各時代の希望

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第13章 勝利

本章はマタイ4:5~11、マルコ1:12、13、ルカ4:5~13に基づく DA 725.3

「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。 DA 725.4

「神はあなたのために御使たちにお命じになると、 DA 725.5

あなたの足が石に打ちつけられないように、 DA 725.6

彼らはあなたを手でささえるであろう」 DA 725.7

と書いてありますから』」(マタイ4:5、6)。 DA 725.8

サタンはいま自分がイエスご自身の立場に立ってイエスに対しているつもりである。ずるい敵は神の口からでたみことばを自分から持ち出す。彼はまだ光の天使の様子をしていて、自分が聖書に通じ、そこに書かれていることの意味を理解していることを明らかにする。前にイエスがご自分の信仰を裏づけるために神のみことばを用いられたように、いま誘惑者サタンは自分の欺瞞を有利にするために神のみことばを用いる。サタンは、これまでイエスの忠誠をためしたにすぎないのだと主張し、いまイエスのしっかりした験をほめる。救い主が神への信頼を示されたので、サタンはイエスがご自分の信仰についてさらにほかの証拠を示されるようにすすめる。 DA 725.9

しかしふたたびその試みには、「もしあなたが神の子であるなら」という不信のほのめかしが前置きされている。キリストは、この「もし」に答えるように誘惑されたが、この疑いをほんの少しでも受け入れようとはされなかった。イエスは、サタンに証拠をみせるためにご自分のいのちを危険にさらそうとはされなかった。 DA 725.10

誘惑者サタンはキリストの人性につけこんで、キリストに故意の罪を犯させようと考えた。だが、サタンは誘惑することはできても、罪を犯すように強制することはできない。 DA 725.11

サタンはイエスに「下に飛びおりてごらんなさい」と言ったが、自分ではイエスを投げ落とすことができないことを知っていた。なぜなら神がイエスを救い出すために手をお出しになるからである。サタンはまたイエスに飛び下りるように強制できなかった。キリ ストが試みに同意されない限り、彼を敗北させることはできなかった。この世のどんな力も、あるいはよみのどんな力も、キリストを天父のみこころからすこしでも離れさせるように強制することはできなかった。 DA 725.12

誘惑者サタンはわれわれに悪をなすように強制することはできない。心がサタンの支配に屈しないかぎり、サタンはそれを支配することができない。サタンがわれわれの上に彼の力を働かせることができる前に、意志が同意し、信仰の手がキリストから離れねばならない。しかしわれわれの心のうちに宿っているあらゆる罪の思いはサタンに足場を与える。われわれが神の標準に達していない点はどれもみな開かれた戸であって、サタンはそこからはいってきてわれわれを誘惑し、破滅させるのである。われわれの側で失敗したり、敗北したりするたびに、われわれはサタンがキリストを非難する機会を与えるのである。 DA 726.1

サタンが、「あなたのために御使たちにお命じになる」との約束を引用した時、彼は「あなたの歩むすべての道」すなわち神のえらばれるすべての道において、「あなたを守らせられるからである」ということばをはぶいた(マタイ4:6、詩篇91:11)。イエスは服従の道からはずれることをこばまれた。イエスは、天父に対する絶対の信頼を表明される一方では、天父がイエスを死から救うために手をお出しにならねばならないような立場に自分からとびこもうとはされなかった。イエスはご自分の救助に神がおいでにならねばならないようなことになって、信頼と服従の模範を人に示すことに失敗するようなことは望まれなかった。 DA 726.2

イエスはサタンに、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」と断言された(マタイ4:7)。このことばは、イスラエルの民が荒野でのどがかわいて、モーセに水を要求し、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と叫んだ時に語られたことばである(出エジプト17:7)。 DA 726.3

神はそれまでイスラエル人のためにふしぎな方法で働かれたにもかかわらず、困難な時になると彼らは神を疑い、神が自分たちと共におられる証拠を要求した。彼らは不信のあまり神を試みようとした。サタンは、これと同じことをするようにキリストに強要していた。神はすでにイエスが神のみ子であることを証明された。それなのにいままたイエスが神のみ子である証拠を求めることは、神のみことばを試みる、すなわち神を試みることになる。また神が約束されなかったものを求めることもこれと同じである。それは明らかな不信であり、事実上神を試みていることになる。われわれは、神がみことばをなしとげてくださるかどうかをためすために祈願をささげるべきではなく、神がみことばをなしとげてくださるから、また神がわれわれを愛されるかどうかをためすためではなく、神がわれわれを愛されるから、祈願をささぐべきである、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)。 DA 726.4

