各時代の希望
第17章 ニコデモ
本章はヨハネ3:1~17に基づく DA 748.2
ニコデモはユダヤ国民の中で高い信任の地位を占めていた。彼は高い教育を受け、並々ならぬ才能を持ち、また国民議会の名誉ある議員であった。他の人たちと同じに、彼もイエスの教えに心を動かされていた。彼は金持ちで、学問があり、尊敬されていたが、ふしぎにこのいやしいナザレ人に心をひかれていた。救い主の口から語られた教訓が、彼に強い印象を与えたので、彼はそうしたすばらしい真理についてもっと学びたいと望んだ。 DA 748.3
キリストが宮のきよめに権威を行使されたことから、祭司たちと役人たちの断固とした憎悪心がひき起こされた。彼らはこの未知の人の力を恐れた。名もない一ガリラヤ人のこのような大胆さをゆるしておけなかった。彼らは何とかしてイエスの働きをやめさせようとした。しかし全部の者がこの目的に賛成したわけではなかった。こんなにはっきり神のみたまによって動かされているお方に反対することを恐れた者も何人かあった。彼らは、預言者たちが、イスラエルの指導者たちの罪を責めたために殺されたことを思い起こした。ユダヤ人が異教国民に支配されているのは、神からの譴責を頑固にこばんだ結果であることを彼らは知っていた。イエスに対してはかりごとをめぐらすことによって、祭司たちと役人たちが父祖たちと同じ道をたどり、国民に新たな災難がもたらされることを彼らは恐れた。ニコデモはこうした気持をいだいていた者の1人であった。サンヒドリンの会議で、イエスに対してどういう方針をとるかが討議されたとき、ニコデモは慎重さと穏健さとを忠告した。もしイエスがほんとうに神から権威をさずけられているものなら、その警告をこばむことは危険であると彼は説いた。祭司たちはあえてこの勧告を無視することもできず、当分は救い主に対して公然たる手段をとらなかった。 DA 748.4
イエスのことばをきいてから、ニコデモはメシヤに関する預言を熱心に研究した。調べれば調べるほど、これこそきたるべきお方であるという確信が強められた。イスラエルの他の多くの人たちといっしょに、彼は宮がけがされていることに非常な困惑を感じていた。イエスが売り買いする人たちを追い出された時、彼はその場の光景を見ていた。彼はそこに天来の力のふしぎなあらわれを見た。彼は救い主が貧しい人々をいたわり、病人をいやしておられるのを見た。彼は人々のうれしい顔つきを見、賛美の声を聞いた。そしてナザレのイエスが神からつかわされたお方であることを、彼は疑うことができなかった。 DA 748.5
ニコデモはイエスとの面会を非常に望んだが、公然とイエスに会うことをちゅうちょした。ユダヤ人の役人が、まだほとんど名も知られていない一教師に 共鳴していることを公然と表明することは不面目なことだった。イエスをたずねたということがもしサンヒドリンに知られたら、彼らの嘲笑と非難とを招くであろう。彼は、自分が公然とたずねるとほかの者たちがまねをするからという理由を口実にして、ひそかにイエスに面会しようと決心した。特別な調査によって、オリブ山にひっこんでおられる救い主の居所を知ると、彼は町が眠りのうちに静まるまで待ち、それからイエスをたずねて行った。 DA 748.6
キリストの前に出ると、ニコデモは妙な気おくれを感じ、それを平静と威厳の様子によっておしかくそうとつとめた。彼は言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」(ヨハネ3:2)。彼は、教師としてのキリストの非凡な才能について、また奇跡を行われるすばらしい力について語ることによって、面会の道ならしをしようと望んだ。彼のことばは信頼心をあらわし、また信頼心を起こさせるように意図されていた。だが実際にはそのことばに不信があらわれていた。彼はイエスをメシヤとして認めず、ただ神からつかわされた教師として認めた。 DA 749.1
このあいさつを認めないで、イエスは、相手の心の奥底を読んでおられるかのように、語り手にじっと目をそそがれた。限りない知恵を持っておられるイエスは、ご自分の目の前に真理を求めている1人の人間をごらんになった。主はこの来訪の目的をご存じであった。そこで主は、相手の心にすでにめばえている確信を深めようと望んで、まっすぐ中心点にふれ、厳粛に、しかしやさしく言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。 DA 749.2
