各時代の希望

86/87

第86章 行ってすべての国民に教えよ

本章はマタイ28:16~20に基づく DA 1107.2

天のみ座からほんの1歩のところに立って、キリストは、弟子たちに任命をお与えになった。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」とキリストは言われた。「それゆえにあなたがたは行って、すべての国民を……教えよ」「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マタイ28:18~20、マルコ16:15)。このことばは、弟子たちがその意義を把握するように、何度も何度もくりかえされた。天の光は、身分の高い者にも低い者にも、富める者にも貧しい者にも、地のすべての住民の上に、明るい強い光線となって輝くのであった。弟子たちは世を救う働きにあがない主と共に働く者となるのであった。 DA 1107.3

この任命は、キリストが12人の弟子たちと2階の広間で会合された時に与えられたのであったが、今はもっと多数の者に与えられることになった。ガリラヤの山での集まりに、呼び集められるかぎりすべての信者が集められた。この集まりについては、キリストご自身が、なくなられる前に、時と場所を指定しておかれた。墓場の天使は、ガリラヤで会うというキリストの約束を弟子たちに思い出させた。この約束は、過越節の週の間エルサレムに集まっていた信者たちにくりかえされ、彼らを通して、キリストの死を嘆き悲しんでいた多くのさびしい人たちの耳にはいった。すべての人たちが熱烈な関心をもってこの会見を待望した。ねたみ深いユダヤ人の疑いを避けるために、彼らは、回り道をして四方から集会の場所へやってきた。キリストについて自分たちが聞いた知らせを熱心に語り合いながら、彼らはふしぎな思いをもってやってきた。 DA 1107.4

定められた時間になると、およそ500人の信者たちが山の上にいくつかの小さなかたまりになって集まり、キリストがよみがえられてからお会いした人たちから聞けるだけのことを聞こうと熱心に待った。弟子たちはこの群れからあの群れへと歩きまわって、自分たちがイエスについて見たり聞いたりしたことを語り、またイエスが自分たちにそうされたように、聖書から説き聞かせた。 DA 1107.5

トマスは自分が不信仰だった話を物語り、彼の疑いが一掃されたことを語った。突然イエスが彼らの間に立たれた。どこから、どうやってこられたのか誰にもわからなかった。集まっていた人々の多くは、これまでイエスにお会いしたことがなかったが、その手と足に十字架につけられた傷跡を見た。イエスのお顔は神のみ顔のようだったので、彼らはイエスを見て、おがんだ。 DA 1108.1

しかしある人たちは疑った。いつでもそういう人はいるものである。信仰を働かせるのに困難を感じる人たちがいて、彼らは自分自身を疑問の側に置く。こういう人たちは不信のために多くのものを失うのである。 DA 1108.2

復活後イエスが多くの信者たちと会見されたのはこの時だけであった。イエスは彼らのところへおいでになって語り、「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と言われた(マタイ28:18)。弟子たちはすでにイエスが語られる前におがんでいたが、死にとじられていたくちびるから出るイエスのことばには特別な力があって彼らを感動させた。イエスは今やよみがえられた救い主であった。彼らの多くは、イエスが力をあらわして病人たちをいやし、サタンの力を支配されるのを見たのであった。彼らは、イエスがエルサレムに王国を建てられる権力を、すべての反対をおさえる力を、また自然界を支配する力を持っておられると信じた。イエスは荒れ狂う波を静め、泡立つ波の上を歩き、死人を命によみがえらせられた。今主は「いっさいの権威」がご自分に与えられたと宣言された。イエスのことばは、聞く者の心をこの地上の一時的なものから天上の永遠なるものへ向けた。彼らはキリストの威厳と栄光について最高の概念にまで高められた。 DA 1108.3

