各時代の希望

87/87

第87章 「わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ」

本章はルカ24:50~53、使徒行伝1:9~12に基づく DA 1114.6

キリストが天父のみ座へのぼられる時がきた。天来の勝利者として、イエスは勝利の記念品をたずさえて天の宮廷へ帰ろうとしておられた。イエスは、なくなられる前に、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げ……ました」と天父に言明された(ヨハネ17:4)。よみがえって栄光を受けられたお体の主を弟子たちが親しく知ることができるように、イエスは、よみがえられたのちしばらく地上にとどまられた。いまイエスは別れを告げようとしておられた。主はご自分が生ける救い主であるという事実を証明された。弟子たちはもうイエスを墓とむすびつけて考える必要はなかった。彼らはイエス を天の宇宙の前で栄光を受けられたお方として考えることができた。 DA 1114.7

イエスは、昇天の場所として、在世中そのご臨在によって幾度もきよいところとされた場所をえらばれた。このような栄光を受けることになったのは、ダビデの都のあった場所シオンの山でもなければ、神殿のあった場所モリヤの山でもなかった。そこでは、キリストがあざけられ、捨てられたのであった。そこでは、もっと強い愛の潮流となってもどって行くあわれみの波が、岩のようにかたくなな心によって打ち返されたのであった。そこからイエスは、心に重荷を負い、疲れはててオリブ山へ休みに行かれたのだった。聖なるシカイナは、最初の神殿を離れる時に、えらばれた都を捨てるのをいやがるかのように東の山にとどまった。同じようにキリストは、燃える思いをもってエルサレムを見わたしながらオリブ山に立たれた。山の森や谷はイエスの祈りと涙できよめられたのだった。そのけわしい坂はイエスを王として宣言した群集の勝利の叫びをこだましたのだった。その下り坂にあるベタニヤにはイエスがよく行かれたラザロの家があった。山のふもとのゲッセマネの園で、主はただ1人祈り、苦しまれたのだった。 DA 1115.1

この山から、イエスは天へのぼろうとしておられた。ふたたびイエスがこられる時、その足はこの山のいただきをふまれるであろう。悲しみの人としてではなく、輝かしい勝利の王として、イエスはオリブ山に立たれるであろう。その時ユダヤ人のハレルヤと異邦人のホサナとが入りまじり、あがなわれた人々の声が、大いなる軍勢のように、「すべての者の主なるキリストに王冠を」との歓呼となって高まるであろう。 DA 1115.2

いまイエスは11人の弟子たちとこの山の方へ向かって行かれた。彼らがエルサレムの門を通りぬけると、多くの人々が、数週間前に役人たちによって有罪を宣告され、十字架につけられた人にひきいられたこの小さな一団をふしぎな目つきで見た。弟子たちはこれが主との最後の面会になるとは知らなかった。イエスは、彼らと語り、前にお教えになったことをくりかえすことに時間をついやされた。彼らがゲッセマネに近づくと、イエスは、あの非常な苦悩の夜お与えになった教訓を彼らに思い出させるために、立ちどまられた。もう1度イエスは、教会とご自分と天父との結合を象徴されたことのあるぶどうの木をごらんになった。ふたたびイエスは、その時お示しになった真理をくりかえされた。イエスの周囲のあらゆるものが、報いられなかったイエスの愛を思い出させた。イエスのお心にとってあれほど親しかった弟子たちさえ、イエスの屈辱の時に、彼を責め捨てたのだった。 DA 1115.3

キリストはこの世に33年間とどまられた。主はこの世のあざけり、侮辱、嘲笑に耐えられた。主は捨てられ、十字架につけられた。いま栄光のみ座にのぼろうとされる時、——ご自分が救うためにおいでになった民の恩知らずをかえりみて——イエスは、彼らに対する同情と愛を引っこめておしまいになるのではないだろうか。イエスが高く評価され、罪なき天使たちがその命令を実行しようと待っている王国に、イエスの愛情が集中されるのではないだろうか。そうではない。イエスが地上に残される愛する者たちへの約束は、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」である(マタイ28:20)。 DA 1115.4

