各時代の希望

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第79章 「すべてが終った」

イエスは、ご自分がするためにおいでになった働きをなしとげ、臨終の息の下から「すべてが終った」と叫ばれた時にはじめて息を引きとられた(ヨハネ19:30)。戦いは勝利であった。イエスの右手とそ の聖なる腕が勝利をもたらしたのであった。征服者として、イエスは、その旗を永遠の高地にうちたてられた。天使たちの間に喜びがなかっただろうか。全天は救い主の勝利に凱歌をあげた。サタンは敗北し、彼の王国が失われたことを知った。 DA 1077.7

天使たちと他世界の住民たちにとって、「すべてが終った」という叫びは深い意味があった。大いなるあがないの働きがなしとげられたのは、われわれのためばかりでなく、また彼らのためでもあった。彼らは、われわれと共に、キリストの勝利の結果を分かち合うのである。 DA 1078.1

キリストが死なれてはじめて、サタンの性格が天使たちや他世界の住民たちにはっきりわかった。大背信者は欺備の衣を着ていたので、聖者たちでさえ彼の原則を理解していなかった。彼らは、サタンの反逆の性質をはっきりわかっていなかった。 DA 1078.2

神に反逆したのはすばらしい力と栄光を持った者であった。ルシファーについて、主は、「あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である」と言っておられる(エゼキエル28:12)。ルシファーはおおうことをなす天使であった。彼は神のこ臨在の光の中に立っていた。彼はすべての被造物の中で最高の者であって、神の意図が宇宙に知らされるときにはいちばん先に彼に知らされた。罪を犯してから、彼のあざむく力はますます欺隔的になり、彼が天父とともに高い地位を保っていたためにその正体をばくろすることがますます困難となった。 DA 1078.3

神は、人が小石を地面に投げるようにたやすくサタンとその同調者たちを滅ぼすこともおできになった。しかし神はそうなさらなかった。反逆を暴力によって征服してはならなかった。 DA 1078.4

強制的な力はサタンの統治だけにみられるものである。主の原則はこのような種類のものではなかった。主の権威は、恩恵、憐れみ、愛の上におかれている。このような原則を示すことが用いるべき手段である。神の統治は道徳的であり、真実と愛が有力な力となるのである。 DA 1078.5

物事を安全という永遠の基礎の上におくことが神の御目的だったので、天の会議では、サタンがその統治制度の基礎となっている原則を発揮する時間を与えるべきだということが決定された。サタンは自分の原則が神の原則よりもすぐれていると主張していた。そこでサタンの原則が天の宇宙に知れ渡るように、それを発揮させる時間が与えられた。 DA 1078.6

サタンが人類に罪を犯させたので、あがないの計画が実施された。4000年の間、キリストは人類を高めるために働かれたが、サタンは人類を堕落させ、滅ぼすために働いていた。天の宇宙はそれをすべて目に見たのであった。 DA 1078.7

イエスがこの世にこられると、サタンの力はイエスに向けられた。イエスが赤ん坊としてベツレヘムにお生れになった時から、横領者サタンはイエスを滅ぼすために働いた。サタンは、イエスが完全な子供、欠点のないおとな、聖なる公生涯、きずのないいけにえとなられないように、あらゆる手段をつくした。しかし彼は敗北した。彼はイエスに罪を犯させることができなかった。彼はイエスを落胆させたり、イエスをこの地上でなすためにおいでになった働きから追い出すことができなかった。荒野からカルバリーまで、サタンの怒りの嵐がイエスを襲ったが、嵐が容赦なく吹きつけるほど神のみ子は一層固く天父のみ手にすがって、血に染まった道を進んで行かれた。イエスを圧迫し、うち倒そうとするサタンのあらゆる努力は、イエスの傷もないご品性を一層純潔な光に照らしただけであった。 DA 1078.8

全天と他世界は、争闘の証人であった。彼らはどんなに熱心な興味をもって戦いの終りの場面を見守ったことだろう。彼らは、救い主がゲッセマネの園にはいって行かれ、その魂が大いなる暗黒の恐怖にうなだれるのを見た。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とのイエスの苦痛の叫びを、彼らは聞いた(マタイ26:39)。 DA 1078.9

