各時代の希望

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第16章 神の宮で

本章はヨハネ2:12~22に基づく DA 741.6

「そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒に、カペナウムに下って、幾日かそこにとどまられた。さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた」(ヨハネ2:12、13)。 DA 741.7

この旅で、イエスは首都エルサレムへ進んで行く人たちの大きな群れの一つに加わられた。イエスはご自分の使命をまだ公に発表しておられなかったので、人知れず群衆の中にまじっておられた。こういう機会には、ヨハネの伝道によって世間の注目をひくようになったメシヤの来臨ということがよく人々の話題 になった。彼らは自分たちの国が偉大な国家になるのだという望みについて燃えるような熱心さで語り合った。イエスはこの望みが裏切られることを知っておられた。なぜなら、それは聖書の誤った解釈に根拠がおかれていたからである。イエスは非常に熱心に預言を説明し、神のみことばのもっと綿密な研究に人々を目覚めさせようとされた。 DA 741.8

イスラエルの民はエルサレムで神の礼拝を教えられるのだと、ユダヤ人の指導者たちは教えていた。過越節の週間になると、大勢の人々がパレスチナの全地から、また遠い国々からもやってきて、ここに集まった。宮の庭は雑然とした群衆でいっぱいになった。一つの大いなるいけにえであられるキリストを象徴するものとして献げられるいけにえをたずさえてくることができない人が多かった。そうした人たちのために、動物が宮の外庭で売買された。ここにあらゆる階級の人々が彼らの献げ物を買うために集まった。ここであらゆる外国のお金が聖所の貨幣に両替された。 DA 742.1

ユダヤ人はだれでもみな「命をあがなう」ために毎年半シケルを納めなければならなかった。このようにして集められたお金は宮を維持するために用いられた(出エジプト30:12~16参照)。 DA 742.2

このほかに、多額のお金が任意の献金として持参され、宮の金庫に納められた。外国貨幣はみな聖所のシケルと呼ばれる貨幣に両替しなければならなかった。そしてその貨幣が聖所の奉仕のために受け取られた。金銭の両替は詐欺や強奪の機会となり、老れはだんだん恥ずべき商売となって、祭司たちの収入源となっていた。 DA 742.3

商人たちは動物を売るのに法外な値段をつけ、そのもうけを祭司や役人たちにわけた。こうして祭司や役人たちは民の犠牲において私腹を肥やした。礼拝者たちは、いけにえを献げなければ、彼らの子供たちや地所に神の祝福がくだらないと信じるように教えられていた。こうして動物を高い値段で売りつけることができた。人々は遠くからやってきたのだから、その目的である礼拝行為を果たさないでは家へ帰ろうとしなかったからである。 DA 742.4

過越節の時には大変な数のいけにえがささげられたので、宮での商売は非常に盛んだった。従ってそれに伴う混雑は、神の聖なる宮というよりもむしろやかましい家畜市場を思わせた。かん高い取引の声、牛のモーモー鳴く声などが、貨幣のじゃらじゃらいう音や怒って言い争う声にまじってきこえ起その混乱があまりにひどいために、礼拝者たちはさまたげられ、いと高き神に語りかけられることばは宮をおおう騒音にかき消された。ユダヤ人は自分たちの膿さを非常な誇りにしていた。彼らは宮を喜び、宮のことをよく言わないことばを冒漬(ぼうとく)とみなした。彼らはまた宮に関係のある儀式を非常に厳格に行った。しかし金銭欲が彼らの用心深さを圧倒していた。彼らは、自分たちが神ご自身によって定められた儀式の本来の目的からはるかにそれていることにほとんど気がついていなかった。 DA 742.5

主がシナイ山上におくだりになった時、その場所は主のこ臨在によってきよめられた。モーセは、山のまわりに境界を設けて、そこをきよめるようにと命じられた。そして「あなたがたは注意して、山に上らずまた、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない」という主の警告のことばがきかれた(出エジプト19:12、13)。このように、神がご臨在をあらわされるところはどこでも、神聖な場所であるという教訓が教えられた。神の宮の境内は神聖なところとみなされるべきだった。ところがもうけを争うあまり、すべてこりしたことが忘れられていた。 DA 742.6

