各時代の希望
第85章 もう一度海辺で
本章はヨハネ21:1~22に基づく DA 1102.5
イエスは弟子たちにガリラヤで会う約束をされた。そこで過越の週が終わるとすぐ、彼らはそこへ足を向けた。もし祭の間エルサレムにいなかったら、彼らは不誠意や異端として解釈されたであろう。そこで彼らは祭が終わるまで残っていた。しかし祭が終わると、彼らは救い主に会うために指示されたとおりに喜んで故郷へ向かった。 DA 1102.6
7人の弟子たちが一緒だった。彼らはいやしい漁夫の身なりをしていた。彼らは世俗的な財産にはとぼしかったが、真理を知り、これを実行することに富 んでいた。そのために彼らは、天の神の目には、教師として最高であった。彼らは、預言者の学校の生徒だったことはなかったが、世に知られるかぎり最高の教育者によって3年間教えられていた。キリストの教えによって、彼らは高められ、賢明になり、洗練されて、人々を真理の知識に導く器となっていた。 DA 1102.7
キリストは、公生涯の時間の多くをガリラヤの海辺ですごされた。弟子たちが人々から邪魔されないような場所に集まると、彼らは、イエスとその偉大なみわざを思い出させるものにかこまれていることに気がついた。この海の上で、彼らの心が恐怖に満たされ、激しい嵐が彼らを破滅に追いやろうとした時、イエスが波の上を歩いて彼らの救助にこられたのだった。ここで嵐がイエスのみことばによって静められたのだった。すこしの小さなパンと魚で1万人以上の人々が養われた海辺は目のとどくところにあった。多くの奇跡の舞台となったカペナウムは遠くなかった。あたりの風景をながめていると、弟子たちの心は救い主のことばと行為でいっぱいになった。 DA 1103.1
気持ちのよい夜だった。するとペテロは、舟で魚とりに出ていくことにまだ以前の愛着を多分に持っていて、海へ出て行って網をうとうと提案した。この計画に彼らはすぐに加わった。彼らは食物と衣類が必要だった。うまくいけば一晩の魚獲によってこの必要が満たされるのであった。そこで彼らは舟にのって出かけたが、何もとれなかった。 DA 1103.2
一晩中働いたが効果はなかった。退屈な時間の間中、彼らはそこにおられない主のことを語り合い、海辺でのイエスの伝道で目に見たふしぎな出来事を思い起こした。彼らは自分たちの将来についてたずね合い、前途を悲観する気持ちが高まった。 DA 1103.3
その間中ずっと、イエスは、ただ1人岸辺で彼らのあとを目でおっておられたが、その姿は彼らの目に見えなかった。ついに夜が明けた。舟は岸からすこししか離れていなかったので、弟子たちは見知らない人が波打ち際に立っているのをみとめた。するとその人は近づいてきて、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言った。「彼らは『ありません』と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、『舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう』。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった」(ヨハネ21:5、6)。 DA 1103.4
ヨハネは、その見知らない人が誰であるかわかって、ペテロに「あれは主だ」と叫んだ。ペテロはすっかり喜んで元気になり、じっとしていられなくなって、水の中にとびこんで行き、すぐに主のそばに立った。ほかの弟子たちは、魚のはいった網をひきながら、舟にのったままやってきた。「彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった」(ヨハネ21:9)。 DA 1103.5
彼らはあまり驚いたので、その火と食物をどこから持ってこられたのかたずねなかった。「イエスは彼らに言われた、『今とった魚を少し持ってきなさい』」(ヨハネ21:10)。ペテロはさっき手離した網のところへ走って行って、兄弟たちがそれを岸へ引きあげるのを手伝った。働きが終わり、川意ができると、イエスは弟子たちに食事に来るように命じられた。イエスは食物をさき、それを彼らにわけられたが、7人の者たちはみなそれがイエスであることを知って認めた。山の上で5000人を養われた奇跡が今彼らの、心によみがえってきた。しかしふしぎなおそれに満たされて、彼らは、黙ったまま救い主をみつめた。 DA 1103.6
