各時代の希望

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第78章 カルバリー

本章はマタイ27:31~53、マルコ15:20~38、ルカ23:26~46、ヨハネ19:16~30に基づく DA 1068.1

「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ……た」(ルカ23:33)。 DA 1068.2

「イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである」(ヘブル13:12)。神の律法を犯したために、アダムとエバはエデンから追放された。キリストはわれわれの身代りとして、エルサレムの境界の外で苦難を受けられるのであった。主は門の外で死なれたが、そこは重罪人たちと殺人者たちが処刑されるところであった。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」ということばには深い意味がある(ガラテヤ3:13)。 DA 1068.3

おびただしい群衆が法廷からカルバリーまでイエスのあとについて行った。イエスの有罪についての知らせがエルサレム中にひろまり、あらゆる階級と地位の人々が処刑場へむらがり集まった。祭司たちと役人たちは、もしキリスト自身を自分たちの手に引き渡してもらえば、その弟子たちは苦しめないと約束していたので、弟子たちも信者たちも、エルサレムの町や周囲の地方からやって来て、救い主のあとをついて行く群衆に加わった。 DA 1068.4

イエスがピラトの邸の門を通り過ぎられると、バラバのために用意されていた十字架が、イエスの傷ついて血の流れる肩にのせられた。バラバの仲間が2人イエスと同時に処刑されることになっていて、彼らの上にも十字架が背負わされた。苦しみ弱りはてた状態にある救い主には、その荷は重すぎた。弟子たちと一緒に過越の食事をとられてから、イエスは食べることも飲むこともされなかった。イエスは、ゲッセマネの園で、サタンの勢力との戦いに苦しまれた。主は裏切られた苦悩に耐え、弟子たちがご自分を見捨てて逃げるのをごらんになった。 DA 1068.5

主は、アンナスのところへ、それからカヤパのところへ、そしてピラトのところへと連れて行かれた。主は、ピラトのところからヘロデのもとへ送られ、またビラトのところへ送りかえされた。侮辱に新たな侮辱を、嘲笑に嘲笑を加えられ、むち打ちによって2度苦しめられ、一晩中、人間の魂を極度に試みるような性質の場面が次々に続いたのであった。キリストは失敗されなかった。主は神の栄えとなるのに役立つことばよりほか語られなかった。恥知らずな裁判の茶番劇の間中ずっと、イエスはしっかりした威厳のある態度を保たれた。しかし2度目のむち打ちのあと、十字架が主に背負わされると、人性はもはや耐えられなかった。主はその重荷の下に、気を失って倒れてしまわれた。 DA 1068.6

救い主についてきた群衆は、イエスの弱々しい、よろめく足どりを見たが、何の憐れみも示さなかった。彼らは、イエスが重い十字架を運ぶことができないといって、あざけりののしった。ふたたび軍荷はイエスの上におかれたが、ふたたびイエスは気を失って地面に倒れてしまわれた。迫害者たちは、これ以上イエスが重荷を運ぶことができないことを知った。彼らは、この屈辱的な荷を運んでくれる者をさがすのに困惑した。ユダヤ人自身がそうするわけにいかなかった。けがれると過越節を守ることができなくなるのであった。イエスのあとについてきたやじ馬連中さえ、恥を忍んで自分が十字架を運ぼうという者は1人もいなかった。 DA 1068.7

この時、いなかからやって来たクレネ人のシモンという他国人が群衆に行き会う。彼は群衆の口汚いののしりの声を耳にする。いかにも軽蔑したように、ユダヤ人の王さまのお通りだぞということばがくりかえされるのが聞こえる。彼はその場の光景に驚いて立ちどまる。シモンが同情した顔つきをしていると、人々は彼をつかまえて、その肩に十字架をのせる。 DA 1068.8

シモンはイエスのことを聞いていた。彼の息子たちは救い主の信者であったが、彼自身は弟子ではなかった。カルバリーまで十字架をかついで行ったことは、シモンにとって恵みであった。彼はその後いつ もこの摂理を感謝した。彼はこの経験から自ら進んでキリストの十字架を背負い、その重荷によろこんで耐えるようになった。 DA 1068.9

有罪の宣告を受けておられないイエスのあとについて行って、その残酷な死を見とどけようとする群衆の中にかなりたくさんの女たちがいる。彼女たちの注意はイエスにそそがれる。その中のある者たちは、以前イエスに会ったことがある。ある者たちは、病人や苦しんでいる人たちをイエスのもとに連れて行ったことがある。ある者たちは自分自身いやしてもらったことがある。その時に起こった出来事について物語が述べられる。彼女たちは、イエスのために自分たちの心が動かされ、いまにも張りさけそうなのに、イエスに対する群衆の憎しみを見てふしぎに思う。しかし狂気した群衆の行為と祭司たち役人たちの怒ったことばにもかかわらずこれらの女たちは、同情心を表す。イエスが十字架のドに気を失って倒れられると、彼女たちは悲しみのあまり泣き出す。 DA 1069.1

