キリストの実物教訓
いばらの中にまかれたもの
「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。」 COL 1203.7
福音の種は、しばしば、いばらや毒草の中に落ちる。そして、人の心の中になんの道徳的変化も起こらず、以前の癖や習慣、あるいは、罪の生活が続くのである。サタンの性質が捨てられずに残っているならば、麦はふさがれてしまう。実を結ぶのは、いばらであって、麦は枯れてしまうのである。 COL 1203.8
真理の尊い種を受けいれる準備が常にできている心の中にだけ、恵みは成長することができる。罪のいばらは、どの土地にでも育つのである。それは耕さなくてもよい。しかし、恵みは、注意深くつちかわれなければならない。とげやいばらは、いつでもすぐに生えてくるものであるから、常に、手を入れてきれいにしておかなければならない。もし、心が神の支配下になく、品性の向上と洗練のために聖霊が活動しないならば、古い習慣が生活の中に現れてくる。口では福音を信じると言ってみても、そう公言している福音によって清められていなければ、なんの役にもたたない。もし、彼らが罪に勝利していないならば、罪が彼らに勝利しているのである。ただ刈っただけで、根がぬかれていないならば、いばらは、すぐに育って、ついには魂を、おおいかくしてしまうのである。 COL 1203.9
キリストは、魂を危険におとしいれるものを指摘された。マルコが記録しているように、キリストは世の心づかいと富の惑わし、その他いろいろな欲をあげられた。ルカは、生活の心づかいや富や快楽をあげた。こうしたものが、み言葉をふさぎ、霊的種の成長をはばむのである。魂は、キリストから栄養分を吸収しな くなり、心の霊性が死んでしまうのである。 COL 1203.10
「世の心づかい」。ここに世の心づかいとあるが、これにまどわされない人は、どの階層の人にもない。貧しい者には、苦労や圧迫、欠乏と恐怖などの心配がある。金持ちは、財産を失いはしないかという心配に苦しむものである。キリストが野の花から学べといわれた教訓を忘れているクリスチャンが多い。彼らは、キリストの変わらぬご保護に頼らない。キリストは、人々が重荷をキリストにゆだねないために、その重荷を負うことがおできにならない。世のわずらいというのは、救い主に援助と慰めを求めるようにすべきものであるにもかかわらず、かえって、人々をキリストから引き離しているのである。 COL 1204.1
神のご用をするならば、豊かな実りを得ることができるにもかかわらず、金もうけに没頭している者が多い。事業に全力を尽くして、霊的方面のことをおろそかにするのはやむを得ないことのように思っている。こうして、彼らは神から離れていくのである。聖書には、「熱心で、うむことなく」と命じられている(ローマ12:11)。わたしたちは、助けを要している人々に、分け与えるために働くべきである。クリスチャンは、働かなければならない。また、商売もしなければならない。しかも、それを罪を犯さずにできるのである。ところが、多くの者は、事業に没頭してしまい、祈りのための時間や、聖書研究の時間や、神を求めて、神に仕える時間がないのである。時には、清めのことや天のことを渇望することもあるが、世の雑音から離れて、神の霊のおごそかな権威あるみ言葉に耳を傾ける時間がないのである。永遠の事物はあとまわしにされ、世の事柄が第一のものとされている。これでは、み言葉の種が実を結ぶことは不可能である。世俗といういばらを育てるために、魂の生命が奪われているからである。 COL 1204.2
また、これとは全く異なった目的をもって努力していながら、同じ誤りにおちいっている者が多い。彼らは、他人のために働いている。種々の仕事に追われ、責任も多く負っている。彼らは忙しさのために礼拝をする余裕がない。そして、祈りとみ言葉の研究によって神と交わることを怠っている。「わたしから離れては、あなたがたは何1つできないからである」と、キリストが言われたことを忘れている。彼らは、キリストから遠く離れて歩いている。そのために、彼らの生活には、キリストの恵みがあふれず、利己的性質があらわれてくるのである。彼らの奉仕は、最高位を望む野心や、くだかれていない心の粗暴なみにくい性質のために汚されている。クリスチャンの働きが失敗に終わるおもな原因がここにある。またこれが、実がわずかしか実らない原因でもある。 COL 1204.3
「富の惑わし」。富を愛することは、人の心をとらえて惑わす力をもっている。世の財宝を持っている者は、とかく、彼らに富を得る力を与えるのが神であることを忘れる。「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た」と彼らは言う(申命記8:17)。彼らの富は、神に対する感謝の念を起こさせるどころか、かえって自己称揚の念を起こさせる。彼らは、神のおかげをこうむり、同胞に対して義務が負わされていることを忘れる。富は、神の栄光と人類向上のために用いるべきタラントであると考えずに、自己のために用いるものであると思う。富をこのように使用するならば、人間の中に神の性質を啓発させることにはならないで、サタンの性質を助長することになる言葉の種は、いばらの中でふさがれているのである。 COL 1204.4
「快楽」。ただ自分の楽しみだけを追求するところの娯楽は危険である。すべて肉体を弱らせ、知力をくもらせ、霊的知覚をまひさせるような習慣は、「たましいに戦いをいどむ肉の欲」である(Ⅰペテロ2:11)。 COL 1204.5
「その他いろいろの欲」。これらのものは、必ずしも何か罪深いものというわけではない。しかし、それは、神の国をさしおいて第1位におかれるもののことをいうのである。人の心を神から奪い去り、心の愛情をキリストから引き離すものは、なんであっても、魂の敵である。 COL 1204.6