祭司と役人たちは国民に神を代表する者と呼ばれていた。彼らは宮の庭がこのように悪用されているのを改革すべきであった。彼らは民に正直とあわれみの模範を示すべきであった。自分自身の利益を追い求めないで、彼らは礼拝者たちの事情と必要とを考慮レまた必要ないけにえを買うことのできない人々をいつでも助ける用意がなければならなかった。ところが彼らはそうしたことをしなかった。彼らの心 は貧欲に固まっていた。 DA 742.7

郵の祭りには、苦しんでいる者や困っている貧しい人々もやってきた。盲人も足の不自由な人も耳の聞こえない人もきた。寝床にのせてつれてこられる者もあった。貧しいために、主にささげる一番安い献げ物も買えず、自分自身の空腹を満たす食物さえ買うζとのできない人たちもたくさんきた。こうした人たちは祭司の言明にひどく当惑した。祭司たちは自分醸さを誇り、民の保護者であると自称した。だ力鞍らは同情や憐れみの心がなかった。貧しい者や病人や死にかけている者が助けを乞うてもむだだった。彼らの苦しみは祭司たちの心に何の同情も呼び起こさなかった。 DA 743.1

イエスは宮に入ってこられると、すべての光景をじつとごらんになった。彼は不正な取引をごらんになった。血を流さなければ自分たちの罪はゆるされないと考えて困っている貧しい人たちを彼はごらんになった。彼は、神の宮の外庭がけがれた商売の場所にかわうでいるのをごらんになった。神聖な境内が一つの大きな取引場となっていた。 DA 743.2

キリストは、どうにかしなければならないとお考えになった。無数の儀式が、その意味について正しい教えもなされないままに民に命じられていた。礼拝者たちは、ただ1人の完全ないけにえであられるキリストを象徴するものであることも理解しないで彼らのいけにえをささげた。しかも彼らの中に、みとめられもしなければ、あがめられもしないで、彼らのすべての儀式によって象徴されているお方が立っておられた。彼は献げ物について指示をお与えになったのだった。彼は献げ物の象徴的価値を理解しておられた。イエスはそうした献げ物がいま悪用され、誤解されているのをごらんになった6霊的な礼拝は急速に影をひそめていた。祭司たちや役人たちと神との間のつながりは何もなかった。キリストの働きは、まったく異なうた礼拝を確立することであった。 DA 743.3

宮の庭の石段に立たれたキリストは、鋭い一べつで、目の前の光景を見抜かれる。預言の目をもって、イエスは未来を、幾年後ばかりでなく幾世紀幾時代後までごらんになる。彼は祭司たちや役人たちが貧しい人々の権利を奪い、彼らに福音が伝えられるのを禁じているのをごらんになる。彼は、神の愛が罪人にかくされ、人々が神の恵みを商品にするのをごらんになる。その光景をごらんになると、怒りと権威と力とがその顔にあらわれる。人々の注意は彼にひきつけられる。けがれた取引をやっていた人たちの目が、イエスの顔にくぎづけにされる。彼らは目をそらすことができない。彼らは、この人に自分たちの心の奥底が見抜かれ、かくれた動機が見つけ出されるのを感じる。中には、自分の悪い行為が顔に書かれているのをあの鋭い目にじっと見つめられるかのように、顔をかくそうとする者もある。 DA 743.4

騒ぎはおさまった。商売とかけひきの声はやんだ。沈黙は苦痛となる。群衆は畏怖の念に圧倒される。彼らは自分たちの行為を弁明するために神のさばきの前に呼び出されたかのようである。キリストを見あげて、彼らは、人性という衣から神性がひらめいているのを見る。天の君が、最後の日におけるさばき主のように、その時ご自分に伴う栄光にいまはつつまれておられないが、同じように魂を見抜く力をもって立っておられるのである。彼の目は群衆を見渡して、一人一人を見抜かれる。彼の姿は堂々たる威厳をそなえて彼らの中にそびえているように見え、天来の光がそのみ顔を照らしている。イエスが話されると、そのはっきりしたひびきわたる声は——いま祭司たちや役人たちが犯している律法をかつてシナイ山上で宣言されたのと同じ声は——宮の門に反響してきこえる。「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」(ヨハネ2:16)。 DA 743.5

