各時代の希望

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第77章 ピラトの法廷で

本章はマタイ27:2、11~31、マルコ15:1~20、ルカ23:1~25、ヨハネ18:28~40、19:1~16に基づく DA 1056.4

ローマ人総督ピラトの法廷に、キリストは、囚人として拘束されて立たれる。イエスのまわりには警備の兵士たちが立ち、法廷は見物人でたちまちいっぱいになる。入口のすぐ外側には、サンヒドリンの裁判官たち、祭司たち、役人たち、長老たち、それにやじ馬連中がいる。 DA 1056.5

イエスを有罪に定めてから、サンヒドリンの会議は、その判決の確認と執行をピラトに願い出ていた。しかしこれらのユダヤ人当局者たちは、ローマ人の法廷にはいろうとしなかった。彼らの儀式の律法によれば、そうすることによって彼らはけがれ、したがって過越の食事に加わることができないのであった。盲目的な彼らは、自分たちの心が殺人的な憎悪によってけがされていることに気づかなかった。キリストが真の過越の小羊であられるということ、そしてそのおかたをすてたからにはこの大いなる食事は彼らにとって何の意味もなさなくなっているということが、彼らにはわからなかった。 DA 1056.6

救い主が法廷に連れてこられると、ピラトは好意的な目で主を見なかった。このローマ人総督はあわただしく寝室から呼び出されたので、できるだけ早く仕事を片づけようと決心していた。彼はこの囚人を行政長官らしいきびしさでとり扱うつもりでいた。できるだけきびしい表情を浮かべながら、彼は、休息中の自分がこんなに朝早くから呼び出されるとはいったいどんな種類の男を調べなくてはならないのだろうと思って向き直った。彼は、これがユダヤ人当局者たちが裁判と処刑を急いでもらいたがっている人間にちがいないとわかった。 DA 1056.7

ピラトはイエスを護衛している人たちを見、それからさぐるような目つきをじっとイエスにそそいだ。彼はこれまであらゆる種類の犯罪人をとり扱わねばならなかった。しかしこんなに善良で気高い様子をした人間が彼の前に引き出されたことはかつてなかった。 DA 1056.8

彼はイエスの顔に何の罪の影も、恐れの表情も、大胆不敵さもみられなかった。彼は、その顔つきに犯罪人の特徴ではなく、天の特性があらわれている おだやかで、威厳のある態度の人を見た。キリストの様子はピラトに好ましい印象を与えた。ピラトの性質のよい一面が目覚めた。彼はこれまでイエスとその働きについて聞いていた。彼の妻は、このガリラヤの預言者がふしぎなわざを行って、病人をいやしたり死人をよみがえらせたりしたことなどをいくらか彼に話したことがあった。いまそのことが夢のようにピラトの心によみがえってきた。彼は2、3の方面から聞いたうわさを思い出した。彼はこの囚人に対する告発をユダヤ人自身にやらせようと決心した。 DA 1056.9

この男はだれか、あなたがたは何のためにこの男をつれてきたのか、この男に何の罪があると言うのか、とピラトは言った。ユダヤ人たちは当惑した。彼らはキリストに対する告発を証拠だてることができないことがわかっているので、公開の尋問を望まなかった。彼らは、この男がナザレのイエスという詐欺師であると答えた。 DA 1057.1

ふたたびピラトはたずねた、「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」(ヨハネ18:29)。祭司たちはこの質問に答えないで、彼らのいらだちをあらわしていることばで、「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」と言った(ヨハネ18:30)。サンヒドリンを構成している人たち、すなわち国の最高の地位にある人たちが、死刑に値すると考えられる人間をあなたのところへつれてくる時、その訴えについてどうしてたずねる必要があろうか。彼らは、自分たちの重要性についての認識をピラトに印象づけ、それによって多くの予備尋問を経ないで、彼らの依頼に応じさせようと望んだ。彼らは自分たちの宣告を裁可してもらいたいと熱心に望んだ。キリストのふしぎなみわざを目撃した人たちが、いま彼らが並べたてているつくりごととは異なった話をすることができるということを彼らは知っていたからである。 DA 1057.2