だが信仰は決して独断的な信仰と関係がない。真の信仰を持っている者だけが独断的な信仰に対して安全である。なぜなら独断的な信仰はサタンから出た信仰のにせものだからである。信仰は神の約束をわがものとし、従順という実をむすぶ。独断的な信仰もまた約束をわがものにするが、サタンと同じように、これを罪とがの言い訳に使う。信仰があったら、アダムとエバは神の愛に信頼し、神の戒めに従ったのである。ところが独断的な信仰のために、彼らは神の律法を犯し、神の大きな愛によって自分の罪の結果から救われると信じた。憐れみが与えられる条件に従わないで天の神の恵みを要求するのは信仰ではない。真正の信仰は聖書の約束と条件とを土台にしている。 DA 726.5

サタンは、不信の念をひき起こすことに失敗した時、われわれを独断的な信仰におちいらせることに成功することがたびたびある。サタンは、われわれが不必要に誘惑の道に身をおくようにさせることができれは、勝利は自分のものであることを知っている。 DA 726.6

神は服従の道を歩む都誰でも守って下さ列その道から離れることはあえてサタンの側にはいって 行くことである。そこではわれわれは必ずつまずいてしまうのである。救い主は、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」とお命じになった(マルコ14:38)。瞑想と祈りとは、われわれが自分から危険の道にとびこまないようにする。こうしてわれわれは多くの敗北から救われるのである。 DA 726.7

しかし試みに攻められても、勇気を失ってはならない。困難な立場におかれると、われわれは神のみたまが導いておられるのだろうかと疑うことがたびたびある。だがサタンの試みを受けるためにイエスを荒野へみちびいたのは神のみたまであった。神がわれわれを試みに会わせられる時、神はわれわれの益のために達成すべきある目的を持っておられる。イエスは神の約束につけあがって自分から試みの中にとびこんだり、あるいは試みがやってきた時落胆してあきらめたりされなかった。われわれもまたそうでなければならない。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。神はこう言われる、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(Ⅰコリント10:13、論50:14、15)。 DA 727.1

イエスが第二の試みに勝利されたので、サタンはこんどは本性をあらわす。だが彼はひずめのある足とこうもりの翼をもった恐ろしい怪物として現れない。彼は、堕落しても、力のある天使である。彼は反逆の指導者、この世の神であると名のる。 DA 727.2

サタンはイエスを高い山の上につれて行き、あらゆる糊ごつつまれたこの世の王国を、パノラマの光景にしてイエスの前をすぎさらせた。大殿堂のそびえる都会、大理石の宮殿、肥沃(ひよく)な畑、実り豊かなぶどう園を太陽の光が照していた。悪の跡はかくされていた。さきほどまで陰気で荒涼とした景色をごらんになっていたイエスの目は、いまこのくらべるものもな嘆しさと繁栄の光景にそそがれた。 DA 727.3

そのとき誘惑者サタンの声がきこえた、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」(ルカ4:6、7)。 DA 727.4

キリストの使命は苦難を通してのみ成就することができるのだった。イエスの前には、悲しみと困難と戦いの人生と屈辱的な死があった。イエスは全世界の罪を負われねばならない。彼は天父の愛から離れることを忍ばれねばならない。いま誘惑者サタンは、自分が奪った権力を放棄しようと申し出た。キリストは、サタンの主権を承認することによって、ご自分の恐るべき将来からまぬかれることができるのだった。しかしそうすることは大争闘における勝利を放棄することであった。サタンが天で罪を犯したのは、神のみ子より高い位を占めようとしたからだった。いまサタンが勝つようなことがあれば、それは反逆が勝利することになる。 DA 727.5

サタンが、この世の王国と栄華は自分の手に渡されているのだから、自分は望むままに誰にでもこれを与えることができるのだと宣言した時、彼の言ったことは一部分しか真実でなく、また彼は自分自身の欺瞞の目的に役立てるためにそれを宣言したのだった。サタンの主権はアダムから横取りしたものであったが、アダムは創造主の代理者だった。アダムの支配は独自の支配ではなかった。地は神のもので、神は万物をみ子におまかせになっていた。アダムはキリストの支配下にあって統治するのであった。アダムが統治権をサタンの手に売り渡した時にも、キリストは依然として正当な王であられた。だから主は、ネブカデネザル王に、「……いと高き者が、人間の国を治めて、自分の意のままにこれを人に与え」と言われた(ダニエル4:17)。サタンは神のゆるしがある時だけ、その横取りした権威を行使することができる。 DA 727.6

