各時代の希望

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第18章 「彼は必ず栄える」

本章はヨハネ3:22~36に基づく DA 753.5

国民に対するバプテスマのヨハネの勢力は、一時は役人や祭司やつかさたちの勢力よりも大きかった。もし彼が自分はメシヤであると名のって、ローマに反乱を起こしていたら、祭司たちと民は彼の旗の下に集まったであろう。サタンは、この世の征服者たちの野心をそそるあらゆる報酬をバプテスマのヨハネに強調しようとしていた。しかしヨハネは自分の勢力の証拠を目の前に見ながら、そのすばらしいわいろを断固としてしりぞけた。彼は自分にそそがれる注意を他のお方に向けた。 DA 753.6

いま彼は人気の波が自分から去って、救い主に向かっていることを知った。日に日に、彼のまわりの群衆が減って行った。イエスがエルサレムからヨルダン付近の地方においでになると、人々はイエスのことばを聞くために集まった。イエスの弟子たちの数は日に日にふえた。多くの者がバプテスマを受けにやってきた。キリストはご自分ではバプテスマをおさずけにならなかったが、弟子たちがこの儀式を行うのを是認された。こうしてイエスはご自分の先駆者の使命を承認された。しかしヨハネの弟子たちは高ま って行くイエスの人気をねたみの目で見た。彼らはイエスの働きを批判しようと待ちかまえていたが、まもなくその機会を見つけた。バプテスマは魂を罪からきよめるのに役立つかどうかということについて、彼らとユダヤ人との間に疑問が起こった。彼らはイエスのバプテスマはヨハネのバプテスマと本質的にちがっていると主張した。まもなく彼らはバプテスマの時に用いるのに適当なことばの形式について、そしてついにはいったいキリストの弟子たちにはバプテスマをさずける権限があるのかどうかということについて、キリストの弟子たちと論争した。 DA 753.7

ヨハネの弟子たちはヨハネのところへ苦情を訴えてきて、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と言った(ヨハネ3:26)。こうしたことばによって、サタンはヨハネを試みた。ヨハネの使命はまさに終わろうとしているように見えたが、彼がキリストの働きをさまたげることはまだ可能だった。もし彼が自分自身に同情し、自分が取りかえられたことに悲しみか失望を表明したら、彼は不和の種をまき、ねたみを助長し、福音の進歩をひどくさまたげたであろう。 DA 754.1

ヨハネは人間に共通の欠点や弱点を生れつき持っていたが、神の愛にふれることによって生れ変わっていた。彼は利己心と野心にけがされていない雰囲気のうちに住み、ねたみという毒気にまったく超越していた。彼は自分の弟子たちの不満に同情を示さないで、自分がメシヤに対してどんな関係にあるかをはっきりわきまえていることと、自分がそのために道を備えてきたお方を歓迎していることとを明らかにした。 DA 754.2

彼はこう言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」(ヨハネ3:27~29)。ヨハネは自分のことを、婚約者たちのために結婚への道を準備する使者の役目をつとめる友人であると言っている。花婿が花嫁を受け取った時に、その友人の役目は果たされる。彼は自分が尽力して縁を結ばせた人々の幸福をよろこぶ。このようにヨハネは、人々をイエスに向けるために召されていたので、救い主の働きの成功を目に見ることは彼のよろこびであった。彼は、「この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言った(ヨハネ3:29、30)。 DA 754.3

ヨハネは、信仰をもってあがない主を見た時、自己否認の高さにまで高められた。彼は人々を自分にひきつけようとしないで、むしろ彼らの思いをだんだん高めて、ついには彼らが神の小羊イエスに目を向けるようにした。彼自身は一つの声、荒野の叫びにすぎなかった。いま彼は、いのちの光であられるお方にすべての人の目が向けられるために、自分はよろこんで沈黙し、世間から忘れられることに甘んじた。 DA 754.4

神の使命者としての召しに忠実な人たちは自分にほまれを求めない。自分を愛する思いは、キリストへの愛によってなくなる。とうとい福音のみわざをさまたげるような対抗意識は何もない。彼らは、バプテスマのヨハネのように、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とのべつたえることが自分の働きであることをみとめる(ヨハネ1:29)。彼らはイエスを高め、そしてイエスとともに人間性が高められる。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』」(イザヤ57:15)。 DA 754.5

