各時代の希望

21/87

第21章 ベテスダとサンヒドリン

本章はヨハネ5章に基づく DA 765.4

「エルサレムにある羊の門のそぼに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには5つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足の不自由な人、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである〕」(ヨハネ5:2、3)。 DA 765.5

ある時期になると、この池の水面が動いた。一般の人たちは、これは超自然の力の結果で、池の水が動いてから、真っ先に水にとび込む者は、だれでも、どんな病気を持っていても、いやされると信じていた。何百人という病人たちがこの場所へやってきた。しかし水が動くと、群衆が多いために、人々は、自分より弱い男や女や子供たちを足の下にふみつけて、突進した。池に近づくことができない者が多かった。う まく池にたどりつくことができた者でも、そのふちで死ぬ者が多かった。病人たちを昼の暑さと夜の寒さから守るために、その場所には屋根ができていた。病人の中には夜をこの廊の中で過ごし、むなしい回復の望みをもって、来る日も来る日も池のふちまではって行く人たちがいた。 DA 765.6

イエスはまたエルサレムにきておられた。瞑想と祈りのうちにあられるかのように、イエスは1人で歩いて、この池のところべおいでになった。イエスはかわいそうな病人たちが唯一のいやしの機会と考えているものを見守っているのをごらんになった。イエスは、ご自分のいやしの力を働かせて、病人を1人残らず完全な体にしてやりたいと熱望された。しかしその日は安息日だった。多くの人々が宮へ礼拝に行くところだったので、そのようないやしの行為がユダヤ人の偏見を刺激し、ご自分の働きが中断されることを、イエスはご存じだった。 DA 766.1

しかし救い主は特にかわいそうな1人の病人をごらんになった。それは38年間も1人で動けない障害者だった。彼の病気は大部分自分自身の罪の結果であって、神からの刑罰とみなされていた。友だちもなく1人ぼっちで、この病人は、自分が神の恵みからしめだされていると思いながら、悲惨な長い年月を送ってきた。 DA 766.2

水が動くころだと思われる時期になると、彼の無力を気の毒に思っている人たちが、彼を廊のところに運んで行ってやるのだった。だがちょうどよい時に、彼を中に入れてくれる人はいなかった。彼は水面が波立っているのを見たが、決して池のふちから先へ進むことができなかった。彼より丈夫な人たちが、先に飛びこんでしまうのであった。彼は、われ先にと争う群衆とうまく競争することができなかった。一つの目的に向かっての根気のいる努力と、心配と、たえまない失望とのために、彼の残った力は急速に衰えて行った。 DA 766.3

この病人は、むしろの上に横たわって、時々頭をあげては池をみつめていた。その時、やさしい、同情にあふれた顔が彼をのぞきこんで、「なおりたいのか」とのことばが、彼の注意をひいた(ヨハネ5:6)。望みが彼の心にわき起こった。何とか助けが得られると彼は感じた。だが燃えあがった望みの焔はすぐ消えた。彼はこれまで何べんも池にたどりつこうと試みたことを思い出した。そしてもうこんど水が動くまで生きられる見込みはほとんどないのであった。彼は弱々しく顔をそむけて、「主よ、水か動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」と言った(ヨハネ5:7)。 DA 766.4

イエスは、この病人に、わたしを信じる信仰を働かせなさいとは要求なさらない。主はただ「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われる(ヨハネ5:8)。しかしこの男の信仰はそのことばをしっかりとらえる。どの神経もどの筋肉も新しい生命に躍動し、不自由な四肢に健康な動きがあらわれる。何にもたずねないで、彼はキリストのご命令に自分の意思を従わせる。するとすべての筋肉が彼の意思に応ずる。立ちあがってみて、彼は自分が動ける人間になっていることを知る。 DA 766.5

イエスは彼に神の助けについて何の保証もお与えになっていなかった。その男はちょっと考えてみて疑い、1度のいやしの機会を失ったかも知れなかった、だが彼は、キリストのみことばを信じ、みことば通りに行動することによって力を受けた。 DA 766.6

