各時代の希望

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第81章 「主はよみがえられた」

本章はマタイ28:2~4、11~15に基づく DA 1088.4

週の初めの日の夜がゆっくりと過ぎて行った。夜明け前のいちばん暗い時間がきていた。キリストはまだ囚人としてそのせまい墓の中におられた。大きな石はもとの場所にあって、ローマの封印は破れていなかった。ローマ人の番兵たちが見張りをつづけていた。そこにはまた、目に見えない見張りたちもいた。悪天使の軍勢がそのあたりに集まっていた。もしできることなら、暗黒の君は、その背信の軍勢をもって神のみ子のとじこめられた墓を永久に封印したであろう。しかし、天の軍勢が墓所をかこんだ。力のすぐれた天使たちが墓を守り、生命の君を迎えようと待っていた、 DA 1088.5

「すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下っ」たのであった(マタイ28:2)。神の武具をまとって、この天使は、天の宮廷を出発した。神の栄光の輝かしい光が彼の前にあって、その行く手を照らした。 DA 1088.6

「その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった」(マタイ28:3、4)。 DA 1088.7

さあ、祭司たちと役人たちよ、あなたがたの防備力はどこにあるのか。人の力を決して恐れたことのなかった勇敢な兵士たちが、いまは剣ややりもなしにとらえられた捕虜のようである。彼らが見あげる顔は人間の戦士の顔ではない。それは主の軍勢の中の一番強い戦士の顔である。この使者は、サダンが落ちたあとの地位を占めている者であるそれはべ ツレヘムの丘でキリストの誕生を宣告した者である。彼が近づいて地が震動し、暗黒の軍勢が逃げ去り、彼が石をころがし去ると、天が地におりてくるようにみえる。兵士たちは、彼がその石をあたかも小石のようにとりのぞくのを見、彼が、神のみ子よ、姿を現してください、父があなたを呼んでおられますと叫ぶのを聞く。 DA 1088.8

彼らはイエスがよみから現れて、開かれた墓のあたりで、「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言されるのを聞く(ヨハネ11:25)。イエスが威光と栄光のうちに姿を現されると、天使の万軍は、あがない主をあがめて、その前に低く頭をたれ、賛美の歌でイエスを迎える。 DA 1089.1

キリストがいのちを捨てられた時刻が地震によって示されたが、勝利のうちにいのちをおとりになった瞬間がもう1度地震によってあかしされた。死とよみを征服されたキリストは、地の震動と、いなずまのひらめきと雷のとどろきの中を勝利者の歩調で墓から出てこられた。イエスがふたたびこの地上にこられる時、彼は「地ばかりでなく天をも震わ」れるのである。「地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のよりにゆり動く」「もろもろの天は巻物のように巻かれ」「天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」「しかし主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである」(ヘブル12:26、イザヤ24:20、34:4、Ⅱペテロ3:10、ヨエル3:16)。 DA 1089.2

イエスが死なれた時に、兵士たちは、真昼に地が暗黒につつまれたのを見た。しかし、よみがえりの時に彼らは天使たちの輝きが夜を照らすのを見、天の住民が大きな喜びと勝利のうちに、あなたはサタンと暗黒の勢力を征服されました、あなたは死を勝利のりちに呑まれましたと歌うのを聞いた。 DA 1089.3

キリストは栄化されて墓から姿を現され、ローマ人の番兵たちは彼を見た。彼らはつい先日、自分たちがあざけり、嘲笑したお方の顔に目をこらした。この栄化されたお方のうちに、彼らが法廷で見た囚人、いばらの冠を編んでかぶせた人を見た。これが、残酷なむち打ちで体を傷つけられて、ピラトとヘロデの前に無抵抗のまま立っていた人であった。これが、十字架につけられ、満足しきった祭司たちと役人たちから軽蔑したようすで、彼は、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない」と言われた人であった(マタイ27:42)。これがヨセフの新しい墓に横たえられたお方であった。天の布告は、このとりこを解放した。彼の墓に山また山を積みあげたとしても、イエスが出てこられるのをとめることはできなかった。 DA 1089.4

天使たちと栄化された救い主を見ると、ローマ人の番兵たちは、気を失って死人のようになった。天の余光が視界からかくれると、彼らは起きあがり、ふるえる手足をできるだけ早く動かしながら園の門の方へ進んで行った。酒に酔ったもののようによろめきながら、彼らは都へ急ぎ、出会う人たちにふしぎな知らせを告げた。彼らは、ピラトのところへ向かっていたが、彼らの知らせはすでにユダヤ当局に伝えられていたので、祭司長たちと役人たちが彼らをまず自分たちの前につれてくるように迎えを出した。兵士たちは異様な姿を現した。彼らは、恐怖にふるえ、顔色を失って、キリストの復活を証言した。兵士たちは、自分が見たとおりのことをのこらず語った。事実以外のことを考えたり話したりする時間はなかった。彼らは、苦痛に満ちた口調で、十字架につけられたのは神のみ子でした、わたしたちは天使がイエスを天の大君、栄光の王として宣言するのを聞いたのですと言った。 DA 1089.5