これがキリストの注意を引いたただ1つのことだった。キリストは、世の罪を負って苦難に満ちておられたが、悲しみの表現に対して無関心ではなかった。主は、やさしい憐れみをもって、この女たちをごらんになった。彼女たちはイエスの信者ではなかった。イエスは、彼女たちが、神からつかわされたお方としてイエスのために嘆いているのではなく、人間的な同情心に動かされたのであることを知っておられた。イエスは、彼女たちの同情心を軽蔑されなかった。それは、イエスの心に、彼女たちに対する一層深い同情心を呼び起こした。イエスは、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われた(ルカ23:28)。キリストは、目の前の光景から、エルサレム滅亡の時を予見された。その恐るべき場面において、いまキリストのために泣いている者たちの多くが子供たちと共に滅びるのであった。 DA 1069.2

イエスの思いは、エルサレムの陥落からさらにもっと大きなさばきへ移って行った。悔い改めない都の滅亡のうちに、イエスは、世界に臨むべき最後の滅亡の象徴をごらんになった。「そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」と、イエスは言われた(ルカ23:30、31)。生木によって、イエスは罪なきあがない主であるご自身を象徴された。神は、罪とがに対する怒りを、ご自分の愛するみ子の上にそそがれた。イエスは人類の罪のために十字架にかかられるのであった。ましてや、罪を犯しつづけた罪人はどんな苦難を受けねばならないことだろう。悔い改めない者、信じない者はすべて、ことばに言い表せない悲しみと不幸を知るのであった。 DA 1069.3

カルバリーまで救い主について行った群衆の中には、イエスがエルサレムに凱旋的な人城をされた時に歓喜のホサナを叫び、しゅろの葉をうちふってそのあとに従った者たちがたくさんいた。しかし、みんながそうしているからというのでその時宅を声高らかに賛美した者たちの中に、いま「十字架につけよ、十字架につけよ」との叫びを張りあげている者たちが少なくなかった。キリストがエルサレムに乗りこんで行かれた時、弟子たちの望みは頂点にまで高まった。彼らはイエスと関係があることを非常な名誉に思い、主の近くによりそっていた。いま、イエスが屈辱のうちにあられると、彼らは遠く離れてついて行った。彼らは悲しみに満たされ、失望のあまり気力を失っていた。イエスが「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである」と言われたことばが何とよく実証されたことだろう(マタイ26:31)。 DA 1069.4

処刑場に着くと、囚人たちは、拷問道具にしばりつけられた。2人のどろぼうたちは、彼らを十字架につける人たちの手の中であばれた。しかしイエスは、抵抗されなかった。イエスの母は、愛する弟子ヨハネにささえられて、カルバリーまで息子のあとについてきていた。彼女は、イエスが十字架の重荷の下に気を失われるのを見ると、イエスの傷ついた頭の下 にささえの手をさしのべたい、かつては自分の胸にいだかれたあのひたいを洗ってあげたいと心に願った。しかし彼女は、この悲しい特権をゆるされなかった。弟子たちと同じように、彼女は、イエスが力をあらわして、反対者たちの手からご自身を救い出されるだろうという望みをまだいだいていた。 DA 1069.5

しかしいま目の前に起こりつつある場面をイエスが予告された時に言われたことばを思い出すと、彼女の心はふたたび沈んでしまうのであった。どろぼうたちが十字架にしばりつけられると、彼女は、不安な思いに苦しめられながら、見ていた。死人を生きかえらせたお方が、十字架にかけられるがままになられるだろうか。神のみ子がこんなにも残酷な殺されかたをされるがままになられるのだろうか。イエスがメシヤであるという信仰をあきらめなければならないのだろうか。苦悩のうちにあられるイエスにお仕えする特権さえないままに、イエスの屈辱と悲しみを見なければならないのだろうか。彼女はイエスの両手が十字架の上にひろげられるのを見た。金づちとくぎが持ってこられ、先のとがったくぎがやわらかい肉に打ち込まれると、悲しみに打ちひしがれた弟子たちは、失神しそうなイエスの母のからだをかかえてこの残酷な場面から連れ出した。 DA 1070.1

救い主は一言も不平をもらされなかった。そのお顔はあいかわらず平静で落ちついていたが、大粒の汗がそのひたいにたまった。イエスのお顔から死の露をふいてさしあげる同情の手も、人間としてのイエスの心をささえる同情と変わらない忠誠のことばもなかった。兵士たちが彼らの恐ろしい仕事をしていた時に、イエスは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、敵のために祈られた(ルカ23:34)。イエスの思いは、ご自身の苦難から迫害者たちの罪と、彼らにのぞむであろう恐るべき報いへ移った。イエスをこんなにも残酷に扱っている兵士たちに対して、何ののろいのことばも出されなかった。目的の達成に満足気な祭司たちと役人たちに何の復讐も求められなかった。キリストは、彼らの無知と罪をあわれまれた。イエスは、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、彼らのゆるしを嘆願されただけであった(ルカ23:34)。 DA 1070.2

