各時代の希望
第12章 試み
本章はマタイ4:1~11、マルコ1:12、13、ルカ4:1~13に基づく DA 719.1
「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を……御霊にひきまわされ」た(ルカ4:1、2)。マルコのことばはもっと意味が深い。「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは40日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた」「そのあいだ何も食べ」られなかった(マルコ1:12、13、ルカ4:2)。 DA 719.2
イエスが試みられるために荒野へ導かれた時、彼は神のみたまによって導かれたのであった。イエスはご自分から試みを招かれなかった。イエスが荒野へ行かれたのは、1人になって、ご自分の使命と働きとを熟考するためであった。断食と祈りとによって、イエスはご自分がたどらねばならない血みどろの道のために、準備されるのであった。しかしサタンは、救い主が荒野へ行かれたことを知って、これこそイエスに近づく最上の時だと思った。 DA 719.3
世の重大な形勢は、光の君と暗黒の王国の指導者との争闘にかかっていた。人を罪に誘惑してから、サタンはこの地上を自分のものとして主張し、自らこの世の君と称した。彼は人類の父母を自分の性質に従わせたので、ここに自分の王国を築こうと考えた。彼は、人類が彼を自分たちの君主にえらんだと宣言した。人類を支配することによって、彼はこの世の主権を保った。キリストはサタンの主張が誤りであることを証明するためにおいでになった。人の子として、キリストは神に対する忠誠を保たれるのであった。そのことによって、サタンは人類を完全に支配していないこと、世に対する彼の主張はうそであることが示されるのであった。サタンの権力から救われたいと望む者はみな自由にされるのであった。罪のためにアダムが失った主権は回復されるのであった。 DA 719.4
エデンで、蛇に向かって、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」と宣告されて以来、サタンは世に対する絶対的な支配力を持つことができないことを知っていた(創世記3:15)。人類の中には、サタンの主権に抵抗する一つの力が働いているのがみられた。非常な興味をもってサタンは、アダムとその息子たちがささげるいけにえを見守った。このような儀式の中に、彼は地と天との間の交わりの象徴を認めた。彼はこの交わりをたち切ることにとりかかった。サタンは神の悪口を言い、救い主をさし示している儀式を曲解させた。人類は、自分たちが滅びるのを喜ぶお方として神を恐れるようになった。神の愛をあらわすはずだったいけにえが、神の怒りをなだめるためだけにささげられた。サタンは自分の支配を人々におしつけるために、人々の悪い欲望をかきたてた。書かれた神のみことばが与えられた時、サタンは救い主の来臨についての預言を研究した。サタンは、キリストがこられた時、人々がキリストをこばむように、これらの預言について人々を盲目にするために、各時代にわたって働いた。 DA 719.5
イエスがお生れになった時、サタンは彼の主権について反論するために神から任命されたお方がこら れたことを知った。生まれたての王の権威について証言した天使たちのことばに、サタンはふるえた。サタンは、キリストが天父のいとし子として天で占めておられた立場をよく知っていた。神のみ子が人としてこの世においでになったということが、彼の心に驚きと不安とを満たした。彼はこの大きな犠牲の奥義をはかり知ることができなかった。彼の利己的な魂はあざむかれた人類へのこのような愛を理解することができなかった。天の栄光と平和、神との交わりの喜びは、人間にはかすかにしか理解されていなかったが、おおうことをなすケルビムであったルシファーにはよくわかっていた。天を追われてから、サタンは、ほかの者たちを自分と同じように堕落させることによって報復しようと決心していた。人々に天の事物を軽視させ、心を地上のものに向けさせることによって、彼はこのことをするのであった。 DA 719.6
天の司令官が人々の魂をご自分の王国に導かれるには妨害がないわけではなかった。彼は、ベッレヘムで赤ん坊だった時から、たえずサタンに攻撃された。神のみかたちは、キリストのうちにはっきりとあらわれていたので、キリストを征服することが、サタンの会議できまった。どんな人間もこの世に生まれて、欺瞞者の力からのがれることはできなかった。悪の同盟勢力はイエスとの戦いに従事し、できるならばイエスにうち勝とうとして、イエスの道に殺到した。 DA 720.1
救い主のバプテスマの時、サタンはその目撃者たちの中にいた。サタンは天父の栄光がみ子をおおっているのを見た。彼はエホバのみ声がイエスの神性を証明するのを聞いた。アダムが罪を犯して以来、人類は神との直接の交わりから断たれ、天と地との交わりはキリストを通して行われていた。しかしいまイエスが「罪の肉の様」をとっておいでになったので、天父は自らお語りになった(ローマ8:3)。神は、以前にはキリストを通して人類と交わられたが、こんどはキリストのうちにあって人類と交わられた。サタンは、神が罪を憎まれるあまり、天と地が永遠に隔離されるように望んでいた。だがいま神と人との間のつながりが回復されたことが明らかになった。 DA 720.2
