各時代の希望
第4章 あなたがたのために救い主が
本章はルカ2:1~20に基づく DA 685.2
栄光の王キリストはいやしい身となって人性をおとりになった。地上における主の環境はみすぼらしくて、見込みがなかった。外観の威光が人をひきつける対象となることがないように、キリストの栄光はおおわれた。主は外面的な見せびらかしをいっさい避けられた。富や世俗的な栄誉や人間的な偉大さは決して魂を死から救うことができない。イエスは現世的な性質を持った引力によって人々をご自分の側にひきよせることがないようにと意図された。天の真理の美しさだけが、イエスに従おうと思う者をひきつけなければならない。メシヤの性格は長い間預言を通して予告されていたので、キリストは人々が神のみことばのあかしにもとづいてキリストを受け入れるようにお望みになった。 DA 685.3
天使たちは、あがないのすばらしい計画に驚嘆した。彼らは人性という衣を着られたみ子を神の民がどのように受け入れるかを見ようとして見守っていた。天使たちは選民の地へやってきた。他の国々では作り話が教えられ、偽りの神々が礼拝されていた。神の栄光があらわされ、預言の光が輝いている国へ天使たちはきた。彼らはエルサレムへ、神のみことばの解説者として任命されている人々のもとへ、神の家に仕えている人々のもとへと、人目につかないでやってきた。すでに祭司のザカリヤには、彼が祭壇の前で奉仕していた時、キリストの来臨が間近に迫っていることが知らされていた。すでに先駆者が生まれ、その使命は、奇跡と預言とによって証明されていた。この先駆者が生まれたという知らせと、彼の使命のすばらしい意義が広く伝えられていた。しかしエルサレムは救い主を迎える備えをしていなかった。 DA 685.4
天の使者たちは、神が聖なる真理の光を世に伝えるために召された民の無関心を驚いて見た。ユダヤ国民はキリストがアブラハムの後裔(こうえい)としてダビデの家系からお生まれになることの証人としてとっておかれたのであった。それなのに彼らはキリストの来臨が間近に迫っていることを知らなかった。宮では、朝夕のいけにえによって毎日神の子羊キリストがさし示されていた。しかしそこでさえキリストを迎える備えができていなかった。祭司たちも国民の教師たちも、各時代を通じて最大の事件がまさに起ころうとしていることを知らなかった。彼らは、無意味な祈りをとなえ、人々にみせるために礼拝の儀式をと り行っていたが、富と世俗的なほまれを求めることにばかりあくせくとしていて、メシヤの出現に対する準備ができていなかった。同じような無関心がイスラエルの国じゅうにみなぎっていた。俗事に没頭している利己的な心は、全天を感動させているよろこびを感ずることができなかった。ほんのわずかな人たちだけが目に見えないお方にお目にかかるのを待ちこがれていた。この人たちのもとへ天の使者が送られた。 DA 685.5
天使たちは、ヨセフとマリヤがナザレの家からダビデの町へ旅をしているのにつきそっている。ローマ帝国の広大な領土の民族を登録する法令がガリラヤの山間の住民たちにまで及んだ。昔イスラエル人の捕虜を解放するためにクロスが世界帝国の王位に召されたように、シーザー・オーガスタスは、イエスの母をベツレヘムに行かせることによって、神の御目的を成就する代理者とされる。マリヤはダビデの家系なので、ダビデの子はダビデの町で生まれねばならない。ベツレヘムから「イスラエルを治める者が……出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」と預言者は言った(ミカ5:2)。しかしこのダビデ王の家系の町で、ヨセフとマリヤはみとめられもしなければ、とうとばれもしない。疲れはてて家もなく、彼らはその晩休むところを求めて、都の門から町の東端まで、せまい通りをむなしく歩きつくす。満員の宿屋には彼らを泊める部屋がない。彼らはっいに動物を入れてあるそまつな小屋の中に宿る場所を見いだし、ここで世の救い主がお生まれになる。 DA 686.1
人々はそのことを知らないが、天はこの知らせを聞いてよろこびに満たされる。光の世界の天使たちは一層深くやさしい関心をもって地にひきつけられる。全世界はイエスがおいでになることによって輝きを増す。ベッレヘムの丘の上空には無数の天使の群れが集っている。彼らは喜びのおとずれを世に宣伝してもよいとの合図を待っている。もしイスラエルの指導者たちが義務に忠実だったら、イエスの誕生を布告する喜びにあずかることができたのである。しかしいま彼らは無視される。 DA 686.2
神は「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」、「光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる」と宣言される(イザヤ44:3、詩篇112:4)。光を求めている者に、そしてそれをよろこんで受け入れる者に、神のみ座からの輝かしい光が照りかがやくのである。 DA 686.3
ダビデがかつて羊の群れをつれて歩いた野で、羊飼たちはまだ夜の見張りをつづけていた。その静かな時間に、彼らは約束の救い主について語り合い、ダビデの王座に王なるキリストがおいでになるように祈っていた。すると見よ、「主のみ使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。み使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである』」(ルカ2:9~11)。 DA 686.4