誘惑者サタンがこの世の王国と栄華とをキリストに申し出た時、彼は、キリストがこの世の真の王であられることを放棄して、サタンの下で統治権を保たれるようにと申し出ていた。これはユダヤ人が望みを おいていたのと同じ統治権であった。彼らはこの世の王国を望んだ。もしキリストがこういう王国を彼らに与えることに同意されたら、彼らは喜んでキリストを受け入れたのである。だが罪ののろいが、そのあらゆるわざわいとともに、この世の上にあった。キリストは誘惑者サタンに、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と宣告された(マタイ4:10)。 DA 727.7

天で反逆した者によって、キリストを買収して悪の原則に服従させるために、この世の王国が提供された。しかしキリストは買収されなかった。彼は義の王国を建設するためにおいでになったのであって、ご自分の目的を放棄しようとされなかった。同じ試みをもってサタンは人間に近づくが、この場合にはキリストの場合よりも成功する。サタンは人間に、サタンの主権を承認することを条件としてこの世の王国を提供する。サタンは彼らが、正直を犠牲にし、良心を無視し、利己心をほしいままにするように要求する。キリストは彼らにまず神の国と神の義とを求めるように命じられる。しかしサタンは彼らのそばを歩きながらこう言う、「永遠のいのちについてどんなことが事実であろうと、あなたがこの世で成功するには、わたしに仕えなくてはならない。あなたの幸福はわたしの手ににぎられている。わたしはあなたに富、快楽、名誉、幸福を与えることができる。わたしのすすめをききなさい。正直とか自己犠牲などという気まぐれな考えを起さないがよい。わたしがあなたの前に道を備えてあげよう。」こうして多くの者がだまされる。彼らは自我に奉仕する生活に同意する。するとサタンは満足する。サタンは彼らを世俗的な統治権の望みで誘惑する一方では、魂の支配権を手に入れる。しかし彼は自分が与える資格のないもの、まもなく彼からとりあげられるものを提供しているのである。その代りにサタンは、彼らをだまして神の子らの嗣業についての権利書をとりあげる。 DA 728.1

サタンは、イエスが神のみ子であるかどうかを疑問にした。彼が即座に退却したことは、イエスが神のみ子であることを否定できなかった証拠である。神性が苦難の人性をとおしてひらめいた。サタンはイエスの命令に抵抗する力がなかった。屈辱と怒りに身をふるわせながら、彼は世のあがない主の前から退かねばならなかった。アダムが完全に失敗したように、キリストは完全に勝利された。 DA 728.2

同じように、われわれも誘惑に抵抗し、サタンに離れ去れと強く言うことができる。イエスは、神への服従と信仰とによって勝利を得られた。彼は使徒を通して、われわれにこう言っておられる。「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださるであろう」(ヤコブ4:7、8)。われわれは自分自身を誘惑者サタンの力から救うことはできない。サタンは人類を征服したのである。自分自身の力で立とうとする時、われわれはサタンの策略に陥るであろう。だが「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る」(箴言18:10)。どんなに弱い魂も、この大いなるみ名をかくれ家とするとき、サタンはふるえあがってその前から逃げ出す。 DA 728.3

敵が離れ去ってから、イエスは力がつきはてて地面に倒れ、そのお顔は死人のようにまっさおになられた。天使たちは、愛する司令官であられるイエスが人類のために逃れの道を備えるために言いようのない苦難を経験されるのをみつめながら、戦いを見守っていた。イエスはわれわれがいつか会わねばならない試みよりもはるかに大きな試みに耐えられた。いま天使たちは死人のように横たわっておられる神のみ子に奉仕した。イエスは食物で力づけられ、天父の愛のみことばと、全天がイエスの勝利に歓喜しているとの保証に慰められた。ふたたび生気をとりもどされると、イエスの大きなみこころは人類への同情となってそそがれ、彼はご自分がお始めになった働きを完成するために出て行かれる。そして敵が征服され、堕落した人類があがなわれるまではお休みにならないのである。 DA 728.4

われわれのあがないの価は、あがなわれた者たち か救い主とともに神のみ座の前に立つまではわからない。そこで永遠のみ国の栄光が、歓喜しているわれわれの目の前に突然現われる時、われわれはイエスがわれわれのためにそうしたすべての栄光をお捨てになったことや、また天の宮廷からのさすらい人となられたばかりでなく、われわれのために失敗と永遠の損失という危険をおかしてくださったことなどを思い出すのである。その時われわれは冠をイエスの足下に投げて、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」との歌声をあげるのである(黙示録5:12)。 DA 728.5