祭司たちは、気が弱くて考えのぐらぐらするピラトを通して、彼らの計画を問題なく実行できると考えた。これより前、ピラトは、死刑に値しないと彼らにわかっているような人たちに死刑を宣告して、その死刑命令書に軽率に署名していた。彼の目には、囚人の生命などたいしたことではなかった。その囚人が無罪であるかそれとも有罪であるかは、何も特別重要なことではなかった。祭司たちは、ピラトがキリストの言い分を聞かないで、いまイエスに死刑を言い渡すように望んだ。このことを彼らは、彼らの国の大祭にあたっての1つの恩典として求めた。 DA 1057.3

しかしこの囚人のうちには、そうすることをピラトにちゅうちょさせる何ものかがあった。彼はあえてそうしなかった。ビラトは祭司たちの意図を見抜いた。彼は、死んでから4日もたった男ラザロをイエスがよみがえらせたのはそんなに前のことではなかったことを思い出した。そこで彼は、有罪の判決に署名する前に、イエスに対する告発が何であるか、そしてそれは証明できるかどうかを知ろうと決心した。 DA 1057.4

もしあなたがたの判決が十分であるならば、なぜこの囚人をわたしのところへ連れてきたのだと、彼は言った。「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」(ヨハネ18:31)。こう迫られると、祭司たちは、イエスにすでに判決をくだしたが、その有罪の宣告を有効にするにはピラトの宣告が必要なのだと言った。あなたがたはどんな宣告をくだしたのだと、ピラトはたずねた。死刑の宣告です、しかし「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と彼らは答えた(ヨハネ18:31)。彼らは、キリストの有罪についてピラトが彼らのことばを信じてその宣告を執行してくれるようにとたのんだ。その結果については、自分たちが責任を負うというのだった。 DA 1057.5

ピラトは正しい、あるいは良心的な裁判官ではなかった。しかし道徳的な力は弱かったが、彼はこの願いを許可することをことわった。彼は、イエスに対する告発の理由が述べられないかぎり、有罪の宣告をくだそうとしなかった。 DA 1057.6

祭司たちは苦境に陥った。彼らは自分たちの偽善をいちばん奥深いところへ隠さねばならないことを知っていた。キリストが宗教上の理由で捕らえられたことをみせてはならなかった。これを理由として持ち出したら、彼らの訴えはピラトに何のききめもない であろう。イエスが一般の法律に反したことを行っているようにみせねばならない。そうしたらイエスを政治犯として処罰できるであろう。ローマ人の統治に対する騒動や反乱がしじゅうユダヤ人の間に起こっていた。ローマ人は、こうした反乱をきびしく取りしまり、暴動になりそうなことはどんなことでも弾圧するようにたえず警戒していた。 DA 1057.7

これよりほんの2、3日前、バリサイ人たちは、「カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」とたずねてキリストをわなにかけようとした。しかしキリストは彼らの偽善をばくろされた。居合わせたローマ人たちは、「カイザルのものはカイザルに……返しなさい」とのイエスの返事に、陰謀家たちが完全に失敗し、ろうばいするのを見たのだった(ルカ20:22~25)。 DA 1058.1

そこで祭司たちは、こんどは、自分たちの頭でつくりあげたことを、キリストが教えられたかのようにみせかけようと思った。彼らは、苦しまぎれに、偽りの証人たちを助けに呼び、「訴え出て言った、『わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました』」(ルカ23:2)。ここに3つの点について告発がなされたが、そのどれも根拠のないものだった。祭司たちはそのことを知っていたが、目的をとげることができさえすれば、偽証することをいとわないのだった。 DA 1058.2

ピラトは、彼らの意図を見抜いた。彼は、この囚人が政府に対して陰謀をくわだてたということを信じなかった。イエスの柔和なへりくだった様子はこの告発にまったく不似合いだった。ユダヤ人の高官たちの邪魔になっているこの罪なき人間を滅ぼすために根深い陰謀がめぐらされているということを、ピラトは確信した。イエスに向かって彼はたずねた。「あなたがユダヤ人の王であるか」。救い主は、「そのとおりである」とお答えになった(マルコ15:2)。こう言われた時、イエスの顔つきはあたかも太陽の光線に照らされているかのように輝いた。 DA 1058.3

