キリストの実物教訓
石地
「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のための困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」 COL 1201.7
石地にまかれた種は、土がわずかしかないところに落ちた。すぐ芽は出たけれども、根が岩に妨げられて、成長にどうしても必要な養分をとることができ ずに、やがて枯れてしまう。わたしには信仰があると口先だけで言っている人の多くは、石地の聴衆である。地下に岩があるように、良いことをしたいという願いや大きな希望の下には、生来の利己心が横たわっている。自己愛が征服されていないのである。彼らは、罪がいかに恐ろしいものであるかを悟らず、罪の自覚によって心がくだかれていない。この種の人々はすぐに受け入れて、有望な改心者のように思われるけれども、彼らはほんの表面だけの宗教しか持っていないのである。 COL 1201.8
そうかといって、すぐにみ言葉を信じ、喜んでいる人なら必ずつまずくとも限ってはいない。マタイは、救い主の召しを受けた時に直ちに立って従った。神は、わたしたちが、神の言葉を聞くや否や、すぐに受けることを望んでおられる。たしかに、喜んで受けることは正しいのである。「罪人がひとりでも悔い改めるなら……大きいよろこびが、天にあるであろう」(ルカ15:7)。また、キリストを信じる魂にも喜びがあるのである。ところがたとえの中で、すぐ言葉を受け入れたといわれている人々は、その払うべき価を十分に見積もらない。彼らは、神の言葉が何を要求するものであるかを考慮しない。彼らは、人生のあらゆる習慣をみ言葉に照らしてみて、み言葉の支配に全く従うことをしない。 COL 1202.1
植物は、土の中に深く根をはって、目には見えないところで、植物の生命に栄養を与えている。クリスチャンもそれと同じである。霊的生命が養われるのは、魂が信仰によって、目には見えないが、キリストと結合することによってである。 COL 1202.2
しかし、石地の聴衆は、キリストに頼ろうとはせず、自分に頼るのである。自分たちの善行や時折りのよい心がけに頼り、自分を義とする心が強い。彼らは、主とその偉大な力によって強くなっていない。このような人は、キリストに連なっていないから、「その中に根がない」のである。 COL 1202.3
やけつく真夏の太陽は、穀物を丈夫に実らせるものであるが、根のないものを枯らしてしまう。そのように、「その中に根がないもの」は、「しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」罪からの救いを求めるのではなくて、苦しみを避けるために、福音を受け入れる者が多くいる。宗教とは、困難や試練から人間を解放するものであるかのように思っているから、しばらくは喜んでいる。彼らは生活が平穏な間は、堅実なクリスチャンらしく見えるのである。しかし、はげしい誘惑に出会うと倒れてしまう。彼らは、キリストのために受ける恥辱に耐えることができない。神の言葉が、心に秘めた罪を指摘し、克己と犠牲を要求したりすると、彼らはつまずいてしまうのである。彼らの生活を徹底的に改革することは、あまりにも努力を要することなのである。彼らは、現在の不便や試練をながめて、永遠の実在のことを忘れてしまうのである。彼らは、イエスのもとを去っていった弟子たちと同じように、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と言うのである(ヨハネ6:60)。 COL 1202.4
神に仕えていると言いながら、神に関する体験的知識を持っていない者が多い。神のみこころを行いたいという願いも、ただ一時の気まぐれによるもので、心が聖霊に深く感動したためではない。彼らの行動は、神の律法と一致していない。口ではキリストを救い主として信じると言いながら、キリストが彼らに罪に打ち勝つ力をお与えになることを信じない。彼らは、生きた救い主と個人的接触がなく、彼らの品性は、先天的、および後天的欠陥を示している。 COL 1202.5
聖霊は、力ある働きをなさるとばく然と認めることと、悔い改めを促す譴責(けんせき)者として、聖霊の働きを受け入れることとは、全然別のことである。多くの者は、自分たちが神から離れ、自己と罪との奴隷になっていることを自覚している。そして、改革しようと努力するのではあるが、自己を十字架につけない。 COL 1202.6
彼らは自分たちを全くキリストのみ手にまかせてみこころを行う力を神に求めようとしない。彼らは、神のかたちにかたどって形造られることを喜ばない。彼らはばく然と自分たちの不完全さを認めはするが、自分たちの犯している罪をすてない。彼らが悪い行為を重ねるごとに古い利己心は勢力を増していくの である。 COL 1202.7
こうした魂の救われる唯一の望みは、キリストがニコデモに対して言われた次のみ言葉を自分で理解することである。「あなたがたは新しく生まれなければならない。」「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:7、3)。 COL 1203.1
真の清めとは、神への奉仕に専心することである。これが真のクリスチャン生活の条件である。キリストは、何1つ保留しない献身、完全な奉仕を求めておられる。キリストは、心と思いと魂と力とをご要求になる。自己に執着していてはならない。自己のために生きる者は、クリスチャンではない。 COL 1203.2
愛が行為の原則でなければならない。愛が、天地間の神の政府の基本的原則である。そして、これがクリスチャンの品性の基礎となるべきものである。この愛のみが、クリスチャンを堅く立たせてささえるものである。これのみが、彼を試練と誘惑に勝たせるのである。 COL 1203.3
また、愛は、犠牲によってあらわされるものである。贖罪(しょくざい)の計画は、犠牲によって立てられた。しかも、その犠牲とは、とうてい測ることができないほど広く深く高いものであった。キリストは、わたしたちのためにすべてをお与えになったのであるから、キリストを信じる者は、あがない主のために、喜んですべてを犠牲にするのである。また、キリストに誉れと栄光を帰することを、まず第一のこととするようになるのである。 COL 1203.4
もし、わたしたちが、イエスを愛するならば、イエスのために生き、感謝のささげ物をし、イエスのために働くことは、何よりの楽しみとなる。主の働きは、やさしいのである。イエスのためならば、痛みも苦しみも犠牲も喜んで忍ぶのである。イエスが人々の救いを熱望されたと同じように、わたしたちも魂を熱く愛し、イエスが魂に同情なさったようにわたしたちも感じるようになるのである。 COL 1203.5
これがキリストの宗教である。ここまで達しないものは偽りものである。真理に関する単なる理論を唱え、弟子であることを表明するだけでは、魂を救い得ない。全くキリストのものでないとすれば、全然キリストに属していないのである。人々の意志が薄弱で、うつり気なのは、クリスチャン生活が中途半端だからである。自己とキリストの両方に仕えようとすることが、人を石地の聴衆にしてしまい、1度試練が襲ってくると、くずれ去ってしまうのである。 COL 1203.6