ゆっくり石段をおりながら、イエスは、境内にはいる時に拾われた縄の鞭をふりあげで取引をしている連中に宮の境内から立ち去るように命じられる。これまでにあらわされたことのない激しさと厳格さをもって、イエスは両替屋のテーブルをひっくり返される。貨幣は高い音を立てて、大理石の歩道に落ちる。誰一人彼の権威をあえて問題にしようとしない。誰一人不正なもうけの金を拾い集めようとして立ちどまろ うとしない。イエスは彼らを縄の鞭で打ちはなさらないが、そのただの鞭が彼の手にあると、燃える剣のように恐ろしいものにみえる。宮の役員たちや、投機をしていた祭司たちや、仲買人たちや家畜商人たちは、イエスの目の前にいると心が責められるので、それからまぬかれたい一心で羊や牛といっしょにその場から逃げ出す。 DA 743.6

あわてふためきは群衆全体にひろがり、彼らはイエスの神性に圧倒される感じがする。幾百人の青ざめた唇から、恐怖の叫びがもれる。弟子たちでさえふるえあがる。弟子たちは、イエスのふだんのふるまいとはまったく不似合いなことばと行動におそれをなす。彼らは、イエスのことについて、「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし」と書かれていることばを思い出す(詩篇69:9)。まもなくそうそうしい群衆は商品といっしょに神の宮から遠くへ追いやられる。宮の庭からけがれた取引が姿を消し、深い静寂と荘厳さが混乱の場面をおおう。主のこ臨在は昔シナイ山をきよめたが、いまは主のみ栄えのために建てられた宮をきよいものにした。 DA 744.1

宮をきよめることによって、イエスはメシヤとしてのご自分の使命を公表し、その働きにはいられたのであった。神の住居として建てられたこの宮は、イスラエルと世界のために実物教訓となるように計画されていた。輝く聖なるセラフから入間にいたるまで、すべての被造物が創造主の内住される宮となることが、永遠の昔から神の目的であった。罪のために人類は神の宮とならなくなった。人の心は、悪のために暗くなり、けがれたものとなったので、もはや聖なる神の栄光をあらわさなくなった。しかし神のみ子の受肉によって天の神の目的は達成された。神は人類の中にお住みになり、救いの恵みを通して、人の心はふたたび神の宮となる。神はエルサレムの宮が、すべての魂にとって可能な高い運命についてのたえまないあかしとなるように計画された。しかしユダヤ人は彼らが非常な誇りをもって見ていた建物の意義を理解していなかった。彼らは自分自身をみたまの聖なる宮としてささげなかった。けがれた商売のそうそうしさにつつまれていたエルサレムの宮の庭は、肉欲やきよくない思いが入りこんでけがれている心の宮をそのままあらわしていた。宮を世的な売り買いからきよめることによって、イエスは、罪のけがれ、すなわち魂を堕落させる世俗的な望み、利己的な欲望、悪習慣などから心をきよめられるご自分の使命を宣言された。「あなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める」(マラキ3:1~3)。 DA 744.2

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(Ⅰコリント3:16、17)。だれも心を占領している悪のかたまりを自力で追い出すことはできない。キリストだけが魂の宮をきよめることがおできになる。しかし彼ははいることを強制なさらない。主は昔の宮にお入りになったようには心にお入りにならないで、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはい(る)」と言われる(黙示録3:20)。主は1日だけのためにお入りになるのではない。「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。……彼らはわたしの民となるであろう」と言われる(Ⅱコリント6:16)。「われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ」られる(ミカ7:19)。主のこ臨在は、魂が主の聖なる宮となり、「霊なる神のすまい」となるように、その魂を洗いきよめる(エペソ2:21、22)。 DA 744.3