ニコデモは、主と議論しようと思ってやってきたのであったが、イエスは真理の根本原則をはっきりとお示しになった。主はニコデモにこう言われた、あなたにとって必要なのは、理論的な知識よりもむしろ霊的な生れ変わりである。あなたは、好奇心を満足させるより、新しい心を持つ必要がある。あなたは天の事物を理解できる前に上からの新しいいのちを受けなくてはならない。この変化が起こって一切のことが新しくなるまでは、わたしの権威やわたしの使命についてわたしと議論しても、その結果は、あなたにとって救いの益とはならないと。 DA 749.3
ニコデモは、バプテスマのヨハネが悔い改めとバプテスマについて説き、聖霊をもってバプテスマを授けられるお方を人々にさし示すのを見聞きしていた。彼自身も、ユダヤ人の間に霊性が欠けており、彼らが頑迷さと世俗的野心に大いに支配されていることを感じていた。彼はメシヤが来臨される時、物事の状態がもっとよくなるようにと望んでいた。しかしバプテスマのヨハネの鋭いメッセージは、彼の心のうちに罪の自覚を起こさなかった。彼は厳格なパリサイ人で、自分の善行を誇っていた。彼は、慈善心と、宮の奉仕を維持するために惜しまず献金することとによって世間から尊敬されていたので、神の恵みは確実であると思っていた。彼はみ国が自分の現在の状態では見ることができないほどきよいものであるという思いに驚かされた。 DA 749.4
イエスは、新しく生れるという表現をお用いになったが、それはニコデモにとって全然聞きなれないことばではなかった。異教からイスラエルの信仰に改宗した者は、よく生れたばかりの子供にたとえられた。だから彼はキリストのことばを文字通りの意味に受け取るべきではないことを認めていたにちがいない。しかし彼は、イスラエル人として生れたおかげで、自分は必ず神のみ国に入るものと考えていた。彼は自分が変化する必要があると思わなかった。だから救い主のことばに驚いたのである。彼はこのことばがぴったりと自分自身にあてはめられたことにいらだった。パリサイ人としての誇りが真理を求める者としての正直な願いと戦っていた。彼はキリストがイスラエルのつかさとしての彼の立場を尊敬しないで、自分にこんな話し方をされるのをあやしんだ。 DA 749.5
驚いて落ち着きを失った彼は、皮肉のこもったことばで、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか」とキリストに答えた(ヨハネ3:4)。彼は、 他の多くの人々と同じように、鋭い真理が良心に訴えられると、生れながらの人は神のみたまの賜物を受け入れないということをあらわした。彼のうちには霊的事物に応ずる何ものもない。なぜなら霊的事物は霊的に判断されるからである(Ⅰコリント2:14参照)。 DA 749.6
しかし救い主は議論に議論をもって応じられなかった。キリストは重々しく静かな威厳をもって片手をあげ、一層強い保証をもって、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と、真理を強調された(ヨハネ3:5)。ニコデモは、キリストがここに言っておられるのは、水のバプテスマのことと神のみたまによって心が新たにされることとであることがわかった。彼はバプテスマのヨハネが預言したお方の前に自分がいることを確信した。 DA 750.1
イエスはことばをつづけて、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」と言われた(ヨハネ3:6)。心は生れながらにして悪く、「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない」のである(ヨブ14:4)。 DA 750.2
どんな人間の発明によっても、罪を犯している魂を救う道をみいだすことはできない。「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫(かんいん)、不品行、盗み、偽証、誹(そし)りは、心の中から出てくるのである」(ローマ8:7、マタイ15:19)。流れが清くなるには、心の泉がきよめられなければならない。自分で律法を守る行為によって天国に入ろうとする者は不可能なことを試みているのである。律法的な宗教、敬虔の形だけを持っている者には安全がない。クリスチャンの生活は古いものを修正したり改良したりすることではなくて、性質が生れ変わることである。自我と罪に対する死があり、まったく新しいいのちがある。この変化は聖霊の効果的な働きによってのみ行われる。 DA 750.3