イエスの答を聞くと、カヤパやいっしょにいた人々は、イエスがその告発された罪を認めたことをピラトが証言するように求めた。騒々しい叫び声をあげて、祭司たち、律法学者たち、役人たちは、イエスに死刑の宣告をくだすようにと要求した。その叫び声にやじ馬たちが加わって、喚声は耳もつぶれるばかりであった。ピラトは困惑した。イエスが告発者たちに何の返事もされないのを見て、ピラトはイエスに言った。「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」(マルコ15:4)。それでもイエスは、何もお答えにならなかった。 DA 1058.4

法廷の全部の人たちの面前で、キリストは、ピラトのうしろに立って、そのののしり声を聞かれた。しかしご自分に対してどんなに偽りの告発がなされても、主は一言もお答えにならなかった。その態度の全体はイエスが無罪を意識しておられることを示していた。イエスはご自分のまわりに打ちつける荒々しい波に動かされることなく立っておられた。それはあたかも怒りの大波が、荒れ狂う大洋の波のようにだんだん高くもりあがってイエスのまわりに砕けるが、イエスにはとどかないようなものだった。主はだまって立っておられたが、しかしその沈黙は雄弁であった。それは人の内面から外面を照らしている光のようであった。 DA 1058.5

ピラトはイエスの態度に驚いた。この人は自分のいのちを救いたくないので裁判の進行を無視しているのだろうかと、彼は心の中で問うてみた。報復もしないで侮辱と嘲りに耐えておられるイエスを見て、この人にはあのわめいている祭司たちのような不義や不正があるはずがないとピラトは感じた。イエスから真実を引き出し、群衆の騒ぎからのがれたいと望んで、ピラトは、イエスをかたわらに引きよせ、もう1度「あなたは、ユダヤ人の王であるか」とたずねた(ヨハネ18:33)。 DA 1058.6

イエスはこの質問に直接お答えにならなかった。イエスは、聖霊がピラトと争っているのを知っておられたので、彼が自分の確信を認める機会をお与えになった。「あなたがそう言うのは、自分の考えからか、それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそ う言ったのか」とイエスはおたずねになった(ヨハネ18:34)。 DA 1058.7

すなわち、ピラトにそのような質問をさせたのは、祭司たちの訴えなのか、それともキリストから光を受けたいという望みなのかというのであった。ピラトはキリストの言われた意味を理解した。しかし彼の胸中に誇りがあたまをもたげた。彼は自分のうちにわきあがった確信を認めようとしなかった。そして、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」と言った(ヨハネ18:35)。 DA 1059.1

ピラトの貴重な機会は過ぎ去った。それでもイエスは、彼にもっと光を与えないではおかれなかった。イエスはピラトの質問に直接お答えにはならなかったが、ご自分の使命をはっきり述べられた。イエスは、ご自分がこの世の王位を求めているのではないことを、ピラトに理解させられた。 DA 1059.2

イエスは言われた、「『わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない』。そこでピラトはイエスに言った、『それでは、あなたは王なのだな』。イエスは答えられた、『あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける』」(ヨハネ18:36、37)。 DA 1059.3

キリストは、ご自分のことばそのものが、それを受け入れる気持ちのある者にとっては神秘を解く鍵であることを肯定された。みことばはそれ自体にすばらしい力があって、これがキリストの真理のみ国を発展させる秘訣であった。イエスは、ピラトが真理を受け入れてそれを自分のものにすることによってのみ彼の堕落した性質はつくり直されるのだということを理解するように望まれた。 DA 1059.4

ピラトは真理を知りたいと願った。彼の心は混乱していた。彼は熱心に救い主のことばをとらえ、彼の心は、それが本当に何であるか、またどのようにしたらそれを自分のものにすることができるかを知りたいとの熱望に動かされた。「真理とは何か」とピラトはたずねた。 DA 1059.5

しかし彼は返事を待たなかった。外部の騒ぎが彼の関心を当面の問題に引きもどした。祭司たちが今すぐ判決をくだすようにわめきたてていたからである。ピラトはユダヤ人たちのところへ出て行くと、力をこめて、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない」と宣言した(ヨハネ18:38)。 DA 1059.6

異教の裁判官のこのことばは、救い主を訴えているイスラエルの役人たちの不誠実と虚偽に対する痛烈な譴責であった。祭司たちと長老たちがピラトのことばを聞いた時、彼らの失望と怒りはとどまるところを知らなかった。彼らは長い間陰謀をめぐらしてこの機会を待っていたのだ。イエスが釈放されそうな形勢をみると、彼らはいまにもイエスを八つ裂きにしそうな様子をみせた。彼らは大声でビラトを攻撃し、ローマ政府から譴責されるぞと言っておどした。彼らは、ピラトがイエスの有罪をこばんだことを非難し、イエスはカイザルに反対して立ちあがった人間なのだと断言した。 DA 1059.7