恐ろしさに圧倒されて祭司たちと役人たちは宮の庭から逃げ出し、彼らの心を見抜く鋭い目からのがれた。彼らは逃げて行く時、宮へやって来る他の人 たちに出会うと、自分たちの見聞きしたことを語り、ひき返すように命じた。キリストは逃げて行く人たちをごらんになって、彼らの恐怖と、彼らが真の礼拝の本質について無知であることをかわいそうにお思いになった。この光景の中に、イエスは、ユダヤ国民全体が邪悪で悔い改めないために、離散させられることが象徴されているのをごらんになった。 DA 744.4

ではなぜ祭司たちは宮から逃げ出したのだろうか。なぜ彼らはその場にふみとどまらなかったのだろうか。彼らに行ってしまえと命じたのは、この世の地位も権力もない大工の息子、貧しいガリラヤ人だった。なぜ彼らはイエスに抵抗しなかったのか。なぜ彼らは不正にもうけた金を捨てて、外観はまったくみすぼらしいこの人の命令で逃げ出したのか。 DA 745.1

キリストは王の権威をもって語られたので、彼の様子や声の調子には、人々が抵抗する力をゆるさないものがあった。命令のことばで、彼らはかつてこれまでになかったほど、偽善者やどろぼうとしての自分たちの真の立場をみとめた。人性を通して神性がひらめいた時、彼らはキリストの顔つきに怒りをみとめたばかりでなく、彼のみことばの意味をさとった。彼らは永遠のさばき主のみ座の前で、この世と永遠のために宣告をくだされたかのように感じた。その時だけ、彼らはキリストが預言者であることを確信し、多くの者が彼をメシヤとして信じた。聖霊が彼らの心にキリストに関する預言者のことばをひらめかせた。彼らはこの自覚に従ったであろうか。 DA 745.2

彼らは悔い改めようとしなかった。彼らは貧しい者に村してキリストの同情心が呼び起こされたことを知っていた。彼らは民に対する自分たちの態度に搾取の罪があることを知っていた。キリストが彼らの思いを見抜かれたので、彼らはキリストを憎んだ。キリストが公衆の面前で彼らを責められたことが彼らの誇りを傷つけた。そして彼らはキリストの勢力が民の中にひろがって行くのをねたんだ。彼らは、キリストが彼らを追い出された力について、まただれがそのカを彼に与えたかについて、彼に挑戦しようと決心した。 DA 745.3

ゆっくりと用心深く、しかし心に憎しみをいだいて、彼らは宮へもどってきた。だが彼らのいない間に、何という変化が起こったことだろう。彼らが逃げた時、貧しい人々があとに残った。そしてこの人たちはいま顔に愛と同情のあらわれているイエスに見入っていた。目に涙をためて、イエスはまわりのふるえている人たちに、恐れるには及ばない、わたしはあなたがたを救い、あなたがたはわたしをあがめるであろう。そのためにわたしはこの世にきたのだと言われた。 DA 745.4

人々は、主よ、祝福してくださいというさし迫った、同情すべき訴えをもってイエスの前におしよせた。主の耳は一つ一つの叫びをきかれた。やさしい母親にもまさる憐れみをもって、主は病気の子供たちの上に身をかがめられた。みんなが手当てをしてもらった。どの人もみなどんな病気もいやされた。口のきけない者は口を開いて賛美し、盲人は目をあけてくださったお方の顔を見た。苦しむ者たちの心はよろこぼされた。 DA 745.5

祭司たちと宮の役人たちがこのすばらしいわざを目に見た時、彼らの耳にきこえた声は彼らにとって何という思いがけないことだったことだろう。人々は自分たちの受けている苦しみや裏切られた望みや、苦悩の日々や眠られない幾夜について語っていた。望みの最後のともしびが消えたようにみえた時、キリストが彼らをいやされたのだった。重荷はとても重かったが、わたしは助けてくださる方をみつけた。その人は神キリストだ。わたしは一生をキリストの奉仕にささげるとある者は言った。両親は子供たちに、あの方があなたのいのちを救ってくださったのだ。あなたの声をあげてあの方を賛美しなさいと言った。子供たちと若者たち、父親と母親たち、友人たちと見物人たちは、声をあわせて感謝し、賛美した。望みと喜びが彼らの心を満たした。平安が彼らの心にのぞんだ。彼らは魂と体を回復し、イエスの比類のない愛をどこででも宣伝しながら家へ帰った。 DA 745.6

