各時代の希望

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第5章 献納

本章はルカ2:21~38に基づく DA 688.1

キリストがお生まれになって40日ばかりたつと、ヨセフとマリヤは、イエスを神にささげ、またいけにえをささげるために、イエスをエルサレムにつれて行った。このことはユダヤ人の律法に定めてあるのに従ったもので、キリストは、人間の身代りとして、こまかい点まで律法に従われねばならない。律法に従っているしるしとして、キリストはすでに割礼の式をお受けになっていた。 DA 688.2

律法によれば、母親の献げ物として燔祭(はんさい)のために1才の小羊、罪祭のために若い家ばとまたは山ばとをささげるように要求されていた。しかしもし両親が貧しくて小羊をささげることができなければ、1つがいの山ばともしくは2羽の若い家ばとを、1羽は燔祭のために、1羽は罪祭のためにささげても受け入れられることが律法に定められていた。 DA 688.3

神にささげる献げ物は傷のないものでなければならなかった。こうした献げ物はキリストを表わしていた。このことからイエスご自身が肉体的に欠点のないお方であることが明らかである。キリストは、「きずも、しみもない小羊」であった(Ⅰぺテロ1:19)。キリストのお体にはどんな欠点による傷もなく、その肉体は強く健康であった。そしてキリストは一生の間自然の法則に従った生活を送られた。霊的ばかりでなく肉体的にも、キリストは、神の法則に従うことによって神がすべての人間をこのようなものにしたいとご計画になったものの見本であられた。 DA 688.4

長子を神にささげることは、最も古い時代から始まっていた。神は天の長子であられるキリストを罪人の救いのために与えると約束された。この賜物(たまもの)を認めるしるしとして、どの家庭においても、長男が神にささげられた。長男は、人々の中におけるキリストの代表者として、祭司職にささげられるのであった。 DA 688.5

イスラエルがエジプトから救われた時、長子をささげることがふたたび命じられた。イスラエルの民がエジプト人の奴隷となっていた時、神はモーセに、エジプトの王パロのところへ行ってこう言いなさいと命令された。「『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」(出エジプト4:22、23)。 DA 688.6

モーセはこのことばを伝えたが、高慢な王はこう答えた。「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」(出エジプト5:2)。神はご自分の民のためにしるしとふしぎとを通して働き、パロの上に恐るべき刑罰をお送りになった。ついに、滅びをもたらす天使が、エジプト人の中の長子と獣の初子(ういご)を殺すように命じられた。イスラエル人が救われるためには、殺した小羊の血を門口に塗るように命じられた。天使が死の使いにやってきた時、イスラエル人の家々を過ぎ去るように、どの家にも目印がつけられるのであった。 DA 688.7

この刑罰をエジプトに送られてから、神はモーセにこう言われる。「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべてはじめに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである。」「ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」(出エジプト13:2、民数記3:13)。幕屋の奉仕が制定されてからは、神は、聖所で奉仕するために、全イスラエルの長子の代りにレビ族をお選びになった。しかし長子はやはり神のものとみなされ、あがないの金で買いもど されるのであった。 DA 688.8

このように、長子をささげる律法は特に意義のあるものとされていた。それは神がイスラエルの民を救済されたふしぎなみわざの記念であると同時に、また神のひとり子イエスによってなしとげられるさらに大いなる救済を予表していた。門口に塗られた血によってイスラエルの長子が救われたように、キリストの血には世の人々を救う力がある。 DA 689.1

だからキリストの献納には何という深い意味があったことだろう。だが祭司はそのヴェールの中まで見なかった。彼はその奥にある神秘を読まなかった。幼子をささげることはよく見られる光景であった。来る日も来る日も、祭司は赤ん坊を神にささげるたびにあがないの金を受け取った。毎日毎日、彼はこのきまりきった日課をくりかえし、両親が金持ちだとか身分が高いなどという何らかのしるしを見ること以外には、親や子供たちにほとんど注意を払わなかった。ヨセフとマリヤは貧しかった。彼らが子供をつれてきた時、祭司たちはそこにガリラヤ人のみなりをして最も粗末な服を着た1組の男女を見たにすぎなかった。彼らの様子には人の注意をひくようなものは何もなかった。彼らは貧しい階級の人々のために定められた献げ物しかささげなかった。 DA 689.2

祭司は職務通りに式をとり行った。彼は子供を腕に受け取ると、その子を祭壇の前にさし出した。それからまた母親の手にもどして、長子の名簿に「イエス」という名前を書き入れた。赤ん坊を腕にだいていた時、彼はその子が天の大君、栄光の王であるなどとは思いもしなかった。祭司はこの赤ん坊が、モーセによって「主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい」と書かれていたお方であるとは思いもかけなかった(使徒行伝3:22)。彼はこの赤ん坊こそモーセがその栄光を見たいと願ったお方であるとは、思いもしなかった。ところが、モーセより偉大なお方がこの祭司の腕にだかれておられたのである。祭司がこの子供の名前を名簿に記入した時、彼はユダヤ人の制度全体の土台であるお方の名前を書き人れていたのだった。その名はユダヤ人の制度を廃止する宣告となるのだった。いけにえと献げ物の制度はだんだん古くなっていたからである。型は本体に、影は実物にほとんど合っていた。 DA 689.3