天父のこ臨在がかくされた時、彼らは、イエスが死との最後の大きな戦いにまさるはげしい悲しみに満たされるのを見た。イエスの毛あなからは血の汗が 吹き出して地面にしたたり落ちた。救いを求める祈りが、イエスの口から3度しぼり出された。天はその光景を見ていることができなくて、慰めの使者が神のみ子のもとへつかわされた。 DA 1078.10

天は、犠牲者イエスが殺人的な暴徒たちの手に売り渡され、嘲笑と暴力によって次々と裁判に追いたてられるのを見た。天は、迫害者たちが、イエスのいやしい生れを冷笑するのを聞いた。天は、イエスの最も愛された弟子の1人がきたないことばで主をこばむのを聞いた。天は、サタンの狂気じみた働きと、彼が人々の心に及ぼす力を見た。ああ、何という恐るべき光景だろう。救い主は真夜中にゲッセマネで捕らえられ、邸から法廷へとあちらこちらへ引っぱりまわされ、祭司たちの前で2度、サンヒドリンの前で2度、ピラトの前で2度、ヘロデの前で1度訴えられ、あざけられ、むち打たれ、有罪を宣告され、十字架につけられるために連れ出され、エルサレムの娘たちの嘆きとやじ馬連の冷笑の中で、十字架という重荷を負って運ばれた。 DA 1079.1

天は、キリストが十字架にかかり、傷ついたそのこめかみから血が流れ、血の色をした汗がそのひたいにたまるのを、悲しみと驚きの思いをもってながめた。十字架をたてるために穴をあけられた岩の上に、イエスの手と足から血が1滴また1滴と落ちた。釘をうたれた傷は、体の重みに手がひきずられるために大きな口をあけた。イエスの魂が、世の罪の重荷の下にあえぐたびに、その苦しい呼吸は早く、重くなった。恐ろしい苦難のさなかに、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とのキリストの祈りがささげられた時、全天は驚嘆の思いに満たされた(ルカ23:34)。しかもそこには、神のみかたちにつくられた人間たちが、神のひとり子のいのちをうちくだくために加わっているのであった。天の宇宙にとって、それは何という光景だったことだろう。 DA 1079.2

暗黒の支配と権威である悪天使たちは十字架のまわりに集まって、人々の心に不信という恐ろしい影を投げかけた。主がこれらの天使たちをみ座の前に立っ者として創造された時、彼らは美しく、栄光に輝いていた。彼らの美しさと聖潔は、その高い地位にふさわしかった。彼らは神の知恵に富み、天の美しい装いをまとっていた。彼らはエホバに仕える者であった。しかし誰の目にも、これらの堕落した天使たちが、かつては天の宮廷で奉仕した輝かしいセラピムであったとは見えない。 DA 1079.3

サタンの軍勢は悪人たちと組んで、キリストが罪人のかしらであると人々に信じさせ、キリストを憎悪のまとにしようとした。十字架にかかられたキリストをあざけった者たちは、最初の大反逆者の精神を吹きこまれていた。サタンは彼らに下品でいまわしいことばをつめこんだ。彼は人々に嘲笑を吹きこんだ。しかしこうしたことをどんなにやってみても、彼は何にも得るところがなかった。 DA 1079.4

もしキリストのうちに1つの罪でも見いだされたら、またキリストが恐るべき拷問をのがれるために一点でもサタンに屈服されたら、神と人類との敵は勝利したのである。キリストは頭をたれてなくなられたが、信仰と神への服従を固く保たれた。「その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、『今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された』」(黙示録12:10)。 DA 1079.5

サタンは自分の仮面が引きはがされたことを知った。彼の統治は堕落していない天使たちと天の宇宙の前に公開された。彼は殺人者の正体を現した。神のみ子の血を流すことによって、彼は天の住民の同情をまったく失ってしまった。それからのち彼の働きは制限された。どんな態度を装おうと、彼はもはや天使たちが天の宮廷から出てくるのを待ち伏せて、キリストの兄弟たちが暗黒の衣と罪のけがれを着ていると彼らに訴えることができなくなった。サタンと天の世界との間の同情という最後のつながりがたちきられた。 DA 1079.6