山の上でのキリストのことばは、人類のためのキリストの犠牲が十分にして完全であるということを告げていた。あがないの条件は果たされた。イエスがそのためにこの世にこられた働きは達成された。イエスは、天使たちと支配と権威からあがめられるために神のみ座のもとへ行かれる途中であった。イエスは仲保者としての働きにお入りになったのだった。無限の権威を帯びて、キリストは、弟子たちに任命をお与えになった。 DA 1108.4

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:19、20)。 DA 1108.5

ユダヤ国民は聖なる真理の保管者とされたが、パリサイ主義のために全人類の中で最も排他的で最も頑迷な者となった。祭司たちと役人たちについてのすべて、すなわちその衣服、風習、儀式、言い伝えは、彼らを世の光とするのにふさわしくなかった。彼らは自分自身すなわちユダヤ国民を世界とみなした。しかしキリストは、階級制度や国の差別をまったく含まない信仰と礼拝、すなわちすべての民族、すべての国民、すべての階級の人々に適応する信仰をのべ伝えるために弟子たちを任命されたのである。 DA 1108.6

弟子たちと別れる前に、キリストはみ国の性質をはっきり述べられた。主は、み国について、前に弟子たちにお語りになったことを思い起こさせられた。この世に現世的な王国ではなくて、霊的王国を建てることがご自分の目的であると、主は宣言された、キリストは、ダビデの位につかれた地上の王として統治されるのではなかった。ふたたびイエスは、彼らに聖書を開いて、ご自分が経験されたすべてのことは天においてご自身と天父との協議によって定められたものであることを示された。すべてのことは聖霊の感動を受けた人々によって預言されていた。イエスは言われた。わたしがメシヤとして受け入れられないことについてあなたがたに打ち明けたことが何もかも起こったのだ。わたしが耐えねばならない屈辱、わたしが死なねばならない死についてわたしが言ったことはすべて実証された。3日目にわたしはふたたびよみがえった。聖善をもっと熱心に調べなさい。そうすればこれらのすべてのことの中にわたしに関する詳細な預言が成就したことがわかるであろう。 DA 1108.7

キリストは、弟子たちの手に残された働きをエルサレムから始めるように委任された、エルサレムは、人類のためのキリストの驚くべきへりくだりの場面であった。ここで彼は苦難を受け、捨てられ、罪に定められた。ユダヤの国はイエスの誕生の地であった。ここでイエスは、人性という衣を着て、人々と共に歩まれたが、彼が人々の中におられた時、どんなに天が地に近づいたかをみとめた者はほとんどなかった。エルサレムで、弟子たちの働きが開始されねばならない。 DA 1109.1

キリストがエルサレムで苦難を受けられ、骨折って働かれてもみとめられなかったことを考えて、弟子たちはもっと有望な伝道地をキリストにお願いできたかもしれなかったが、彼らはそのような願いをしなかった。キリストが真理の種をまかれた土地を弟子たちはたがやすのであった。種は芽を出して豊かな収穫を生ずるであろう。その働きにおいて、弟子たちは、ユダヤ人のねたみと憎しみから迫害にあわねばならないであろう。しかし主はこれに耐えられたのであるから、彼らはそれから逃げ出すべきではなかった。憐れみの最初の提供は、救い主の殺害者たちに向けられねばならない。 DA 1109.2

またエルサレムには、これまでひそかにイエスを信じていた人々、祭司たちと役人たちにだまされていた人々がたくさんいた。この人たちにも福音が示されるのであった。彼らに悔い改めが呼びかけられるのであった。キリストを通してのみ罪のゆるしが得られるというすばらしい真理が明らかにされるのであった。過ぐる数週間の感動的な事件のためにエルサレムじゅうがわきたっている時、福音の宣伝は最も深い印象を与えるであろう。 DA 1109.3