サタンは自分が征服するか征服されるかのどちらかであることをさとった。戦いの形勢は味方の天使たちにまかせておけないほど重大であった。彼が自ら戦いを指揮しなければならない。背信の全精力が神のみ子に向かって集中された。キリストは地獄のあらゆる武器のまととなられた。 DA 720.3
キリストとサタンとのこの戦いを、自分自身の生活に特別な関係がないもののように見ている人が多い。彼らにとってこの戦いは興味がない。だがどの人の心の領分でもこの争闘がくりかえされているのである。人は、悪の隊列から離れて、神の奉仕に加わろうとする時、必ずサタンの攻撃に遭遇する。キリストが抵抗された試みは、われわれが抵抗するには非常に困難にみえる試みである。キリストの品性がわれわれの品性にまさっているだけ余計にキリストに対する試みは強かった。世の罪という恐るべき重さを身に負って、キリストは、食欲について、世への愛着について、知りながら罪を犯すようになる自己表示への愛着について、試みに耐えられた。これらはアダムとエバを敗北させた試みであり、また容易にわれわれをうち負かす試みである。 DA 720.4
サタンは、神の律法が不公正で従うことのできないものであるという証拠として、アダムの罪を指摘していた。キリストは、われわれの人性をもって、アダムの失敗をあがなわれるのであった。しかし、アダムが誘惑者から攻撃された時には、彼には罪の影響がすこしもなかった。彼は完全な人間としての力をもっていて、心もからだも活力に満ちていた。彼はエデンの栄光にとりかこまれ、天使たちと毎日交わっていた。イエスがサタンと争うために荒野へ入って行かれた時には、アダムの時のようではなかった。4000年間にわたって、人類は体力も知力も道徳価値も低下していた。しかもキリストは退歩した人類の弱さを身につけられた。こうすることによってのみキリストは人類を堕落の一番深い底から救うことがおできになるのであった。 DA 720.5
キリストが試みに負けることは不可能だったのだと主張する人が多い。もしそうなら、キリストはアダム の立場に置かれることはできなかったし、アダムが得られなかった勝利を得ることもおできにならなかったであろう。もしわれわれが何らかの意味でキリストよりもきびしい戦いをたたかわねばならないとしたら、キリストはわれわれを一救うことがおできにならないであろう。だが救い主は、罪の負債ごと人性をおとりになった。彼は試みに負ける可能性のまま人間の性質をおとりになった。キリストが耐えられなかったことで、われわれの耐えねばならないことは何一つない。 DA 720.6
エデンのアダム、エバと同じように、キリストにとっても、食欲が最初の大きな試みの基盤であった。堕落がはじまったちょうどその点から、われわれのあがないの働きは始められねばならない。アダムが食欲をほしいままにして堕落したように、キリストは食欲を制することによって勝利なさらねばならない。 DA 721.1
「40日40夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。』イエスは答えて言われた、『「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある』」(マタイ4:2~4)。 DA 721.2
アダムの時からキリストの時まで、放縦のために食欲と情欲の力が増大し、ついにはそうした欲がほとんど無制限な支配力を持つまでになっていた。こうして人々は、品性が低下し、病気にかかり、独力で勝利することは不可能だった。キリストは、人のために最もはげしい試みに耐えて勝利された。彼は、われわれのために、飢えや死よりも強い自制心を働かせられた。そしてこの最初の勝利の中に、暗黒の勢力とわれわれとのすべての戦いにみられるいろいろなほかの問題が含まれていた。 DA 721.3
イエスが荒野へ入って行かれた時、彼は天父の栄光につつまれた。神との交わりに心を奪われておられたので、イエスは人間の弱さから高められた。しかし栄光が去ると、彼は試みと戦うために残された。試みは刻刻にイエスに迫っていた。イエスの人間としての性質は、彼を待ち受けている戦いにしりごみした。40日の間、彼は断食し、祈られた。飢えのために弱くなり、衰え、精神的苦悩のために疲れ、やつれはてて、「彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていた」(イザヤ52:14)。いまこそサタンの機会であった。いまこそキリストにうち勝てると、サタンは想像した。 DA 721.4
救い主の祈りに答えるかのように、天使の姿をした者が天から救い主のもとにやってきた。彼は、キリストの断食が終わったことを宣言するようにと神から任務をさずけられてきたと主張した。アブラハムがイサクをささげようとした時、神が天使を送ってその手をとどめられたように、天父はキリストが自ら進んで血染めの道にはいられたことに満足されて、キリストを救うために天使をおつかわしになったというのが、イエスにもたらされたことばであった。救い主は飢えのために弱り、食物を切望しておられた。その時突然にサタンがイエスを襲ったのである。荒野に点々と横たわって、あたかもパンのようにみえる石を指さして、誘惑者は、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と言った(マタイ4:3)。 DA 721.5
