各時代の希望
第22章 ヨハネの投獄と死
本章はマタイ11:1~11、14:1~11、マルコ6:17~28、ルカ7:19~28に基づく DA 774.3
バプテスマのヨハネは、キリストの王国について一番先に告げ知らせたが、彼はまた苦難を受けることにおいても最初であった。荒野の自由な空気と、彼のことばを熱心にきいた大群衆から離れて、彼はいま獄舎の壁の中にとじこめられていた。彼はヘロデ、アンテパスの城の中に囚人となっていた。ヨハネの伝道の大部分は、アンテパスの支配下にあったヨルダンの東の領地でなされてきた。ヘロデ自身ヨハネの説教をきいていた。放蕩な王は悔い改めを促す叫びにふるえあがった。「それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである」(マルコ6:20)。ヨハネはヘロデに対して誠実にふるまい、彼が兄弟の妻ヘロデヤと不義の結婚をしたことを公然と非難した。一時ヘロデは自分の身をしばりつけている情欲の鎖をたち切ろうとかすかな努力をした。しかしヘロデヤは彼を自分の網にますます強くとらえ、ヨハネを投獄するようにそそのかすことによってヨハネに報復した。 DA 774.4
ヨハネは活動的な仕事に日を送ってきた人だったので、することもない、陰気な獄舎の生活が彼の心を重くした。何の変化もなく1週また1週と過ぎて行くにつれて、落胆と疑惑が彼の心にしのびこんだ。彼の弟子たちは彼を捨てなかった。彼らは牢獄(ろうごく)に出入りすることをゆるされていたので、イエスのみわざについて消息をつたえ、人々がイエスのもとにおしかけていることをヨハネに話した。しかし彼らは、もしこの新しい教師がメシヤなら、なぜヨハネの釈放に努力しないのかと質問した。メシヤだったら、自分の忠実な先駆者が自由とおそらく生命まで奪われることをどうしてゆるすことができようか。 DA 774.5
こうした質問は効果がないわけではなかった。そうでなければ決して起こらないような疑問がヨハネの前に持ち出された。サタンは、この弟子たちのことばをきき、そのことばが主の使者の魂を傷つけるのを見てよろこんだ。ああ、自分は親しい人の友であると考え、その人への忠誠心をあらわすのに熱心な人たちが、かえってその人の最も危険な敵となる場合がどんなに多いことだろう。どんなにしばしば彼らのことばはその人の信仰を強めないで、かえって失望落胆させることだろう。 DA 774.6
救い主の弟子たちと同じように、バプテスマのヨハネは、キリストの王国の性質を理解していなかった。彼はイエスがダビデの位につかれるものと期待した。ところが、時が過ぎても、救い主が王の権威を主張されないので、ヨハネは困惑し、心配した。ヨハネは、主の前に道が備えられるためには、イザヤの預言が成就しなければならないと民に宣言していた、すなわち、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地とされねばならない(イザヤ40:4参照)。彼は人間の誇りと権力という高い所が倒されるのを期待していた。彼はメシヤを、「箕(み)を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てる」お方としてさし示していた(マタイ3:12)。ヨハネは預言者エリヤの霊と力とをもってイスラエルにあらわれたのであったが、そのエリヤのように彼は、主が火によって答えられる神としてご自身をあらわされるものと期待した。 DA 775.1
バプテスマのヨハネは、その使命において、高いところでも低いところでも、恐れるところなく不義を責める者であった。彼はあえてヘロデ王に対面して率直に罪を責めた。彼は自分が任命された働きをなしとげるためには、生命を惜しまなかった。そしていま彼は、ユダ族の獅子(しし)が圧制者の誇りを打ち倒し、貧しい者と泣き悲しむ者とを救われるのを獄屋の中から期待した。だがイエスは、まわりに弟子たちを集めることと、人々をいやしたり人々に教えたりすることに満足しておられるようにみえた。ローマのくびきが毎日イスラエルの上にますます重くのしかかり、またヘロデ王とその邪悪な情婦は好き勝手にふるまい、貧しい者たちと苦しむ者たちとの叫びが天にのぼっているのに、イエスは取税人たちの食卓で食べておられるのだった。 DA 775.2