同じ信仰によって、われわれも霊的ないやしを受けられる。罪のために、われわれは神のいのちから切り離された。われらの魂は麻痺している。ちょうどあの身体の不自由な男が1人で歩くことができなかったように、われわれも1人ではきよい生活を送ることができない。自分の無力を認めている人、また神に一致するような霊的生活をあこがれ求めている人が多い。彼らはそうした生活を求めてむなしい努力をしている。そして絶望のうちに、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫ぶ(ローマ7:24)。こうした絶望のうちにもがいている人々は、上を見あげるがよい。救い主は、ご自分の血であが なわれた者をのぞきこんで、言い表しようのないやさしさと憐れみとをもって、「なおりたいのか」と言われる。主はあなたに、健康と平安のうちに立ちあがりなさいとお命じになる。いやされたと感じるのを待ってはならない。キリストのみことばを信じなさい。そうすればみことばは実現する。あなたの意思をキリストの側におきなさい。キリストに仕えようと決心なさい。そうすれば、みことばを行うことによって、あなたは力を受ける。どんなに悪い習慣であろうと、長い間の放縦によって魂と肉体とをしばりつけてきた支配的な情欲から、キリストはわれわれを救うことがおできになり、また救おうと望んでおられる。彼は「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」にいのちをお与えになる(エペソ2:1)。キリストは、弱さと不幸と罪の鎖につながれているとりこを解放される。 DA 766.7

麻痺した体をいやされた男は、かがんで敷物と毛布だけの寝床をとりあげ、喜びを感じながら、もう1度からだをまっすぐにのばし、救い主をさがしてあたりをみまわした。だがイエスのお姿は群衆の中に消えていた。男は、イエスにもう1度会っても、みわけがつかないのではないかと心配した。彼が神を賛美し、新しく与えられた力を喜びながら、しっかりした自由な足どりで道を急いでいると、数人のパリサイ人に出会ったので、彼はすぐに自分がいやされたことを彼らに語った。彼は、パリサイ人たちが自分の話を冷淡に聞くのを見て驚いた。 DA 767.1

パリサイ人たちはまゆをしかめて彼をとどめ、なぜ安息日に寝床を運んでいるのかときいた。彼らは、主の日に荷物を運ぶことは律法にかなわないことだときびしく注意した。男は、喜びのあまり、安息日であることを忘れていた。それでも彼は、神からのこのような力を持っておられるお方の命令に従っていることに、心のとがめを感じなかった。彼は「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」と大胆に答えた(ヨハネ5:11)。彼らはそんなことをしたのはだれだとたずねたが、男は答えることができなかった。この役人たちは、この奇跡を行うことができるお方は1人しかないことをよく知っていた。だが彼らは、イエスを、安息日を犯した者として、非難するためには、それがイエスであったという直接の証拠がほしかった。彼らの判断によれば、イエスは、安息日に病人をいやして、律法を破られたばかりでなく、その男に寝床を運ぶように命ずることによって、安息日の神聖をけがしたというのであった。 DA 767.2

ユダヤ人は律法を曲解して、これを束縛のきずなとしていた。彼らの無意味な規則は、他国民の語り草になっていた。特に安息日はあらゆる種類の無意味な制限にとりかこまれていた。安息日は、彼らにとって、喜びの日でもなければ、主の聖日でもなく、とうとぶべき日でもなかった(イザヤ58:13参照)。律法学者やパリサイ人たちが、安息日の遵守を耐えがたいほどの重荷にしていた。ユダヤ人は、安息日に火を燃やすことも、ろうそくをつけることもゆるされなかった。その結果、ユダヤ人は、規則に禁じられているために自分にはできない多くの仕事を異邦人にたのんでしてもらった。仕事をすることが罪になるものなら、他人をやとってその仕事をさせることも、自分がしたのと同じに罪になるということを、彼らは考えてもみなかった。彼らは、救いはユダヤ人にだけ限られたものであって、他のすべての人の状態はすでに絶望的なのだから、それ以上悪くなりようがないと考えていた。しかし神は、だれも従うことのできないような戒めをお与えになってはいない。神の律法は、不合理な、利己的な制限を是認しない。 DA 767.3