シカイナ(注・贖罪所[しょくざいしょ]のエホバの栄光)はすでに聖所からとり去られていたが、栄光はべツレヘムの幼子イエスのうちにおおいかくされ、その前に天使たちは頭をたれるのであった。何も知らないこの幼子は、約束の後裔で、エデンの門の最初の祭壇はこのお方をさしていた。この幼子こそ平和を与えるお方、シロであった。「われはありてある者なり」とモーセにご自身を宣告されたのはこのお方であった。雲と火の柱の中にあってイスラエルをみちびかれたのはこのお方であった。これこそ預言者たちが長い間預言してきたお方であった。彼は万国の民の願望であり、ダビデの祖先でありまた子孫であり、輝くあけの明星であった。イスラエルの名簿に書きこまれ、われわれの兄弟たることを宣告されたこの無力な小さな赤ん坊の名前こそ、堕落した人類の望みであった。あがないの金を払ってもらったこの子供が、全世界の罪のためにあがないの金を払われるお方であった。彼は、「神の家を治める大いなる祭司」であり、「変らない祭司の務」の長であり、「高き所にいます大能者の右に、座につかれた」仲保者であった(ヘブル10:21、7:24、1:3)。 DA 689.4

霊的な事物は霊的に見わけられる。宮の中で、神のみ子は、ご自分がそのためにおいでになった働きのためにささげられた。祭司はイエスをほかの子供と同じようにみなした。彼は普通と変ったものを何も見たり感じたりしなかったが、み子をこの世にお与えになった神の行為はみとめられた。この機会は、キリストが認められないままに過ぎ去りはしなかった。「そのとき、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救い主に会うまでは死 ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた」(ルカ2:25、26)。 DA 689.5

シメオンが宮にはいってくると、彼はそこに長子を祭司の前にさし出している家族を見る。彼らの身なりは貧しさを物語っている。だがシメオンは聖霊のお告げがわかる。彼は神にささげられている幼子が、イスラエルの慰め主、長い間待ちこがれていたお方であるとの印象を強く受ける。驚いた祭司の目には、シメオンが狂喜した人間のように見える。 DA 690.1

子供はマリヤの手にかえされていたが、彼はそれを自分の腕に受けとって神にささげる。すると彼の心にかつて経験したことのない歓喜がわき起こる。彼は幼子の救い主を天の方へ高く持ちあげて、「主よ、いまこそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」と言う(ルカ2:29~32)。 DA 690.2

預言の霊がこの神のしもべの上にくだった。ヨセフとマリヤが彼のことばをあやしみながら立っていると、シメオンは彼らを祝福し、マリヤに向かって、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。——そしてあなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。——それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」と言った(ルカ2:34、35)。 DA 690.3

女預言者アンナもはいってきて、キリストについてシメオンのあかしを確認した。シメオンが語ると、アンナの顔は神の栄光に輝き、彼女は主なるキリストを見ることがゆるされたことに心から感謝のことばを出した。 DA 690.4

こうした謙虚な礼拝者たちが預言を研究していたことはむだではなかった。だがイスラエルの役人や祭司として地位を占めていた人たちは、同じように預言のとうといことばを目の前にしながら、主の道に歩まず、その目はいのちの光であられるキリストを見るために開かれていなかった。 DA 690.5

今も同じである。宗教界の指導者たち、神の家の礼拝者たちは、全天の注意が集中されている諸事件をみわけることができず、そのような事件が起こったことさえ気がつかない。人は歴史上のキリストを認めるが、生きておられるキリストからは離れ去っている。自己犠牲を呼びかけているみことばの中のキリスト、助けを訴えている貧しい人々や苦しんでいる人々の中におられるキリスト、貧しさと骨折りと恥を伴う義の働きの中におられるキリストは、1800年前と同じように今もまた容易に人々に受け人れられないのである。 DA 690.6

マリヤは、シメオンの深遠な預言を心に思いめぐらした。自分の腕にだかれている子供をながめ、ベツレヘムの羊飼たちが語ったことばを心に思い浮べて、マリヤは感謝の喜びと輝かしい望みに満たされた。シメオンのことばは彼女の心にイザヤが預言したことばを思い起こさせた。「エッサイの株から1つの芽が出、その根から1つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。……正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる」「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。……ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられたまつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ11:1~5、9:2~6)。 DA 690.7