祭司たちの顔は死人のようであった。カヤパがしゃべろうとした。彼の唇は動いたが声にならなかった。兵士たちが会議室から出ようとすると、1つの声が彼らをとどめた。カヤパがやっと口をきいたのだ。待て、待てと彼は言った。おまえたちの見たことを誰にも言ってはならないぞ。 DA 1089.6

それから、いつわりの知らせが兵士たちにさずけられた。「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え」と祭司たちは言った(マタイ28:13)。ここで彼らは自ら策略につまずいた。兵士たちは、自分たちが眠っている間に弟子たちが イエスの体を盗んだと、どうして言うことができよう。もし、眠っていたらどうしてそれがわかろうか。そして、もし弟子たちがキリストの体を盗んだという証拠があったのだったら、祭司たちはまっさきに弟子たちの罪を鳴らしたのではないだろうか。あるいはまた、番兵たちが墓で眠ったのだったら、祭司たちはまっさきにこの番兵たちをピラトに訴えたのではないだろうか。 DA 1089.7

兵士たちは、勤務中に眠ったという告発を受けることを思っただけで身ぶるいした。これは死刑の罰に相当する犯罪だった。いつわりの証言をして民をあざむき、自分たちの生命を危険にさらしてよいものだろうか。彼らは不寝番までやって、疲れる見張りをしたではないか。たとえ金のためではあっても、偽証をするなら、裁判で自分たちの立場はないではないか。 DA 1090.1

祭司たちは、自分たちの恐れている証言を沈黙させるために、ピラトだってわれわれ同様こんなうわさが言いふらされるのを好まないのだと言って、番兵たちの身の安全を保証することを約束した。ローマ人の兵上たちは、金のために正直をユダヤ人に売った。彼らは事実についてまことに驚くべき知らせを背負って祭司たちの前に入ってきたが、祭司たちが彼らのために作ってやったいつわりのうわさを舌にのせ、金を背負って出て行った。 DA 1090.2

こうしているうちにも、キリスト復活のうわさはピラトに伝わっていた。ピラトはキリストを死刑に引き渡した責任があったが、比較的に無関心だった。彼は不本意ながらキリストに有罪の宣告をくだし、気の毒には思っていたが、いままで本当に良心の責めを感じていなかった。彼はいま恐怖のあまり家にとじこもって、だれにも会うまいと心にきめた。しかし祭司たちが彼の前にやってきて、彼らがつくりあげた話を語り、番兵たちの義務怠慢をみのがしてもらいたいと主張した。ピラトはこれを承諾する前に、自ら個人的に番兵に質問した。彼らは、身の安全をおそれて、何事もかくそうとしなかったので、ピラトは彼らから出来事の一部始終について報告を聞き出した。そして、この問題をそれ以上追求しなかったが、その時から彼に平安はなかった。 DA 1090.3

イエスが墓の中に横たえられた時、サタンは勝ち誇った。彼は救い主がふたたびよみがえられないようにとさえ望んだ。彼は主の体を要求し、墓のまわりに番兵を配置し、キリストをとりことしてとじこめておこうとした。彼は、悪天使たちが天の使者の接近とともに逃げ出した時、激しく怒った。彼は、キリストが勝利のうちに姿を現された時、自分の王国が終わり、自分はついに死なねばならないことを知った。 DA 1090.4

祭司たちは、キリストを死刑にしたことによって、自らサタンの道具となった。今彼らは完全にサタンの権力下にあった。彼らはわなにかかり、キリストとの戦いを続ける以外にそのわなからのがれる道がなかった。キリストがよみがえられたとの知らせを聞いた時、彼らは民衆の怒りを恐れた。彼らは、彼ら自身の生命が危険であると思った。 DA 1090.5

彼らにとって唯一の望みは、キリストがよみがえられたことを否定することによって、彼が詐欺師であることを証明することだった、彼らは兵士たちを買収し、ピラトを沈黙させた。彼らはいつわりのうわさを遠近にひろめた。しかし沈黙させることのできない証人たちがいた。多くの人々が、キリストのよみがえりについて兵士たちのあかしを聞いていた。またある死者たちはキリストと共によみがえって、多くの人々に現れ、キリストがよみがえられたことを告げた。よみがえったこれらの人たちを見、そのあかしを聞いた人々について、うわさが祭司たちの耳に入ってきた。祭司たちと役人たちは、通りを歩いていても、自分の家にひっこんでいても、キリストにばったり出会うのではないかとしじゅう恐れていた。自分たちにとって安全策がないことを彼らは感じた。神のみ子を防ぐには、かんぬきもとめ金もたよりにならなかった。法廷で彼らが「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と叫んだ時の、あの恐ろしい場面が昼も夜も彼らの前にあった(マタイ27:25)。その場面の記憶は決して彼らの心から消えないであろう。彼らのまくらもとに平和な眠りはもう決してないであろう。 DA 1090.6