ニコデモはまだ迷っていたので、イエスは風を例にとってその意味をお示しになった。「風は思いのままに吹く。あなたはその音をきくが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)。 DA 750.4
風は木々のこずえに音をたて、葉や草花をさらさらと鳴らせるが、目に見えないので、だれも風がどこからきてどこへ行くかを知らない。心に働く聖霊の働きもこれと同じである。それは、風の動きと同じように、説明することができない。人は自分が信仰に入った正確な日時と場所を言ったり、入信の過程における事情を始めから終りまで説明したりすることができないかも知れない。だがそのことは、彼が信仰に入っていないという証拠にはならない。風のように目に見えない力によって、キリストはたえず心に働きかけておられる。すこしずつ、おそらく本人の気がつかないうちに、魂をキリストへひきよせるのに役立つ印象が与えられているのである。こうした印象は、キリストについて瞑想したり、聖書を読んだり、あるいは説教者のことばをきいたりすることによって与えられるかもしれない。そしてみたまがもっと直接に訴える時、突然にその魂はよろこんでイエスに屈服する。多くの人はこれを突然の改心と呼ぶが、それは神のみたまが長い間その人を説得した結果、すなわち長期間にわたる忍耐強い作用の結果である。 DA 750.5
風自体は目に見えないが、風によって生ずる結果は見たり感じたりすることができる。同じように、魂に対するみたまの働きは、その救いの力を感じた人のすべての行為にあらわれる。神のみたまが心を占領される時、それは生活を生れ変わらせる。罪の思いはしりぞけられ、悪い行為は放棄され、愛と謙遜と平安が怒りとねたみと争いに入れ代る。よろこびが悲しみに入れ代り、顔には天の光が反映する。だれも重荷を持ちあげる手を見たり、天の宮からくだる光を見る者はない。祝福は、信仰によって魂が神に屈服するときに与えられる。その時、人間の目で見ることのできない力が、神のかたちにかたどって新しい人間を創造する。 DA 750.6
限りある人間の頭脳ではあがないの働きを理解することは不可能である。あがないの奥義は、人間の 知識を超越している。それでも、死から生へ移る者は、それが天来の事実であることを認める。われわれは、あがないの発端はこの世において個人的な経験を通して知ることができる。しかしその結果は永遠の時代にまで及んでいるのである。 DA 750.7
イエスが語っておられる間に、真理のかすかなひらめきがこのつかさの心にさし込んだ。人の心をやわらげ服従させる聖霊の感化が彼の心を動かした。それでも彼は救い主のみことばを完全に理解しなかった。彼は新生の必要よりも、むしろそれが達成される方法に心を動かされた。彼はあやしみながら、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と言った(ヨハネ3:9)。 DA 751.1
「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」とイエスはおたずねになった(ヨハネ3:10)。たしかに、民の宗教的な教育をまかされている者が、こんな大切な真理について無知であるべきではない。イエスのみことばはニコデモが真理の率直なことばにいらだたないで、霊的無知のゆえに自分自身についてへりくだった意見を持つべきであるという教訓を含んでいた。しかしイエスは、厳粛な威厳をもってお語りになり、その顔にも声の調子にも熱心な愛があらわれていたので、ニコデモは自分の不面目な立場を認めても腹がたたなかった。 DA 751.2
しかしイエスが、地上におけるご自分の使命はこの世の王国を建てることではなくて、霊的王国を建てることだと説明されると、相手は困惑した。それをごらんになって、イエスは、「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」とつけ加えられた(ヨハネ3:12)。もしニコデモが、人の心に働く恵みを例示したキリストの教えを信じることができないならば、天の栄光の王国がどういうものかをどうして理解することができよう。彼は、地上におけるキリストの働きの性質を認識しないならば、天におけるキリストの働きを理解することはできないのである。 DA 751.3