キリストが十字架につけられた時に、このようにいやされた人たちは、やじ馬連中の「十字架につけよ、十字架につけよ」との叫びに加わらなかった。彼ら の同情はイエスの側にあった。彼らはイエスの大いなる同情とふしぎな力を経験したからである。彼らはイエスが救い主であるとわかっていた。イエスが彼らに肉体と魂の健康をお与えになったからである。彼らは使徒たちの説教を聞き、その心に神のみことばが開けたので知恵が与えられた。彼らは神のめぐみの代理者、神の救いのうつわとなった。 DA 745.7

宮の庭から逃げた群衆は、しばらくすると少しずつ押し返してきた。彼らは自分たちが陥っていたあわてふためきから幾分立ち直ったが、その顔にはまだ決断のつかない臆病さがあらわれていた。彼らはイエスのみわざを見て驚き、イエスを通してメシヤに関する預言が成就されたことを確信した。宮をけがした罪は、大部分祭司たちにあった。宮の庭が市場になってしまったのは、彼らのとりきめによったのである。人には比較的に罪がなかった。彼らはイエスの天来の権威に印象づけられたが、しかし彼らにとっては祭司たちと役人たちの勢力が絶対であった。彼らはキリストの使命を革新的なものに考え、宮の当局者たちから許可されていたことに干渉する権利がイエスにあるかどうかを問題にした。彼らは商売が邪魔されたので腹を立て、聖霊のさとしをうち消した。 DA 746.1

ほかのだれよりも祭司たちと役人たちは、イエスを、エホバにあぶらそそがれたお方として見るべきであった。なぜなら、彼らはイエスの使命について書かれた聖なる巻物を手にしており、宮のきよめが人間の力以上のあらわれであることがわかっていたからである。 DA 746.2

彼らはイエスをひどく憎んだが、イエスが宮の清潔を回復するために神からつかわされた預言者であるかもしれないとの思いからのがれることができなかった。この恐れから生じた尊敬をもって、彼らはイエスのところへ行き、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」とたずねた(ヨハネ2:18)。 DA 746.3

イエスはすでに彼らにしるしを示しておられた。彼らの心に光を照すことによって、またメシヤのなすべきわざを彼らの前で行うことによって、イエスはご自分の本性について確信させる証拠をお与えになっていた。いま彼らがしるしを求めると、イエスはたとえを用いてお答えになり、彼らの悪意を見抜いておられて、彼らの悪意がどこまで発展するかを知っておられることをお示しになった。「この神殿をこわしたら、わたしは3日のうちに、それを起すであろう」と主は言われた(ヨハネ2:19)。 DA 746.4

イエスのこのことばには二重の意味があった。イエスはユダヤ人の神殿と礼拝の破壊のことを言われたばかりでなく、ご自分の死すなわちご自身の肉体の宮の破壊について言われた。すでにユダヤ人たちはイエスの死についてはかりごとをめぐらしていた。祭司たちと役人たちが宮へもどってきた時には、彼らはすでに、イエスを殺すことによって邪魔者をとり除く相談をしていた。それなのにイエスが彼らの意図を目の前に示された時、彼らはイエスの言っておられることがわからなかった。彼らはイエスのことばがエルサレムの神殿についてだけ言われたものと考え、憤慨して叫んだ。「この神殿を建てるのには、46年もかかっています。それだのに、あなたは3日のうちに、それを建てるのですか」(ヨハネ2:20)。彼らは、イエスに対する彼らの不信が正当なものであったと感じ、イエスを拒否しようとの決心を固めた。 DA 746.5

キリストは、ご自分のことばを不信なユダヤ人にも、また当時の弟子たちにさえもわからせるおつもりはなかった。イエスはこのことばが彼の反対者たちに曲解され、ご自分にとって不利になることをご存じだった。裁判の時に、このことばが告発され、カルバリーではこれらのことばが嘲笑となって彼に投げつけられるのであった。だがいまそのことばを説明すれば弟子たちにご自分の苦難を知らせ、彼らがまだ耐えることのできない苦悩を与えることになる。またそのことばを説明すれば、ユダヤ人に彼らの偏見と不信の結果を早まってばくろすることになる。すでに彼らは、イエスが小羊としてほふり場に引かれるまで、彼らが着々とたどる道に入っていたのである。 DA 746.6