しかしサタンは、その時まだ滅ぼされなかった。天使たちは、その時になってもまだ、大争闘に含まれて いることをみな理解しているわけではなかった。問題となっている原則をもっとはっきり示す必要があった。人のために、サタンの存在を続けさせねばならなかった。天使はもちろん人も、光の君と暗黒の君との相違を見なければならない。人は自分の仕えるべきものを選ばねばならない。 DA 1079.7

大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである、義と憐れみは両立しない、もし律法を破ったら罪人がゆるされることは不可能だと宣言した。すべての罪は罰を受けねばならない、もし神が罪の罰を免除されるなら、神は真実と義の神ではないと、サタンは主張した。人類が神の律法を破り、神のみこころに反抗した時、サタンは狂喜した。律法は従うことのできないものだということがわかった、人類はゆるしを得ることはできないのだと、サタンは断言した。サタンは、自分が反逆したあと、天から追放されたので、人類も永久に神の恩恵からしめ出されるべきであると要求した。神は義であるなら、罪人にあわれみを示すことはできないはずだと、彼は言い張った。 DA 1080.1

しかし、人は、たとえ罪人であっても、サタンの立場とは異なっていた。天におけるルシファーは神の栄光という光のうちにあって罪を犯したのである。彼には、ほかのどんな被造物に対するよりも神の愛の現れが与えられていた。神のご品性を理解し、神の恵みがわかっていながら、サタンは、自分自身の利己的で勝手な意思に従うことを選んだ。この選択は決定的なものであった。彼を救うために神がおできになることはもうなかった。一方、人はだまされたのであった。人の心は、サタンの誰弁によって暗くなったのだった。人は、神の愛の高さと深さを知らなかった。神の愛を知る時に、人には望みがあった。神のご品性を見ることによって、人は神のみもとにひきもどされるかもしれなかった。 DA 1080.2

イエスを通して、神の憐れみが人類にあらわされた。だが憐れみは義を無視しない。律法は、神のご品性の特質をあらわしているので、その一点一画も、堕落した状態にある人間に合うように変えることはできない。神は律法を変更しないで、人のあがないのためにキリストを通して犠牲を払われた。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」られた(Ⅱコリント5:19)。 DA 1080.3

律法は義すなわち正しい生活、完全な品性を要求する。しかし人はそれを与えることができない。彼は神の聖なる律法の要求に応ずることができない。けれどもキリストは、人としてこの地上においでになって、聖なる一生を送り、完全な品性を発達させられた。これらのものを、キリストは受け入れる人には誰にでも無料の贈り物として提供される。キリストの一生は人の一生の代わりとなる。こうして人は、神の寛容によって、過去の罪をゆるされるのである。のみならずキリストは、人のうちに神の属性をうえつけてくださる。キリストは人の品性を神のご品性にかたどって、霊的な力と美しさを備えたりっぱな織物としてくださる。こうして律法の義そのものが、キリストを信ずる者のうちに成就されるのである。「神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:26)。 DA 1080.4

神の愛は、憐れみのうちにばかりでなく義のうちにもあらわされた。義は神のみ座の基礎であり、神の愛の実である。憐れみを真実と義から引き離そうとするのがサタンの意図であった。彼は神の律法の義が平和の敵であることを証明しようと努力した。しかしキリストは、神のご計画のうちにあってこの両者は離すことができないほど密接に結合しており、一方がなければ他方は存在し得ないことを示しておられる。「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけ」する(詩篇85:10)。 DA 1080.5

キリストは、ご自分の一生と死によって、神の義はその憐れみを滅ぼすものではなく、罪がゆるされ、律法が正しく完全に従うことのできるものであることを証明された。サタンの非難の誤りは明らかにされた。神はご自分の愛についてまちがうことのない証拠を人類にお与えになった。 DA 1080.6

するとこんどは別な欺瞞が持ち出されることになった。サタンは、憐れみが義を滅ぼし、キリストの死が 天父の律法を廃止したと宣言した。しかしもし律法を変えたり、廃止したりすることが可能であったら、キリストは死なれる必要がなかったのである。律法を廃することは、罪とがを不滅なものにし、世をサタンの支配下におくことになる。イエスが十字架上にあげられたのは、律法が不変であったからであり、律法の戒めに従うこと以外に人が救われる道はなかったからである。それなのに、キリストが律法を確立された手段そのものを、サタンは律法を廃するものであると言った。この点について、キリストとサタンとの間の大争闘における最後の戦いが起こるのである。 DA 1080.7

