各時代の希望

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第82章 「なぜ泣いているのか」

本章はマタイ28:1、5~8、マルコ16:1~8、ルカ24:1~12、ヨハネ20:1~18に基づく DA 1092.4

キリストの十字架のそばに立った女たちは、安息日の時間が過ぎ去るのを見守りながら待った。週の初めの日の朝早く、女たちは救い主のお体に塗る高価な香料を持って、墓へやってきた。彼女たちはイエスが死人の中からよみがえられるとは思っていなかった。望みの太陽は沈み、夜が彼女たちの心をおおっていた。女たちは歩きながらキリストの恵みのみわざと慰めのみことばを語り合った。しかし、「わたしは再びあなたがたと会うであろう」と言われたキリストのみことばをおぼえていなかった(ヨハネ16:22)。 DA 1092.5

その時すでに起こっていたことを何も知らないで、女たちは、「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と言いながら、園へ近づいた(マルコ16:3)。彼女たちは石をとりのけることができないことを知っていたが、それでも道を進んで行った。すると見よ、昇る太陽の光とちがった栄光で急に天が明るくなった。地がゆれた女たちは大きな石がとりのけてあるのを見た。墓はからっぽであった。 DA 1092.6

女たちはみな同じ方向から墓へやってきたのではなかった。マグダラのマリヤは一番先にその場に着いた。彼女は石がとりのけられているのを見ると、弟子たちに知らせるために急いで立ち去った。そのうちにほかの女たちがやってきた。光が墓のあたりに輝いていたが、イエスのお体はそこになかった。女たちがそのあたりでうろうろしていると、突然彼女たちはそこにいるのが自分たちだけではないことがわかった。輝く衣を着た若者が墓のそばに腰をおろしていた。それは石をころがした天使であった、彼は、イエスの友だちを驚かさないように、人間の姿をとっていた。しかし彼のまわりには、まだ天の栄光の光 が輝いていたので、女たちは恐れた。彼女たちは向きを変えて逃げようとしたが、天使のことばが彼女たちの足をとどめた。 DA 1092.7

「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた』」(マタイ28:5~7)。もう1度女たちは墓の中をのぞきこみ、ふたたびすばらしい知らせを聞く。人間の姿をしたほかの天使がそこにいて、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして3日目によみがえる、と仰せられたではないか」と言う(ルカ24:5~7)。 DA 1093.1

主はよみがえられた、主はよみがえられたのだ。女たちはそのことばを何度も何度もくりかえす。香料を塗る必要はもうないのだ。救い主は死んでおられるのではなく、生きておられるのだ。イエスがご自分の死について語られた時、ふたたびよみがえると言われたことを、女たちは思い出す。今日は世界にとって何という日だろう。「そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28:8)。 DA 1093.2

マリヤはよい知らせを聞いていなかった。彼女はペテロとヨハネのところへ行って、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」と悲しいことばを伝えた(ヨハネ20:2)。弟子たちは墓へ急いで行って、マリヤが言ったとおりであることを知った。彼らは覆いと布切れを見たが、主はおられなかった。しかしここにさえ主がよみがえられた証拠があった。亜麻布は無頓着に放り出してはなくて、念入りにたたまれ、それぞれの場所におかれていた。ヨハネは「これを見て信じた」(ヨハネ20:8)。彼は、キリストは死人の中からよみがえられねばならないという聖句をまだ理解しなかった。しかしいま彼は、ご自分のよみがえりを預言された救い主のことばを思い出した。 DA 1093.3

亜麻布をこのように念入りに置いたのはキリストご自身であった。強い天使が墓へやってくると、それまで仲間の天使と主のお体を守っていたほかの天使が加わった。天からきた天使が石をころがしてどけると、もう1人の天使が墓に入って、イエスのお体に巻かれていた布をほどいた。しかし、それをたたんでその場に置いたのは救い主のみ手であった。星も原子もみちびかれるイエスの御目には、重要でないものは何もなかった。秩序と完全が主のすべてのみわざに見られた。 DA 1093.4

マリヤは、ヨハネとペテロについて墓へ行った。2人がエルサレムへ帰っても、マリヤは残った。からっぽの墓をのぞきこむと、悲しみが彼女の心を満たした。のぞきこんでいると、2人の天使が、1人はイエスの横たわっておられた場所のあたまのあたりに、もう1人は足のあたりにいるのが見えた。彼らはマリヤに「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」と彼女は答えた(ヨハネ20:13)。 DA 1093.5

