各時代の希望
第10章 荒野の声
本章はルカ1:5~23、57~80、3:1~8、マタイ3:1~12、マルコ1:1~8に基づく DA 709.3
イスラエルの忠実な人たちは、長い間メシヤの来臨を待望していたが、その人たちの中からキリストの先駆者が起こった。年老いた祭司のザカリヤと妻のエリサベツは「ふたりとも神のみまえに正し」かった(ルカ1:6)。そして彼らのきよい静かな生活から、当時の邪悪な暗黒のさなかに信仰の光が星のように輝きわたっていた。この敬虔な夫婦に、「主のみまえに先立って行き、その道を備え」る息子についての約束が与えられた(ルカ1:76)。 DA 709.4
ザカリヤは「ユダヤの山里」に住んでいたが、聖所で1週間奉仕をするためにエルサレムにのぼっていた。その奉仕には各組の祭司が年に2回当たらねばならないのであった。「さてザカリヤは、その組が当番になり神のみ前に祭司の務をしていたとき、祭司職の慣例にしたがってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった」(ルカ1:8、9)。 DA 709.5
ザカリヤは聖所の中の金の香壇の前に立っていた。香煙は、イスラエルの民の祈りとともに神のみ前にのぼっていた。突然彼は聖なるものの臨在を意識した。主のみ使が「香壇の右に立っ」ているのだった(ルカ1:11)。天使の位置は恩恵を示していたが、ザカリヤはそのことに気がつかなかった。彼は長年の間あがない主の来臨を祈ってきた。いま彼の祈りが答えられようとしていることを告げるために、天から使者が送られたのだった。だが神の恵みが余りに大きすぎて、彼には信じられないように思えた。彼は恐れと自責の念に満たされた。 DA 710.1
だが彼はうれしい保証のことばでこうあいさつされた。「『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず……聖霊に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう』。するとザカリヤは御使に言った、『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています』」(ルカ1:13~18)。 DA 710.2
ザカリヤは年老いたアブラハムに子供が与えられたのは、アブラハムが約束に対して忠実であられる主を信じたからであったことをよく知っている。だが一瞬間この年老いた祭司は人間の弱さに心を向ける。神はその約束されたことをなしとげることがおできになることを、彼は忘れる。この不信仰と、ナザレのおとめマリヤの子供のような美しい信仰との間には何というちがいがあることだろう。マリヤは天使のすばらしい知らせに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えた(ルカ1:38)。 DA 710.3
ザカリヤに息子が生れることによって、アブラハムの子の誕生やマリヤの子の場合と同じように、とうとい霊的な真理、すなわちわれわれが学ぶのに手間どり、また学んでもすぐ忘れがちな真理が教えられるのであった。われわれは自分自身では何もよいことをすることができない。しかしわれわれのできないことが、神の力によって、すなおな信ずる魂のうちになされるのである。約束の子が与えられたのは信仰によってであった。霊的生命が生まれ、われわれが義のわざをすることができるのは信仰によってである。 DA 710.4
ザカリヤの質問に、天使は、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである」と答えた(ルカ1:19)。これより500年前、ガブリエルはキリストの来臨の時にまで及ぶ預言の期間をダニエルに知らせた。ザカリヤはこの期間が終りに近づいたことを知って心を動かされ、メシヤの来臨を祈っていた。この預言を伝えたその天使が、いまその成就を告げにやってきたのである。 DA 710.5
「わたしは神のみまえに立つガブリエルである」という天使のことばは、彼が天の宮廷において高い栄誉の地位を占めていることを示している。ダニエルにメッセージをたずさえてきた時、彼は「わたしを助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエル〔キリスト〕のほかにはありません」と言った(ダニエル10:21)。ガブリエルについて、救い主は黙示録の中に、「キリストが、御使をつかわして、僕(しもべ)ヨハネに伝えられたものである」と語っておられる(黙示録1:1)。その天使ばヨハネに、「わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者……と、同じ灘間である」と言明した(黙示録22:9)。神のみ子に次ぐ栄誉の地位を保っている天使が罪深い人間に神のみこころを解き明かすためにえらばれたとは驚嘆すべき思想である。 DA 710.6
