各時代の希望

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第11章 バプテスマ

本章は、マタイ3:13~17、マルコ1:9~11、ルカ3:21、22に基づく DA 716.3

荒野の預言者とその驚くべき布告についての知らせは、ガリラヤじゅうにひろがった。彼の叫びは、どんな遠い山村の百姓にも、海辺の漁師たちにも伝わり、単純で熱心なこれらの人々の心の中に最も真実な反響がみられた。ナザレでもヨセフのものであった大工の仕事場にこの話がつたえられ、イエスは神の召しを認められた。イエスの時がきていた。毎日の労働から離れて、イエスは母に別れを告げ、ヨルダン川に集まって行く同胞の足跡に従われた。 DA 716.4

イエスとバプテスマのヨハネは従兄弟(いとこ)で、2人は誕生の事情によって密接な関係があった。だが2人ともまだ互いに面識はなかった。イエスはガリラヤのナザレで生活され、ヨハネはユダヤの荒野で生活していた。まったく異なった環境の中にあって、彼らは世間から遠ざかって生活し、お互いの連絡はなかった。このことは摂理のうちに定められていた。2人がお互いの主張を支持するために互いにしめし合わせたと非難される根拠は何もないようにされた DA 716.5

ヨハネは、イエスの誕生をさし示したいろいろな出来事をよく知っていた。彼は、イエスが子供のころエルサレムにおいでになったことや、その時ラビの学校で起こったことをきいていた。彼はイエスの罪のない生活を知り、イエスがメシヤであると信じていたが、イエスがメシヤであることについて、絶対的な確証を持っていたわけではなかった。イエスが長年人目につかずにすごされ、ご自分の使命について特別な証拠をお示しにならなかったことが、彼は本当に約束されたお方だろうかという疑問の根拠となった。しかしバプテスマのヨハネは、神がすべてを明らかにされる時があることを信じ、信仰をもって待った。メシヤがヨハネの手でバプテスマを受けることを求められ、その時彼が神であられる証拠が与えられるということが、ヨハネに示されていた。このようにしてヨハネはメシヤを民の前に示すことができるのであった。 DA 716.6

イエスがバプテスマを受けにおいでになった時、ヨハネはイエスのうちにこれまでどんな人にもみたことのない純潔な品性をみとめた。イエスのこ臨在の雰囲気そのものが神聖でおそれ多い気持を感じさせた。ヨルダン川のヨハネのまわりに集まってきた多くの人々の中に、彼は暗い罪悪の話をきき、数知れない罪の重荷におしつけられている魂を見た。しかしこんなに神聖な雰囲気をただよわせている人にはこれまで会ったことがなかった。こうしたことはすべてメシヤについてヨハネに示されていたところと一致していた。しかしヨハネはイエスのたのみに応ずることをちゅうちょした。罪人である自分がどうして罪のないお方にバプテスマを施すことができようか。悔い改める必要のないお方が、不義を告白して洗いきよめる儀式をどうしてお受けになることがあろうか。 DA 717.1

イエスがバプテスマをたのまれると、ヨハネはおしとどめて「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」と叫んだ(マタイ3:14)。イエスは、きっぱりとしかしやさしい威厳をもって、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と答えられた(マタイ3:15)。そこでヨハネは譲歩して、救い主をヨルダン川にみちびき、水の下に沈めた。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊(みたま)がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった」(マタイ3:16)。 DA 717.2

イエスは、ご自分のために、罪の告白としてバプテスマをお受けになったのではなかった。イエスはご自分を罪人と同じにごらんになって、われわれのとるべき手段をとられ、われわれのなすべきわざをされたのであった。バプテスマ後のイエスの苦難と忍耐の一生もまたわれわれの模範であった。 DA 717.3

水からあがってこられると、イエスは祈りのために川の岸にひざまずかれた。一つの新しい重要な時代がイエスの前に開かれようとしていた。イエスはいきもっと広い舞台に立って、ご自分の生涯の戦いに入ろうとしておられた。イエスは平和の君であったが、彼がこられたことは宣戦布告のようなものであったにちがいない。イエスが建設するためにおいでになった王国は、ユダヤ人が望んでいた王国とは正反対であった。イスラエルの儀式と制度の基であられたお方が、その敵また破壊者としてみられるようになるのである。シナイ山で律法を布告されたお方が、違反者として宣告されるのである。サタンの力をうち破るためにおいでになったお方が、ベルゼブルと非難されるのである。地上ではだれ1人イエスを理解した者がなく、公生涯の間もなお1人で歩まれねばならない。イエスの一生の間、その母と兄弟たちは彼の使命を理解しなかった。弟子たちさえ、イエスを理解しなかった。イエスは、神と一つのお方として、永遠の光のうちに住んでおられたが、地上の生涯は孤独のうちに送られねばならない。 DA 717.4

イエスは、われわれと一つになって、われわれの不義と苦悩の重荷を負われねばならない。罪のないお方が罪の屈辱を感じられねばならない。平和を愛されるお方が争いと共に住み、真実が虚偽と、純潔が邪悪と共に住まねばならない。律法を犯したために生じたあらゆる罪、あらゆる不和、あらゆるけがれた欲がイエスの心を苦しめた。 DA 717.5