イエスがわたしに従ってきなさいと彼らに言われた時の海辺の光景がまざまざと思い出された。彼らは、イエスの命令で、深いところへこぎ出して、網をおろしたら、網が破けそうになるほど網にいっぱいたくさんの魚がとれたことを思い出した。その時イエスは、魚とりの舟を捨てるようにと言われ、彼らに人をすなどる者としようと約束されたのだった。イエスがふたたび奇跡を行われたのは、その時の場面を思い出させ、その印象を深いものとするためだった。イエスの行為は、弟子たちの任命の更新であった。それは、主が死なれても、彼らがイエスから指定された働きをなす義務は軽減されていないということを示した。主との直接のまじわりはなくなり、また以前の職業による生計の道はなくなるのであったが、よみがえられた 救い主はなお彼らのことを心にかけてくださるのであった。そして彼らが主の働きをしているかぎり、主は彼らの必要に備えてくださるのであった。またイエスが彼らに網を舟の右側におろすように命じられたことには目的があった。右側には、イエスが岸に立っておられた。それは信仰の側であった。もし彼らがイエスとつながって働くなら、すなわちイエスの神としての力が彼らの人間的努力と結合する時、彼らはかならず成功するのであった。 DA 1103.7
キリストはもう1つの教訓をお与えにならねばならなかったが、それは特にペテロに関してであった。ペテロが主をこばんだことは、彼が以前に告白した忠誠心と恥ずかしい対照をなしていた。彼は主を恥ずかしめ、兄弟たちの不信を招いた。彼らはペテロが彼らの間で以前のような立場を占めることはゆるされないと考え、また彼自身も信頼を裏切ったものと思っていた。使徒としての働きにふたたび召される前に、彼は、兄弟たち全部の前で悔い改めの証拠を示さねばならない。そうしなければ悔い改めたとはいっても、彼の罪は、キリストの牧師としての彼の感化力を失わせたかもしれない。救い主は、ペテロが兄弟たちの信頼をとりもどし、彼が福音の上に招いた非難をできるだけとりのぞく機会を彼にお与えになった。 DA 1104.1
ここに、キリストに従うすべての者に対する教訓がある。福音は悪と妥協しない。それは罪をみのがすことができない。ひそかな罪はひそかに神に告白すべきである。しかし公然の罪には公然の告白が必要である。 DA 1104.2
弟子たちの罪に対する非難はキリストにあびせられる。それはサタンを勝利させ、動揺する魂をつまずかせる。悔い改めの証拠を示すことによって、この弟子は、力のおよぶかぎり、この非難をとりのぞくのである。 DA 1104.3
キリストが海辺で弟子たちといっしょに食事をしておられる時、救い主は、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」とペテロに言われた(ヨハネ21:15)。この人たちとは兄弟たちのことである。ペテロはかつて、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と断言したことがあった(マタイ26:33)。しかしこんどは、彼はもっと真実に自分自身を評価していた。ペテロは、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と言った(ヨハネ21:15)。わたしの愛は兄弟たちの愛よりも大きいのですという誇大な保証はない。彼は自分の献身について自分自身意見を表明しない。心のすべての動機を読まれるお方に、彼は、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と言って、彼の真心について判断してくださるようにお願いする。するとイエスは、「わたしの小羊を養いなさい」と命じられる(ヨハネ21:15)。 DA 1104.4
ふたたびイエスは、ペテロに質問して、前のことばをくりかえされる。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(ヨハネ21:16)。こんどはイエスは、ペテロが兄弟たちよりもイエスを愛するかどうかをおたずねにならなかった。2度目の答えも初めと同じに、誇張した保証はなく、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」であった。イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と彼に言われた(ヨハネ21:16)。もう1度イエスは、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と試みの質問をされた。ペテロは悲しんだ。彼はイエスが自分の愛を疑っておられると思った。主が自分を信頼されない理由があることを知っていたので、彼は、心をいためて、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と答えた。するともう1度イエスは、「わたしの羊を養いなさい」と言われた(ヨハネ21:17)。 DA 1104.5
3度ペテロは公然と主を知らないと言った、そこでイエスは3度ペテロから愛と忠誠心の保証を引き出し、その鋭い質問を、ちょうどさかとげのある矢のように、彼の傷ついた心につきつけられた。弟子たちの集まっている前で、イエスは、ペテロの悔い改めの深さを明らかにし、かつては威張っていた弟子がどんなに徹底的にへりくだった者になったかをお示しになった。 DA 1104.6