宮の中で、イエスは、いやされた男に出会われた。男は、罪祭の献げ物と同時に、自分の受けた大きな憐れみに対する感謝の献げ物をささげるためにきていた。イエスは、その男を参拝者の中に見つけ出されると、顔をお見せになって、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」と戒めのことばをお与えになった(ヨハネ5:14)。 DA 767.4

いやされた男は、救い主に出会ったことを大喜びした。彼はイエスに対するパリサイ人たちの敵意を知らなかったので、さきに自分に質問したパリサイ人た ちに、これがいやしを行ったお方だと告げた。「そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責め……イエスを殺そうと計るようになった」(ヨハネ5:16、18)。 DA 767.5

イエスは、安息日を破ったという告発に答えうために、サンヒドリンの前へ出された。もしユダヤ人がこの時独立していた国民だったら、このような告発は彼を死刑にするという彼らの目的に役立ったであろう。しかしローマの支配下にあったために、そういうことはできなかった。ユダヤ人は死刑を課する権利を持っていなかったし、またキリストに対するこの告発は、ローマ人の法廷では重視されなかったであろう。し1かしながら、そこには彼らが達成しようと望んでいた他の目的があった。彼らがキリストの働きを妨害しようと努力しているにもかかわらず民衆に対するキリストの勢力は、エルサレムにおいてさえ、彼らの勢力よりもだんだん大きくなっていった。ラビたちのながったらしい大げさな話に興味のない民衆は、キリストの教えにひきつけられた。彼らは、キリストのみことばを理解することができ、彼らの心はあたためられ、慰められた。キリストは、神が刑罰をくだされるさばき主ではなく、やさしい父であられることについて語り、またご自身のうちに反映している神のみかたちをお示しになった。心が傷ついている者にとって、イエスのみことぼは、香油のようであった。みことばと憐れみの行為によって、キリストは古い言い伝えと人間の作った戒めの圧力とをうち破り、尽きることなく満ち満ちている神の愛をお示しになっていた。 DA 768.1

キリストについて、最も古い預言の一つに、「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う」としるされている(創世記49:10)。民はキリストに従おうとしていた。共鳴する民衆の心は、祭司たちの要求する厳格な儀式よりも、愛となさけの教訓を受け入れた。もし祭司たちやラビたちが妨害しなかったら、キリストの教えによって、この世界にはかつてみられなかったような改革が行われたであろう。しかしこれらの指導者たちは、自分たちの権力を維持するために、イエスの勢力を打破しようと決心していた。サンヒドリンでキリストを審問し、彼の教えを公然と非難することは、この目的をとげるのに役立つのである。なぜなら民は、自分たちの宗教上の指導者たちに対して、まだ深い尊敬の念を持っていたからである。ラビたちの要求をあえて非難したり、あるいは彼らが民に課した重荷を軽くしようとする者はだれでも、冒?の罪ばかりでなく、反逆の罪があるものとみなされた。ラビたちは、この点において、キリストについての疑念をひき起こそうと望んだ。彼らは、キリストが、一般に認められている慣習を廃し、そうすることによって、民の間に分裂をひき起こし、ローマ人から完全に征服される道を備えているのだと主張した。 DA 768.2

しかし、ラビたちがその実現に熱中しているこうした計画は、サンヒドリンの会議よりもほかの会議で始まったのである。サタンは、荒野でキリストに敗れた後、キリストの伝道に反対し、できればその働きを失敗させようとして、自分の軍勢を結集した。彼は直接個人的に働きかけて達成できなかったところを、戦術によって達成しようと決心した。サタンは、荒野の戦いから退去するとすぐに、自分の軍の天使たちとの会議で、ユダヤ人が救い主を認めないように、彼らの心をもっとくもらせるための計画を練った。サタンは、宗教界においてサタンを代表している人間どもに、この真理の擁護者に対する敵意を吹きこみ、彼らを通して働こうと計画した。彼は、そうした人たちにキリストを排斥させ、その生活をできるだけつらいものにして、キリストがご自分の使命を果たすのに落胆されるようにしようと望んだ。こうしてイスラエルの指導者たちは、サタンのうつわとなって、救い主と戦った。 DA 768.3