荒野の預言者にとって、こうしたことがみなはかり知ることのできないなぞに見えた。悪魔のささやきが彼の心を苦しめ、非常な不安の影が彼にしのびよる時があった。長い間待ち望んでいた救い主がまだ現われておられないということがあり得るだろうか。すると自分がこれまで叫ばされたメッセージはどういうことなのだろうか。ヨハネは自分の使命の結果にひどく失望していた。彼は神からの使命が、ヨシヤの時代やエズラの時代に律法が読まれた時と同じような効果を生み、悔い改めて神に立ちかえる根強い働きが伴うものと期待していた(歴代志下34章、ネヘミヤ8、9章参照)。この使命の成功のために、彼は一生をささげたのだった。それはむだだったのだろうか。 DA 775.3
ヨハネは、彼自身の弟子たちが、彼に対する愛から、イエスについて不信の念をいだいているのを見て、心を痛めた。彼らのために働いたことは何の実も結ばなかったのだろうか。彼がいまこうして働きから切り離されているのは、使命に忠実でなかったためだろうか。もし約束された救い主が現われて、ヨハネが召しに忠実であったことがわかったら、イエスはいま圧制者の権力を倒し、ご自分の先駆者を解放しようとお思いにならないだろうか。 DA 775.4
しかしバプテスマのヨハネは、キリストへの信仰を捨てなかった。天から声がきこえ、はとがくだった思い出、イエスのけがれのない純潔さ、救い主の前に出た時ヨハネにのぞんだ聖霊の力、聖書の預言のことばのあかし、一すべては、ナザレのイエスが約束のお方であることをあかししていた。 DA 775.5
ヨハネは、自分の疑いや心配について友人たちと議論しようとしなかった。彼は、イエスにメッセージを送って質問しようと決心した。彼は、この役目を弟子たちのうちの2人にまかせ、救い主を訪問することによって彼らの信仰が強められ、兄弟たちに確信が与えられるようにと望んだ。また彼は、自分のためにキリストが直接に何か言ってくださるようにと心から望んだ。 DA 775.6
弟子たちは、イエスのところへやってきて「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」とのことばを伝えた(マタイ11:3)。 DA 775.7
バプテスマのヨハネが、イエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」「それがわたしのあとにおいでになる方であ」ると宣言してから、まだいく らも日はたっていなかった(ヨハネ1:29、27)。それなのにいま「『きたるべきかた』はあなたなのですか」とたずねている。それは人間の性質にとって、まことに苦い、失望させられる経験であった。忠実な先駆者ヨハネが、キリストの使命を認識しないなら、利己的な大衆に何を期待できようか。 DA 775.8
救い主は、弟子たちの質問にすぐにはお答えにならなかった。彼らがイエスの沈黙をあやしみながら立っていると、病気の者や苦しんでいる者たちが、いやしてもらうために、イエスのところへやってきた。盲人たちは、手さぐりで、群衆をわけて進んできた。あらゆる階級の病人たちが、ある者は自分で道を急ぎ、ある者は友だちにかつがれて、熱心にイエスの前へおしかけてきた。偉大な医者イエスのみ声は、聞こえない人の耳をつらぬいた。イエスの一言葉、み手のひとふれが、盲人の目を開いて、昼の光、自然の景色、友人たちの顔、救い主のみ顔が見えた。イエスは、病気がなおるように命じ、熱を追い出された。イエスのみ声が死にかかっている者の耳にとどくと、彼らは、健康と力を与えられて立ち上がった。悪鬼につかれて無能力になっていた者たちが、イエスのみことばに従って、その狂気がなおり、イエスを拝した。イエスは、人々の病気をなおす一方では、彼らにお教えになった。ラビたちから不潔なものとして避けられていた貧しい百姓や労働者たちが、イエスのそばに集まり、イエスは、彼らに永遠のいのちのことばを語られた。 DA 776.1
こうしてヨハネの弟子たちが、すべてのことを見たり聞いたりしているうちに、1日が過ぎて行った。最後にイエスは、彼らをみもとに呼んで、あなたがたが見たままのことを、行ってヨハネに告げなさいと命じ、「わたしにまずかない者は、さいわいである」とつけ加えられた(ルカ7:23)。イエスの神性の証拠は、悩んでいる人間の必要にそれが適用されることに見られた。イエスの栄光は、彼がわれわれのいやしい身分にまで身をひくくされたことに示された。 DA 776.2