神ご自身のみ声によって語られた律法には欠点がある、いくつかのある箇条は廃止されたのだというのが、サタンがいま持ち出している主張である。これはサタンが世にもちこむ最後の大欺瞞である。彼は律法の全体を攻撃する必要はないのである。もし人々に1つの戒めを無視させることができるならば、彼の目的は達成されるのである。「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その1つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである」(ヤコブ2:10)。1つの戒めを破ることに同意することによって、人はサタンの権力下にはいるのである。神の律法を人間の律法ととり代えることによって、サタンは世を支配しようとねらっている。この働きは預言の中に予告されている。サタンを代表している大きな背信的な権力について、こう宣言されている。「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒は……彼の手にわたされる」(ダニエル7:25) DA 1081.1

人々は神の律法に対抗するためにかならず人間の律法を定めるであろう。彼らはほかの人々の良心を強制しようとし、人間の律法を励行しようとする熱心のあまり、同胞を迫害するであろう。 DA 1081.2

神の律法に対する戦いは、天に始まったが、それは世の終りまで続くであろう。どの人もみな試みられる。全世界の人々が、従うか従わないかの問題を決定しなければならない。すべての人が、神の律法か人の律法かをえらばせられるのである。この点で区別の線が引かれる。2種類の人たちしかいないのである。どの人の品性も完全に明らかにされる。そして彼らはみな、忠誠の側をえらんだかそれとも反逆の側をえらんだかを示すのである。 DA 1081.3

それから終りが来る。神はご自分の律法の正しさを立証し、その民を救われる。サタンと、サタンに加わった者たちはみな断たれるのである。罪と罪人は、根も枝も滅びる(マラキ4:1参照)。サタンは根であり、サタンに従う者たちは枝である。そのとき次のことばが悪の君に実現するのである。「あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、……守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。……あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。その時「悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない」「彼らは……かつてなかったようになる」(エゼキエル28:6、16、19、詩篇37:10、オバデヤ16)。 DA 1081.4

これは神の側における専制的な権力行為ではない。神の憐れみをこばむ人たちは、自分がまいたものを刈り取るのである。神は生命の泉である。しかし罪に仕えることをえらぶ時、その人は神から離れ、したがって生命から自分自身を断つのである。彼は「神のいのちから遠く離れ」る(エペソ4:18)。キリストは「すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」と言われる(箴言8:36)。神は、彼らがその本性をあらわし、その原則を示すように、しばらくその存在をおゆるしになる。それがなしとげられると、彼らは自分自身の選択の結果を受けるのである。サタンとサタンに加わっている者たちはみな、反逆の生活によって、神と調和しない立場に身をおくので、神の存在は彼らにとって焼きつくす火となる。愛であられる神の栄光は彼らを滅ぼすであろう。 DA 1081.5

大争闘の始めには、天使たちはこのことを理解していなかった。もしその時に、サタンと悪天使たちが彼らの罪の十分な結果を刈り取るがままに放っておかれたら、彼らは滅びたのである。しかし彼らの滅びが罪の当然の結果であることは天の住民に明らかに ならなかったであろう。神の憐れみについての疑いが悪い種のように彼らの心に残り、それは罪とわざわいという致命的な実を生じたであろう。 DA 1081.6

しかし大争闘が終る時にはそうではない。その時には、あがないの計画が完結し、神のご品性がすべての知的被造物に明らかにされる。神の律法の戒めは完全にして不変なものであることがわかる。その時、罪はその本性を現し、サタンはその正体をばくろしている。その時、罪の根絶は、神のみこころを行うことを喜び、心に律法をしるされている人々の宇宙の前で、神の愛を立証し、神の栄えを確立するのである。 DA 1082.1

だから、天使たちは、救い主の十字架をながめて喜ぶことができたはずである。なぜなら、彼らはその時全部はわからなかったけれども、罪とサクンの滅びが永久に確実となり、人類のあがないが保証され、宇宙が永遠に安全になることを知っていたからである。キリストご自身、カルバリーの上でささげられた犠牲の結果を十分に理解しておられた。キリストが十字架上で、「すべてが終った」と叫ばれた時、彼はそうしたことのすべてを予見しておられたのであった。 DA 1082.2