各時代の希望
第3章 「時の満ちるに及んで」
「時の満ちるに及んで、神はみ子を……おつかわしになった。それは、律法の下にあるものをあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」(ガラテヤ4:4、5)。 DA 682.1
救い主の来臨はエデンで予告された。アダムとエバが初めてこの約束をきいた時、彼らはそれがすぐに成就されるものと期待した。彼らは最初に生まれたむすこをよろこんで歓迎し、その子が救い主であるようにと望んだ。しかし約束の成就は遅れた。この約束を最初に受けた人々はその実現をみないで死んだ。エノクの時代から、この約束は父祖たちと預言者たちを通してくりかえされ、救い主来臨の望みを生かしつづけたが、それでも救い主はおいでにならなかった。ダニエルの預言にメシヤ来臨の時期が示されたが、だれもがそのことぼを正しく解釈したわけではなかった。1世紀また1世紀と過ぎて行き、預言者たちの声はやんだ。圧制者の手はイスラエルに重く、多くの者は「日は延び、すべての幻はむなしくなった」といまにも叫ぶばかりであった(エゼキエル12:22)。 DA 682.2
だが定められた広大な軌道にある星のように、神の目的は急ぐことも遅れることもない。大いなる暗黒とけむるかまどの象徴を通して、神はアブラハムに、イスラエルがエジプトで奴隷生活を送ることを示し、その滞在期間は400年であると宣言された。「その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう」と神は言われた(創世記15:14)。このことばに対して、パロが誇りとする帝国は、全力をあげて戦ったがむだだった。神の約束に定められていた「その日に、主の全軍はエジプトの国を出た」(出エジプト12:41)。同じように、天の会議では、キリスト来臨の時が決定されていた。時という大時計がその時間をさし示すと、イエスはベツレヘムにお生まれになった。 DA 682.3
「時の満ちるに及んで、神はみ子を……おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)。摂理の神は、この世界に救い主来臨の機が熟するまで、国々の動きと、人間の衝動や影響力の流れとをみちびいておられた。国々は一つの政府の下に統合されていた。一つの国語が広く話され、いたるところで文学の言語としてみとめられていた。離散しているユダヤ人は年ごとの大祭のために全地からエルサレムに集まった。彼らは、その居留地へもどると、メシヤの来臨についてのおとずれを世界じゅうにひろめることができた。 DA 682.4
そのころ、異教の制度はだんだん人々の信頼を失っていた。人々はきらびやかな外観や作り話に飽きていた。彼らは心を満たすことのできる宗教を熱望した。真理の光は人々から離れてしまったようにみえたが、その一方では光を求めている魂や、困惑と悲しみに満たされている魂があった。彼らは、生ける神についての知識、また死のかなたにあるいのちについて保証してくれる何ものかを飢えかわくように求めていた。 DA 682.5
ユダヤ人が神から離れた時、信仰は暗くなり、望みの光はほとんど前途を照らさなくなった。預言者たちのことばは理解されなかった。一般の民衆にとって、死は恐るべき神秘であり、死のかなたは不安と暗黒であった。幾世紀も昔に、預言者エレミヤにきこえた声、「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」とあるその声は、ベツレヘムの母親たちの泣き叫ぶ声であったばかりでなく、人類の大きな心から出る叫びでもあった(マタイ2:18)。人々は「死の地、死のかげ」に、慰められることもなくすわっていた(マ タイ4:16)。彼らは、救い主がおいでになって、暗黒がはらいのけられ、未来の神秘が明らかにされる時を、あこがれの目をもって待ち望んでいた。 DA 682.6
ユダヤ国民以外にも、天来の教師の出現を予告した人々がいた。この人たちは真理を求めていたので、彼らに霊感のみたまがさずけられた。暗くなった空の星のように、このような教師たちが次々と現われていた。彼らの預言のことばは異邦人の世界の幾千の人々の心に望みの火をともしていた。 DA 683.1