怒った人々が口々にイエスの扇動的な感化は全国に知れ渡っていると断言するのがこんどは聞かれた。祭司たちは、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」と言った(ルカ23:5)。 DA 1059.8

ピラトは、この時、イエスを有罪に定めようとは思っていなかった。ユダヤ人が憎悪と偏見からイエスを訴えたことが彼にはわかっていた。彼は自分の義務が何であるかを知っていた。正義はキリストを直ちに釈放することを要求した。しかしピラトは民衆の悪意を恐れた。イエスを彼らの手に渡すことをこばめば、騒動がもちあがるであろう。彼はそのような騒ぎにまきこまれることを恐れた。ピラトは、キリストがガリラヤの出身だと聞くと、その地方の領主ヘロデがちょうどエルサレムにきていたので、キリストを彼のもとに送ることにきめた。この手順によって、ピラトは、裁 判の責任を自分からヘロデへ移そうと思った。彼はまたこのことを、自分とヘロデとの昔のけんかを和解するよい機会だと考えた。そして実際その通りになったのであった。この2人の行政長官は救い主の裁判をめぐって親しくなった。 DA 1059.9

ピラトがイエスをふたたび兵士たちに引き渡したので、イエスは、嘲笑と侮辱の中をヘロデの法廷へ追いたてられた。「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ」。彼はまだ救い主に会ったことがなかったが、「かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである」(ルカ23:8)。このヘロデは、バプテスマのヨハネの血で手をけがしたヘロデである。ヘロデは、初めてイエスのことを聞いた時、恐怖におそわれて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」「それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言った(マルコ6:16、マタイ14:2)。それでもヘロデはイエスに会いたいと望んだ。いまこの預言者のいのちを救う機会がきたのだ。そこで王は、血にまみれた首を大皿にのせて持ってこられたあの記憶を永久に心の中から追い払いたいと望んだ。彼はまた自分の好奇心を満足させたいと望み、キリストはもし釈放される見込みがあればたのまれることを何でもされるだろうと思った。 DA 1060.1

祭司たちと長老たちの大群がキリストについてヘロデのところへやってきていた。そして救い主が中へ入れられると、これらの高官たちはみな興奮してしゃべりながら、キリストに対する訴えをのべたてた。しかしヘロデは彼らの訴えにほとんど注意を払わなかった。彼は、キリストのなわをとくように命令し、同時にキリストの反対者たちが彼を手荒に取り扱っていることを非難した。世のあがない主の平静なお顔を同情をもって見入った彼がそこに読みとったものは知恵と純潔だけであった。ピラトと同様にヘロデもまた、キリストが悪意とねたみから訴えられているということを確信した。 DA 1060.2

ヘロデがキリストに多くのことばで質問したが、その間ずっと救い主は深い沈黙をつづけられたすると、王の命令によって、よぼよぼの障害者たちが呼ばれ、キリストは奇跡を行なってその主張を証明するように命令された。人々はあなたが病人をいやすことができると言っている。 DA 1060.3

広くひろがっているあなたの評判がうそでないことをわたしは見たいのだと、ヘロデは言った。イエスはお答えにならなかったのでヘロデはなおも言い張った。もしあなたが他人のために奇跡を行うことができるのなら、いまそれを自分自身のために行いなさい、そうしたらあなたのためになるだろうと。ふたたび彼は、うわさに聞く力があなたにあるという証拠を示せと命令した。しかしイエスは見聞きしていない人のようであった。神のみ子は人の性質をおとりになった。彼は同様な事情のもとで人がしなければならないようになさらねばならない。だからイエスは、人が同様な立場に置かれたときに耐え忍ばねばならない苦痛と恥辱から自分がまぬかれるために奇跡を行おうとされなかった。 DA 1060.4