弟子たちは、メッセージを伝えたが、それで十分だった。ヨハネは、メシヤについて、「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしを1つかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放;免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め」と言われている預言を思い浮べた(イザヤ61:1、2)。キリストのみわざは、彼がメシヤであることを宣言しているばかりでなく、彼の王国がどのような形で建てられるかを示した。エリヤが荒野にいた時、「主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった一」(列王記上19:11、12)。その火の後で、神は、「細い声」で預言者にお語りになったが、これと同じ真理がヨハネに示された。イエスは、武力の衝突や王位や王国をくつがえしたりすることによってではなく、憐れみと自己犠牲の生活を通して人々の心に語ることによって、その働きをされるのだった。 DA 776.3
バプテスマのヨハネ自身の克己の生活の原則は、メシヤの王国の原則であった。ヨハネは、そうしたことのすべてが、イスラエルの指導者たちの原則や望みとまったく異なったものであることを知っていた。ヨハネにとって、キリストの神性についての有力な証拠となるものが、彼らには何の証拠にもならないのであった。彼らは約束されていないメシヤを求めていた。救い主の使命は、彼らの憎しみと非難とを招くにすぎないことを、ヨハネは知った。ヨハネは、先駆1者として、キリストが自ら最後の1滴まで飲みほされなければならないさかずきから飲んでいたにすぎな1かった。 DA 776.4
救い主が、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と言われたことばは、ヨハネに対するやさしい韻であった(マタイ11:6)。それはヨハネにとってむだではなかった。いまヨハネは、キリストの使命の性質をもっとはっきりさとったので、生きるにも死ぬにも、愛する働きのために最もよく役立つように、神に献身した。 DA 776.5
使者たちが去ったあとで、イエスは、ヨハネについて人々にお語りになった。救い主の心は、いまヘロデの地下牢の中で世にうずもれている忠実な証人への同情となってそそがれた。イエスは、人々が神はヨハネを捨てられたのだとか、ヨハネの信仰は試練の日にくじけたのだというような結論をくだすままにしてはおかれなかった。「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦(あし)であるか」とイエスは言われた(ルカ7:24)。 DA 777.1
ヨルダン川のほとりにはえていて、風のまにまにゆらぐ脊の高いあしは、バプテスマのヨハネの使命を批判し、非難するラビたちをあらわすのにふさわしかった。彼らは民衆の世論という風であちらこちらへゆれた。彼らはへりくだってバプテスマのヨハネの鋭いことばを受け入れようとはしなかったが、民衆を恐れたので、あえて彼の働きに公然と反対しようとしなかった。しかし神の使者は、こんな臆病な精神ではなかった。キリストのまわりに集まった群衆はヨハネの働きの証人だった。彼らはヨハネが恐れるところなく罪を責めるのを聞いた。自らを義とするパリサイ人にも、祭司のサドカイ人にも、ヘロデ王とその廷臣にも、つかさたちや兵士たちにも、取税人や百姓にも、ヨハネは、同じように率直に語った。彼は人の称賛や偏見という風に動かされる揺れるあしではなかった。牢獄の中にあっても、神に対する彼の忠誠心と義への熱意は、荒野で神のみことばを説いていた時と同じにかわらなかった。主義に対する彼の忠実さは岩のように固かった。 DA 777.2
イエスはつづけて、「では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる」と言われた(ルカ7:25)。ヨハネは、当時の罪と不節制とを責めるために召しを受けていて、彼の質素な衣服と克己の生活は、その使命の性格に一致していた。はでな衣服とこの世のぜいたくは神のしもべの受けるべき分ではなく、それは「宮殿」に住む人々、すなわちこの世の支配者たちの受けるべき分で、世の権力と富とは彼らに属しているのである。イエスは、ヨハネの着ているものと、祭司たちや役人たちの着ているものとの相違に人々の注意を向けようと望まれた。こうした役人たちは、はでな衣服を着、高価な飾り物を身につけていた。 DA 777.3