マリヤは、イエスのお体がどうなったのか教えてくれる人を見つけなければならないと考えて、天使たちからも離れた。するともう1つの声が彼女に、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と話しかけた(ヨハネ20:15)。涙にくもった目で、マリヤは人の姿を見たが、園の番人だと思って、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」と言った(ヨハネ20:15)。もし、この富める人の墓が、イエスにとってあまりにりっぱすぎる埋葬所と考えられるなら、わたしがイエスのために場所を提供しよう。キリストご自身の声によってからになった墓、すなわち、ラザロが横たわっていた墓があった。そこを主の埋葬所としたらどうだろう。 十字架につけられた主のとうといお体をお世話できるなら、悲しみのうちにある自分にとって大きな慰めになると彼女は思った。 DA 1093.6

しかし今イエスは、そのなつかしいお声で、「マリヤよ」と、彼女に言われた。今マリヤは自分に話しかけているのが見知らない人ではないことがわかり、ふり向いて、生きておられるキリストを目のあたりに見た。彼女は、喜びのあまり、イエスが十字架につけられたことを忘れた。 DA 1094.1

イエスの足をかきいだこうとするかのように、マリヤはイエスにかけよって、「ラボニ」と言った。しかしイエスは手をあげて、わたしを引きとめてはいけない、「わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」と言われた(ヨハネ20:17)。そこでマリヤはその喜ばしい知らせをもって弟子たちのもとへ急いだ。 DA 1094.2

イエスは、ご自分の犠牲が天父によって受け入れられたとの確証が与えられるまではご自分の民から尊敬を受けようとされなかった。イエスは天の宮廷へのぼり、その血によってすべての人が永遠の生命を得られるように、イエスが人類のために払われたあがないは充分であったとの保証を神ご自身から聞かれた。天父はキリストとの間の契約、すなわち悔い改めて従う者たちを受け入れ、み子を愛されるように、彼らを愛されるという契約を批准された。キリストはそのみわざを完結して、「わたしは人を精金よりも、オフルのこがねよりも少なくする。(英訳・とうといものとする)」との誓いを果たされるのであった(イザヤ13:12)。天と地の一切の権力はいのちの君に与えられたので、イエスは、ご自分の権力と栄光を分け与えるために、罪の世にある弟子たちのもとへお帰りになった。 DA 1094.3

救い主が神のみ前にあって、教会のための賜物を受けておられる時に、弟子たちは、イエスのからっぽの墓のことを思って嘆き悲しんでいた。全天にとって喜びの日であったその日は、弟子たちにとっては不安と混乱と困惑の日であった。女たちの証言こ対する彼らの不信は、彼らの信仰が衰えていたことの証拠である。キリスト復活の知らせは、彼らが予期していたこととちがっていたので、彼らはそれを信じることができなかった。話がうますぎてほんとうではあるまいと彼らは考えた。サドカイ人の教えや、彼らのいわゆる科学的理論をあまりに聞かされていたので、彼らが心に受けたよみがえりについての印象はぼんやりしていた。 DA 1094.4

死人の中からよみがえるということがどういうことかほとんどわかっていなかった。彼らはこの大きな問題を理解することができなかった。 DA 1094.5

天使たちは女たちに、「今から弟子たちとヘテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」と言った(マルコ16:7)。この天使たちは、キリストの地上生涯のあいだ、ずっと守護天使としてキリストと共にいたのであった。彼らは、キリストの裁判と十字架の処刑を目撃したのだった。彼らは弟子たちへのキリストのことばを聞いたのだった。このことは、弟子たちに対する天使たちのことばからわかるのであって、弟子たちはそのことを確信すべきだったのである。このようなことばは、よみがえられた主の使者たちしか語ることのできないものだった。 DA 1094.6

「弟子たちとペテロとの所へ行ってこう伝えなさい」と天使たちは言った(マルコ16:7)。キリストがなくなられてから、ペテロは後悔にうちひしがれていた。主をこぼんだ彼の恥ずべき行為と救い主の愛と苦悩のまなざしが、たえず彼につきまとった。弟子たち全部の中で、彼が最もきびしい苦しみを味わったのだった。その彼に、彼の悔い改めが受け入れられ、彼の罪がゆるされたという保証が与えられている。彼の名前が呼ばれているのである。 DA 1094.7

「弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。……そこでお会いできるであろう、と」(マルコ 16:7)。弟子たちの全部がイエスを捨てたのに、ふたたびイエスにお会いするようにとの呼びかけに彼らの全部が含まれている。イエスは彼らをお捨てにならなかった。マグダラのマリヤが、主にお会いしたことを彼らに告げた時、彼女はガリラヤで会うようにとの召しを伝えた。しかもこの伝言は3度彼らに伝えられたのである。イエスは天父のもとにのぼられたあとで、ほかの女たちに現れて「『平安あれ』と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』」(マタイ28:9、10)。 DA 1094.8

キリストの復活後、地上における主の最初の働きは、弟子たちに対する変わらない愛とやさしい思いやりを彼らに確信させることであった。イエスは、ご自分が彼らの生ける救い主であるということ、墓の束縛をたちきられたということ、もはや死という敵の手にとらわれないということについて、彼らに証拠を示すため、また彼らの愛する教師として共におられたときと変わらない愛の心を持っておられることをあらわすために、何度も何度も彼らに現れたもうた。イエスは彼らを愛のきずなで、いっそう固くむすぼうと望まれた。行って兄弟たちに、ガリラヤでわたしに会うように告げなさいと、主は言われた。 DA 1095.1

このようなはっきりした約束を聞いた時、弟子たちは、ご自分のよみがえりについて彼らに予告されたキリストのことばについて考え始めた。しかしそれでもなお彼らは喜ばなかった。彼らは疑いと困惑を捨て去ることができなかった。女たちが主を見たと断言したときでさえ、弟子たちは信じようとしなかった。彼らはそれを、女たちの幻影だと思った。 DA 1095.2

困難に困難が加わりつつあるように思えた。週の6日目に、彼らは主が死なれるのを見た。翌週の第1日に、彼らは主のお体がなくなったことを知り、民衆をあざむくためにそれを盗み去ったのだという罪をきせられた。彼らを不利な立場におとしいれつつあるいつわりの印象をたえず打ち消すのに彼らは絶望した。彼らは祭司たちの敵意と民衆の怒りを恐れた。彼らは困ったときにはいつも助けてくださったイエスがいてくださったらと心から願った。 DA 1095.3

「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました」ということばを、彼らはしばしばくりかえした(ルカ24:21)。さびしい、悲観した気持ちで、彼らは、「もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」と言われたキリストのことばを思い出した(ルカ23:31)。彼らは2階の部屋に集まり、愛する師の運命がいつ自分たちの運命となるかも知れないことを思って、戸口を固くとざした。 DA 1095.4

ところがその間中、ずっと彼らは、救い主がよみがえられたことを知って喜んでいられたはずである、園では、イエスがそば近くにおられた時、マリヤは泣いていた。彼女の目は涙にくもっていたので、イエスがわからなかった。また、弟子たちの心は悲しみでいっぱいだったので、彼らは天使たちのことばも、キリストご自身のことばも信じなかった。 DA 1095.5

いまでもこれらの弟子たちと同じことをしている者がどんなに多いことだろう。「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」というマリヤの絶望的な叫びをくりかえす者がどんなに多いことだろう(ヨハネ20:13)。どんなに多くの人々に、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」という救い主のことばが語られることだろう(ヨハネ20:15)。イエスは彼らのそば近くにおられるのに、彼らのくもった目にはイエスがわからないのである。イエスは彼らに話しかけられるが、彼らは理解しないのである。 DA 1095.6

ああ、うなだれた頭をあげ、目を開いてイエスを見、耳にイエスの声を聞くことができるように。「急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは……よみがえられた』」(マタイ28:7)。大きな石でとざされ、ローマの封印をされたヨセフの新しい墓を見るなと彼らに告げなさい。キリストはそこにおられない。からっぽの墓を見るな。望みなく、助けなき者のように嘆くな。イエスは生きておられ、彼が生きておられ るがゆえにわれわれも生きるのである。感謝の心で、聖なる火にふれたくちびるで、キリストはよみがえられたと喜ばしい歌をひびかせなさい。主は生きてわれらのとりなしをしてくださる。この望みをとらえなさい。そうすれば、それはたしかな、あてになる錨のようにわれらの魂をつなぎとめるであろう。信じなさい、そうすればあなたは神の栄光を見るであろう。 DA 1095.7