キリストのこのことばが語られたのは、主を信ずる者のためであった。イエスはこのことばが伝えられ ることをご存じだった。このことばは、過越節に語られたのだから、幾千の人々の耳に入り、世界の全地に伝えられるであろう。キリストが死からよみがえられてから、このことばの意味が明らかになるのである。多くの者にとって、それはキリストの神性の決定的な証拠となるのである。 DA 746.7

霊的に暗かったために、イエスの弟子たちさえ、主の教訓をさとらないことがたびたびあった。しかしそれらの教訓の多くは、次々に起る事件によって明らかになった。キリストがもはや弟子たちといっしょにおられなくなってから、そのみことばは彼らの心のささえとなった。 DA 747.1

「この神殿をこわしたら、わたしは3日のうちに、それを起すであろう」との救い主のことばには、エルサレムの宮をさすことばとして、聞いた者たちが認めたよりももっと深い意味があった(ヨハネ2:19)。キリストは宮の土台であり、いのちであった。宮の儀式は神のみ子の犠牲を象徴していた。祭司職は、キリストの仲保者としての性格と働きをあらわすために設けられていた。いけにえをささげる礼拝の制度全体は、世の人々をあがなわれる救い主の死を予表していた。それらの献げ物が幾時代にわたってさし示してきた大事件が完結されると、その献げ物にはもう何の効力もないのだった。 DA 747.2

儀式の制度全体はキリストを象徴していたから、キリストを離れては何の価値もなかった。ユダヤ人がキリストを死に渡すことによって、キリストを決定的に捨てた時、彼らは宮とその奉仕に意義を与えていた一切のものを捨てた。宮の神聖さは失われた。宮は破壊される運命にあった。 DA 747.3

その日から、いけにえの献げ物とそれに関係のある奉仕は無意味となった。カインの献げ物と同じように、それは救い主への信仰を表わさなかった。キリストを殺したことによって、ユダヤ人は実質的に宮を滅ぼした。キリストが十字架につけられたとき、宮の内側の幕が上から下までまっ二つに裂けて、最後の大いなるいけにえがささげられ、いけにえをささげる制度が永遠に終りを告げたことを意味した。 DA 747.4

「わたしは3日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ2:19)。救い主が死なれたことによって暗黒の勢力は勝利したように見え、彼らはその勝利をよろこんだ。しかしイエスは、割れたヨセフの墓から勝利者としてあらわれ、「もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである」(コロサイ2:15)。キリストは、その死とよみがえりとによって、「人間によらず主によって設けられた真の幕屋」に奉仕する者となられた(ヘブル8:2)。人間がユダヤ人の幕屋を建て、人間がユダヤ人の宮を建てた。だが地上の聖所の原型である天の聖所は、人間の建築家によって建てられなかった。「見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める」(ゼカリヤ6:12、13)。 DA 747.5

キリストをさし示していたいけにえの儀式は過ぎ去った。しかし人間の目は、世の罪のためのまことのいけにえに向けられた。地上の祭司制度はやんだ。だがわれわれは、新しい契約の奉仕者イエスと「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」とに目をそそぐ。「それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。……しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく完全な幕屋をとおり、……ご自身の血によって、1度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル12:24、9:8~12)。 DA 747.6

「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)。奉仕は地上の宮から天上の宮へ移されても、また聖所とわれらの大祭司は人間の目には見えなくても、弟子たちはそのことによって何の損失もこうむらないのであった。救い主がおられないからといって、まじわりが中断されたり、力が減少したりするようなことは ないのであった。イエスは天の聖所で奉仕しておられる一方では、いまでもみたまによって地上の教会の奉仕者であられる。イエスは人間の目からはとり去られても、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」という別れの約束は成就されている(マタイ28:20)。イエスは下位の奉仕者たちにご自分の力を委任されているが、その力づけるご臨在は依然としてご自分の教会とともにある。 DA 747.7

「わたしたちには……大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告自する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル4:14~16)。 DA 748.1