彼は光の天使をよそおっているが、「もしあなたが神の子であるなら」というこの最初のことばにその本性があらわれている。ここに信用しない気持がほのめかされている。もしイエスがサタンの言う通りのことをされたら、それは疑いの気持を認めたことになる。誘惑者は世の初めに人類をうまく堕落させたのと同じ手段でキリストを倒そうとはかる。エデンの園でサタンは何と巧妙にエバに近づいたことだろう。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」(創世記3:1)。ここまでは、誘惑者のことばは本当であった。しかしこのことばを語る彼の調子の中に、神のみことばに対する軽蔑がかくされていた。かくされた否定、神の真実への疑いがあった。サタンは、神がみことば通りにはなさらないだろう、こんな美しい果実を与えないでおくことは人に対する神の愛とあわれみに反することだ という考え方を、エバの心に吹きこもうとした。同じようにいま誘惑者は、彼自身の感情をキリストに吹きこもうとする。「もしあなたが神の子であるなら」。このことばはサタンの心に苦痛を与えた。彼の声の調子には強い懐疑心があらわされている。神がご自分の子をこんな目にあわされるだろうか。神はみ子を食物もなく、友もなく、慰めもないままに野獣といっしょに荒野に放り出したままでおかれるだろうか。神はみ子をこんな目にあおせるつもりではなかったのだと、サタンはほのめかす。「もしあなたが神の子であるなら」このさし迫った飢えからまぬかれることによって、あなたの力を示しなさい。この石がパンとなるように命じなさい。 DA 721.6
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との天の声はまだサタンの耳になりひびいている(マタイ3:17)。しかし彼は、キリストにこのあかしを信じさせまいと決心していた。神のこのみことばは、キリストにとってご自分の聖なる使命についての保証であった。 DA 722.1
キリストは1人の人間として人々の中に住むためにおいでになったが、キリストが天とのつながりをもっておられることを宣言したのはこのことばであった。キリストにこのことばを疑わせようとするのがサタンの目的だった。もし神に対するキリストの確信を動揺させることができれば、争闘の全体を通じて勝利は自分のものになるということをサタンは知っていた。そうしたら、サタンはイエスにうち勝つことができるのである。サタンは、キリストが落胆と極度の空腹に迫られて、天父への信仰を失い、ご自分のために奇跡を行われるように望んだ。もしキリストがそうされたら、救いの計画はこわれてしまったのである。 DA 722.2
サタンと神のみ子が争闘において初めて顔を合わせた時、キリストは天使軍の司令官であった。そして天の反乱の指導者サタンは追い出された。いま2人の立場は反対になっているようにみえ、サタンは有利に見える自分の立場を利用しようとする。天の最も有力な天使の1人が天から追放されたと、彼は言う。イエスの様子は、神から見放され、人から見捨てられたその堕落天使であることを示しているというのである。もしイエスが神のみ子なら、「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」とのサタンの主張を、奇跡を行うことによって証明することができるだろう(マタイ4:3)。このような創造力の行為は神性についての決定的な証拠となり、争闘を終わらせるであろうと、誘惑者は主張する。 DA 722.3
イエスは心の戦いなしにはこの大欺瞞者のことばをだまってきくことがおできにならなかった。しかし神のみ子はご自分の神性をサタンに証明したり、ご自分の屈辱の理由を説明したりなさらないのであった。反逆者の要求に応じてみても、入類のためにも、あるいは神のみ栄えのためにも、何の益も得られない。もしキリストが敵のそそのかしに応じられたら、サタンはさらに、あなたが神のみ子であると信じられる証拠を示せと言っただろう。証拠はサタンの心の中にある反逆の力をうち破るのに役立たなかったであろう。だからキリストはご自分の利益のために神の力をお用いにならないのであった、キリストはわれわれが試みに会わねばならないのと同じように試みに会い、信仰と服従の模範を示すために、おいでになったのである。この荒野においても、またその後の地上生活のどんな時にも、キリストはご自分のために奇跡を行われなかった。イエスのすばらしいみわざはみな他人の益のためであった。イエスは初めからサタンを認めておられたが、挑発されて彼と論争するようなことをなさらなかった。天からの声の記憶に力づけられて、キリストは天父の愛に信頼しておられた。彼は試みにかかわり合おうとなさらなかった。 DA 722.4
イエスは聖書のみことばをもってサタンに応じられた。「こう書かれている」と、イエスは言われた。試みのたびに、イエスの戦いの武器は神のみことばであった。サタンはキリストに神性の証拠として奇跡を求めた。しかしどんな奇跡よりも力のあるもの、すなわち「主はこう言われる」ということばに対する固い信頼こそ反論のできない証拠であった。キリストがこの立場を持続されるかぎり、誘惑者は勝つことができなかった。 DA 722.5