彼らは、罪深い人類を永遠の滅亡から救うためにこられたお方を苦しめているのだということを知っていたら、悔恨と恐怖の思いにとりつかれたであろう。しかし、知らなかったということは彼らの罪を帳消しにしなかった。イエスを救い主として知り、受け入れることは彼らの特権だったのである。 DA 1070.3

彼らのうちのある者たちは、まだ自分の罪をみとめ、悔い改め、改心するであろう。ある者たちは悔い改めないで、彼らのためのキリストの祈りが答えられることを不可能にするであろう。それでも、神の御目的は、同じに達成されつつあった。イエスは天父の前で、人類の助け主となられる権利を獲得しようとしておられた。 DA 1070.4

敵のために祈られたキリストの祈りは世界を包含していた。それは、世の始めから時の終わりまで、かつて生存し、これからも生存するすべての罪人を含んでいた。すべての者の上に神のみ子を十字架につけた罪がおかれている。すべての者にゆるしが豊かにさし出されている。望む者は誰でも、神とやわらぎ、永遠の生命を継ぐことができるのである。 DA 1070.5

イエスが十字架にくぎづけられると、がんじょうな男たちがそれをもちあげ、そのために用意された場所に乱暴に落とし込んだ。これは神のみ子に最も激しい苦痛をひき起こした。ピラトはその時ヘブル語とギリシャ語とラテン語で罪状書きを書いて、それを十字架上のイエスの頭の上部につけさせた、それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていた(ヨハネ19:19)。この罪状書きはユダヤ人を怒らせた。ピラトの法廷で、彼らは「彼を十字架につけよ。……わたしたちには、カイザル以外に王はありません」と叫んだ(ヨハネ19:15)。カイザル以外のを認める者はだれでも反逆者であると彼らは断言した。ピラトは彼らが表明した意見を書きあらわしたのである。イエスがユダヤ人の王であるということ以外に何の罪状も書かれなかった。この罪状は ローマの権力に対するユダヤ人の忠誠を事実上認めるものであった。それは、イスラエルの王たることを自称する者はだれでも、死刑に値するものと彼らから判断されることを宣言していた。祭司たちはやり過ぎたのだ。彼らがキリストの死をたくらんでいた時、カヤパは1人の人が国民を救うために死ぬのはよいことだと断言した。いま彼らの偽善がばくろされた。キリストを滅ぼすために、彼らは自分たちの国の存在さえ犠牲にしようとしていた。 DA 1070.6

祭司たちは、自分たちのやったことを見て、ピラトに罪状書きを書き直してくれるようにたのんだ。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」と彼らは言った(ヨハネ19:21)。しかしピラトは自分のこれまでの弱さに腹が立っていたので、ねたみ深くてこうかつな祭司たちと役人たちを完全に軽蔑した。彼は、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」と冷淡に答えた(ヨハネ19:22)。 DA 1071.1

ピラトよりも、あるいはユダヤ人よりも高い権力が、その罪状書きをイエスの頭上にかけるように命じたのだった。神の摂理によって、それは思いをめざめさせ、聖書を調べさせるのであった。キリストが十字架につけられた場所は都に近かった。そのころ、全地から幾千の人々がエルサレムにきていたので、ナザレのイエスをメシヤと宣言している罪状書きは人々の注目のまとになるのだった。それは神がみちびかれた手によって書かれた生きた真理であった。 DA 1071.2

十字架上のキリストの苦難によって、預言が成就した。十字架につけられる幾百年も前に、救い主はご自分が受けられる取り扱いを預言された。主はこう言われた、「まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」(詩篇22:16~18)。イエスの衣服についての預言は、十字架につけられたお方の味方の側もしくは敵の側の助言や干渉なしに実行された。イエスを十字架につけた兵士たちに、イエスの衣服が与えられた。キリストは、彼らが仲間のあいだで衣服を分け合うときの言い争いを聞かれた。その下着は縫い日なしに1つに織ったものであったので、彼らは、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」と言った(ヨハネ19:24)。 DA 1071.3

別な預言の中に、救い主は、こう宣言された。「そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんでした。彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました」(詩篇69:20、21)。 DA 1071.4

十字架につけられて死ぬ者には、その苦痛感をなくすために麻痺薬を与えることが許されていた。これがイエスにさしだされたのであるが、イエスはなめてみてそれをこばまれた。イエスはご自分の頭をくもらせるようなものは何1つ受けようとされなかった。イエスの信仰は固く神にすがっていなければならない。それがイエスの唯一の力であった。感覚を麻痺させることは、サタンの乗ずるすきを与えるのであった。 DA 1071.5