ザカリヤは天使のことばに疑いを表明した。そのため彼は天使の語ったことばが実現するまでしやべることができないことになった。「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がき けなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」と、天使は言った(ルカ1:20)、聖所の奉仕においては、国民一般と国家の罪についてゆるしを祈り、またメシヤの来臨について祈ることが祭司のつとめであった。しかしザカリヤがそのつとめを果そうとした時、彼は一言も口をきくことができなかった。 DA 710.7
民を祝福するために出てきたザカリヤは「彼らに合図をするだけで、引きつづき、口がきけないままでいた」(ルカ1:22)。民衆は長い間待っていて、ザカリヤが神のさばきを受けて倒れたのではないかと心配しはじめていた。だが彼が聖所から出てくると、その顔は神の栄光に輝いていた。「人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った」(ルカ1:22)。ザカリヤは自分の見たことと聞いたこととを彼らに伝えた。「それから務の期日が終ったので、家に帰った」(ルカ1:23)。 DA 711.1
約束の子が生れると、「立ちどころにザカリヤのロが開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。近所の人々はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語り伝えられたので、聞く者たちは皆それを、心に留めて『この子は、いったい、どんな者になるだろう』と語り合った」(ルカ1:64~66)。 DA 711.2
これらのことは、ヨハネが道を備えることになっているメシヤの来臨に人々の注意をひくのに役立った。 DA 711.3
聖霊がザカリヤの上にのぞんだので、彼は次のような美しいことばで、息子の使命を預言した。 DA 711.4
「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。 DA 711.5
主のみまえに先立って行き、その道を備え、 DA 711.6
罪のゆるしによる救いを、その民に知らせるのであるから。 DA 711.7
これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。 DA 711.8
また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、 DA 711.9
暗黒と死の陰とに住む者を照らし、 DA 711.10
わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」 DA 711.11
(ルカ1:76~79) DA 711.12
「幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた」(ルカ1:80)。ヨハネが生まれる前に、天使は、「彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、……聖霊に満たされて」いると言った(ルカ1:15)。神はザカリヤの子をとうとい働き、人間に委ねられた最高の働きに召されたのであった。この働きをなしとげるために、彼は神にいっしょに働いていただかねばならない。もし彼がこの天使の教えに留意するなら、神のみたまが共にいてくださるのであった。 DA 711.13
ヨハネは人々に神の光を伝えるためにエホバの使者として出て行くのであった。彼は人々の考えに新しい方向を与えねばならない。彼は人々に神のご要求の神聖なことと、神の完全な義の必要とを印象づけねばならない。このような使者は聖なる者でなければならない。彼は神のみたまの内住する宮とならねばならない。この使命を達成するために、彼は健全な肉体と知的霊的な力を持たねばならない。そこで彼は食欲と情欲とを抑制する必要がある。彼は人々の中にあって、荒野の岩や山のように、周囲の環境に動かされることがないように、自分のすべての力を支配することができなければならない。 DA 711.14
バプテスマのヨハネの時代には、富に対する強い欲望とぜいたくと見せびらかしを愛する思いが一般にひろがっていた。官能的な享楽や飲み食いによって、肉体の病気と堕落が生じ、霊的な知覚はにぶり、罪に対する感覚が低下していた。ヨハネは改革者として立つのであった。彼は節制の生活と質素な衣服とによって、当時の放縦を責めるのであった。だから天のみ座からの天使によって、ヨハネの両親に、さしずすなわち節制についての教訓が与えられた。 DA 711.15