ペテロは、生まれつき出しゃばりで衝動的だったので、サタンは彼を倒すためにそうした特性につけこんだ。ペテロがつまずく直前に、イエスは、「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と彼に言われたのであった(ルカ22:31、32)。その時が今きていた。そしてペテロの生まれ変わりは明らかだった。主が、綿密な、試みの質問をされても、出すぎた、自己満足の答えは1つも出てこなかった。そしてそのけんそんと悔い改めのゆえに、ペテロは、群れの牧者として行動する前に、これまでになかったほどよい準備ができた。 DA 1105.1
ペテロを伝道に復帰させるとすぐにキリストが彼にまかされた最初の働きは、小羊を飼うことであった。これはペテロにとってほとんど経験のない働きだった。それには非常な注意とやさしさ、また非常な忍耐と辛抱が必要だった。それは、信仰の若い人たちに奉仕し、無知な人たちに教え、彼らの前に聖書を開き、彼らをキリストの奉仕に役立つように教育する働きであった。これまでペテロはそのような働きをするのにふさわしくなかったし、またその重要さを理解してもいなかった。しかしこれこそイエスがいまペテロを召された働きだった。この働きのために、彼自身の苦難と悔い改めの経験が準備となっていた。 DA 1105.2
ペテロはつまずく前には、いつも瞬間的な衝動から不用意にしゃべっていた。彼は自分自身について、あるいは自分が言わねばならないことについてはっきりした自覚をもたないうちに、いつもすぐ人を矯正したり、自分の思っていることを口に出したりした。 DA 1105.3
しかし悔い改めたペテロはまったくかわった。彼の以前の激しさは残っていたが、キリストの恵みがその熱心さを調節した。彼はもう激越でもなければ、自己を過信することも威張ることもなく、冷静で、落ち着いていて、教えを受け入れた。その時彼はキリストの羊の群ればかりでなく小羊も飼うことができた。 DA 1105.4
ペテロに対するキリストの態度は本人にとっても、兄弟たちにとっても教訓となった。それは、罪を犯した者に忍耐と同情とゆるしの愛をもって対するようにということを彼らに教えた。ペテロは主を知らないと言ったけれども、彼をがまんされたイエスの愛は決してゆるがなかった。キリストの牧者は、自分の手に世話をまかされた羊と小羊にこれとちょうど同じ愛を感じなければならない。ペテロは、自分自身の弱さと失敗を忘れないで、キリストが彼を扱われたようにやさしく羊の群れを扱うのであった。 DA 1105.5
キリストがペテロにされた質問には深い意味があった。キリストは、弟子であることと奉仕とについてたった1つの条件を述べられた。「わたしを愛するか」と、主は言われた。これが必要欠くことのできない資格である。ペテロがほかのあらゆる資格をそなえていても、キリストの愛がなければ、彼は主の羊の群れを飼う忠実な牧者となることはできない。知識、慈悲心、雄弁、感謝、熱意はすべてよい働きの助けとなる。しかしイエスの愛が心のうちになければ、キリスト教の牧師の働きは失敗である。 DA 1105.6
イエスは、ペテロにだけ知らせておきたいと望まれたことがあったので、ペテロと2人だけで歩かれた。イエスは死なれる前、ペテロに、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」と言われた。するとペテロは、「主よ、なぜ今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」と言った(ヨハネ13:36、37)。こう言った時、彼は、キリストの足がどんなに高いところ、どんなに深いところへ進んで行かれるのかすこしも知っていなかった。 DA 1105.7
ペテロは試練がやってきた時失敗したが、ふたたびキリストに対する彼の愛を証明する機会を与えられることになった。ペテロが最後の信仰の試練のために力づけられるように、救い主は、彼の将来をお示しになった。有用な人生を送って、老齢が体力に影響を及ぼしはじめた時、ペテロはほんとうに主のあとに従うのであった。「イエスは彼に言われた、『……あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思い のままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すためにお話しになったのである」(ヨハネ21:18、19)。 DA 1105.8
このようにイエスは、ペテロがどんな死に方をするかをお知らせになった。イエスはペテロが十字架上で手をひろげることまで予告された。そしてふたたびイエスは、この弟子に、「わたしに従ってきなさい」と言われた(ヨハネ21:19)。ベテロはこのように示されたことによって落胆しなかった。彼は主のためにどんな死でも喜んで受けたいと思った。 DA 1106.1