イエスは、律法を「大いなるものとし、かつ光栄あるものとする」ためにおいでになっていた。彼は律法の尊厳を低くしないで、かえって高められるのであった。聖書に、「彼は衰えず落胆せずついに道を地に確立する」と言われている(イザヤ42:21、4)。イエスは、安息日を祝福ではなくてわざわいにしていたやっかいな規則から解放するために、おいでにな ったのである。 DA 768.4

こういう理由から、彼は、ベテスダでいやしの行為をなさるのに安息日をおえらびになったのだった。彼は週の他の日でもその病人をいやすことがおできになったのである。あるいはただ病気をなおすだけにしておいて、寝床を運んで行くことまでお命じにならなくてもよかったのである。しかしそれではイエスのお望みになった機会は与えられないのであった。地上におけるキリストの生涯一つ一つの行為の底には、賢明な目的があった。キリストのなさったことはすべて、それ自体において、またその教えにおいて、重要であった。イエスは、池のそばの病人たちの中から、最も重い病人をえらんで、その者の上にいやしの力を働かせ、そこになされた偉大なわざを公表するために、町の中に寝床を運んで行くようにその男にお命じになった。このことによって、安息日に何をすることが律法にかなっているかということについて質問が起こり、イエスが主の日に関するユダヤ人の束縛を攻撃され、彼らの言い伝えが無効であることを言明される道が開かれるのであった。 DA 769.1

イエスは、苦しんでいる者を救う行為は、安息日の律法にかなっていると彼らにお述べになった。それは、苦しんでいる人間に奉仕するためにいつも天と地との間をのぼりくだりしている神の天使たちの働きに一致していた。イエスは、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言明された(ヨハネ5:17)。すべての日は神の日で、人類のための神のご計画を実行すべき日である。律法について、もしユダヤ人の解釈が正しいなら、エホバ神はまちがっておられることになる。神が初めて地の基を置かれてから、神のみわざはすべての生物を生かし、ささえてきた。もしユダヤ人の言う通りなら、みわざを見て良しとされ、その完成を記念するために安息日を制定された神は、ご自分の働きをおしまいにして、やむことのない宇宙の運行をとめたまわねばならないことになる。 DA 769.2

神は、太陽が安息日にその職務を遂行するのを禁じ、その温和な光線が地上をあたため、植物を繁茂させるのをとめたまわねばならないだろうか。もろもろの世界は、この聖日の間じゅう静止しなければならないだろうか。神は小川に野や森をうるおさないように命じ、海の波にそのたえまない干満を停止するように命じたまわねばならないだろうか。麦や穀物は生長をやめ、ぶどうの房は紫色に熟するのを延ばさなくてはならないだろうか。木や草花は、安息日につぼみをつけることも花を咲かせることもしてはならないのだろうか。 DA 769.3

そうなったら、人は、地の果実と、生活を豊かにしてくれるいろいろな祝福を失うであろう。自然はその変ることのない営みをつづけなければならない。神は一瞬間もみ手を休めるわけにいかない。もしそうされたら、人は衰え、死んでしまう。人間にもまた、この日になすべき働きがある。生活上の必要に備え、病人を世話し、困っている人々の欠乏を満たさねばならない。安息日に、苦しみをやわらげることをおこたる者は罪をまぬかれない。神の聖なる休みの日は、人のためにつくられたもので、憐れみの行為は、安息日の意図に完全に一致している。神は、ご自分の被造物が安息日でもほかの日でも、苦しみをやわらげられるものなら、1時間でも苦しむことをお望みにならない。 DA 769.4