幾百年も前から、聖書は、当時ローマ帝国のいたるところで広く話されていたギリシャ語に翻訳されていた。ユダヤ人がいたるところにちらばっていたので、異邦人もある程度メシヤの来臨を期待していた。ユダヤ人が異教徒と呼んでいた人々の中には、メシヤについての聖書の預言をイスラエルの教師たちよりももっとよく理解している人たちがいた。彼らの中には、罪からの救済者としてメシヤの来臨を待ち望んでいる人たちがいた。哲学者たちは、ヘブライ制度の奥義の研究に努力した。しかしユダヤ人の偏狭さのために光が伝わるのがさまたげられた。彼らは、自分たちと他国民との間のへだてを維持することに熱心で、象徴的奉仕について彼らがまだ持っていた知識をわけ与えようとしなかった。真の解釈者がおいでにならねばならない。これらのすべての型に予表されているお方が、それらの型の意義を説明されなければならない。 DA 683.2
自然を通し、型と象徴とを通し、また父祖たちと預言者たちとを通して、神は世の人々に語っておられた。教訓は人間のことばで人間に与えられねばならない。契約の使者であられるキリストがお語りにならねばならない。彼の声が彼ご自身の宮できかれねばならない。キリストが、はっきりと明確に理解されることばを語るためにおいでにならねばならない。真理の創姶者であられるキリストが、真理を力のないものにしていた人間のことばというもみがらの中から真理をとりわけたまわねばならない。神の統治とあがないの計画の原則が明示されねばならない。旧約の教えが十分に人々の前に示されねばならない。 DA 683.3
しかしユダヤ人の中には、信念の固い人々、すなわち神の知識を保存してきたきよい家系の子孫がいた。これらの人々は、父祖たちに与えられた約束の望みについてまだ期待していた。彼らはモーセを通して、「主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい」と保証されたことばを心に思いめぐらして、その信仰を強めた(使徒行伝3:22)。また彼らは、神が、「貧しい者に福音を宣べ伝え……心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ……主の恵みの年」を告げるお方にあぶらをそそがれるということを読んだ(イザヤ61:1、2)。彼らは神が「道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望」み、異邦人は神の光にきたり、王たちは照りいでる神の光の輝きにくることを読んだ(イザヤ42:4、60:3)。 DA 683.4
ヤコブが死の床にあって、「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう」と語ったことばが、彼らの心を望みで満たした(創世記49:10)。イスラエルの衰えて行く勢力はメシヤの来臨が近づいている証拠だった。ダニエルの預言には、地上のすべての王国ののちにキリストが一つの王国を栄光のうちに統治されることがえがかれていた。そして、「この国は立って永遠にいたるのです」とダニエルは言った(ダニエル2:44)。キリストの使命の本質を理解している人は少なかったが、その一方では、イスラエルに王国をたて、救済者として諸国民にのぞまれる偉大な君に対する期待が一般にひろがっていた。 DA 683.5
時は満ちていた。人類は罪とがの幾時代を経てますます堕落し、あがない主の来臨が必要であった。サタンは、天と地との間に越えることのできない深いみぞをつくるために働いてきた。彼は人々をだまして大胆に罪を犯させてきた。神の寛容を尽きさせ、人類に対する神の愛を失わせて、神がこの世をサタンの支配するままに見捨てられるようにしようとするのがサタンの目的であった。 DA 683.6
サタンは人々から神の知識をしめ出し、人々の注意を神の宮からひき離し、彼自身の王国をうちたてようとしていた。主権をにぎろうとするサタンの戦いはほとんど完全に成功したようにみえていた。なるほど神は各時代にご自分の代理者を持っておられた。異教徒の中にさえ、キリストが人々を罪と堕落の中からひきあげるために働かれるのにそのうつわとなる人々がいた。しかしこれらの人々は、あざけられ、憎まれた。彼らの多くは非業の死をとげた。サタンが世に投げかけていた暗黒の影はますます深くなった。 DA 684.1
異教制度を通して、サタンは長年の間人々を神からひき離してきた。だがサタンの勝ちとった大勝利は、イスラエルの信仰を堕落させたことだった。異教徒は自分たちが考え出したものに心をよせ、そしてこれをおがむことによって、神についての知識を失い、ますます堕落していた。イスラエルもこれと同じだった。人は自らのわざによって自分自身を救うことができるという原則が異教のすべての宗教の根底にあった。この原則がこんどはユダヤ人の宗教の原則となっていた。サタンがこの原則をうえつけたのであった。この原則を信じているところではどこでも、人は罪に対する防壁がない。 DA 684.2