いま多くの人々がそうであるように、ペテロはそれまで肉体をとられたキリストしか知らなかった、しかしいまはもうこのような限られた見方はしなかった。彼は、人性をとられたキリストと交わっていた時のような見方はもうしなかった。彼はイエスを1人の人、天からっかわされた教師として愛していたが、今はイエスを神として愛した。彼は、キリストが自分にとって何ものにもかえがたいお方であるという教訓を学んできた。いま彼は、主の犠牲の使命にあずかる用意ができた。ついにト字架の前につれてこられた時、彼は、自分からたのんで、さかさまにはりつけられた。彼は主と同じ方法で苦難を受けることはあまりに名誉すぎると考えたのであった。 DA 1106.2
ペテロにとって、「わたしに従ってきなさい」ということばは教訓に満ちていた(ヨハネ21:19)。この教訓は、彼の死についてばかりでなく、彼の人生の1歩1歩について与えられた。それまでペテロは自分勝手に行動する傾向があった。彼は、神の計画を実行するために待とうとしないで、自分が神の働きのために計画しようとした。 DA 1106.3
しかし、主よりも先に突進しても、何も得るところがなかった。イエスは彼に、「わたしに従ってきなさい」と命じられる。わたしより先に走ってはならない。そうしたら、あなたは1人でサタンの軍勢に対抗しなくてもよいのだ。わたしをあなたより先に行かせなさい。そうしたら、あなたは敵にうち負かされることがないであろう。 DA 1106.4
ペテロがイエスのそばを歩いていると、彼はヨハネがついてくるのに気がついた。するとこんどはヨハネの将来について知りたいという願いが起こったので、彼は、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』」(ヨハネ21:21、22)。ペテロが知った方がよいことはみな主が彼に明らかにしてくださるということを彼は考えろべきであった。他人にわりあてられた働きについて余計な心配をしないで、キリストに従うことが各人の義務である。ヨハネについて、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても」と言われたことによって、イエスは、この弟子が主の再臨まで生きるという保証をお与えになったのではなかった(ヨハネ21:22)。イエスはご自身の最高権力を主張され、そしてたといそうなるように望まれたとしてもそれは何もペテロの働きに影響を与えるものではないということを言われたにすぎなかった。ヨハネとペテロの将来は主のみ手にあった。イエスに従順に従うことが2人に要求される義務であった。 DA 1106.5
今日ペテロのような人がなんと多いことだろう。彼らは、人のことに関心を持ち、自分自身の義務をおろそかにする危険があるのに、他人の義務を知りたがる。キリストをながめ、キリストに従うことがわれわれのわざである。他人の生活にまちがいが、他人の品性に欠点が見えるであろう。人性は弱さを負っている。しかしキリストのうちには完全さがある。キリストを仰ぎ見ることによって、生まれ変わった者となるであろう。 DA 1106.6
ヨハネは非常に長生きした。彼はエルサレムの滅亡と、広大な神殿の破壊を目に見たが、それは世界の最後の滅亡を象徴していた。ヨハネは最後の日まで、親しく主に従った。教会に対するヨハネのあかしの主旨は、「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛 し合おうではないか」「愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」ということであった(Ⅰヨハネ4:7、16)。 DA 1106.7
ペテロは使徒の任務に復帰させられたが、キリストから栄誉と権威を受けたことは、彼が兄弟たちよりも優越した地位を与えられたことを意味しなかった。「主よ、この人はどうなのですか」とのペテロの問いに答えて、主が、「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われた時に、キリストはこの点をはっきり示された(ヨハネ21:21、22)。ペテロは教会のかしらとしての栄誉を与えられたのではなかった。ペテロの背信をゆるし、羊の群れを養うことを委ねられることによってキリストが彼に示された恵みと、ペテロ自身が忠実にキリストに従ったことによって、彼は兄弟たちの信頼をかち得た。彼は教会の中で大きな影響力を持っていた。しかしペテロは、ガリラヤの海辺でキリストから教えられた教訓を一生の間忘れなかった。聖霊によって彼は教会にあててこう書いた、「そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」(Ⅰペテロ5:1~4)。 DA 1107.1