キリストが最もはげしい試みに攻められたのは、最も弱っておられた時であった。こうしてサタンは、勝とうと思った。この方法によって、彼は人類に勝利してきた。体力が衰え、意志力が弱り、信仰が神のうちに安住しなくなった時、正しいことのために長い間勇敢に戦ってきた人々が征服された。モーセはイスラエルの40年間の放浪に疲れはてていた。その時、彼の信仰は、一瞬無限の力を手放した。彼はちょうど約束の地の境界で失敗した。エリヤもそうだった。彼はかつてアハブ王の前に恐れるところなく立ち、450人のバアルの預言者たちを先頭にしたイスラエルの全国民を前にして立った。偽預言者たちが殺され、民が神への忠誠を宣言したあのカルメル山上の恐ろしい日の後に、エリヤは偶像礼拝者のイゼベルにおどかされていのちからがら逃げた。このようにサタンは人間の弱味につけこんできた。今後も彼は同じ方法で働くであろう。雲におおわれ、周囲の事情に困惑し、あるいは貧乏や困苦に苦しめられている時にはいつでも、サタンは試み、困らせようと待ちかまえている。彼はわれわれの品性の弱点を攻撃する。彼は、神がそのような物事の状態が存在することをおゆるしになったことについて、神に対するわれわれの信頼心を動揺させようとする、われわれは神を信頼しないように、神の愛を疑うように誘惑される。サタンは、キリストのところへやってきたように、しぱしばわれわれのところへやってきて、われわれの欠点や弱さを目の前に並べたてる。彼は、魂を落胆させ、神に対するわれわれの信頼心を滅ぼそうと望んでいる。そうすれば確実に魂を餌食とすることができるのである。もしわれわれがイエスと同じようにサタンに対するならば、われわれは多くの敗北からまぬかれるのである。敵とかかわり合うことによって、われわれは相手に有利な立場を与えるのである。キリストは誘惑者に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われたが、それは、それより1400年前にキリストがイスラエルに語られたことばのくりかえしであった(マタイ4:4)。「あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを導かれた……主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口からでるすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2、3)。荒野で食物を得る方法が全くなくなった時、神はご自分の民に天からマナをお送りになった。そしてたえず十分な食物が与えられた。このような食物が与えられたのは、人々が神によりたのみ、神の道を歩むかぎり、神は彼らを見捨てられないということを教えるためであった。救い主は、ご自分がイスラエルにお教えになった教訓をいま実行された。神のみことばによって、助けがヘブルの軍勢に与えられたが、同じみことばによってイエスにも助けが与えられるのであった。イエスは救いがもたらされる神の時を待たれた。彼は神に従って荒野におられたので、サタンのことばに従って食物を得ようとされなかった。宇宙の注視の中で、イエスは神のみこころからすこしでも離れるよりは、どんな目にでも会う方がわざわいでないということを証明された。 DA 723.1
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)。キリストに従う者にとって、神に仕えることと世俗の事業を進めることとが両立しない場合がしばしばある。おそらく神のあるはっきりした戒めに従えば生活の手段がたたれるようにみえるであろう。サタンは、その人に良心的な確信を犠牲にしなければならないと信じこませようとするであろう。だがこの世において信頼できる唯一のものは神のみことばである。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)。この世においてさえ、天の父なる神のみこころから離れることはわれわれのためにならない。神のみことばの力を知る時、われわれは食物を手に入れたり、自分のいのちを救ったりするためにサタンのそそのかしに従うようなことをしない。われわれの唯一の質問は、神のご命令は何か、神の約束 は何かということである。これがわかれば、われわれはそのご命令に従い、その約束に信頼するのである。 DA 723.2
サタンとの最後の大争闘において、神に忠実な者は、この世の一切の支持がたたれるのを見る。彼らは地上の権力に従うために神の律法を破ろうとしないので、売ることも買うことも禁じられる。ついには、彼らを殺せとの布告が出される(黙示録13:11~17参照)。しかし忠実な者には、「このような人は高い所に住み、堅い岩はそのとりでとなり、そのパンは与えられ、その水は絶えることがない」との約束が与えられている(イザヤ33:16)。この約束によって神の子らは生きるのである。この地上がききんに荒らされる時、彼らは養われる。「彼らは災の時にも恥をこうむらずききんの日にも飽き足りる」(詩篇37:19)。預言者ハバククは、その報難の日を予期したが、彼のことばは教会の信仰を表わしている。「いちじくの木は花咲かずぶどうの木は実らずオリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜずおりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ」(ハバクク3:17、18)。 DA 724.1