しかしこの働きはエルサレムにとどまるのではなかった。それは地の果てまでひろがるのであった。キリストは弟子たちに言われた。あなたがたはわたしが世のために送った自己犠牲の生活を口に見た。あなたがたはイスラエルのためのわたしの努力を目に見た。彼らはいのちを受けるためにわたしのもとにこようとせず、また祭司たちと役人たちはわたしに対して好き勝手なことをし、聖書に預言されていたとおりにわたしを捨てたが、それでも彼らは神のみ子を受け入れる機会がもう1度あるのだ。わたしのもとにきて罪を告白する者をみなわたしが受け入れることをあなたがたは見てきた。わたしに来る者をわたしは決してこばみはしない。望む者はだれでも、神とやわらぎ、永遠の生命を受ける。 DA 1109.4

弟子たちよ、あなたがたにわたしはこの憐れみのメッセージを委ねる。それはまずイスラエルに与えられ、次に諸国、諸国語、諸民族に与えられるのである。それはユダヤ人にも異邦人にも与えられるのである。信じる者はすべて1つの教会に集められるのである。 DA 1109.5

聖霊の賜物を通して、弟子たちは驚くべき力を受けるのであった。彼らのあかしはしるしとふしぎなわざによって確認されるのであった。使徒たちばかりでなく、そのメッセージを受け入れた者たちによって、奇跡が行われるのであった。イエスはこう言われた、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:17、18)。 DA 1109.6

当時毒殺がしばしば行われた。無法な人々は、自分の野心のさまたげとなる人間をこの方法で除くことをちゅうちょしなかった。イエスは弟子たちの生命がこのような危険にさらされることを知っておられた。多くの人々は、イエスの証人たちを殺すことを神への奉仕だと思うだろう。そこでイエスは彼らをこの危険から守ることを約束された。 DA 1109.7

弟子たちは、イエスが「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」のと同じ力を持つのであった(マタイ4:23)。キリストの名によって肉体の病気をいやすことによって、彼らの魂をいやしてくださるキリストの力をあかしするのであった(マタイ9:6参照)。そこでいま新しい賜物が約束された。弟子たちは、他の国民にも福音を説くことになるので、他の国語を話す力を受けるのであった。使徒たちとその仲間は無学な人たちだったが、ペンテコステの 日に聖霊の降下を受けることによって、彼らのことばは、自国語であろうと外国語であろうと、語句においてもアクセントにおいても純粋で、単純で、正確なものとなった。 DA 1109.8

こうしてキリストは、弟子たちに任務をお与えになった。働きの遂行にイエスは十分な道を備え、その成功の責任をご自身が負われた。 DA 1110.1

彼らがイエスのことばに従い、イエスにつながって働くかぎり、失敗することはないのであった。すべての国民に行きなさいと、イエスは彼らにお命じになった。人の住むかぎりどんな地球の果てまで行っても、わたしがそこにいることを知りなさい。信仰と確信をもって働きなさい。わたしがあなたがたを捨てる時は決してないのだから。 DA 1110.2

救い主が弟子たちにお与えになった任務には信者の全部が含まれていた。これには世の終わりにいたるまですべてのキリスト信者が含まれている。救霊の働きが牧師だけに負わされていると考えるのは重大な誤りである。天の霊感を受けた者はすべて福音をのべ伝える責任が負わされる。キリストの生命を受ける者はみな同胞の救いのために働くように任命される。教会はこの働きのために設立されているのであって、聖なる誓約によって教会に加わる者はみなそのことによってキリストと共に働く者となることを誓ったのである。 DA 1110.3

「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録22:17)。聞く者はだれでもこの招きをくりかえすのである。この世における職業がなんであろうと、第一の関心事は魂をキリストに導くことでなければならない。会衆に話すことはできないかもしれないが、個人のために働くことができる。自分が主から受けた教えを個人個人に伝えることができる。伝道は説教だけではない。病気と苦しみのうちにある人々をやわらげ、困っている人々を助け、落胆している人々や信仰の弱い人々に慰めのことばを語る者は伝道しているのである。近いところにも遠いところにも、罪の意識にうちひしがれた魂がいる。人間を堕落させるのは困難や骨折り仕事や貧乏ではない。不義が、悪をなすことが人を堕落させるのである。それが不安と不満を生じさせるのである。キリストはご自分のしもべたちが、罪に悩む魂のために奉仕するように望まれる。 DA 1110.4