イエスが十字架にかかっておられると、敵どもはイエスに向かって怒りをぶちまけた。祭司たち、役人たち、律法学者たちは、群衆と一緒になって、瀕死の救い主を嘲笑した。バプテスマの時と、変貌の時に、キリストをご自分のみ子として宣言される神のみ声が聞かれた。またキリストが売り渡される直前に、天父は自らお語りになって、キリストの神性を証明された。しかしいま天からの声は沈黙していた。キリストのために語られるあかしのことばは聞かれなかった。キリストはただ1人で悪人たちの虐待と嘲笑を受けられた。 DA 1071.6

彼らは、「もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら」「十字架からおりてきて自分を救え」と言った(ルカ23:35、マルコ15:30)。試みの荒野で、サタンは、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。……も しあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と宣言したのだった(マタイ4:3、6)。 DA 1071.7

ところでサタンは、部下の天使たちと、人間の姿をとって、十字架のところにきていた。悪魔と悪天使たちは、祭司たちや役人たちと協力していた。民の教師たちが無知な群衆を扇動し、多くの者たちがまだ見たことのなかったお方に死刑を宣告するように、そしてついにはイエスに不利なあかしをたてないではいられないようにしたのだった。祭司たち、役人たち、パリサイ人たちと頑迷なやじ馬たちは悪魔的な狂気のうちにこの陰謀に加わっていた。宗教界の指導者たちがサタンや悪天使たちと1つになっていた。彼らはサタンの命令を実行していたのである。 DA 1072.1

イエスは、瀕死の苦しみのうちにありながら、祭司たちが、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」と宣言していることばをのこらず聞かれた(マルコ15:31、32)。キリストは十字架からおりることもおできになったのである。しかし罪人が神からのゆるしと恵みについて望みをもつことができるのは、イエスがご自分を救おうとされなかったからである。 DA 1072.2

預言の解説者と自称していた人たちは、この時彼らが語ると神の霊感が預言されていたとおりのことばを、救い主をあざけることばの中にくりかえしていた。しかし彼らは、盲目だったので、自分たちが預言を成就していることがわからなかった。「彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」とのことばを、嘲笑的に語った人たちは、そのあかしがその後各時代にわたってなりひびくとはすこしも思っていなかった(マタイ27:43)。しかし、あざけりのうちに語られたのではあったが、それらのことばによって、人々はこれまでになかったほどに聖書を探究するようになった。賢い者たちは、聞き、さぐり、深く考え、そして祈った。聖句と聖句をくらべて、キリストの使命の意味がわかるまでは決して満足しない人たちがいた。キリストが十字架にかかられた時ほど、イエスが広く一般に知られたことはなかった。十字架の光景を見、キリストのことばを聞いた多くの人々の心に真理の光がさしこんでいた。 DA 1072.3

十字架上で苦しんでおられるイエスにかすかな慰めの光が1すじさしてきた。それは悔い改めたどろぼうの祈りであった。イエスといっしょに十字架につけられた男たちは2人とも、最初イエスをののしっていた。1人は、苦しみのあまりますます絶望的な反抗を示すばかりであった。しかしもう1人の仲間はそうではなかった。この男は常習犯ではなかった。彼は悪い仲間たちにさそわれて道をふみはずしたのであったが、十字架のそばに立って救い主をののしっていろ人たちの多くよりも罪が軽かった。彼はかつてイエスを見、イエスのことばを聞き、その教えによって自覚させられたが、祭司たちと役人たちのためにイエスから離れてしまった。 DA 1072.4

彼は、罪の自覚をおしころそうとして、ますます罪の深みにとびこみ、ついに捕らえられて犯罪者としてさばかれ、十字架の死を宣告されたのであった、法廷でも、カルバリーへの途中でも、彼はイエスといっしよだった。彼はピラトが、「この人になんの罪も見いだせない」と断言するのを聞いた(ヨハネ19:4)。彼はイエスの神々しい態度に目をとめ、イエスが迫害者たちをあわれんでゆるされるのを見た。十字架上で、彼は多くのえらい宗教家たちが、侮辱的なことばを浴びせ、主イエスをあざけるのを見る。彼は揺れる頭を見る。彼は仲間のどろぼうが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と非難することばを聞く(ルカ23:39)。通りかかった人々の中で、多くの人がイエスを弁護するのを、彼は耳にする。彼らがイエスのことばをくりかえし、イエスのみわざについて語るのを、彼は聞く。これがキリストだという自覚が彼の心によみがえる。仲間のどろぼうに向かって、彼は、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか」と言う(ルカ23:40)。瀕死のどろぼうたちは、もはや人間を恐れる気持ちは何もない。しかしその中の1人は、恐るべき神がおられることと、彼をおののかせる 将来があることについて深い自覚が起こる。しかもいま、罪にけがれたままに彼の一生の経歴がとじられようとしている。彼はうめきながら言う。「お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(ルカ23:41)。 DA 1072.5