安息日には、神に対する要求は、ほかの日よりも大きい。この日には、神の民は、いつもの仕事をやめて、瞑想と礼拝に時を過ごすのである。彼らは、安息日にはほかの日よりももっと多くの恵みを神に求める。彼らは神の特別な関心を要求する。彼らは神の最上の祝福を切望する。神は、安息、日が過ぎるのを待たないで、こうした願いにお答えになる。天の神の働きは決してやむときがない。人間もよいことをするのを休んではならない。安息日は何の活動もしない無益な日として与えられているのではない。律法には、主の休みの日に世俗の仕事をすることを禁じてある。生活費を得るための働きはやめなければならない。世俗的なたのしみや金もうけのための働きをこの日にすることは、律法にかなわない。だが神が創造の働きをおやめになって、安息日に休み、これを祝 福されたように、人間も日常生活の仕事を離れて、この日の聖なる時間をもっぱら健康的な休みや礼拝や聖なる行為に用いるべきである。病人をいやされたキリストの働きは、律法に完全に一致していた。それは安息日をとうとぶことになった。 DA 769.5

イエスは、天父がなしておられるのと同じく神聖で、そして同じ性格をもった働きをすることによって、神と等しい権利を主張された。ところがパリサイ人たちはますます怒った。彼らの判断によれば、イエスは律法を破られたばかりでなく、神を「自分の父」と呼ぶことによって、自分を神と等しい者であると言明されたというのである(ヨハネ5:18)。 DA 770.1

ユダヤ国民はみな、神を父と呼んでいたのだから、キリストが神に対して同じ関係にあると言われても、そんなに怒る理由はなかった。しかし彼らは、キリストのこの主張が、最高の意味においてなされたものと判断されると言って、キリストを冒?だと非難した。 DA 770.2

このようなキリストの敵どもは、キリストが彼らの良心に感じさせられる真理に議論をもって対抗することができなかった。彼らは自分たちの慣習や言い伝えをひき合いに出すことしかできなかった。だがそうしたものは、イエスが神のみことばと休むことのない自然の営みから引用される議論にくらべた時に、無力で、間の抜けたもののように思えた。光を受けたいという気持がラビたちにあったら、彼らは、イエスが真理を語っておられることをさとったのである。だが彼らは、イエスが安息日について言われた大事な点を避けて、イエスがご自分は神と等しい者だと主張されたといって、彼に対する怒りをあおりたてようとした。役人たちの怒りはとどまるところを知らなかった。祭司たちとラビたちは、民を恐れなかったら、イエスをその場で殺してしまったであろう。しかしイエスに対する民衆の好意的な感情は強かった。多くの者は、自分たちの病気をいやし、悲しみを慰めてくださったイエスに親しみを感じ、ベテスダでイエスが病人をいやされたことを弁護した。そのため、当分の間指導者たちはやむを得ずその憎しみをおさえなければならなかった。 DA 770.3

イエスは冒涜の告発をはねつけられた。あなたがたが非難している働きをなす権威がわたしにあるのは、わたしが神の子であり、性質においても、意思においても、目的においても、神と一つであるからだと、イエスは言われた。創造と摂理におけるすべての神の働きに、わたしは神と協力しているのだ。「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:19)。祭司たちとラビたちは、神のみ子がこの世においてなすためにおいでになった働きについて、神のみ子を非難していた。彼らは、罪のために神から離れてしまい、高慢な心をもって、神とは無関係に行動していた。彼らは、すべてのことに自己満足を感じ、彼らの行動をみちびく一層高い知恵の必要を認めなかった。しかし神のみ子は、天父のみこころに従い、天父の力をあてにされた。キリストは、ご自分をまったくむなしくされたので1ご自分で計画をおたてにならなかった。主はご自分れわれも、自分の生活が神のみこころのはっきりしたあらわれであるように、神に依存すべきである。 DA 770.4

モーセは、神の住居として聖所を建てようとした時、すべてのものを山で示された型に従ってつくるように命じられた。モーセは、神の働きをする熱意に満ちていた。そしてモーセの案を実行するために、最も才能のある、腕のいい人たちが手近にいた。だが彼は、示された型通りのものでなければ、鈴、ざくろ、ふさ、幕、その他聖所のどんな器具も作ってはならなかった。神はモーセを山に呼び、天の事物を彼にお小しになった。主は、モーセが型を見るように、ご自分の栄光をもって彼をおおわれ、その型に従ってすべてのものがつくられた。同じように神は、ご自分の住居にしようと望まれたイスラエルに、神の輝かしい品性の理想をお示しになった。その型は、シナイ山で律法が与えられた時に、彼らに山で示された。その時主は、モーセの前を通りすぎて、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、 とがと、罪とをゆるす者」と宣言された(出エジプト34:6、7)。 DA 770.5

