いであるだけでなくて、現世においても、徐々に与えられる報いである。霊界も自然界と同じである。用いない能力は弱くなり、衰えてしまう。活動は生命の法則である。「各自が御霊の現れを賜わっている」(Ⅰコリント12:7)。賜物は、他を祝福するために活用するならば増加する。ところがそれを、自己のために閉じ込めてしまえば、減少して遂には取り去られてしまう。自分の受けたものを分け与えることを拒む者は、ついに与えるものがなくなってしまう。これは魂の能力を弱め、ついには滅びにおとしいれてしまう自滅の道である。 COL 1330.1
利己的で自己中心な生活を送りながら、主と一緒に喜ぶことができると思ってはならない。彼らは無我の愛の喜びにあずかることはできない。彼らは天の宮廷にふさわしくない。天にみなぎっている清い愛の雰囲気を理解することができない。天使たちの声も、立琴の音楽も、彼らには満足を与えない。彼らにとって、天の科学は、1つの解き得ぬなぞである。 COL 1330.2
大いなる審判の日に、キリストのために働かず、ただ自分のことと、自分を喜ばせることのみを考えて、なんの責任も負わず、浮き草のような生活をした人々は、全地の審判主から悪を行った人々の中に入れられて、同じ宣告を受けるのである。 COL 1330.3
クリスチャンであると言いながら、神の要求を果たさずそのことを別に悪いことと思わない者が多い。彼らは、神を汚す者、殺人、姦淫を行う者が罰をけるのに値することを知っている。しかし、自分たちは、宗教的集会を楽しみ、福音の説教を聞くことを愛しているから、クリスチャンであると思っている。彼らは自分のことばかりに日を過ごしていたのであるが、この不忠実な僕が「そのタラントをこの者から取りあげよ」という宣告を聞いて驚いたように、彼らも驚くのである。彼らも、ユダヤ人と同じように、祝福を正しく用いないで、自分の楽しみにあててしまった。 COL 1330.4
自分は、神のために働く能力がないと言って、クリスチャンの働きをしないことの弁解をする者が多くいる。しかし、神は、彼らをそのような無能力者に造られたのであろうか。決してそうではない。彼らの無能は、自分たちが活動を怠って、それを故意に続けた結果である。「そのタラントをこの者から取りあげよ」という宣告の結果は、すでに彼らの品性の中にあらわれている。タラントをいつまでも用いないでいると、唯一の光である聖霊を消してしまうのである。「この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい」という宣告は、彼ら自身が、永遠に決定したことを、天が承認したことを示しているのである。 COL 1330.5