おのれをむなしくした預言者ヨハネの魂は、神からの光に満たされていた。救い主のみ栄えのためにあかしした時、彼のことばは、キリストご自身がニコデモとの会見の時に語られたことばとほとんどそっくりであった。ヨハネは、「上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのも のの上にある。……神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである」と言った(ヨハネ3:31、34)。キリストは、「わたしは……わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである」と言うことがおできになった(ヨハネ5:30)。「あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」とキリストに言われている(ヘブル1:9)。天父は、「聖霊を限りなく賜うからである」(ヨハネ3:34)。 DA 754.6

キリストに従う者たちもこれと同じである。われわれは、よろこんでおのれをむなしくする時にのみ天の光を受けることができる。われわれは、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせることに同意しないかぎり、神のご品性を認識することも、信仰によってキリストを受け入れることもできない。これをなす者にはすべて、聖霊が無制限に与えられる。「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである」(コロサイ2:9、10)。 DA 755.1

ヨハネの弟子たちは、人々がみなキリストのもとに行っていると告げたが、ヨハネはもっとはっきりした見通しをもって、「だれもそのあかしを受けいれない」と言った(ヨハネ3:32)。キリストを罪からの救い主として信じようとする者はほとんどなかった。しかし「そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。」「み子を信じる者は永遠の命をもつ」(ヨハネ3:33、36)。キリストのバプテスマとヨハネのバプテスマのどちらが罪からきよめるかということは議論の必要がない。魂にいのちを与えるのはキリストの恵みである。キリストを離れては、バプテスマは、他の儀式と同じように、無価値な形式である。「御子に従わない者は、命にあずかることがない」(ヨハネ3:36)。 DA 755.2

キリストの働きの成功を、バプテスマのヨハネはこのようによろこんで受け取っていたが、その成功は工ルサレムの当局者たちにも伝えられた。祭司たちとラビたちは、人々が会堂を去って荒野へ集まって行くのを見て、ヨハネの勢力をねたんでいた。ところがそれよりももっと大きな力で群衆をひきつけるお方がここにおられるのだった。イスラエルのこれらの指導者たちは、ヨハネのように、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いたくなかった(ヨハネ3:30)。彼らは、民を自分たちから引き離している働きをやめさせるために、新しい決意をもって立ちあがった。 DA 755.3

イエスは、彼らがご自分の弟子たちとヨハネの弟子たちとの間にみぞをつくるためには努力を惜しまないことをご存じだった。イエスは、かつてこの世に与えられた最も偉大な預言者の1人を吹き倒すような嵐が迫っていることを知っておられた。誤解と不和のあらゆる機会を避けようと望んで、キリストは静かにご自分の働きをやめてガリラヤに退かれた。われわれもまた、真理に忠実である一方では、不和と誤解にいたるかも知れないようなことはすべて避けるようにすべきである。なぜなら、そうしたことが起こるといつでも、その結果は魂が失われることになるからである。われわれは、不和を生ずる恐れのある事情が起った時にはいつでも、イエスとバプテスマのヨハネの模範にならわねばならない。 DA 755.4

ヨハネは改革者として先頭に立つように召されていた。そのためにヨハネの弟子たちは、働きの成功が彼の骨折りによってきまるかのように思い、ヨハネが神の働きのうつわにすぎないという事実を見落して、注意を彼に向ける危険があった。しかしヨハネの働きは、キリスト教会の土台を置くのに十分ではなかった。彼が自分の使命を果たした時、彼のあかしでは達成できなかったほかの働きがなされるのであった。彼の弟子たちはこのことを理解していなかった。キリストがおいでになって、この働きに着手された時、彼らはねたみと不満とを感じた。 DA 755.5

いまもこれと同じ危険がある。神はある働きをさせるためにある人を召される。そしてその人がその働きをなす能力があるところまで仕事を進めると、主はこんどは他の人を用いてその働きをさらに進められる。だがヨハネの弟子たちのように、多くの者は、そ の働きの成功が最初の働き人によってきまるかのように思うのである。注意は神よりも人に向けられ、ねたみが入りこみ、こうして神の働きがさまたげられる。このように不当にほまれを受けた当人は、自信をいだくように誘惑を受ける。彼は自分が神に依存していることをみとめない。人々は、人間の指導を信頼するように教えられ、こうして彼らは誤りに陥り、神から離れさせられる。 DA 755.6

神の働きには人間の肖像や刻印はおされない。主は時々、別のうつわを持ってこられるが、その人を通して神のみこころは最もよく成就されるのである。おのれを低くして、バプテスマのヨハネのように、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と心から言うことのできる者はさいわいである(ヨハネ3:30)。 DA 756.1