子供の時と青年時代には、品性は非常に影響を受けやすい。自制力はこの時代に身につけねばならない。家庭の炉辺や食卓で永遠につづく結果をもたらす影響が及ぼされる。生まれつきの能力よりも、 幼いころ身についた習慣が人生の戦いに勝つか負けるかを決定する。青少年時代は種まきの時代である。それはこの世と来世のために収穫の種類を決定する。 DA 711.16
ヨハネは、預言者として、「父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備える」のであった(ルカ1:17)。彼は、キリストの初臨に道を備えたことにおいて、主の再臨に民を備えさせる人々を代表していた。世は放縦に陥っている。誤謬と作り話があふれている。魂を滅ぼそうとするサタンのわながふえている。「神をおそれて全く清く」なりたい人はみな節制と自制について教訓を学ばねばならない(Ⅱコリント7:1)。食欲と情欲はもっと高い知能に服従させられねばならない。この自己訓練は、われわれに神のみことばの聖なる真理を理解し実行する力を与えてくれる知能の力と霊的な洞察(どうさつ)力とにとって欠くことのできないものである。この理由から、節制はキリスト再臨に備える働きの一部である。 DA 712.1
物事の順序からいえば、ザカリヤの息子は祭司職のために教育されるのが当然だった。しかしラビの学校の訓練は彼をその働きにふさわしくない者にしただろう。神は、聖書の解釈を学ばせるために彼を神学の教師たちのもとにお送りにならなかった。神は彼が自然と自然の神から学ぶように、彼を荒野へ召された。 DA 712.2
ヨハネが住居としたところは、さびしい地域で、荒れた丘や人の住まない谷間や岩のほら穴などのまん中だった。しかし彼は自ら進んで人生の享楽とぜいたくとを捨ててこのきびしい荒野の訓練を選んだ。彼をとり囲んでいる環境は質素と克己の習慣にとって都合がよかった。うるさい世間にじゃまされないで、彼はここで自然と啓示と神について教訓を学ぶことができた。ザカリヤに言われた天使のことばは、神をおそれる両親から幾度となくヨハネにくりかえされていた二子供の時からヨハネの使命は彼の目の前におかれ、彼はその聖なる責任を引き受けていた。彼にとって荒野の孤独は、疑いと不信と不潔がほとんどすみずみまで行き渡っている社会からのありがたい逃避だった。彼は試みに抵抗する自分の力を信用しなかった。そして深い罪悪感が失われるのを恐れて、罪とのふだんの接触を避けた。 DA 712.3
ヨハネは、生れた時からナジル人として神にささげられていたので、その誓願を守って一生の間献身した。彼は、らくだの毛皮の衣を着、皮の帯をしめて、古代の預言者の服装をしていた。彼は荒野の「いなごと野蜜」を食べ、山の清い水を飲んだ。 DA 712.4
だがヨハネの生活は、何もしないで、苦行者のように陰気にあるいは利己的に孤立して送られたのではなかった。彼は時々出かけて行っては人々の中にまじった。彼は世の中で起こっていることをいつも興味をもって観察していた。その静かな隠れ家から、彼は諸事件の発展を見守っていた。天来のメッセージをもって人々の心を動かすにはどうしたらよいかを理解できるように、彼は神のみたまに照らされた目をもって人々の性格を研究した。使命の重荷が彼の上にあった。孤独の中にあって、瞑想と祈りとによって、彼は目の前にある一生の働きのために、自分の魂を準備することにつとめた。 DA 712.5
荒野にいるとはいっても、彼は試みからまぬかれなかった。彼はできるだけサタンがはいって来ることのできる道をどれもとざしたが、それでもまだ彼は誘惑者から攻撃された。だが彼の霊的な知覚力ははっきりしていた。彼は品性の力と決断力とを発達させていた。だから聖霊の助けによって、彼はサタンの接近を探知してその力に抵抗することができた。 DA 712.6
ヨハネにとって荒野は学校であり、聖所であった。ミデアンの山のまん中におかれたモーセのように、彼は神のこ臨在の中にとじこめられ、神の大能の証拠にとりかこまれた。イスラエルの大指導者モーセのように、静寂な山の荘厳さの中に住みつくことが、ヨハネの運命ではなかった。しかし彼の前にはヨルダンの向こうのモアブの高い山々があって、山を固く立たせて力を帯びさせられた神について語っていた。この荒野の住居における自然の陰気で恐ろしい様相は、イスラエルの状態をまざまざとえがいていた。 実り豊かな神のぶどう園は荒れ果てていた。だが荒野の上には美しく明るい天がかかっていた。嵐をはらんで現れた黒雲には約束の虹(にじ)が弧をえがいていた。そのように、イスラエルの堕落の上にはメシャの統治について約束の栄光が輝いていた。怒りの雲には神の恵みの契約の虹がかかっていた。静かな夜ただ1人で、ヨハネは、星のように子孫がふえるというアブラハムに与えられた神の約束を読んだ。モアブの山々を金色に光らせる夜明けの光は「朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のよう」であられるお方について語った(サムエル下23:4)。また真昼の輝きの中には、「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」時に主の現れに伴う光輝がみられた(イザヤ40:5)。 DA 712.7