弟子たちは自分たちのいるところから働きを始めるのであった。最も困難で、最も見込みのない働き場をみすごしてはならなかった。 DA 1110.5

同じように、キリストの働き人の一人一人は、自分のいるところから働きを始めるのである、われわれ自身の家族の中には、同情にかわき、生命のパンに飢えた魂がいるかもしれない。キリストのために教育すべき子供たちがいるかもしれない。われわれ自身の門口に異邦人がいる。いちばん近くにある働きを忠実にしよう。それから、われわれの努力を神のみ手がみちびかれるままに遠くへひろげよう。多くの人々の働きは環境に制限されているようにみえるかもしれない。しかしどこであろうと忠実に、勤勉に働くならば、それは地の隅々にまで知られるのである。地上におけるキリストの働きはせまい場所に限られているようにみえたが、全地からやってきた多くの人々がキリストのメッセージを聞いた。神はしばしば最も単純な方法を用いて最大の結果をなしとげられる。神の働きのどの部分も、車輪の内部の輪のように、ほかの部分と互いに依存し合い、一致して働くことが神のご計画である。どんないやしい働き人も、聖霊に動かされて目に見えない弦をかきならす時に、その振動する音は地の果てまでひびき、永遠の時代にわたってメロディーをかなでるのである。 DA 1110.6

しかし、全世界に出て行けとの命令をみすごしてはならない(マルコ16:15参照)。われわれの目をかなたの国々に向けるようにと訴えられている。キリストはへだての壁すなわち国籍というへだての偏見を打破し、全人類家族への愛を教えておられる。主は、人間の利己心が定めたせまい社会から人々を高められる。主は、地域的な境界線と人間のつくった社会的な差別を廃止される。キリストは隣人と他人、 友人と敵の区別をされない。困っている魂をみな兄弟とみなし、世界を働き場とみなすようにと、主は教えておられる。 DA 1110.7

救い主は、行って、すべての国民に教えよと言われた時、またこう言われた、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:17、18)。この約束は、任命と同じように遠大なものである。全部の賜物が信者の一人一人に与えられるというのではない。 DA 1111.1

「御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」(Ⅰコリント12:11)。しかしみたまの賜物は、主の働きのためその必要に応じて、どの信者にも約束されている。この約束は使徒たちの時代と同様に今日も固く、信頼に値するものである。「信じる者には、このようなしるしが伴う」(マルコ16:17)。これは神の子らの特権であって、信仰の証拠としてもつことのできるすべてのことを把握すべきである。 DA 1111.2

「彼らは……病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:18)。この世界はいわば巨大な病棟であるが、キリストは病人をいやし、サタンのとりこに救いを告げるためにこられた。イエスご自身は健康で元気だった。イエスはご自分の生命を、病人や、苦しんでいる者や、悪鬼にとりつかれている者にわけ与えられた。主は、いやしの力を受けるためにやってくる者を1人も追いかえされなかった。主は助けを懇願する者たちが自分で病気を招いたことをご存じだった。それでもイエスは彼らをいやすことをこばまれなかった。これらのあわれな魂にキリストのいやしの力が及ぼされる時に、彼らは罪を自覚し、多くの者が、肉体の病気はもちろん、霊的な病気もいやされた。福音には今も同じ力があるのだから、今日同じ結果が見られないはずがない。 DA 1111.3

キリストは苦しんでいる一人一人の魂の不幸をお感じになる。悪霊が人間の肉体を破滅させる時に、そのわざわいをお感じになる。高熱に生命の流れが焼きつくされる時に、イエスはその若悩をお感じになる。そして主はご自分がこの地上におられた時と同じように、今も喜んで病人をいやされる。キリストのしもべたちはキリストの代表者であって、キリストの働きのうつわである。主は彼らを通していやしの力を働かそうと望まれる。 DA 1111.4