もう問題はない。疑いもなければ、罪のとがめもない。有罪を宣告された時、このどろぼうは絶望し、自暴自棄になった。しかしいま、ふしぎな、やさしい思いがわきあがってくる。彼は、イエスが病人をいやし、罪をゆるされたことなど、イエスについて聞いたことをみな心に思い起こす。彼は、イエスを信じて泣きながらついてきた人たちのことばを聞いた。彼は、救い主の頭上の罪状書きを見て読んだ。彼は、通りかかりの人たちが、ある者は悲しみにふるえる唇で、ある者はやじとあざけりをもってその罪状書きを読むのを聞いた。 DA 1073.1

聖霊は彼の心を照らし、すこしずつ証拠の鎖がつながる。打たれ、あざけられ、十字架にかけられているイエスのうちに、彼は、世の罪をとり除く神の小羊を見る。死にかけている無力な魂が、瀕死の救い主に身をまかせると、彼の声には苦悩の中に望みがまじる。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と、彼は叫ぶ(ルカ23:42)。 DA 1073.2

すぐに応答があった。その調子はやわらかく、音楽のようで、そのことばは愛と憐れみと力に満ちていた。きょう、よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう。 DA 1073.3

長い幾時間かの苦悩のあいだ、ののしりとあざけりがイエスの耳にひびいてきた。イエスが十字架にかかられてもまだ、やじとのろいの声がみもとに舞いあがってくる。待ちこがれる思いで、イエスは、弟子たちから何か信仰のことばを聞きたいと耳をすまされた。しかしイエスがお聞きになったのは、「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました」という悲しげなことばだけであった(ルカ24:21)。だから、この死にかかったどうぼうが口にした信仰と愛のことばは、救い主にとってどんなにうれしかったことだろう。有力なユダヤ人たちがイエスをこぼみ、弟子たちさえイエスの神性を疑っているのに、このかわいそうなどろぼうは、永遠の門口に立って、イエスを主と呼んでいる。イエスが奇跡を行われた時や、墓からよみがえられたあとでは、多くの人たちがよろこんでイエスを主と呼んだ。しかし十字架上で死にのぞんでおられるイエスを主と認めたのは、最後のまぎわに救われたこの悔い改めたどろぼうだけであった。 DA 1073.4

見物人たちは、このどろぼうがイエスを主と呼んだ時そのことばを聞いた。悔い改めた人間の語調が彼らの注意をひいた。十字架の下でキリストの衣服を争い、下着をとるのにくじを引いていた者たちは、動きをとめて耳をすました。彼らの怒った口調がやんだ。息をころして彼らはキリストを見あげ、その瀕死の唇から出る答を待った。 DA 1073.5

イエスが約束のことばを語られた時、十字架をおおっているようにみえた暗雲をつらぬいて明るい新鮮な光がさした。神に受け入れられたという完全な平安が悔い改めたどろぼうにのぞんだ。キリストは屈辱のうちにあってあがめられた。ほかのすべての者の目には征服されたお方に見えたイエスが征服者であった。主は罪を負うお方として認められた。人々はイエスの人としての肉体に力を行使するだろう。彼らはいばらの冠でその聖なるこめかみを刺すだろう。彼らはイエスからその衣服をはぎとり、それを分配するのに争うだろう。しかし彼らは、イエスから罪をゆるす権利を奪うことはできない。死にのぞんで、イエスは、ご自身の神性と、天父の栄光についてあかしをたてられる。「主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない」(イザヤ59:1)。彼によって神に来る人々を、いつも救うことがイエスの王権である(ヘブル7:25参照)。 DA 1073.6

わたしはきょうあなたに告げる、あなたはわたしといっしょにパラダイスにいるであろう。キリストはどろぼうがその日にキリストと一緒にパラダイスにはいることを約束されなかった。キリストご自身その日にパ ラタマスに行かれなかった。主は墓に眠って、よみがえられた朝、「わたしは、まだ父のみもとに上っていない」と言われた(ヨハネ20:17)。しかし十字架につけられた日、すなわち敗北と暗黒にみえたその日に、この約束が与えられた。「きょう」、犯罪人として十字架上で死にのぞんでおられるが、キリストはこのかわいそうな罪人に、「あなたはわたしといっしょにパラダイスにいるであろう」と保証される。 DA 1073.7

イエスと一緒に十字架につけられたどろぼうたちは、「イエスをまん中にして、……両側に」つけられた(ヨハネ19:18)。これは祭司たちと役人たちの指図であった。どろぼうたちの間のキリストの位置は、彼が3人の中で最も重い罪人であることを示すのであった。このようにして、彼は「とがある者と共に数えられた」との聖句が成就した(イザヤ53:12)。しかし祭司たちは自分たちの行為の意味が十分にわからなかった。イエスがどろぼうたちと一緒に十字架につけられて「まん中に」おかれたように、キリストの十字架は、罪のうちにある世のまん中に置かれた。そして、悔い改めたどろぼうに語られたゆるしのことばは、地の果てまで照らす光をともした。 DA 1074.1