イエスが宮から追い出されたユダヤ人は、アブラハムの子であると主張していたが、彼らは、キリストのうちにあらわされている神の栄光に耐えることができなかったので、救い主の前から逃げ出した。こうして彼らは、神の恵みによって宮の聖なる奉仕にあずかるのにふさわしい者ではないことを立証した。彼らは聖潔の外観を保つのに熱心だったが、心の聖潔をなおざりにした。彼らは律法の文字についてやかましかったが、絶えずその精神を破っていた。彼らの大きな必要は、キリストがニコデモに説明された変化すなわち霊的新生であり、罪からのきよめであり、知識と聖潔とを新たにされることであった。 DA 751.4
生れ変わりのわざについてイスラエルが盲目であることには言い訳の余地がなかった。聖霊による霊感の下にイザヤは、「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」と書いた(イザヤ64:6)。ダビデは、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈った(詩篇51:10)。またエゼキエルを通して、「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」との約束が与えられていた(エゼキエル36:26、27)。 DA 751.5
ニコデモはこれらの聖句をくもった心で読んでいた。だが今彼はその意味をさとりはじめた。律法を外面的な生活にあてはめ、どんなに厳格に文字通りこれを守っても、だれも天の王国に入る資格はないということを彼はさとった。人間の目から見れば、彼の生活は正しく尊敬すべきものであった。だがキリストの前に出ると、彼は、自分の心が清潔でなく、自分の生活が聖潔でないことを感じた。 DA 751.6
ニコデモはだんだんキリストにひきつけられた。救い主が新生について説明された時、彼はこの変化が自分のうちに行われるようにと切望した。どんな方法によってそれを達成することができるのだろう か。イエスは、口に出されないこの質問に答えて、「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」と言われた(ヨハネ3:14、15)。 DA 751.7
ここにニコデモのよく知っている根拠があった。上げられた蛇(へび)の象徴によって、彼は救い主の使命をはっきりさとった。イスラエルの民が火の蛇のかみ傷のために死にかけていた時、神はモーセに青銅の蛇を作って会衆のまん中に高くかかげるように命じられた。そして蛇を仰ぎ見る者はみな生きられるという布告が陣営中に伝えられた。人々は、蛇そのものには彼らを助ける力がないことをよく知っていた。それはキリストの象徴だった。滅ぼす蛇の形に作られた像が彼らのいやしのためにあげられたように、「罪の肉の様」につくられたお方が彼らのあがない主となられるのであった(ローマ8:3)。イスラエル人の多くは、いけにえの儀式そのものに彼らを罪から解放する力があると思っていた。青銅の蛇に価値がなかったように、いけにえの儀式そのものにも価値がないことを彼らに教えようと神は望まれた。それは彼らの心を救い主に向けさせるのであった。傷をいやされるためであろうと、罪をゆるされるためであろうと、彼らは神の賜物キリストへの信仰をあらわす以外に自分では何もできなかった。彼らは仰いで見て、生きるのであった。 DA 752.1
蛇にかまれた人たちは、青銅の蛇を仰いで見るのをおくらせることもできた。こんな青銅の象徴に何の効力があるだろうかと疑うこともできた。彼らはまた科学的な説明を要求することもできた。だが何の説明も与えられなかった。彼らはモーセを通して与えられた神のみことばを信じなければならなかった。仰いで見るのをこばむことは、滅びることであった。 DA 752.2
論争や議論によっては、魂に光が与えられない。われわれは仰いで見て生きなければならない。ニコデモは教訓を受け入れてそれを持ち帰った。彼は理論について議論するためではなく、魂にいのちを受けるために、新しい方法で聖書を調べた。聖霊の導きに身を委ねた時、彼は天の王国を見はじめた。 DA 752.3
あげられた蛇によってニコデモに教えられたのと同じ真理を学ぶ必要のある人が今日も幾千人となくいる。彼らは、神の律法に従うことが神のめぐみを受ける資格であると信じこんでいる。イエスを仰いで見て、イエスがめぐみによってのみ救ってくださることを信じなさいと言われると、彼らは、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と叫ぶのである(ヨハネ3:9)。 DA 752.4