イエスは1人で道を歩み、1人で重荷を負われねばならない。栄光をぬいで、人間の弱さを着られたイエスの上にこの世のあがないがおかれねばならない。イエスはすべてそうしたことを見、また感じられたが、彼の決意は固かった。堕落した人類の救いがイエスの腕にかかっていたので、彼は手をさしのべて大能なる愛の神のみ手をにぎられた。 DA 717.6

救い主が魂をそそいで祈られる時、その目は天を見通しておられるようにみえる。罪が人々の心を固くしたことも、彼らがイエスの使命をみとめて救いの賜物を受けることが困難なこともイエスはよくご存じである。彼らの不信にうち勝ち、サタンが彼らをとりこにしている鎖をたち切り、彼らのために破壊者を征服する力を、イエスは天父に懇願される。み子イエスのうちにある人性を神が受け入れられるという証拠を、 イエスはお求めになる。 DA 717.7

天使たちはこのような祈りをこれまで聞いたことがなかった。彼らは、愛する指揮官イエスに、保証と慰めのメッセージを伝えたいと熱望する。だがそれはできない。天父がご自身でみ子の祈願に答えられるのである。み座から直接に神の栄光が輝き出る。天が開け、いとも清い光がはとのような形をなして、救い主の頭上にくだる。それは柔和で心のへりくだったお方であるイエスにふさわしい象徴である。 DA 718.1

ヨルダン川のおびただしい群衆の中で、ヨハネ以外にはこの天の光景をみとめた者は、ほとんどいなかった。しかし神のこ臨在の荘厳さが会衆の上にとどまった。人々はだまってキリストをみつめていた。そのお姿は神のみ座をいつもとりまいている光を浴びていた。上を向かれたイエスのお顔は、これまで人の顔にみられたことのない栄光に輝いた。開かれた天から一つの声がくだって、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言うのがきこえた(マタイ3:17)。 DA 718.2

この確認のことばは、その光景を見た人々のうちに信仰心を起こし、また使命のために救い主を力づけるために与えられたのであった。不義の世の罪がキリストの上におかれたにもかかわらずまた屈辱をしのんでわれわれの堕落した性質をおとりになったにもかかわらず天からの声は、イエスを永遠なる神のみ子と宣言した。 DA 718.3

イエスが嘆願者としてひざまずき、涙ながらに天父の是認を懇願しておられるのを見て、ヨハネは深く感動した。神の栄光がイエスをとりかこみ、天からの声がきこえた時、ヨハネは神が約束しておられたしるしをみとめた。自分がバプテスマをさずけたお方が世のあがない主であることを彼は知った。聖霊がヨハネの上に下った。彼は手をさしのべてイエスを指さし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫んだ(ヨハネ1:29)。 DA 718.4

聴衆の中の誰も、またこのことばを語った彼自身さえ、「神の小羊」というこのことばの重大な意味を認めていなかった。モリア山上で、アブラハムは息子から、「燔祭の小羊はどこにありますか」ときかれた。父は「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えた(創世記22:7、8)。そうして、イサクの代りに天から備えられた牡(お)羊に、アブラハムは人類の罪のために死なれるお方の象徴を見た。聖霊はイザヤを通し、例を用いて、救い主のことを、「ほふり場にひかれて行く小羊のように」「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」と預言した(イザヤ53:7、6)。しかしイスラエルの民はこの教訓を理解していなかった。彼らの多くは、いけにえの献げ物について、異教徒たちがいけにえについて考えているのとまったく同じように、神をなだめるための献げ物という考え方をしていた。神は、神と人々をやわらがせる賜物が神ご自身の愛から与えられることを彼らに教えたいと望まれた。 DA 718.5

ヨルダン川で、イエスに「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われたことばは、全人類を含んでいる(マタイ3:17)。神はわれわれの代表者としてのイエスに語られた。どんなに罪や欠点をもっていても、われわれは無価値なものとして捨てられることはない。「神は愛するみ子によってわたしたちを受け入れてくださった」(エペソ1:6・英語訳聖書)。キリストの上にくだった栄光は、われわれに対する神の愛の保証である。それは祈りの力について、すなわち人間の声が神の御耳にとどくことと、われわれの祈願が天の宮廷に受け入れられることとを告げている。罪によって、地は天から切り離され、天との交わりから遠ざけられた。だがイエスは地をもう1度栄光の天と結びつけられた。イエスの愛は人類をとりまき、最高の天に達した。開かれた門から救い主の頭上にさした光が、試みに抵抗するために助けを祈るとき、われわれの上にさすのである。イエスに語られたみ声が、信じている一人ひとりにむかって「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われるのである。 DA 718.6

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼 に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(Ⅰヨハネ3:2)。われらのあかない主が道をお開きになったので、どんなに罪深い者も、どんなに困っている者も、またどんなにしいたげられ、あなどられている者も、天父に近づくことができる。だれでもみな、イエスが備えに行かれた住居をわが家とすることができる。「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。……見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」(黙示録3:7、8)。 DA 718.7