救い主のいやしの方法には弟子たちにとって教訓があった。ある時、主は盲人の目にどうを塗って、「シロアム……の池に行って洗いなさい」とお命じになった。「そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った」(ヨハネ9:7)。 DA 1111.5

病気は、大医師イエスの力だけでなおすことができるのであるが、それでもキリストは単純な自然の力をお用いになった。キリストは薬物療法に賛成なさらなかったが、単純な白然療法を是認された。 DA 1111.6

苦しみをいやしてもらった多くの人々に、キリストは、「もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」と言われた(ヨハネ5:14)。こうしてイエスは病気が神の定められた自然と霊的な法則を犯した結果であることを教えられた。人が創造主の計画に調和した生活を送りさえすれば、この世の大きな不幸は存在しないであろう。 DA 1111.7

キリストは、古代イスラエルの指導者また教師であられたが、健康は神の律法に従った報いであると、彼らにお教えになった。パレスチナで病人たちをいやされた大医師イエスは、古代イスラエルの民に雲の柱から語って、彼らのしなければならないことと神が彼らのためになされることについてお告げになった。「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプト人に下した病を1つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」と、主は言われた(出エジプト15:26)。キリストは、彼らの生活習慣についてはっきりした教えをイスラエルに与え、「主はまたすべての病をあなたか ら取り去ら……れるであろう」と保証された(申命記7:15)。彼らが条件を果たした時に、この約束は立証された。「その部族のうちに、ひとりの倒れる者もなかった」(詩篇105:37)。 DA 1111.8

この教訓はわれわれのためである。健康を保ちたければだれでも守らねばならない条件がある。誰でもみなこれらの条件がなんであるかを知らねばならない。主は、自然の法則であっても霊的な法則であっても、主の律法について人が無知であることをお喜びにならない。われわれは、霊的な面ばかりでなく、肉体的な面においても、健康を回復するために神と共に働く者となるのである。 DA 1112.1

そこでわれわれは、どのように健康を維持し、回復するかについて人々に教えねばならない。病気の人たちのためには、神が自然のうちにお備えになった療法を用い、健康を回復することがおできになるただ1人のお方である神を彼らに指し示さねばならない。病人や悩める者たちを信仰の腕によってキリストにつれて行くことがわれわれの働きである。彼らが大医師イエスを信じるように教えねばならない。イエスの約束をとらえて、主の力のあらわれを祈らねばならない。福音の本質は回復であって、救い主は、われわれが病人や望みなき者や苦しんでいる者たちにイエスの力にすがるようにすすめることを望んでおられる。 DA 1112.2

キリストのすべてのいやしのわざには愛の力があった。信仰によってその愛にあずかることによってのみキリストのみわざの器となることができるのである。もしキリストとの聖なるつながりをおろそかにするなら、生命を与える力の流れが豊かな流れとなってわれわれから人々にながれることができない。人々の不信仰のために、救い主ご自身でも多くの大いなるみわざをなすことがおできにならなかったところがあった。同じように、いまも不信仰が教会を聖なる助け手であるイエスから引き離している。教会は永遠の現実をしっかりととらえていない。教会に信仰が欠けているために神は失望され、神の栄光が失われている。 DA 1112.3

キリストが共にいてくださると教会に約束されているのは、そのみわざをなすことによってである。行ってすべての国民に教えなさい、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と、キリストは言われた(マタイ28:20)。キリストのくびきを負うことが、キリストの力を受ける第一の条件である。教会の生命そのものは、教会が主の任命を忠実に果たすことにかかっている。この働きをおろそかにすれば、そこにはかならず霊的な弱さと衰えが生じる。人々のための活動的な働きがないところでは愛は衰え、信仰は弱くなる。 DA 1112.4