救いのメッセージは人間のうつわを通して人々に伝えられる。だがユダヤ人は、永遠のいのちであるこの真理を独占しようとした。彼らは生きたマナをしまっておいたが、それは腐敗してしまった。彼らが自分たちの中にとじこめておこうとした宗教はつまずきとなった。彼らは神からその栄光を奪い、福音のにせもので世の人々をあざむいた。彼らは世の救いのために神に献身しようとしないで、世を滅ぼすサタンのうつわとなった。 DA 684.3
神が真理の土台と柱にするために召された民はサタンの代表者となっていた。彼らは神のご品性について誤った印象を与え、世の人々に神を暴君としてみさせるような行動をとって、サタンの望み通りに働いていた。宮で奉仕している祭司たちでさえ自分たちのとり行っている儀式の意義を見落していた。彼らは、象徴を通してそこに示されているものを見なくなっていた。いけにえの献(ささ)げ物をささげる時に、彼らは芝居の中の役者と同じだった。神ご自身がお定めになった儀式は心を盲目にし、感情をかたくなにする手段とされた。神はこのような方法を通してもうこれ以上人類のためにつくすことがおできにならなかった。制度全体が一掃されねばならない。 DA 684.4
罪の欺瞞は絶頂に達していた。人々の魂を堕落させるあらゆる手段が実行されていた。神のみ子は、この世をながめて、苦難と不幸とをごらんになった。キリストは、人間がサタンの残酷な行為の犠牲となっているのを、憐れみをもってごらんになった。堕落し、殺され、失われつつある人々を、キリストは同情の思いをもってごらんになった。彼らのえらんだ支配者は彼らを捕虜としてくびきにつないだ。あざむかれ、途方に暮れながら、彼らは暗い行列をつくって永遠の滅亡——生きる望みのない死、朝のおとずれることのない夜へ向かって歩きつづけていた。悪霊が人間と一体となっていた。神の住居としてつくられた人間の体は悪霊の住居となっていた。人間の感覚、神経、欲望、器官は、超自然の力によって、最もいやしい情欲をほしいままにするために働かされた。悪霊の印そのものが人間の顔におされた。人間の顔は、その身を占領している大勢の悪霊の表情を反映した。世のあがない主がごらんになったのはこのような光景だった。限りなく純潔なお方の目に、それは何という光景だったことだろう。 DA 684.5
罪は科学となり、悪徳は宗教の一部分として神聖なものにされていた。反逆は人間の心の奥深くくいこみ、人は天に向かってはげしい敵意をいだいていた。人間は神を離れては向上できないことが宇宙の前に実例として示された。世界をおつくりになったお方によって、生命と力の新しい要素がさずけられねばならなかった。 DA 684.6
他世界は、主が立ちあがって地の住民を一掃されるのを見ようと、強い関心をもって見守っていた。もし神がそうなさったら、サタンは、天使たちの忠誠を自分に向けさせようとする計画を実行しようと待ちかまえていた。彼は神の統治の原則ではゆるすという ことが絶対にないと断言していた。もしこの世界が滅ぼされたら、彼は自分の非難が事実であったと主張しただろう。彼は神を非難し、反逆を他世界にまでひろげようと待ちかまえていた。ところが神は、この世を滅ぼすどころか、かえってこの世を救うためにみ子をつかわされた。神にそむいた世界のいたるところに堕落と反抗がみられたが、その回復の道が備えられた。サタンがまさに勝利しようとするかのようにみえたその危機に、神のみ子が神の恵みという大使の印を帯びてこられた。どの時代にも、どの時間にも、神の愛は堕落した人類に向かってそそがれていた。人間の強情さにもかかわらず、たえず憐れみのしるしが示されていた。こうして時が満ちた時に、神は、救いの計画が達成されるまでさまたげられることも取り去られることもないいやしの恵みを、あふれるばかりに世にそそぐことによって栄えを受けられた。 DA 684.7
サタンは、人間のうちにある神のみかたちをいやしいものにすることに成功したと狂喜していた。その時イエスが、人間のうちに創造主のみかたちを回復するためにおいでになったのである。罪のために堕落した品性を新しく形づくることができるのはキリストよりほかにない。主は人間の意思を支配していた悪霊を追い出すためにおいでになった。主はわれわれを塵(ちり)の中から起し、けがれた品性をご自分のきよい品性に型どってつくり直し、ご自身の栄光をもってそれを美しいものとするためにおいでになった。 DA 685.1