おそれと喜びの気持ちとをもって、ヨハネは預言の巻物の中にメシヤの来臨についての啓示をさがした。これこそ蛇の頭をくだく約束の後裔、王がダビデの王座にあって統治するのをやめる前に現れるシロ一平和を与える者であった。いまその時はきていた。支配者ローマ人がシオン山の宮殿にすわっていた。神の確かなみことばによって、すでにキリストはお生まれになった。 DA 713.1
ヨハネは、イザヤがメシヤの栄光を歓喜のうちに描写しているところを昼も夜も研究した。メシヤはエツサイの根から出た一つの若枝、義をもって治め、「公平をもって国のうちの柔和な者のために」さばきをなす王、「暴風雨をのがれる所……疲れた地にある大きな岩の陰」であった。イスラエルはもはや「捨てられた者」と呼ばれずその地は「荒れた者」と言われず神から「わが喜びは彼女にある」と呼ばれ、地は「配偶ある者」といわれるのであった(イザヤ11:4、32:2、62:4)。このさびしいさすらい人の心はかがやかしいまぼろしに満たされた。 DA 713.2
ヨハネは王の美しさをながめて、自分を忘れた。彼は尊厳な聖潔を見て、自分が無能力で無価値なことを感じた。彼は神を仰ぎ見ていたので、人をおそれることなく、天の使者として出て行く用意ができた。彼は王の王であられる神の前に低く腰をかがめていたので、地上の君主たちの面前に恐れることなくまっすぐに立つことができた。 DA 713.3
ヨハネはメシヤの王国の性質を十分には理解しなかった。彼はイスラエルが国家の敵から救われるのを待望した。しかし王なるキリストが義のうちにおいでになり、イスラエルが聖なる国家として建国されることが彼の望みの大目的であった。自分の誕生の時に与えられた預言、すなわち、 DA 713.4
「神は……その聖なる契約(をおぼえて)、…… DA 713.5
わたしたちを敵の手から救い出し、 DA 713.6
生きている限り、きよく正しく、 DA 713.7
みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」 DA 713.8
との預言は、このようにして成就されるのであると彼は信じた(ルカ1:72~75)。 DA 713.9
ヨハネはユダヤ国民があざむかれ、自己満足に陥り、罪の中に眠っているのをみた。彼は彼らをもっときよい生活にめざめさせたいと願った。神がヨハネに伝えさせられたメッセージは、国民を惰眠からびっくりして目覚めさせ、自分たちの大きな悪におそれおののかせるためであった。福音の種が足場を得ることができる前に心の土がくだかれねばならない。イエスのいやしを求める前に罪の傷からの危険についてめざめなければならない。 DA 713.10
神は罪人を甘やかすために使者をお送りにならない。神はきよめられていない者をだまして致命的な安全感を持たせるために平和のメッセージをお送りにならない。神は悪を行う者の良心に重荷をおき、その魂を罪の自覚という矢で刺し通される。奉仕の天使たちは、彼らの必要感を深め、「わたしは救われるために何をすべきでしょうか」という叫びを促すために、神の恐るべきさばきを罪人の前に示す。それから、屈辱を与えたみ手は、悔いた者を起こす。罪を責め、高慢で野心的な者を恥じさせた声は、最もやさしい同情をもって、「わたしにどうしてほしいか」とたずねられる。 DA 713.11
ヨハネの伝道が始まった時、ユダヤ国民は、革命 の1歩手前の興奮と不満の状態のうちにあった。アケラオが退けられてから、ユダヤは直接ローマの支配下に入れられた。ローマ総督たちの圧政と搾取、また異教の象徴や慣習をユダヤに持ち込もうとする彼らの断固たる努力などのために、反乱がひき起こされ、それはイスラエルの最も勇敢な幾千の人々の血を流して静められた。こうしたことがみなローマに対する国民的な憎悪心を深め、ローマの権力から自由になりたいとの願いをますます強めた。 DA 713.12
不和と争いのさなかに、一つの声が荒野からきこえてきた。それは、「悔い改めよ、天国は近づいた」という、人々を驚かせるようなきびしい、しかし望みに満ちた声であった(マタイ3:2)。新しいふしぎな力をもってそれは人々を動かした。預言者たちは、キリストの来臨をはるか将来の出来事として預言していた。ところがいまそれが近づいたと叫ばれているのであった。ヨハネの奇妙な恰好(かっこう)は聴衆の心に古代の預言者たちを思わせた。彼の態度と服装は預言者エリヤに似ていた。彼はエリヤの霊と力とをもって、国をあげての堕落を攻撃し、みなぎっている罪を責めた。彼のことばは率直で鋭く、罪をさとらせる力があった。多くの者は彼が死からよみがえった預言者の1人であると信じた。全国民はわきたった。群衆が荒野へむらがり集まった。 DA 714.1