オリブ山にお着きになると、イエスは先頭に立って山の頂上を越え、ベタニヤの近所へ行かれた。ここでイエスは立ちどまられたので、弟子たちはそのまわりに集まった。イエスがやさしく彼らを見わたされると、そのお顔から光線が輝き出ているように見えた。イエスは彼らの欠点や失敗を責められなかった。彼らの耳に聞こえた主の唇からの最後のことばは、最も深いやさしさに溢れたことばであった。祝福のうちに、そしてあたかも主の守りを保証するかのように、両手をひろげて、イエスはゆっくり彼らを離れて上昇され、地上のどんな引力よりも強い力によって天の方へ引きあげられた。イエスが上の方へのぼって行かれると、畏敬の念にうたれた弟子たちは、昇天される主の最後の面影を目をこらして見つめた。栄光の雲がイエスを彼らの目からかくした。そして雲のような天使たちの戦車がイエスを受けると、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのであ る」ということばが弟子たちのもとに返ってきた(マタイ28:20)。同時に天使の合唱隊から最高の美しさと喜びに満ちた音楽の調べがただよってきた。 DA 1115.5

弟子たちがまだ上の方を見つめていると、すばらしい音楽のようなひびきをもった声が彼らに語りかけた。ふり向くとそこには人のかたちをした2人の天使の姿が見られた。天使は弟子たちに、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」と言った(使徒行伝1:11)。 DA 1116.1

この天使たちは、イエスを天の家へ送りとどけるために光り輝く雲の中に待っていた天使の群れの中の者であった。天使の群れの中で最も高い地位にあるこの2人の天使たちは、キリストの復活の時に墓にやってきた天使たちであり、またこの地上におけるキリストの一生のあいだつきそっていた天使たちであった。全天は、罪ののろいに傷つけられたこの世におけるキリストの滞在が終わるのを非常な期待をもって待っていた。いまや天の宇宙が王なるイエスを受け入れる時がきたのだった。 DA 1116.2

この2人の天使たちはイエスを歓迎する群れに加わりたいと願わなかっただろうか。しかしイエスがあとに残された人々に対する同情と愛から、彼らは慰めを与えるために待った。「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか」(ヘブル1:14)。 DA 1116.3

キリストは人の姿をして天へのぼられた。弟子たちは雲がイエスを受けるのを目に見た。彼らと共にあゆみ、語り、祈られたお方、彼らと共にパンをさかれたお方、湖の上で彼らの舟にいっしょにおられたお方、その日彼らと共にオリブ山の登り道を苦労されたお方、その同じイエスが天父と同じみ座につくためにいま行っておしまいになったのである。ところが天使たちは、天にのぼられるのを弟子たちが見たそのお方が、のぼって行かれたのと同じにふたたびこられることを保証したのであった。「彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目……は、彼を仰ぎ見るであろう」「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう」(黙示録1:7、Ⅰテサロニケ4:16、マタイ25:31)。こうして弟子たちに対する主ご自身の約束、「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」とのみことばが成就するのである(ヨハネ14:3)。主がふたたびこられるとの望みに弟子たちが喜んだのも当然であった。 DA 1116.4

弟子たちがエルサレムへ帰ると、人々は驚いて彼らを見た。キリストの裁判と十字架のあと、彼らは、落胆し恥じているだろうと思われていた。反対者たちは彼らの顔に悲しみと敗北の表情が見られるものと予期していた。ところが予想に反して、喜びと勝利だけがみられた。彼らの顔はこの世のものではない幸福に輝いていた。彼らは望みが裏切られたことを嘆かないで、神への賛美と感謝に満たされていた。彼らは大喜びで、キリストの復活と昇天についてのすばらしい話を語ったが、そのあかしは多くの人々に信じられた。 DA 1116.5

弟子たちは将来についてもはやなんの不安もなかった。イエスが天におられ、イエスの思いはいまも彼らと共にあることがわかっていた。彼らは神のみ座に友なるイエスがおられることを知り、イエスのみ名によって熱心に天父に願いごとをささげた。彼らは厳粛な畏敬の念をもって祈り、「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」との約束をくりかえした(ヨハネ16:23、24)。彼らは、「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」とのすばらしい論証を もって、信仰の手をますます高くさしのべた(ローマ8:34)。こうして、ペンテコステの時には、キリストが約束されたとおりに、助け主の臨在によってあふれるばかりの喜びが与えられたのであった。 DA 1116.6

全天は救い主を天の宮廷に歓迎しようと待っていた。キリストは、のぼって行かれる時先頭に立たれ、主の復活の時に解放された多くのとりこが続いた。天の軍勢は、賛美と歓呼の叫びと天の歌をもって、喜びの行列につきそった。 DA 1117.1