キリストは、福音の働きにおいて、牧師たちが教会の教育者になるように望んでおられる。彼らは、失われた者をたずね求めて救う方法を教会員に教えるのである。しかし彼らはこの働きをしているだろうか。 DA 1112.5

悲しいことに、いまにも消えそうな教会内の命の火花をかきたてるのにどれほど多くの者が骨折らねばならないことだろう。失われた羊をさがし求めていなくてはならないはずの者から病める小羊のように世話をしてもらわなくてはならない教会がどんなに多いことだろう。しかもその間に、幾百万の人々が、キリストを知らずに滅びつつあるのである。 DA 1112.6

神の愛は人類のためにはかり知ることのできないほど深く動かされたのに、これほど大きな愛を受けている者たちに表面的な感謝しかないのを見て、天使たちは驚く。天使たちは、神の愛に対する人々の浅薄な認識に驚き、天は、魂に対する人々の無関心さに憤慨している。そのことについてキリストがどう思っておられるか知りたいだろうか。父母は、自分の子供が寒さと雪の中に行き暮れているのに、それを救えたはずの人たちからみすごしにされ、死ぬがままにほうっておかれたことを知ったらどう思うだろうか。彼らはひどく悲しみ、狂気のように憤慨しないだうりか。彼らはその涙のように熱く、その愛のようにはげしい怒りをもって、そうした殺人者たちを攻撃しないであろうか。一人一人の人間の苦難は神の子の苦難であって、滅びつつある同胞に助けの手をさし出さない人々は神の正義の怒りをひき起こすのである。 これが小羊イエスの怒りである。キリストとのまじわりを公言しながら、同胞の必要に無関心だった人たちに向かって、キリストは、大いなるさばきの日に、「あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」と宣告されるであろう(ルカ13:27)。 DA 1112.7

弟子たちにお与えになった任務の中に、キリストは、彼らの働きのあらましを述べられたばかりでなく、彼らのメッセージもお与えになった。「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」とキリストは言われた(マタイ28:20)。弟子たちはキリストがお教えになったことを教えるのであった。キリストがご自身の日を通してばかりでなく、旧約のすべての預言者たちと教師たちを通して語られたことがここに含まれている。人間の教えは除外されている。 DA 1113.1

言い伝えや、人間の理論や結論、あるいは教会の律法がはいる余地はない。教会の権威によって定められたおきては、この任務の中に含まれていない。キリストのしもべたちは、そうしたものを教えるのではなかった。キリストご自身のことばと行為についての記録とともに、「律法と預言者」が世に与えるように弟子たちに委託された宝である。キリストのみ名は、彼らの合いことばであり、彼らを世人と区別する記章であり、彼らの一致のきずなであり、彼らの行動の権威であり、彼らの成功のみなもとである。キリストのみ国では、キリストのみ名がきざまれていないものはどんなものでも認められないのである。 DA 1113.2

福音を、生命のない理論としてではなくて、生活を変える生きた力として示さねばならない。神は、ご自分の恩恵を受ける者たちをその力の証人にならせようと望んでおられる。神のみこころを痛めるような生活を送っていた人たちでも神は快く受け入れてくださる。彼らが悔い改める時に、神は、ご自分の聖なるみたまをさずけ、彼らを高い責任の地位に置き、神の隈りない憐れみをのべ伝えるために彼らを不忠実な者たちの陣営につかわされる。神の恵みによって人はキリストのような品性を持つことができ、神の大いなる愛の保証を喜ぶことができるということについて、神はご自分のしもべたちがあかしをたてるよう望まれる。人類が神のむすこ、むすめとしてその聖なる特権を回復し、復帰するまで神は満足することがおできにならないということについて、われわれにあかしをたてさせたいと神は望まれる。 DA 1113.3