ヨハネはメシヤの来臨をのべ伝え、人々に悔い改めを呼びかけた。罪からのきよめのしるしとして、彼はヨルダン川の流れで人々にバプテスマを施した。このようにして彼は、意味深い実物教訓によって、神の選民であることを自称している人々が罪にけがれていること、また心と生活がきよめられなければメシヤの王国に入ることができないことを宣言した。 DA 714.2
君たちもラビたちも、兵卒たちも、取税人たちも、百姓たちも、預言者のことばを聞くためにやってきた。一時は神からの厳粛な警告が彼らを驚かせた。多くの人々が悔い改めにみちびかれ、バプテスマを受けた。あらゆる階級の人々が、バプテスマのヨハネの宣言する王国に入るために、彼の要求に服従した。 DA 714.3
多くの律法学者たちとパリサイ人たちがやってきて、罪を告白し、バプテスマを願った彼らは自分たちがほかの人たちよりもすぐれた人間であることをいばり、自分たちの敬虔さについて深い尊敬心を国民にいだかせていた。いま彼らの生活の不義の秘密がばくろされた。しかしヨハネはこれらの人々の多くが罪について真の自覚を持っていないことを、聖霊によって印象づけられた。彼らは日和見(ひよりみ)主義者だった。彼らは預言者の友人となって、きたるべき王から恩恵を得ようと望んだ。そしてこの人気のある若い教師の手からバプテスマを受けることによって、民に対する自分たちの影響力を強めようと考えた。 DA 714.4
ヨハネは、彼らに会うと、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結ぺ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」と痛烈に問いかけた(マタイ3:7~9)。 DA 714.5
ユダヤ人はイスラエルに対する永遠の恩恵についての神の約束を誤解していた。「主はこう言われる、すなわち太陽を与えて昼の光とし、月と星とを定めて夜の光とし、海をかき立てて、その波を鳴りとどろかせる者一その名は万軍の主という。主は言われる、『もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、イスラエルの子孫もすたって、永久にわたしの前で民であることはできない。』主はこう言われる、『もし上の天を量ることができ、下の地の基を探ることができるなら、そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫をそのもろもろの行いのために捨て去ると主は言われる』」(エレミヤ31:35~37)。 DA 714.6
ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの直系の子孫であるということがこの約束を受ける資格であると考えていた。しかし彼らは神が明示された条件を見落していた。この約束をお与えになる前に、神は、「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。……わたしは彼らの不義をゆ るし、もはやその罪を思わない」と仰せになっていた(エレミヤ31:33、34)、 DA 714.7
心に神の律法をしるされる民に、神の恩恵が保証されている。彼らは神と一つである。ところがユダヤ人は神から離れていた。罪のために、彼らは神の刑罰の下に苦しんでいた。彼らが異教国家の支配下にある原因はここにあった。彼らの心は罪とがのために暗くなっていたが、昔神が非常に大きな恩恵をお与えになったので、彼らは自分たちの罪を大目にみていた。彼らは自分たちが他国民よりもすぐれていて、神の祝福を受ける資格があるとうぬぼれていた。 DA 715.1
こうしたことは、「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」(Ⅰコリント10:11)。われわれは、どんなにかたびたび神の祝福を誤解し、自分たちのうちに何か良いところがあるから恵まれるのだとうぬぼれることだろう。神はわれわれのためにしたいとお思いになることをなさることができない。神の賜物は、われわれの自己満足を増長させ、われわれの心を不信と罪の中にかたくなにするために用いられる。 DA 715.2