キリストの墓で、父があなたを呼んでおられますと いう強い天使の声が聞かれた時、救い主は、ご自身のうちにある生命によってよみから出てこられた。「わたしが……命を捨てるのは、それを再び得るためである。……わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」と言われたキリストのことばが事実であったことが今証明された(ヨハネ10:17、18)。キリストが祭司たちと役人たちに、「この神殿をこわしたら、わたしは3日のうちに、それを起すであろう」と語られた預言が今成就した(ヨハネ2:19)。 DA 1090.7

(封印を)裂かれたヨセフの墓を超えて、キリストは勝利のうちに、「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言された。このことばを言うことができるのは神のみである。すべての被造物は神のみこころと力によって生きている。彼らは神に依存してその生命を受ける。最高のセラフから最もいやしい生物にいたるまで、すべてのものは生命のみなもとである神から力を補充されるのである。 DA 1091.1

神と1つであられるお方だけが、わたしはいのちを捨てる力があり、またそれを受ける力があると言うことがおできになった。キリストはその神性のうちに死の縄目をたちきる力を持っておられた。 DA 1091.2

キリストは眠った者の初穂として死人の中からよみがえられた。彼は揺祭のたばの本体であって、そのよみがえりは揺祭のたばが主の前にささげられる日に起こった。1000年以上の間、この象徴的な儀式が行われてきた。収穫の畑から、熟した穀物の初穂が集められ、人々が過越節のためにエルサレムに行った時、その初穂のたばは主の前に感謝のささげ物としてふられた。これがささげられるまでは、作物にかまを入れ、それを集めてたばにしてはならなかった。神にささげられたたばは収穫を象徴していた。そのように、初穂なるキリストは、神の王国に集められる霊的大収穫の象徴であった。キリストのよみがえりはすべての死せる義人のよみがえりの型であり保証である。「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出してドさるであろう」(Ⅰテサロニケ4:14)。 DA 1091.3

キリストは、よみがえられた時、多くのとりこをよみからおつれになった。キリストがなくなられる時の地震で墓が口を開き、キリストがよみがえられると、彼らはキリストといっしょに出てきた。彼らは神と共に働いた者、生命を犠牲にして真理のためにあかしをたてた者たちであった。いま彼らは、彼らを死人の中からよみがえらせてくださったキリストの証人となるのであった。 DA 1091.4

キリストは、その公生涯の間に、死人をいのちによみがえらせられた。彼はナインのやもめの子と、会堂司の娘とラザロをよみがえらせられた。しかし、彼らは不死を着せられなかった。彼らはよみがえってからも、やはり死ぬべき体であった。しかし、キリストの復活のときによみから出て来た者たちは永遠の生命によみがえったのであった。彼らは、死とよみに対するキリストの勝利を記念する者として、キリストと共に昇天した。この人たちはもはやサタンのとりこではない、わたしが彼らをあがなったのだとキリストは言われた。彼らがわたしのいるところに共にいて、決して死を見たり、悲しみを経験することがないように、わたしは彼らをわたしの力の初穂として、よみからつれ出したのだ。 DA 1091.5

これらの人たちは都へ行って、多くの人に現れ、キリストが死人の中からよみがえられ、われわれはキリストと共によみがえったのだと宣言した。こうしてよみがえりについての聖なる事実が不滅のものとなった。よみがえった聖徒たちは、「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる」ということばが事実であることをあかしした(イザヤ26:19)。彼らのよみがえりは、「ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである」という預言の成就についての1つの例であった(イザヤ26:19)。 DA 1091.6

信じる者にとって、キリストはよみがえりであり、命である。罪のために失われた命は、われらの救い主をとおして回復される。なぜなら、キリストはこ自身のうちに命をもっておられて、みこころのままに人をよみがえらせられるからである。主は不死を与える権 利を受けておられる。キリストは人性のうちにあってお捨てになった命を、ふたたびとりあげて人類にお与えになる。キリストはこう言われた、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ10:10、4:14、6:54)。 DA 1091.7

信じる者には、死は小事にすぎない。キリストは、それをたいしたことではないかのように語っておられる。「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう。……わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろう」(ヨハネ8:51、52)。クリスチャンにとって死は眠り、一瞬の沈黙と暗黒にすぎない。生命はキリストと共に神のうちにかくされ、「キリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」(コロサイ3:4)。 DA 1092.1

キリストが十字架から「すべてが終った」と叫ばれた声は死者の中にも聞こえた。その声は纂の壁をつらぬいて、眠っている者たちに起きよと呼びかけた。キリストの声が天から聞こえる時もこれと同じである。 DA 1092.2

その声は墓所をつらぬき、墓を開き、キリストのうちにある死人は起きあがるのである。救い主のよみがえりの時には少数の墓が開いたが、再臨の時にはすべての死せるとうとい人々がキリストの声を聞いて、輝かしい永遠の生命に入るのである。キリストを死人の中からよみがえらせたのと同じ力が、教会をよみがえらせ、これに「すべての支配、権威、権力、権勢……また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名」にまさって、キリストと共に栄光をさずけるのである(エペソ1:21)。 DA 1092.3