キリストの実物教訓
返されたタラント
「だいぶ時がたってから、これらの僕の室人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。」主が僕たちと計算される時には、すべてのタラントがどれだけ増したかが厳密に調べられる。行った働きが、僕たちの品性をあらわすのである。 COL 1328.4
5タラント与えられた者と、2タラント与えられた者とは、託された物と利益とを主に返した。これは彼らが、何も自分の功績を認めないことを示している。彼らのタラントは、与えられたものであった。別のタラントをもうけたのではあるが、元金がなければ利益もなかったのである。彼らは、ただ自己の義務を果たしたことを認めている。資金は主のものであったから、利益も主のものである。もしも主が彼らに愛と恵みとを賜らなかったならば、彼らは、永遠に破産してしまったことであろう。 COL 1328.5
しかし、主がタラントをお受けになった時、それがいかにも彼らの功績であるかのように、僕たちを賞賛し、報われたのである。彼の顔には、喜びと満足の色があらわれていた。主は彼らに、祝福を与えることができることを喜ばれるのである。神が僕たちに奉仕と犠牲をお与えになるのは、神の側に与えなければならない義務があるからではなくて、愛とやさしさにあふれた心からなさるのである。 COL 1328.6
「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」 COL 1328.7
神が喜んでお受けになるものは、神への忠実さ、忠誠、愛の奉仕などである。聖霊に動かされて、人々を善と神とに導いた行為は、天の書に記録される。そして、このような働きをした僕は、神の日に賞賛を受けるのである。 COL 1328.8
彼らは、自分たちの働きの結果、あがなわれた人々を、神の国でみる時に、主の喜びにあずかるのである。そして、彼らは、この地上で神と共に働くのにふさわしい者となっていたから、天でも神とともに働く特権が与えられる。わたしたちが、天でどうなるかは、現在どんな品性をもち、神のみわざの中で何をしているかによってきまる。「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」と、キリストご自身が言われた(マタイ20:28)。キリストのこの地上の働きは、キリストの天の働きである。この地上でキリストと共に働くことの報いは、来たるべき世界で、キリストと共に働くという、より大きな力と特権が与えられることである。 COL 1328.9
「1タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散 らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。」 COL 1328.10
人々はこのように、神の賜物を用いなかったことの弁解をする。いかにも神が横暴苛酷で、人間の欠点をさがしては、罰を与えるもののように考える。何も与えずにおいて要求し、まかないでおいて刈るもののように非難する。 COL 1329.1
神が人々の所有を要求し、彼らの奉仕をお求めになるのを非難して、神は苛酷な主人であるという者が多くいる。しかし、わたしたちは、すでに神のものである物のほかに、何も神にささげることはできない。ダビデ王は「すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです」と言った(歴代志上29:14)。万物は、創造によるばかりでなく、贖罪によって神の所有なのである。現世ばかりでなく、来世においても、受ける祝福のすべてには、カルバリーの十字架が押されている。であるから、神が苛酷な主人であって、まかないところから刈るという非難は不当である。 COL 1329.2
主人は、悪い僕の不当な非難を別に否まなかった。しかし、この僕の行動はなんの弁解の余地がないことを示している。主人の利益になるように、タラントを増やす方法は、すでに備えられていたのである。「主人は言った、『それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに』。」 COL 1329.3
わたしたちの天の父は、わたしたちが与えられただけの才能を、発揮することをお求めになる。わたしたちには負うことができない重荷を、無理に負わせられることはない。「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」(詩篇103:14)。神がわたしたちにお求めになることは、すべて、恵みによって、わたしたちのなし得ることなのである。 COL 1329.4
「多く与えられた者からは多く求められ」る(ルカ12:48)。わたしたちのできることから少しでも足りなければ、それに対する責任を負わなければならない。主は、わたしたちにどんな奉仕ができるかを、正確にお計りになる。活用した能力と同様に、活用しなかった能力も調べられる。わたしたちの才能を正しく用いたならば、到達し得たはずのことに対して、神はその責任を問われる。わたしたちは当然なし得たにもかかわらず、才能を神の栄えのために用いなかったために、なし得なかったことを、さばかれる。自分の魂を失わないまでも、用いなかった才能の結果がどんなものであるかを、永遠にわたって知らされることであろう。なぜなら、得るべきであって得なかったところのすべての知識と才能とは、永遠の損失となるからである。 COL 1329.5
しかし、わたしたちが自分を全く神にささげて、神の指導に従うならば、その達成については、神が責任を負ってくださる。わたしたちが、忠実に働くならば、これが成功するかどうかを気にすることを神は望まれない。失敗については、1度でも考えてはならない。わたしたちは、失敗することのないお方と協力しなければならない。 COL 1329.6
自分の弱さや無能のことを口にしてはならない。これは、神に対する不信を示し、み言葉を拒むことを示している。重荷についてつぶやいたり、負わせられた責任を拒んだりするならば、それは、主が苛酷であって、能力を与えないで要求すると言っているのと同じことである。 COL 1329.7
なまけた僕の精神を、わたしたちは謙遜ということがあるが、真の謙遜は、これとは全く異なったものである。謙遜であるということは、何も知力に欠け、抱負もなく、おく病な気持ちで人生を送り、失敗することを恐れて責任を避けることではない。真の謙遜は、神の力に頼って神の目的を成就することである。 COL 1329.8
神はみこころにかなう人々を用いてお働きになる。神は大きな働きをするのに、最もいやしい器をお選びになる。それは、神の力が、人間の弱さによってあらわされるためである。わたしたちは、標準をもっていて、それによって、1つの事を偉大であると言い、 他のものを小さいと言うのである。しかし、神は、人間の定規でおはかりにならない。人間が大きいと思うことを、神も大きく思い、人間が小さいと思うことを、神も小さく思われるものと決めてはならない。才能を評価したり、仕事を選んだりすることは、わたしたちのすることではない。わたしたちは、神が負わせてくださった荷を神のために負い、常に神のみ前に出て、安んじているべきである。仕事はなんであっても、真心から喜んでする奉仕を神は喜ばれる。神とともに働く者とされたことを喜び、感謝の心をもって義務を果たすことを、神は喜ばれるのである。 COL 1329.9