心と体に最も激しい苦痛を受けながら、人のことしか思わず、悔い改めた魂が信ずるように励まされたイエスの限りない愛を、天使たちは驚嘆して見守った。屈辱のうちにあって、イエスは、預言者としてエルサレムの娘たちに語りかけ、祭司また助け主として殺人者たちのためのゆるしを天父に嘆願し、愛情深い救い主として悔い改めたどろぼうの罪をゆるされた。 DA 1074.2

イエスが周囲の群衆を見まわされた時、1つの姿が彼の注意をひいた。十字架の足下に、イエスの母が、弟子のヨハネにささえられて立っていた。彼女は息子のそばから離れていることに耐えられなかった。そこでヨハネが、イエスの臨終が近いことを知って、彼女をもう1度十字架のところへ連れてきたのだった。臨終の際にも、キリストは母をお忘れにならなかった。悲しみにうちひしがれた母の顔をじっとごらんになってから、その目をヨハネに移し、母に「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」と言って、次にヨハネに「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言われた(ヨハネ19:26、27)。ヨハネはキリストのことばを理解し、その責任を引き受けた。彼はすぐにマリヤを自分の家へ連れて行き、その時から彼女をやさしく世話した。ああ、何と憐れみ深く、やさしい救い主だろう。肉体の苦痛と精神の苦悩の最中に、母のために思いやりの深い心づかいを示されるとは。イエスは母を安楽にするお金がなかった。しかしヨハネはイエスを大事なお方に思っていたので、イエスは、ご自分の母をこのヨハネにとうとい遺産としてお与えになった。こうしてイエスは、母のために最も必要なものをお備えになった。それは彼女がイエスを愛するがゆえに彼女を愛する者のやさしい同情であった。こうしてヨハネは、聖なる責任として彼女を引き受けることによって、大きな祝福を受けていた。彼女は、ヨハネの愛する主をいつも思い出させてくれる存在であった。 DA 1074.3

キリストの子としての愛の完全な模範がくもりのない輝きをもって長い年月の霧の中から光を放っている。イエスは30年近くの間、毎日の労働によって家庭の重荷を負う助けをされた。そしていま、最後の苦悩のうちにあっても、イエスは、悲しんでいるやもめの母のために道を備えることをお忘れにならない。この同じ精神が主の弟子の一人一人にみられるであろう。キリストに従う者たちは、親を敬い、養うことを彼らの宗教の一部と考えるであろう。父と母は、キリストの愛の宿っている心を持った子からかならず思いやりのある世話とやさしい同情とを受けるであろう。 DA 1074.4

さて栄光の主は、人類のあがないとしていま死なれるのであった。そのとうとい生命をささげるに当たって、キリストは勝利の喜びによってささえられなかった。すべてが重苦しく陰うつであった。キリストに重くのしかかっていたのは死の恐怖ではなかった。言い表しようのないキリストの苦悩をひき起こしたのは十字架の苦痛と恥辱ではなかった。キリストは受難者たちの君であった。しかし、主の苦難は、罪の害毒についての意識、すなわち人間は罪と親しむこと によってその無法さに対して盲目になったことを知られたからであった。罪が深く人の心にくいこみ、その力をたちきろうとする者が少ないのをキリストはごらんになった。キリストは、神からの助けがなければ人間は滅びなければならないことを知り、多くの者が十分な助けを目の前にしながら滅びて行くのをごらんになった。 DA 1074.5

われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫一人一人の不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の恐るべきあらわれが、み子の魂を非常な驚きと恐れで満たした。一生の間、キリストは、天父の憐れみとゆるしの愛についてのよい知らせを堕落した世に宣伝してこられた。罪人のかしらの救いがキリストのテーマであった。 DA 1075.1

しかしいま、自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎのみ顔を見ることがおできにならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。この苦悩は、肉体的な苦痛などほとんど感じられないほど大きかった。 DA 1075.2

サタンは激しい試みでイエスの心を苦しめた。救い主は墓の入口から奥を見通すことがおできにならなかった。キリストが征服者として墓から出てこられることや、犠牲が天父に受け入れられることについて望みは与えられなかった。キリストは、罪が神にとって不快なものであるため、ご自分と神との間が永久に隔離されるのではないかと心配された。キリストは、不義の人類のためにあわれみのとりなしがやんだ時に罪人が感じる苦悩を感じられた。キリストが飲まれたさかずきをこんなにもにがいものとし、神のみ子を悲しませたのは、人類の身代りとしてキリストに神の怒りをもたらしている罪についての観念であった。 DA 1075.3