このことばに、栄光の光景が、聞いている羊飼たちの心を満たす。イスラエルに救い主がおいでになったのだ。権力と栄誉と勝利が主の来臨に連想されている。しかし天使は、彼らが貧しさとはずかしめのうちにあられる救い主をみとめるように彼らを準備させねばならない。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」と天使は言う(ルカ2:12)。 DA 686.5
天の使者は彼らの恐れを静めた。彼はどうしたらイエスに会えるかを教えた。人間の弱さに対する思いやりから、彼は羊飼たちが天来の輝く光になれるように間をおいた。それから歓喜と栄光はもうかくしきれなかった。平原全体が神の軍勢の輝く光に照らされた。地は静まり、天は低くたれて歌をきいた。 DA 686.6
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるよりに」 DA 686.7
(ルカ2:14) DA 686.8
ああ、今日、人類家族がその歌をみとめることがで きるように。その時なされた布告、その時うたわれた歌の調べは、世の終りまで高まり、地のはてまでひびき渡るのである。義の太陽キリストが、翼にいやしのカをそなえて昇られる時、その歌は、大水のひびきのように、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる」と声をあげる大群衆によってふたたびうたわれるのである(黙示録19:6)。 DA 686.9
天使たちが姿を消すにつれて光はうすれ、夜の影がもう1度ベツレヘムの丘に落ちた。しかし人間の目がかつて見た最も輝かしい光景は羊飼たちの記憶に残った。「み使たちが彼らをはなれて天に帰ったとき、羊飼たちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか』と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた」(ルカ2:15、16)。 DA 687.1
羊飼たちは、非常によろこんで出かけ、自分たちの見たり聞いたりしたことを告げ知らせた。「人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらのことをことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」(ルカ2:18~20)。 DA 687.2
今日、天と地は、羊飼たちが天使たちの歌をきいた時よりも広いへだたりがあるのではない。人類はいまもなお、普通の職業についている普通の人たちが昼間天使たちと会い、ぶどう園と畑で天の使者たちと語った時と同じに、天の関心のまとである。人生の平凡な世渡りをしているわれわれにとって天は非常に近いことがある。天の宮廷からの天使たちは、神が命じられるままに動きまわる人たちの歩みにつきそりであろう。 DA 687.3
ベツレヘムの物語はつきない話題である。その中に、深い「神の知恵と知識との富」がかくされている(ローマ11:33)。天の王座をうまぶねと、敬いしたう天使たちを畜舎の動物たちととりかえられた救い主の犠牲にわれわれは驚くのである。この救い主の前に出ると、人間の誇りと自己満足が責められる。しかもこの犠牲は、救い主の驚くべきへりくだりのはじまりにすぎなかった。アダムがエデンで罪を知らなかった時でさえ、神のみ子が人の性質をおとりになることは無限の屈辱に近かった。ところがイエスは人類が4000年にわたる罪によって弱くなっていた時に人性をおとりになったのである。アダムのすべての子らと同じように、イエスは遺伝という大法則の作用の結果をお受けになった。そのような結果がどういうものであるかは、イエスのこの世の先祖たちの歴史に示されている。主は、われわれの苦悩と試みにあずかり、罪のない生活の模範をわれわれに示すために、このような遺伝をもっておいでになったのである。 DA 687.4
サタンは天にいた時、神の宮廷におけるキリストの地位のことでキリストを憎んでいた。彼は自分自身がその地位から退けられると、ますますキリストを憎んだ。彼は罪人である人類を救うことを誓われたお方を憎んだ。それでも神は、サタンが主権を主張しているこの世へ、み子イエスが人間の弱さを受けつぐ無力な赤ん坊としておいでになることをお許しになった。神はイエスが、すべての人と同じように人生の危険に会い、すべての人間と同じに失敗と永遠の損失をかけて戦われることをお許しになった。 DA 687.5
人間の父親の心は自分の子供の上にそそがれる。彼は幼い子供の顔に見入り、人生の危険を思ってふるえる。彼は自分のかわいい子をサタンの力から守り、誘惑と戦いに会わせたくないと熱望する。神は、われわれの幼な子たちのために、人生の道を安全にするために、ご分のひとり子を、もっとはげしい戦いと、もっと恐ろしい危険に会わせるためにお与えになった。ここにこそ愛がある。ああ、もろもろの天よ、驚嘆せよ。ああ、地よ、おどろけ。 DA 687.6