イスラエルは自分自身の道をえらんでいた。彼らは型に従って築いていなかった。だが神の内住される真の宮であられるキリストは、ご自分の地上生涯をこまかい点にいたるまで、神の理想に一致して形づくられた。キリストは、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と言われた(詩篇40:8)。同じようにわれわれの品性も、「霊なる神のすまい」として築かれるのである(エペソ2:22)。われわれは、「示された型どおり」すなわち「あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残された」キリストにならって「いっさいを作」るのである(ヘブル8:5、1ペテロ2:21)。 DA 771.1

キリストのみことばは、われわれが自分自身を、天の神に結びついて離れることのできない者とみなすように教えている。われわれの立場がどんなものであろうと、われわれは、すべてのものの運命をご自身のみ手ににぎっておられる神に依存しているのである。神はわれわれを働きに任命し、その働きに必要な才能や手段をお与えになった。われわれが意志を神に服従させ、神の力と知恵に信頼するかぎり、われわれは安全な道にみちびかれ、神の大いなる計画の中に定められているわれわれの立場を果たすのである。しかし自分自身の知恵と力とをあてにする者は、自分を神からひき離しているのである。彼はキリストと一致して働かないで、神と人との敵であるサタンの目的を果たしているのである。 DA 771.2

救い主はつづけて、「父のなさることであればすべて子もそのとおりにするのである。……父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう」と言われた(ヨハネ5:19、21)。サドカイ人は、肉体のよみがえりはないと主張した。しかしイエスは、天父の最高のみわざの一つは、死人をよみがえらせることであって、イエスご自身も同じわざをなす力を持っていると彼らに言っておられる。「死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネ5:25)。パリサイ人は、死人のよみがえりを信じた。キリストは、死人にいのちを与える力はいまでさえ彼らの間にあって、彼らはその力のあらわれを見ると断言しておられる。この同じよみがえりの力は、「自分の罪過と罪とによって死んでいた」魂にいのちを与える力である(エペソ2:1)。イエス・キリストにあるいのちのみたま、すなわち「復活の力」は、人を「罪と死との法則から……解放」する(ピリピ3:10、ローマ8:2)。悪の主権はうち破られ、信仰によって魂は罪から守られる。キリストのみたまに心を開く者は、肉体を墓からよみがえらせるその大いなる力にあずかる者となる。 DA 771.3

このいやしいナザレ人は、ご自分のまことの高貴な身分を主張される。彼は人性を超越し、罪と恥のよそおいを捨てて、天使たちにあがめられるお方、神のみ子、宇宙の創造主と一つであられるお方として、ご自身をお示しになる。聞いている者たちは、魅せられたようにじっときいている。誰もキリストのようなことばを語ったり、このようにどうどうたる威厳をもってふるまったりした者はなかった。イエスの話しぶりははっきりしていて、率直で、その中にはキリストの使命と世の人々の義務とがあますところなく宣言されている。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。……それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(ヨハネ5:22、23、26、27)。 DA 771.4

祭司たちと役人たちは、自らをキリストのみわざに罪を宣告する裁判官の立場に置いていたが、キリストは、ご自身が彼らのさばき主であり、また全地のさばき主であると宣言された。世はキリストにまかされ、キリストを通して、神からのすべての祝福が堕落した人類に与えられた。キリストは受肉の後と同じように、 受肉の前にもあがない主であられた。罪が生じると同時に、救い主がおられた。彼はすべての者に光といのちをお与えになったので、各人は、与えられた光の量に従ってさばかれる。光をお与えになったお方、最もやさしい懇願をもって魂を追いかけ、その魂を罪から聖潔へ導こうとされたお方が、魂の助け主であると同時にまたさばき主である。天で大争闘が始まって以来、サタンは自分の働きを欺瞞によって維持してきた。そこでキリストは、サタンの計画をばくろし、その力をうち破るために働いてこられた。欺瞞者サタンに対抗されたお方、各時代にわたってサタンの手中からとりこを奪回するために努力してこられたお方、すべての魂にさばきをくだされるお方、それはキリストである。 DA 771.5