彼らは、見栄を好み、人々の目をくらませて、もっと高い尊敬を受けようと望んでいた。彼らは、神に承認される心の純潔さを獲得するよりも人間の称賛を受けることに熱心だった。こうして彼らは、神に忠誠を尽くさないで、この世の王国に忠誠を尽くしていることをあらわした。 DA 777.4
イエスは言われた、「では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。 DA 777.5
『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』 DA 777.6
と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない」(ルカ7:26~28)。ヨハネが生れる前に、天使は、ザカリヤへのお告げの中で、「彼は主のみまえに大いなる者となり」と言った(ルカ1:15)。天の神の評価で、大いなるものとは何だろうか。世の人々が大いなるものとみなしているもの、すなわち富や階級や名門や知的な才能自体ではない。もし神を考慮に入れない知的な偉大さに尊敬の価値があるとしたら、われわれの尊敬は、どんな人間もくらべることのできない知力をもっているサタンに当然ささげられる。だが自我に奉仕するために悪用される時、知力は、その才能が大きければ大きいほど、一層大きなわざわいとなる。神がとうとばれるのは道徳的価値である。愛と純潔とは、神が最もとうとばれる特性である。ヨハネがサンヒドリンの使者たちの前で、人々の前で、自分の弟子たちの前で、自分自身の誉を求めようとしないで、イエスを約束のお方としてすべての人にさし示した時、彼は、イエスの目に大いなる者となった。キリストの働きにおける彼の無我の喜びは、人間のうちにあらわされた最高級の気 高さをあらわしている。 DA 777.7
イエスについてのヨハネのあかしを聞いた人々が、ヨハネの死後、彼についてあかししたことばは、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」ということばであった(ヨハネ10:41)。エリヤのように、天から火を呼びおろしたり、死人をよみがえらせたり、モーセのように、神のみ名によって権力の杖を使うことは、ヨハネにゆるされなかった。彼は、救い主の来臨のさきぶれであり、その現われに対して備えるように民に呼びかけるためにつかわされた。彼は、その使命を忠実に果たしたので、彼がイエスについて教えたことを人々が思い出した時に、彼らは、「ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」と言うことができた(ヨハネ10:41)。主の弟子たちはみな、キリストについて、このようなあかしをたてるために召されているのである。 DA 778.1
メシヤの先駆者として、ヨハネは、「預言者以上の者」であった(ルカ7:26)。なぜなら預言者たちは、キリストの来臨を遠くからながめただけであったが、ヨハネはキリストを見、キリストがメシヤであられることについて、天からの証言を聞き、キリストを神からつかわされたお方として、イスラエルに紹介することをゆるされたからである。しかしイエスは、「神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われた(ルカ7:28)。 DA 778.2
預言者ヨハネは、2つの時代をつなぐ環(わ)であった。神の代表者として、彼は、キリストの時代の律法と預言者の関係を示していた。彼は小さな光で、そのあとには大きな光がつづくのであった。ヨハネが彼の民に光を放つように、彼の心は聖霊に照されていた。しかしイエスの教えと模範から出ている光ほど堕落した人類を明るく照す光は、これまでほかになかったし、またこれからもない。影としての犠牲制度に象徴されているキリストとその使命は、かすかにしか理解されていなかった。ヨハネでさえ、救い主を通して与えられる未来の永遠のいのちを十分に理解していなかった。 DA 778.3