キリストのうちには、牧者のやさしさ、親の愛情、憐れみ深い救い主の比類のない恵みがある。キリストは、最も魅力のあることばで祝福をお与えになる。主はそうした祝福を宣言されるだけでは満足されない。主は、それらの祝福を、自分のものにしたいという願いを起こさせるように、最も魅力的な方法で提供される。キリストのしもべたちも同じように、言いあらわしようのない賜物であるキリストの栄光の富を紹介するのである。教理の単なるくりかえしでは何1つできない時に、キリストのすばらしい愛は心をとかし、これを従えるのである。 DA 1113.4

「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と。……主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆ……かれる」(イザヤ40:1、9~11)。「万人にぬきんで……はなはだ美しい」おかたについて人々に告げ知らせなさい(雅歌5:10、16)。ことばだけではそれを語ることができない。それを品性に反映し、生活にあらわそう。キリストは弟子たち一人一人のうちにご自分が再現されるのを待っておられる。神は一人一人を「御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった」(ローマ8:29)。一人一人を通して、キリストの寛容と愛、聖潔、柔和、憐れみ、まことが世にあらわされるのである。 DA 1113.5

最初の弟子たちは出て行ってみことばをのべ伝えた。彼らはその生活にキリストをあらわした。そこで主は彼らと共に働き、「御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」(マルコ16:20)。これらの弟子たちは働きのために備えをした。ペン テコステの日の前に、彼らは共に集まって、すべての不和をすて去った。彼らは1つになった。彼らは祝福が与えられるとのキリストの約束を信じ、信仰をもって祈った。彼らは自分たちのためだけに祝福を求めなかった。彼らは魂の救いのために重荷を負った。福音を地の果てまで伝えることになったので、彼らは、キリストの約束された力がさずけられるように求めた、その時聖霊がそそがれ、1日に幾千の人々が悔い改めた。 DA 1113.6

今もこれと同じである。人間の空論ではなく、神のみことばをのべ伝えよう。クリスチャンは不和をとり除き、失われた者を救うために神に献身しよう。信仰をもって祝福を求めるときに、それは与えられるのである。使徒時代の聖霊の降下は「秋の雨」であったが、その結果はすばらしかった。しかし「春の雨」はもっと豊かなものとなるであろう(ヨエル2:23参照)。 DA 1114.1

心と体と魂を神にささげる者は誰でも体力と知力の新しい賜物をたえず受けるであろう。天の尽きることのない補給は彼らの思いのままに与えられる。キリストは彼らにご自身の霊の息吹、すなわちご自身の命をお与えになる。聖霊は心と思いに働くためにその最高の能力をそそがれる。神の恵みは彼らの能力を幾倍にも大きくし、神の性質のあらゆる完全さが救霊の働きにおいて彼らの助けとして与えられる。キリストとの協力によって、彼らはキリストのうちにあって完全であり、人間的な弱さのうちにあっても全能者の行為をなすことができる。 DA 1114.2

救い主は、全世界の人々に恩恵をあらわし、ご自身の品性を印象づけようと熱望される。世界はキリストが買われた所有物であって、主は人々を自由にし、純潔にし、聖にしようと望まれる。サタンはこの目的を妨害しようとして働くが、世の人々のために流された血によって、神と小羊に栄光をもたらす勝利がなしとげられるのである。キリストは、勝利が完全になるまでは満足されない。「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足」されるのである(イザヤ53:11)。地のすべての国民は、キリストの恩恵の福音を聞くであろう。全部の者がキリストの恩恵を受け入れるわけではないが、「子々、孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え」るのである(詩篇22:30)。「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられ」「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちる」(ダニエル7:27、イザヤ11:9)。 DA 1114.3

「こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる」(イザヤ59:19)。 DA 1114.4

「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって『あなたの神は王となられた』と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。……荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。主はその民を慰め、……主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救いを見る」(イザヤ52:7~10)。 DA 1114.5