しかし、マリヤはキリストの使命を理解しなかった。シメオンは、キリストのことをイスラエルの栄光であるばかりでなく、異邦人を照す光であると預言した。同じように天使たちは救い主の誕生を全人類へのよろこびのおとずれとして告げ知らせた。神はメシヤの働きについてユダヤ人の狭い考え方を直そうとしておられた。神は、人々がキリストをイスラエルの救済者としてばかりでなく、また世のあがない主として見るように望まれた。だがイエスの母マリヤでさえイ エスの使命を理解するのに長年かからねばならない。 DA 690.8

マリヤは、メシヤがダビデの位にあって統治されるのを待ち望んだが、それが苦難のバプテスマによって獲得されなければならないことには気がつかなかった。メシヤがこの世で歩まれる道は平坦(へいたん)な道ではないことが、シメオンを通して明らかにされている。「あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」とマリヤに言われたことばの中に、やさしい憐れみのある神は、イエスの母の苦悩を暗示されたが、彼女はイエスのためにすでにその苦悩を負い始めていた(ルカ2:35)。 DA 691.1

シメオンは、「ごらんなさい。この幼な子は、イスラエルの多くの人々を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています」と言った(ルカ2:34)。もう1度立ちあがりたい者は倒れねばならない。キリストのうちにあって高められるには、その前に岩なるキリストの上に落ちてくだかれねばならない。霊的王国の栄光を知りたければ自我を心の王座から退け、高慢な心がへりくだらねばならない。ユダヤ人は、屈辱を通して到達される栄光を受け入れようとしなかった。したがって、彼らは彼らの救い主を受け入れようとしなかった。彼は、「反対を受けるしるし」であった(ルカ2:34)。 DA 691.2

「多くの人の心にある思いが現れるようになるためです」(ルカ2:35)。救い主の生涯の光の中には、飼造主から暗黒の君にいたるまで、すべての人の心があらわされている。サタンは神のことを、利己的で圧制的なお方、すべてを要求されるが、何一つお与えにならないお方、自分自身の栄誉のために被造物の奉仕を要求されるお方、被造物のために何の犠牲協わないお方であるなどと言いふらしてきた。だがキリストという賜物が天父のみこころをあらわしている。それが証拠は、われわれに対する神のみこころが「わざわいを与えようというのではなく、平安を与えよう」との思いに示される(エレミヤ29:11)。それは神が罪を憎まれることは死のように強く、罪人に対する神の愛は死よりも強いことを宣言している。神は、われわれのあがないを引き受けられたからには、その働きの完成に必要なものは、それがどんなに大事なものであろうと、何一つ惜しまれないのである。われわれの救いに必要な真理は何一つ与えられないものはなく、どんな恵みの奇跡もおろそかにされず、どんな天来の方法も用いられないものはない。恵みに恵みが、賜物に賜物が加えられる。神が救おうとしておられる人々のために天の倉庫は全部開かれている。神は宇宙の富を集め、無限な力のみなもとを開いて、それらを全部キリストの手にお与えになり、これは全部人類のためだと言われる。天にも地にもわたしの愛より大きな愛はないことを人々にわからせるためにこれらの賜物を用いなさい。人の最大の幸福は、わたしを愛することにあるのだ。 DA 691.3

カルバリーの十字架に、愛と利己心が向かい合って立った。ここにこの両者の最高のあらわれがあった。キリストは慰め、祝福するためだけに生活された。ところがサタンはキリストを死なせることによって神に対する憎悪という悪意をあらわした。サタンは彼の反逆の真の目的が神をみ座から退けることと、神の愛を現わされたキリストを滅ぼすこととにあることを明らかにした。 DA 691.4

キリストの一生と死によって人の思いもまた明るみに出た。飼葉おけから十字架にいたるまで、キリストの一生は克己への呼びかけであり、苦難を共にするようにとの呼びかけであった。それは人々の意図をあらわした。イエスは天の真理をもっておいでになったが、聖霊の声をきいていた者はみなキリストにひきつけられた。自我をおがんでいた者はサタンの王国に属した。キリストに対する態度を通してみな自分がどちらの側に立っているかをあらわした。このようにして人はみな自分で自分に宣告をくだすのである。 DA 691.5

最後の審判の日に、失われた魂はみな自分が真理をこばんだことがどういうことであったかを悟る。十字架が示されると、罪とがのために心が盲目になっていた者がみな十字架の真の意義を悟る。神秘的な犠牲者イエスのカルバリーの光景を前にして、罪人は有罪の宣告を受ける。あらゆるいつわりの口 実は一掃される。人類の背信はその憎むべき性格のままにあらわされる。人々は自分たちの選択がどんなものであったかを知る。長年の争闘における真理と誤謬(こびゅう)の問題がその時明らかにされる。宇宙のさばきにおいて、神には罪の存在や罪の継続にすこしも責任のないことがわかる。神の律法は罪の幇助(ほうじょ)ではないことが実際に示される。神の統治には欠点がなく、不満の原因はなかった。すぺての人の心の思いが明らかにされる時、神の忠実な者たちも反逆した者たちも声をそろえて、「万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。……あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」と宣言する(黙示録15:3、4)。 DA 691.6