ヨハネが自分の使命に感じていた喜びは別として、彼の一生は悲しみの一生であった、彼の声は荒野よりほかのところではめったにきかれなかった。彼は孤独な身分であった。彼は自分自身の働きの結果を見ることをゆるされなかった。キリストといっしょにいて、大きな光に伴う神の力のあらわれを見る特権は彼になかった。盲人が見えるようになり、病人がいやされ、死人がよみがえらせられるのを、彼は見なかった。彼は、キリストのすべてのことばを通して光が輝き、預言の約束が栄光に照されるのを見なかった。キリストの大いなるみわざを見、キリストのみことばを聞いた最も小さい弟子でさえ、この意味において、バプテスマのヨハネよりも大きな特権があった。したがってヨハネよりも大きい者といわれているのである。 DA 778.4
ヨハネの説教を聞いた多くの群衆によって、彼の評判は国じゅうにひろがっていた。彼の投獄の結果について深い関心がよせられていた。しかし非難すべき点のない彼の生活と、彼に味方する民衆の強い感情から考えて、暴力手段はとられないものと信じられていた。 DA 778.5
ヘロデは、ヨハネを神の預言者と信じていたので、彼を自由の身にする意志が十分あった。だが彼は、ヘロデヤを恐れて、その意図を果たすことを遅らせた。 DA 778.6
ヘロデヤは、公然たる手段では、ヨハネを殺すことにヘロデの同意を得ることができないことがわかっていたので、策略を用いてその目的を果たそうと決心した。王の誕生日に、国の役人たちと宮廷の貴族たちのために宴会が催されることになっていた。ごちそうを食べ、酒を飲むのであった。ヘロデは、こうして油断し、彼女の意のままに動かされるのであった。 DA 778.7
その祝いの日になって、王が貴族たちと飲み食いしていると、ヘロデヤは客への余興として踊りをおどらせるために娘を宴会場にやった。サロメは青春の盛りで、その肉感的な美しさは酒に酔った貴族たちの官能をとりこにした。こうした宴会の席に宮廷の婦人たちが現われるのは習慣ではなかったが、このイスラエルの祭司たちと君たちの娘が、客を楽しませる ために踊った時、へつらいのお世辞がヘロデによせられた。 DA 778.8
王は酒のためにもうろうとなっていた。情欲が支配し、理性が失われていた。彼の目には浮かれている客と、ごちそうのテーブルと、きらめく酒と、輝いているあかりと、目の前で踊っている若い娘のいる享楽の広間しか見えなかった。一瞬間向こう見ずな気持になった王は、自分の領地の高官たちの前でいばれるような見せびらかしを何かやってみたいと思った。彼は、ヘロデヤの娘に向かって、願うものはどんなものでも、たとえ国の半分でもやろうと、誓いをもって約束した。 DA 779.1
サロメは何を願ったらよいかをきくために、母親のところへ急いで行った。返事は用意されていた。それはバプテスマのヨハネの首であった。サロメは母親の心が復讐(ふくしゅう)に飢えているのを知らなかったので、この願いをもち出すことをためらった。だがヘロデヤの決心が勝った。若い娘はひき返して、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」という恐ろしい願いをだした(マルコ6:25)。 DA 779.2
ヘロデはびっくりし、ろうばいした。飲めや歌えの騒ぎはやみ、歓楽の場は不吉な沈黙に支配された。王は、ヨハネの生命をとることを考えると、恐怖にうたれた。しかし誓いのことばを出した以上、気まぐれや軽率に思われたくなかった。誓いは客のためになされたのだから、もし客の1人が約束を果たす必要はないと言ったら、彼は、よろこんで預言者のいのちを助けたであろう。ヘロデは、客たちが囚人のために口をきく機会を与えた。彼らは、ヨハネの説教を聞くために遠い道を行ったことがあった。そしてヨハネが罪のない人間であり、神のしもべであることを知っていた。彼らは、少女の要求に肝をつぶしたが、酔っぱらっていたので、抗議をさしはさむ者もなかった。天の使者の生命を助けるために声をあげた者はなかった。この人たちは国家の高い信任の地位を占め、重大な責任を負っていたが、ごちそうと酒におぼれて、ついには感覚が麻痺していた。彼らは音楽とダンスの目のくらむような光景に頭がおかしくなり、良心は眠っていた。彼らは沈黙することによって、神の預言者に死の宣告をくだし、1人の恥知らずな女の復讐心を満足させた。 DA 779.3