天使たちは救い主の絶望的な苦悩を驚きの念をもって見た。天の万軍はこの恐るべき光景に顔をおおった。あなどられて死んでいかれる創造主に非情の自然界さえ同情を表した。太陽はその恐るべき光景を見るのをこぼんだ。太陽の豊かな、明るい光線が真昼の地上を照らしていたが、突然にその光がかき消されたようにみえた。葬式の黒布のように、真の暗やみが十字架を包んだ。「地上の全面が暗くなって、3時に及んだ」(マタイ27:45)。月も星もない真夜中のようなこの深い暗やみは、日蝕のせいでもなければ、ほかの自然現象のせいでもなかった。それは後世の人々の信仰を一層固めるために神がお与えになった超自然のあかしであった。 DA 1075.4

この深い暗やみのうちに神のこ臨在がかくされた。神は暗やみを幕屋とし、その栄光を人間の目からかくされる。神と聖天使たちは、十字架のそばにおられた、天父はみ子と共におられた。しかし神のこ臨在はあらわされなかった。もし神の栄光が雲からひらめきわたったら、見ている人間はみな滅ぼされたであろう。 DA 1075.5

しかもキリストは、この恐るべき時に、天父のこ臨在によって慰めを受けられないのであった。主は1人で酒ぶねを踏まれ、もろもろの民のなかには彼と事を共にする者がなかった(イザヤ63:3参照)。 DA 1075.6

神は、み子の人間としての最後の苦悩を、深いやみのなかにおおいかくされた。苦難のうちにあるキリストを見た者はみな、キリストの神性を確信していた。そのお顔は、1度見た人は、決して忘れなかった。カインの顔が殺人者としての彼の罪悪を表していたように、キリストのお顔は、潔白、平静、慈愛——神のみかたちを表した。しかしキリストを訴えた者たちは、天のしるしに注意しようとしなかった。長時間にわたる苦悩の間中、キリストは、嘲笑する群衆の視線を浴びておられたが、いま彼は憐れみ深くも神のマントにかくされた。 DA 1075.7

死の沈黙がカルバリーにおそってきたように思えた。十字架のまわりに集まっていた群衆は言いようのない恐怖にとらえられた。のろいとののしりは、なかば言いかけたことばのままやんだ。男も女も子供 たちも地にひれふした。あざやかないなずまが時々雲からひらめいて、十字架とそこにつけられているあがない主を照らした。祭司たち、役人たち、律法学者たち、死刑執行人たち、群衆はみな自分たちの報いの時がきたと思った。しばらくすると、ある人たちはイエスがいま十字架からおりてこられるだろうとささやいた。ある人たちは胸をうち、恐怖のあまり泣きながら、道を手さぐりで都の方へ引き返そうとした。 DA 1075.8

3時になって、暗やみは人々のまわりから晴れたが、まだ救い主をつつんでいた。それは主の心に重くのしかかっている苦悩と恐怖の象徴であった。誰の目も十字架をつつんでいる暗黒を見通すことができず、だれも苦しんでおられるキリストの魂をおおっている一層深い暗黒を見通すことはできなかった。十字架にかかっておられるイエスをめがけて怒りのいなずまが投げつけられるようにみえた。その時「イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコ15:34) DA 1076.1

そとの暗やみが救い主のまわりに集まると、多くの声が叫んで言った、天の報いが彼に向けられたのだ、彼は神のみ子であると称したので、神の怒りのいなずまが彼をめがけて投げつけられたのだと。イエスを信じていた多くの者たちは、イエスの絶望的な叫びを聞いた。彼らから望みが消えた。もし神がイエスを捨てられたのだったら、イエスに従っている者たちは何に信頼することができよう。 DA 1076.2

キリストの重苦しい心から暗やみが晴れると、肉体的な苦痛の意識がよみがえり、主は「わたしは、かわく」と言われた(ヨハネ19:28)。ローマの兵士の1人が、かわいた唇を見て同情し、ヒソプの茎につけた海綿を酢のうつわに浸して、それをイエスにさし出した。しかし祭司たちはイエスの苦悩をあざけった。暗やみが地をおおった時彼らは恐怖に満たされたが、その恐怖がしずまると、イエスが逃げはされないかという恐れがふたたび起こった。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というイエスのことばを彼らはまちがって解釈した。にがにがしい軽蔑と嘲笑とをもって、彼らは「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った(マタイ27:47)。イエスの苦難をやわらげる最後の機会を彼らはこぼんだ。「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と彼らは言った(マタイ27:49)。 DA 1076.3