ヨハネは、イスラエルの教師たちの高慢心と利己心と残酷さは、彼らが正しい従順なアブラハムの子らであるよりはむしろまむしの子ら、民にとって致命的なわざわいである証拠だと彼らに宣言した。彼らは自分たちが異教徒よりもずっとすぐれていると思っていたが、彼らが神から光を受けていたことを考えてみる時、彼らはその異教徒よりも悪いのであった。彼らは自分たちが切り出された岩と掘り出された穴とを勘ていた(イザヤ51:1参照)。神はみこころを成鎚れるのに彼らをあてにしておられなかった。神は、アブラハムを異教の民の中から呼び出されたように、他の人々を神の奉仕に召すこともおできになる。彼らの心はいまは砂漠(さばく)の石のようにいのちのないものにみえるかもしれないが、神のみたまは彼らをめざめさせてみこころを行わせ、神の約束の成就を受けさせることができるのである。 DA 715.3
「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」と預言者は言った(マタイ3:10)。木の価値は、その名によってではなく、その実によってきまる。もし実が無価値なら、名はその木が滅びるのを救うことができない。ヨハネは、神の前におけるユダヤ人の立場は、彼らの品性と生活とによって決定されるのだと宣言した。口に言うだけでは無価値である。もしユダヤ人の品性と生活が神の律法に一致していなければ、彼らは神の民ではない。 DA 715.4
心をさぐるヨハネのことばに、聴衆は罪をさとった。彼らは、やってきて、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」とたずねた。ヨハネは答えて、「下着を2枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」と言った(ルカ3:10、11)。彼はまた取税人たちには不正について、兵卒たちには暴力について警告した。 DA 715.5
キリストの王国の民となった者はみな信仰と悔い改めとの証拠を示すであろうと、ヨハネは言った。彼らの生活には親切と正直と忠誠がみられるであろう。彼らは困っている人たちに奉仕し、神に献げ物を持参するであろう。彼らは家のない者を宿らせ、美徳と憐れみの模範を示すであろう。そのように、キリストに従う者たちは、人を生まれ変らせる聖霊の力の証拠を示すであろう。毎日の生活に神の正義と憐れみと愛がみられるであろう。そうでなければ、彼らは火に投げ入れられるもみがらのようなものである。 DA 715.6
「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」とヨハネは言った(マタイ3:11)。 DA 715.7
預言者イザヤは、神が「審判の霊と滅亡の霊とをもって」ご自分の民を不義からきよめられると宣言した。イスラエルに対する神のみことばは、「わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁(あく)で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く」であった(イザヤ4:4、1: 25)。罪にとって、それがどこにみいだされようと、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」(ヘブル12:29)。神のみたまは、その力に服するすべての者のうちにあって、罪を焼きつくす。しかしもし人が罪に執着するなら、その人は罪と一体となる。そのとき罪を滅ぼす神の栄光は、当然その人も滅ぼしてしまうのである。ヤコブは、天使と一晩格闘したあとで、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と叫んだ(創世記32:30)。ヤコブはエサウに対する行為において大きな罪を犯した。だが彼は悔い改めていた。彼の罪とがはゆるされ、その罪はきよめられた。だから彼は神のこ臨在のあらわれに耐えることができたのである。しかし人が故意に罪を心に宿していながら神の前に出た時、その人はかならず滅ぼされた。キリスト再臨のときに、悪人は主イエスの「口の息をもって」殺され、「来臨の輝きによって」滅ぼされる(Ⅱテサロニケ2:8)。神の栄光の光は、義人にはいのちを与えるが、悪人を滅ぼすのである。 DA 715.8
バプテスマのヨハネの時代に、キリストは神の品性をあらわすお方として現れようとしておられた。人々はイエスの前に出ると自分の罪が明らかにされるのであった。罪からきよめられたいと願った時にのみ彼らはイエスとのまじわりに入ることができるのであった。心のきよい者だけがイエスの前に立つことができるのであった。 DA 716.1
このようにバプテスマのヨハネは、神のメッセージをイスラエルに宣告した。多くの者が彼の教えに注意した。多くの者が、従うために一切を犠牲にした。群衆はここかしこへとこの新しい教師について行き、彼がメシヤであるかも知れないという望みをいだいている者が少なくなかった。しかしヨハネは、人々が自分に心を向けるのを見ると、あらゆる機会をとらえて彼らの信仰をきたるべきお方に向けようとつとめた。 DA 716.2