ヘロデは、自分の誓いから解放されるのを待ったがむだだった。そこで彼はしぶしぶ預言者の処刑を命じた。すぐにヨハネの首が、王と客の前に持ってこられた。ヘロデに罪の生活を離れるように忠実に警告した唇は永遠にとじられた。人々に悔い改めを呼びかけるその声は2度ときかれないのであった。一夜の歓楽は、最も偉大な預言者の1人の生命を代価とした。 DA 779.4
ああ、正義の守護者であるべき人々の飲酒によって、何の罪もない人間の生命がどんなにしばしば犠牲にされたことだろう。酔わせるさかずきを唇にあてる者は、正気を失わせる酒の力によって犯すかも知れないあらゆる不正に対して責任がある。感覚を麻痺させることによって、彼は冷静に判断することも、善悪のはっきりした識別力も持つこともできない。彼は、サタンが彼を通して罪のない者をしいたげ、滅ぼすために働く道を開くのである。「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする、これに迷わされる者は無知である」(箴言20:1)。こうして「公平はうしろに退けられ、……悪を離れる者はかすめ奪われる」(イザヤ59:14、15)。同胞の生命の支配権を持っている人々は、飲酒に身をまかせる時に罪に問われる。法律を執行する者はみな法律を守る者でなければならない。彼らは自制のできる人間でなければならない。彼らは活発な知力と高い正義感とを持つために、知的霊的肉体的な能力を完全に統御する必要がある。 DA 779.5
バプテスマのヨハネの首がヘロデヤのところへ持ってこられると、彼女は悪魔的な満足をもってそれを受け取った。彼女はこの復讐を喜び、これでヘロデの良心はもう苦しめられないとうぬぼれた。だが彼女の罪からは何の幸福も生じなかった。彼女の悪名は高くなっていみきらわれ、一方ヘロデは、預言者の警告に悩まされた時よりももっとひどい後悔に苦 しめられた。ヨハネの教えの影響は沈黙させられなかった。それは世の終りにいたるまで、各時代にわたってひろがるのであった。 DA 779.6
ヘロデの罪は、いつも彼につきまとった。彼は罪を犯した良心の責めからのがれようとたえず努力していた。ヨハネについての彼の確信はゆるがなかった。ヨハネの自己犠牲的な生活と、その厳粛で熱心な訴えと、健全な判断にもとづく勧告とを思い浮べ、そして彼め死のいきさつを思い出すと、ヘロデは心が安まらなかった。国務に従事し、人々から尊敬を受ける時に、彼は笑顔と威厳のある態度とを保っていたが、一方には、わざわいが自分の上にのぞんでいるという心配で、いつも重い不安な心がかくされていた。 DA 780.1
ヘロデは、神には何1つかくすことができないというヨハネのことばに深い感銘を受けていた。神がどこにでも臨在しておられること、宴会場の浮れ騒ぎをごらんになったこと、ヨハネの首を切るようにとの命令を聞かれたこと、ヘロデヤの狂喜と彼女を譴責した者の切られた首に彼女があびせた侮辱をごらんになったことなどを、ヘロデはさとった。ヘロデが預言者ヨハネの口からきいていた多くのことが、いま荒野の説教の時よりもっとはっきり彼の良心に語りかけた。 DA 780.2
ヘロデは、キリストのみわざについて聞いた時、非常に心配した。彼は、神がヨハネを死人の中からよみがえらせ、罪を責めるために、もっと大きな力をもってつかわされたのだと思った。彼は、ヨハネが自分と自分の家に罪の宣告をくだすことによって、彼の死刑に復讐するのではないかとたえず心配していた。ヘロデは、神が罪の行為の結果として宣言しておられる通りのものを自ら刈りとっていた。すなわち「その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう。あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。あなたが心にいだく恐れと、目に見るものによって、朝には『ああ夕であればよいのに』と言い、夕には『ああ朝であればよいのに』と言うであろう」と宣告されている(申命記28:65~67)。罪人自身の思いが彼の告発者であって、やましい良心のとがめという針ほど鋭い痛みはない。それは彼に夜も昼も休みを与えないのである。 DA 780.3