けがれのない神のみ子は、その肉体はむち打ちで裂け、しばしば祝福のうちにさし出されたその手は横木に釘づけられ、愛の奉仕に疲れを知らなかったその足は木にうちつけられ、王の頭はいばらの冠で刺され、ふるえる唇は苦悩の叫びにかたどられて、十字架にかかっておられた、しかもイエスがしのばれたすべてのことは——その頭と手と足から流れた血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされた時にその魂を満たした言いようのない苦悩——人類の子らの一人一人に向かって、神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると語っている。 DA 1076.4

荒れ狂う波をしずめて、泡立つ大波の上をあるかれたお方、悪鬼をふるえあがらせ、病気を追い出されたお方、目の見えない人の目を開き、死人をいのちによみがえらせたお方が、いけにえとしてご自分を十字架上にささげられる、しかもそれはあなたを愛されるからである。罪を負うお方であるイエスが、神の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる。 DA 1076.5

沈黙のうちに、目撃者たちは、この恐るべき光景の結末を見守った。太陽が輝き出たが、十字架はまだ暗黒につつまれていた。祭司たちと役人たちはエルサレムの方を見た。すると見よ、濃い雲が都とユダヤの平原のあたりにかたまっていた。義の太陽、世の光であられるキリストは、かつてはめぐまれた都エルサレムから、その光をひきあげておられた。神の怒りのすさまじいいなずまがこの滅ぶべき都に向けられた。 DA 1076.6

突然十字架のまわりの暗黒が晴れ、天地にひびきわたるようなはっきりしたラッパの調子で、イエスは 「すべてが終った」「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫ばれた(ヨハネ19:30、ルカ23:46)。ひとすじの光が十字架をとりまき、救い主のお顔は太陽のような栄光に輝いた。それから主は頭を胸にたれて、息をひきとられた。 DA 1076.7

恐ろしい暗黒のさなかに、神に見すてられたようにみえる中にあって、キリストは人間の苦悩のさかずきを最後の1滴まで飲みほされた。その恐るべき時に、主は、ご自分が天父に受け入れられたことについて、これまで与えられていた証拠によりたのまれた。イエスは天父の性格をよく知っておられた。イエスは天父の正義、あわれみ、大きな愛をわかっておられた。父に従うことがイエスの喜びであったが、信仰によってイエスは父に信頼された。こうして、服従のうちにご自分をまったく神にまかせられた時に、天父の恩恵が失われたという意識はなくなった。信仰によってキリストは勝利者となられた。 DA 1077.1

このような光景は、この地上でみられたことがなかった。群衆は麻痺したように、息をころして救い主をみつめた。ふたたび暗黒が地をおおい、重々しいかみなりのようなにぶい音が聞こえた。 DA 1077.2

すると激しい地震が起こった。人々はかたまりになって揺れた。激しい混乱と胆をつぶすような驚きがつづいて生じた。まわりの山で岩が真二つに割れ、音をたてて平原へなだれ落ちた。墓が口を開き、死人がその墓所から投げ出された。天地がこなみじんになるように思えた。祭司たち、役人たち、兵士たち、執行人たち、人々は、恐怖で声も出ず地面にうつ伏せに倒れた。 DA 1077.3

「すべてが終った」との大声がキリストの口から出た時、祭司たちは宮で務めを行っていた。夕ベのいけにえをささげる時間であった。キリストを象徴する小羊が、殺されるために連れてこられていた。深い意味のある美しい衣を着た祭司が、ちょうどアブラハムが息子を殺そうとした時のように、ナイフをふりあげていた。人々は熱心にじっと見つめていた、しかし地が揺れ動く。主ご自身が近づかれるからである。引き裂ける音をたてて宮の内部の幕が上から下まで目に見えない手で裂かれ、かつては神のこ臨在に満たされていた場所が群衆の目の前に開かれる。この場所にシカイナがとどまっていたのだ。ここで神は贈罪所の上のあたりに栄光を現されたのだ。宮のこの部屋とほかの部分とを仕切っている幕は、大祭司のほかはだれもあけたことはなかった。大祭司は、民の罪のあがないをなすために、1年に1度この中に入って行った。ところが見よ、その幕が真二つに裂けている。地上の聖所の至聖所はもはや神聖なものではない。 DA 1077.4

すべてが恐怖であり、混乱である。祭司はまさにいけにえを殺そうとしている。しかしそのナイフは感覚を失った手から落ち、小羊は逃げ去る。神のみ子の死によって、型が本体に合ったのである。大いなるいけにえがささげられたのである。至聖所への道が開かれている。新しい、生きた道がすべての人のために備えられる。罪を悲しむ人間は、もはや大祭司が出てくるのを待つ必要はない。これからは救い主がもろもろの天の天において祭司また助け主として務めを行われるのである。あたかも生きた声が礼拝者たちに向かって、罪のためのいけにえと献げ物はもう全部終ったと語られたかのようであった。 DA 1077.5

「神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました」とのみことばにしたがって、神のみ子がこられたのである(ヘブル10:7)。キリストは、「ご自身の血によって、1度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル9:12)。 DA 1077.6