また神は、キリストが「人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(ヨハネ5:27)。キリストは、人間のあらゆる苦悩と試みとを経験し、人の弱さと罪とを理解されるので、また主はわれわれのためにサタンの試みに抵抗して勝利し、救うためにご自身の血を流された魂を正しく、やさしくとり扱われるので、このゆえに、人の子イエスは、さばきを行うように任命されているのである。 DA 772.1

しかしキリストの使命は、さばきではなくて救いであった。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ3:17)。そこでイエスは、サンヒドリンの前で、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と言明された(ヨハネ5:24)。 DA 772.2

キリストは、聞いている人たちに、驚くに及ぼないと命じておいて、彼らの前に将来の秘密をもっと広い視野からお示しになった。「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」とイエスは言われた(ヨハネ5:28、29)。 DA 772.3

未来のいのちについてのこの保証は、イスラェルが長い間待ち望んでいたもので、彼らはメシヤの来臨の時にそれを受けることを望んでいた。墓の暗黒を照すことのできる唯一の光が彼らの上に輝いていた。しかし強情は盲目にする。イエスがラビの言い伝えを破り、彼らの権威を無視されたので、彼らはイエスを信じようとしなかった。 DA 772.4

その時、その場所、その機会、会衆の中にひろがっていた緊張感などがみな一つになって、サンヒドリンの前におけるキリストのみことばを一層印象的にした。国家の最高の宗教当局者たちは、自らイスラエルの回復者を名乗るイエスのいのちをねらっていた。安息日の律法を破ったという告発に答えるために、安息日の主が地上の法廷に訴えられた。イエスが恐れるところなくご自身の使命を宣言されると、裁判官たちは驚きと怒りをこめてイエスを見た。だがイエスのことばに答えることができなかった。彼らはイエスを有罪とすることができなかった。イエスは、祭司たちとラビたちとがイエスに疑いをかけ、その働きに口を出す権利を拒否された。彼らは、そのような権威をさずけられていなかった。彼らの主張は高慢心と尊大な心に根ざしていた。イエスは彼らの告発している罪に服したり、彼らから問いただされたりすることを拒絶された。 DA 772.5

イエスは、彼らが文句をつけている行為について、弁解したり、どういう目的でそのようなことをしたかを説明したりなさらず、役人たちに向き直って、被告から告発者になられた。イエスは彼らの無慈悲な心と聖書についての無知とを責められた。彼らは神からつかわされたお方をこばんだのだから、神のみことばをこばんだことになるのだと、イエスは断言された「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)。 DA 772.6

旧約聖書は、歴史であろうと、律法であろうと、預言であろうと、どのページにも、神のみ子の栄光が輝いている。ユダヤ教の制度全体は、それが神の制度であるかぎり、福音のぎっしりつまった預言であった。 キリストについて、「預言者たちもみな……あかしをしています」と言われている(使徒行伝10:43)。アダムに与えられた約束から、父祖の家系と律法の制度とを通じて、天の輝かしい光はあがない主の足跡を明らかにした。預言者たちは、未来の事がらが神秘的な行列をなして目の前を通りすぎたときに、ベツレヘムの星、きたるべきシロを見た。すべてのいけにえにキリストの死が示された。香煙の一筋一筋にキリストの義がのぼった。ヨベルのラッパが鳴るたびにキリストのみ名がひびき渡った。至聖所のおそれ多い神秘の中に、キリストの栄光がとどまっていた。 DA 772.7

ユダヤ人は聖書を所有していて、みことばを外面的に知ることだけで永遠のいのちが与えられると思っていた。しかしイエスは、「神の御言(みことば)はあなたがたのうちにとどまっていない」と言われた。彼らはみことばの中のキリストをこばんだので、人となられたキリストをこばんだ。「あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」とイエスは言われた(ヨハネ5:38、40)。 DA 773.1