彼らが神の都に近づくと、護衛の天使たちが呼びかける。—— DA 1117.2

「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。 DA 1117.3

栄光の王がはいられる」。 DA 1117.4

すると待っていた見張りの天使たちが再びの声をあげて応じる。—— DA 1117.5

「栄光の王とはだれか」。 DA 1117.6

彼らがこう言うのは、王がだれかを知っていないからではなく、称賛と賛美の答えを聞きたいからである。—— DA 1117.7

「強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。 DA 1117.8

門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。 DA 1117.9

栄光の王がはいられる」。 DA 1117.10

ふたたび、「この栄光の王とはだれか」との呼びかけの声が聞かれるが、それは天使たちが主のみ名があがめられるのを聞くのにあきることがないからである。護衛の天使たちは答える。—— DA 1117.11

「万軍の主、これこそ栄光の王である」。 DA 1117.12

(詩篇24:7~10) DA 1117.13

その時神の都の門があけ放たれ、天使の群れは、歓喜の音楽でわきたっ中を、門を通りすぎる。 DA 1117.14

神のみ座があって、そのまわりに約束のにじがかかっている。ケルビムとセラピムがいる。天使の軍勢の指揮者たち、神の子ら、他世界の代表者たちが集まっている。ルシファーが神とみ子を訴えた天の会議、サタンが自分の主権をうちたてようと考えた罪のない世界の代表者たち、——すべての者たちがあがない主を歓迎するためにそこにいる。彼らはキリストの勝利を祝い、彼らの王をあがめようと熱心に待ちかまえている。 DA 1117.15

しかしキリストは彼らをおしとどめられる。まだなのだ。キリストはまだ栄光の王冠と王衣をお受けになることができない。彼は天父の前に出られる。主はご自分の傷ついた頭と、刺し通された脇腹と、傷ついた足とを指さし、釘あとのついている両手を挙げられる。主はご自分の勝利のしるしである人々を指さされる。彼は、揺祭のたば、すなわち再臨の時に墓から現れる大群集を代表する者としてキリストと共によみがえった人たちを神に紹介される。主は天父に近づかれる。天父は海い改める1人の罪人をお喜びになり、歌をもってこれを喜ばれるお方である。地の基が置かれる前から、天父とみ子は、人がもしサタンに征服されたらこれをあがなうという契約に一致しておられた。キリストが人類の保証人になられるという厳粛な誓約をお2人はかわしておられた。この誓約をキリストは果たされたのである。十字架上でキリストが、「すべてが終った」と叫ばれた時、彼は天父に向かって話しかけられたのであった(ヨハネ19:30)。契約は完全に果たされた。そしていまイエスは、こう宣言される。父よ、すべてが終わりました。わが神よ、わたしはあなたのみこころをなしました。わたしはあがないのわざを完結しました。もしあなたの正義が満足させられましたならば、「あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい」(ヨハネ17:24)。 DA 1117.16

正義は満足させられたと宣告される神のみ声が聞こえる。サタンは征服された。地上にあって苦労し、戦っている人々は「愛する御子によって」受け入れられる(エペソ1:6)。天のみ使いたちと他世界の代表者たちの前で、彼らが義とされたことが宣告される。キリストのおられるところに、その教会もある。「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし」た(詩篇85:10)。天父はみ子をだきかかえ、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」とのみことばが発せられる(ヘブル1:6)。 DA 1117.17

言いあらわすことのできない喜びをもって、主権者も支配も権威も生命の君の主権を承認する。天使の万軍がキリストの前にひれ伏すと、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」との喜びの叫びが、天のすべての宮廷を満たす(黙示録5:12)。 DA 1118.1

勝利の歌は天使たちのたてごとの調べとまじり、ついに天は喜びと賛美に満ちあふれているようにみえる。愛は勝利したのだ。失われたものはみいだされたのだ。「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」とのべつたえる高らかな歌声が天にひびきわたる(黙示録5:13)。 DA 1118.2

この天の喜びの光景から、「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」とのキリストご自身のすばらしいみことばの反響が地上のわれわれのもとに返ってくる(ヨハネ20:17)。天の家族と地の家族は1つである。われわれのために主はのぼり、われわれのために主は生きておられる。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)。 DA 1118.3