主の最初の大きな試みから学ぶべきすべての教訓の中で、食欲と情欲との抑制に関係のあるものほど重要なものはない。各時代を通じて、肉の性質に訴える試みは、人類を腐敗させ堕落させるのに非常に効果的であった。サタンは、はかり知れない賜物として神が人間にお与えになった知的道徳的能力を滅ぼすために、不節制を通して働く。こうして人間は永遠の価値をもった事物を認識することができなくなる。肉欲の放縦を通して、サタンは魂から神のみかたちの面影をすっかり消し去ろうとする。 DA 724.2
キリストの初臨の時存在していた無制限な放縦と、その結果である病気と堕落とは、キリストの再臨前にはなはだしい悪とともにもう1度みられる。キリストは、世の状態がノアの洪水(こうずい)前の時代や、ソドム、ゴモラの時代と同じようになると断言しておられる。心の中に思うこと考えることはみないつも悪いことばかりである。われわれはいまその恐るべき時の間近に生きているので、救い主の教訓をしっかり心にきざまねばならない。キリストが耐えられた言いようのない苦悩によってのみ、われわれはでたらめな放縦の悪を評価できるのである。キリストの模範は、食欲と情欲とを神のみこころに従わせることによってのみわれわれは永遠のいのちの望みを持つことができるということを明らかにしている。 DA 724.3
自分自身の力では、われわれの堕落した性質のやかましい要求をこばむことができない、この道から、サタンは試みをもってやってくる。キリストは敵が、遺伝的な弱点に乗じ、神に信頼をおいていない人々をいつわりのほのめかしによって、わなにおとし入れるためにどの人のところにもやってくることをご存じであった。そこで主は、人の通らねばならない道を自らお通りになって、われわれが勝利する道をお備えになった。サタンとの戦いにわれわれが不利な立場に立つことは主のみこころではない。主はわれわれが蛇の攻撃におびえたり落胆したりすることを望まれない。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と主は言われる(ヨハネ16:33)。 DA 724.4
食欲の力と戦っている者は試みの荒野における救い主を見なさい。「わたしは、かわく」と叫んで、十字架上に苦しまれたイエスを見なさい(ヨハネ19:28)。彼はわれわれが耐えることのできるすべてのことに耐えられた。彼の勝利はわれわれのものであるイエスは天父の知恵と力にたよられた。彼は、「主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。……わたしは決してはずかしめられないことを知る。……見よ、主なる神はわたしを助けられる」と断言しておられる。イエスはまたご自身の模範をさし示して、われわれにこう言われる、「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか」(イザヤ50:7~10)。 DA 724.5
「この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」とイエスは言われた(ヨバネ14:30)。イエスの中にはサタンの誰弁(きべん) に応ずるものは何もなかった。イエスは罪に同意されなかった。一つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。イエスは聖霊の内住によって戦いに備えられた。しかもイエスはわれわれを神のこ性質にあずかる者とするためにおいでになったのである。われわれが信仰によってキリストにつながっているかぎり、罪はわれらの上に権をとることはできない。神はわれわれが品性の完全に到達できるように、われらの中にある信仰の手を求め、それをみちびいてキリストの神性をしっかり把握(はあく)させてくださるのである。 DA 724.6
しかもキリストは、これが達成される方法をわれわれにお示しになった。イエスはサタンとの戦いにどんな手段で勝利されただろうか。神のみことばによってである。みことばによってのみ彼は試みに抵抗することがおできになった。「こう書かれている」とイエスは言われた。「尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」(Ⅱペテロ1:4)。 DA 725.1
神のみことばの中にある約束はどれもみなわれわれのものである。「神の口から出る一つ一つの言」によってわれわれは生きるのである(マタイ4:4)。試みに攻撃された時には、周囲を見たり、自己の弱さを見たりしないで、みことばの力を見なさい。その力はすべてあなたのものである。詩篇記者はこう言っている、「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」「あなたのくちびるの言葉によって、わたしは不法な者の道を避けました」(詩篇119:11、17:4)。 DA 725.2