ユダヤ人の指導者たちは、メシヤの王国に関する預言者たちの教えを学んでいたが、それは真理を知ろうとする真剣な願いからではなく、彼らの野心的な望みを支持する証拠をさがし出すのが目的だった。キリストが彼らの期待に反する様子でこられた時、彼らは、キリストを受け入れようとしなかった。そして彼らは、自分自身を正当づけるために、キリストが欺瞞者であることを証拠だてようとした。彼らがこの道にひとたび足を踏みいれた時、サタンがキリストに対する彼らの敵対心を強めることは容易だった。キリストの神性の証拠として受けとられるはずのことばが、キリストに不利なように解釈された。こうして彼らは、神の真理を虚偽に変え、救い主が憐れみのみわざを通して彼らに直接語りかけられるたびに、ますます頑強に光に反抗した。 DA 773.2

イエスは、「わたしは人からの誉を受けることはしない」と言われた(ヨハネ5:41)。イエスがお望みになったのは、サンヒドリンの権力でもなければ、サンヒドリンから認められることでもなかった。イエスがサンヒドリンから是認されたとしても、イエスにとっては誉とならなかった。イエスは天の神の誉と権威とをさずかっておられた。イエスがお望みになれば、天使たちがやってきて尊敬をささげ、天父はもう1度イエスの神性を証明されたであろう。だがユダヤ人の指導者たち自身のために、また彼らが指導している国民のために、イエスは、彼らがイエスの品性を認め、イエスが彼らに与えるためにおいでになったその祝福を彼らが受けることを望まれた。 DA 773.3

「わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるであろう」(ヨハネ5:43)。イエスは、神のみかたちをそなえ、神のみことばを成就し、神のみ栄えを求め、神の権威によっておいでになった。それでもイエスは、イスラエルの指導者たちから受けいれられなかった。しかしほかの人たちがキリストの品性をよそおいながら、自分自身の意思に基づいて行動し、自分自身の栄えを求めてやってくるなら、彼らは受け入れられるであろう。それはなぜだろうか。自分自身の栄えを求める者は、ほかの人たちのうちにある高慢心に訴えるからである。このような訴えならば、ユダヤ人はこれに応ずることができるのである。偽りの教師は、ユダヤ人の宿望や言い伝えを是認することによって、彼らの誇りにへつらうので、彼らはそうしたにせ教師を受け入れるのである。だがキリストの教えは、彼らの考えに一致しなかった。キリストの教えは、霊的で、自我を犠牲にすることを要求した。そのため彼らは、キリストの教えを受け入れようとしなかった。彼らは、神を親しく知っていなかったので、キリストを通して語られる神のみ声は、彼らにとって見知らぬ人の声であった。 DA 773.4

「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」(ヨハネ5:46、47)。モーセを通してイスラエルに語られたのはキリストであった。もし彼らが偉大な指 導者モーセを通して語られた神のみ声を聞いていたら、彼らはそれをキリストの教えのうちに認めたのである。もし彼らがモーセを信じていたら、彼らはモーセが書いたお方を信じたのである。 DA 773.5

イエスは、祭司たちとラビたちが、イエスのいのちをとろうと決心していることをご存じだった。それでもイエスは、ご自分と天父との一致について、またご自分と世との関係について、彼らにはっきり説明された。彼らはイエスに対する自分たちの反対が言いわけの余地のないものであることがわかったが、それでも彼らの激しい憎しみは消えなかった。イエスの伝道には人を心服させる力が伴っていることを目にした時、彼らは恐怖にとりつかれた。しかし彼らはイエスの訴えに抵抗し、自らを暗やみの中にとじこめた。 DA 774.1

彼らは、イエスの権威をくつがえすことに、またみことばによって自らの罪をさとった多くの人々の尊敬と注意とをイエスからひき離すことに大失敗した。役人たちでさえ、イエスが彼らのとがを良心に感じさせられる時に、深く罪を自覚していた。しかしこのことは、ますます彼らのイエスに対する敵意を増したにすぎなかった。彼らはイエスのいのちをとる決心をしていた。彼らは国中に使者を送って、イエスは詐欺師だと民に警告した。スパイが送られてイエスを見張り、イエスの言われたこと、されたことを報告した。とうとい救い主は、いまやまったく十字架の影に立っておられた。 DA 774.2