多くの人々の心にとって、バプテスマのヨハネの運命は、深い神秘につつまれている。なぜヨハネは牢獄の中で衰弱し、死ぬがままに放っておかれたのかと彼らは質問する。われわれ人間の目では、この暗い摂理の神秘を見通すことはできない。しかしヨハネはキリストと苦難を共にしたにすぎないのだということをおぼえている時、神に対するわれわれの信頼は決して動揺させられることがない。キリストに従う者はみな犠牲の冠をかぶるのである。彼らは、かならず利己的な人々から誤解され、サタンの激しい攻撃のまととなる。サタンの王国は、この自己犠牲の原則を滅ぼすために建てられているのであって、彼はどこでもこの原則があらわされると戦うのである。 DA 780.4
ヨハネの子供時代にも、青年時代にも、おとなになってからも、堅固な志操と道徳的な力とが特に目立っていた。「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶヨハネの声が荒野に聞こえた時、サタンは自分の王国の安全を心配した(マタイ3:3)。罪の深さが、人々がふるえあがるような調子でばくろされた。サタンの支配下にあった多くの人々に対する彼の権力はうち破られた。サタンは、バプテスマのヨハネを、神に対する完全な献身の生活からひき離そうと根気よく努力したが、失敗だった。サタンはまたイエスにうち勝つことにも失敗した。荒野の試みで、サタンは敗北したので、その怒りは大きかった。いま彼は、ヨハネを打つことによってキリストに悲しみを与えようと決心した。彼は、自分が罪にひき入れることのできなかったお方を苦しめようと思ったのである。 DA 780.5
イエスはご自分のしもべを救い出すために手をお出しにならなかった。イエスはヨハネが試練に耐えることをご存じだった。救い主は、よろこんでヨハネのもとに行き、ご自分がそこにおられることによって暗い牢獄を明るくしようと思われたことだろう。だが イエスは、ご自分を敵の手に渡して、その使命を危険にさらすようなことをなさらなかった。イエスはよろこんでご自分の忠実なしもべをお救いになりたかった。だが後年牢獄から死へ移らねばならない幾千の人々のために、ヨハネは、殉教のさかずきを飲むのであった。 DA 780.6
イエスに従う者たちが、神と人とに捨てられたように見えながら1人さびしく獄舎の中で弱りはてたり、剣やごうもんや火あぶりの刑で殺されたりする時、キリストご自身がその忠実さについてあかしされたバプテスマのヨハネが同じ経験を味わったことを思って、彼らの心は、どんなにかささえられることだろう。 DA 781.1
サタンは、神の使者の地上生活を中断することをゆるされた。だがこの滅ぼす者も、「キリストと共に神のうちに隠されている」生命には手をつけることができなかった(コロサイ3:3)。サタンは、キリストに悲しみを与えたことに狂喜したが、ヨハネを征服することに失敗した。死そのものはヨハネを永遠に誘惑の力のとどかないところにやってしまったにすぎなかった。この戦いで、サタンは自分自身の性格をばくろしていた。宇宙の目の前で、彼は神と人とに対する敵意をはっきりあらわした。 DA 781.2
ヨハネに奇跡的な救助は与えられなかったが、彼は捨てられなかった。彼は、いつも天からの天使たちを友とし、天使たちがキリストについての預言と聖書のとうとい約束を彼の目の前に開いた。それが彼の心のささえとなり、それはまたその後の時代の神の民の心のささえとなるのであった。バプテスマのヨハネに、その後につづく者たちと同じように、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」との保証が与えられた(マタイ28:20)。 DA 781.3
もし神の子らが始めから終りを見通すことができ、神の共労者として自分の果たしている栄光ある目的をみとめることができたら、彼らは、神がみちびかれる以外の道を決して選ばないであろう。天に移されたエノクも、火の車で天へのぼったエリヤも、ただ1人牢獄の中で殺されたバプテスマのヨハネより偉大であったのでもなければ、彼よりとうとばれたのでもない。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ビリピ1:29)。天が人に与えることのできるすべての賜物の中で、キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、最高の栄誉である。 DA 781.4