ニコデモのように、われわれも、自ら進んで罪人のかしらと同じ方法でいのちに入らねばならない。キリストより「以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)。信仰を通してわれわれは神のめぐみを受ける。だが信仰はわれわれの救い主ではない。信仰そのものには功績がない。信仰は、キリストをしっかりとらえて、彼の功績すなわち罪からの救いをわがものとする手である、またわれわれは神のみたまの助けなしには悔い改めることさえできない。聖書にはキリストについて、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである」といわれている(使徒行伝5:31)。悔い改めは、罪のゆるしとまったく同じにキリストからくるのである。 DA 752.5
では、われわれはどのようにして救われるのだうりか。「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように」人の子イエスもまたあげられた(ヨハネ3:14)。蛇にだまされ、かまれた者はみなこのイエスを仰ぎ見て生きることができる。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。十字架から輝いている光は神の愛をあらわしている。神の愛はわれわれをみもとにひきよせている。このひきよせる力にさからわなければ、われわれは救い主を十字架につけた罪を悔いて十字架の下に導かれる。その時神のみたまは、信仰を通して魂に新しいいのちを生じさせる。考えること望むことはキリストのみこころに服従させられる。心と思いは、「万物をご自身に従わせ」るためにわれわれのうちに働かれるキリストのみかたちに 新しくつくられる(ピリピ3:21)。その時神の律法は心と思いにしるされ、われわれはキリストとともに、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます」と言うことができる(詩篇40:8)。 DA 752.6
ニコデモとの会見において、イエスは救いの計画と世に対するご自分の使命をお示しになった。キリストが、天の王国を継ぎたいと望むすべての者の心のうちになされる必要のある働きを、1歩1歩、こんなにくわしく説明されたことは、その後の講話にも1度もなかった。キリストは、その公生涯の初めにあたって、サンヒドリンの議員で、最も信じやすい心を持ち、民の教師として任命されている者に、真理を明らかにされた。しかしイスラエルの指導者たちは、光を歓迎しなかった。ニコデモは真理を心の中にかくしていたので、3年の間、表立った結果はみられなかった。 DA 753.1
しかしイエスはご自分が種をまかれた土をよく知っておられた。さびしい山の中で、夜たった1人の聞き手に語られたことばは失われなかった。しばらくの間ニコデモはキリストを公然と認めはしなかったが、キリストの生活を注視し、その教えを心に思いめぐらした。サンヒドリンの会議で、彼は、イエスを殺そうとする祭司たちのくわだてに何度も反対した。ついにイエスが十字架に上げられた時、ニコデモは、「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」といわれたオリブ山での教えを思い出した(ヨハネ3:14、15)。あのひそかな会見から出た光がカルバリーの十字架を照らし、ニコデモは、イエスが世のあがない主であられることを知った。 DA 753.2
主の昇天後、弟子たちが迫害のために離散した時、ニコデモは大胆に前面に現われた。彼は、キリストの死とともに消滅するものとユダヤ人たちが予期していた若い教会をささえるために、自分の富を用いた。かつては用心深く、疑っていた彼が、危機に際して、岩のように固く立ち、弟子たちの信仰をはげまし、福音の働きを前進させる資金を供給した。彼は、かつては彼に尊敬を払っていた人たちからあざけられ、迫害された。彼はこの世の財産には貧しくなったが、イエスとの夜の会見から始まった信仰はゆるがなかった。 DA 753.3
ニコデモは、ヨハネにあの会見の話を物語った。そしてヨハネの筆によって、それは幾百万の人々の教えのために記録された。そこに教えられている真理は、ユダヤ人のつかさが身分の低いガリラヤの教師からいのちの道を学ぶために木影の深い山へやってきたあの厳粛な夜と同じに、今日もまた重要なのである。 DA 753.4