ヘロデは、もしキリストが目の前で何か奇跡を行われるなら、釈放しようと約束した。キリストを訴えた人たちはキリストの力で偉大なわざが行われたのを彼ら自身の目で見ていた。彼らは、キリストが墓に死人を解放するように命令されるのを聞いた。彼らは、その声に従って死人が出てくるのを見た。彼らはいまキリストが奇跡を行われはしないかと恐怖におそわれた。何よりも彼らが恐れたのは、キリストの力のあらわれであった。このような力のあらわれは、彼らの計画にとって致命的な打撃となり、おそらく彼らの生命さえ危いかも知れないのだった。ふたたび祭司たちと役人たちが、非常に心配しながら、キリストに対する訴えを主張した。彼らは声を張りあげて、彼は反逆者だ、彼は冒瀆者だ、彼は悪鬼の王ベルゼブルから与えられた力で奇跡を行うのだと断言した。人々が日々にいろいろなことを叫んだために、法廷は混乱の場となった。 DA 1060.5

ヘロデの良心は、ヘロデヤからバプテスマのヨハネの首を求められて恐ろしさに身ぶるいした時ほどい まは敏感ではなくなっていた、しばらくの間彼は自分の恐ろしい行為に鋭い後悔の痛みを感じていた。しかし彼の道徳的観念はその放縦な生活のためにますます堕落した。いま彼の心は、ヨハネが自分を責めたから彼に刑罰をくだしたのだと自慢できるほどまでにかたくなになっていた。そしていま彼は、自分はイエスを釈放することも罪に定めることもできる権力を持っているのだと何度も宣言して、イエスをおどした。しかしイエスの様子には、一言でも聞かれたような証拠はみられなかった。 DA 1060.6

ヘロデはこの沈黙にいらだった。それは彼の権威に対してまったく無関心を示しているようにみえた。虚栄心の強い、尊大な王にとって、このように無視されることは公然と譴責されるよりも不愉快だった。ふたたび彼は腹立たしげにイエスをおどかしたが、あいかわらずイエスは平静にだまっておられた。 DA 1061.1

この世におけるキリストの使命は、いたずらな好奇心を満足させることではなかった。主は、心の傷ついた者をいやすためにこられた。罪に悩む魂の傷をいやすために何かことばを語るのであったら、主はだまってはおられなかったであろう。しかしイエスは、真理をけがれた足で踏みつけることしかしないような者たちに対しては、何も言われることがなかった。 DA 1061.2

キリストは、このかたくなな王の耳を刺し通すようなことばを、ヘロデに言うこともおできになった。イエスは、ヘロデの前に彼の生活のあらゆる不義と彼にのぞもうとしている破滅の恐怖を示すことによって、彼を恐怖でふるえあがらせることもおできになった。しかしキリストの沈黙は、主がお与えになることのできた最もきびしい譴責であった。ヘロデは最も偉大な預言者によって彼に語られた真理をこばんだので、もうほかのメッセージは受けられないのであった。天の大君には彼のために語られることばがなかった。人類の苦悩に対していつも開かれていた耳は、ヘロデの命令を聞く余地はなかった。悔い改めた罪人の上にいつもそそがれていた憐れみとゆるしを語るイエスの愛の目は、ヘロデに向けられる様子がなかった。最も感動的な真理を語り、この上なくやさしい願いをこめて最も罪深い者と最も堕落した者に訴えられた唇は、救い主の必要を感じない高慢な王に対してはとざされていた。 DA 1061.3

ヘロデの顔は激怒で赤くなった。群衆の方を向くと、彼は、怒ってイエスは詐欺師だと非難した。それからキリストに彼は言った。もしあなたが主張通りの証拠を示さないならば、わたしはあなたを兵士たちと民衆の手に引き渡そう。彼らはあなたに語らせることができるかも知れない。もしあなたが詐欺師なら彼らの手にかかって死ぬのがあなたには一番ふさわしいのだ。もしまたあなたが神の子なら奇跡を行なって自分自身を救いなさいと。 DA 1061.4

このことばが語られたとたんに、人々はわっとキリストめがけて押しよせた。野獣のように、群衆はその餌食に突進した。イエスはあちらこちらへ引きずられ、ヘロデもやじ馬に加わって神のみ子をはずかしめようとした。ローマの兵土たちが間にはいって、狂気の群衆を押し返さなかったら、救い主は八つ裂きにされてしまわれたであろう。 DA 1061.5

「ヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せ……た」(ルカ23:11)。ローマの兵士たちもこの虐待に加わった。これらの邪悪な、堕落した兵卒たちが、ヘロデとユダヤ人の高官たちに勢いづけられて、挑発できる限りのことが救い主に対してなされた。それでもイエスの天来の忍耐は変わらなかった。 DA 1061.6

キリストの迫害者たちは、彼ら自身の品性でキリストの品性をおしはかろうとした。彼らはキリストが彼らと同じような悪い人間であるように言いふらしていた。しかし現在のあらゆる外観の奥に別な光景、すなわち彼らがいつかはあらゆる栄光のうちに見る光景が現れた。キリストの前でうちふるえた者もあった。粗暴な群衆がからかいながらキリストの前に頭をさげていた時、同じ意図で進み出た者の中には、恐れて無言のまま引き返す者たちがいた。ヘロデは罪を自覚した。あわれみの光の最後の光線が、罪に固まった彼の心を照らしていた。この人はただの人 間ではないと、彼は感じた。人性を通して神性がひらめいていたからであった。キリストが嘲る者たちや姦通者たちや殺人者たちにとりかこまれておられたその時、ヘロデは、み座についておられる神を見ているような気がした。 DA 1061.7

ヘロデはかたくなではあったが、キリストの有罪を裁可しようとはしなかった。彼はこの恐るべき責任からまぬかれたいと望んで、イエスをローマ人の法廷に送りかえした。 DA 1062.1

ピラトは失望し、非常に不愉快に思った。ユダヤ人たちが囚人をつれて戻ってくると、彼はいらいらして、いったいわたしにどうしてもらいたいのだとたずねた。わたしはすでにイエスをとり調べたが、彼には何の罪もみいだされなかったではないかとピラトは彼らに注意した。 DA 1062.2

おまえたちはイエスについて苦情を訴えてきたが、その告発を1つも証明できなかったではないかと、彼は言った。ガリラヤの領主であり、おまえたちの同国人であるヘロデにイエスを送ったが、彼もまたイエスのうちに死刑に相当するものを何1つみいだすことができなかったのだ。「だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」と、ピラトは言った(ルカ23:16)。 DA 1062.3

ここでピラトは彼の弱さをあらわした。彼はイエスの無罪を宣言しておきながら、訴える者たちをなだめるためにイエスがむち打たれることに賛成した。彼は暴徒たちと妥協するために、正義と原則を犠牲にするのであった。このために彼は不利な立場に陥った。群衆は、彼の優柔不断につけこんで、囚人の生命を要求してますますわめいた。もし最初にピラトが断固とした態度をとって、無罪とわかった人間に有罪を宣告することを拒否したら、彼は、彼を一生しばりつけた悔恨と罪とがの致命的な鎖をたち切ることができたであろう。もし彼が正義についての自分の確信を実行していたら、ユダヤ人がつけあがって彼に命令するようなことはなかったであろう。キリストは死刑にされたであろうが、それでもその罪がピラトに着せられることはなかったであろう。しかしピラトは1歩1歩自分の良心を犯した。彼は、正義と公平をもって裁判することを言いのがれたので、いまや祭司たちと役人たちの手に陥ってほとんど無力になっている自分に気がついた。動揺と優柔不断が彼の破滅となった。 DA 1062.4

それでもなおピラトは盲目的に行動することをゆるされなかった。神からのメッセージが、彼の犯そうとしている行為について警告した。キリストの祈りに答えて、ピラトの妻のもとに天からみ使いがおとずれ、夢の中で、彼女は救い主を見、共に語ったのであった。ピラトの妻はユダヤ人ではなかったが、夢の中でイエスを見た時、イエスの性格や使命に疑いをもたなかった。彼女はイエスが神の君であろことを知った。彼女は、イエスが法廷でさばかれるのを見た。彼女はその手が犯罪人の手のように固くしばられるのを見た。彼女はヘロデと兵卒たちが恐ろしい働きをしているのを見た。また祭司たちと役人たちがねたみと悪意に満ちて、気狂いのように訴えるのを聞いた。「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は……死罪に当る者です」ということばを彼女は聞いた(ヨハネ19:7)。彼女は、ピラトが「彼にはなんの罪も見いだせない」と言ってから、イエスをむち打ちのために引き渡すのを見た(ヨハネ19:6)。彼女はピラトが有罪の宣告をくだすのを聞き、キリストを殺人者たちに引き渡すのを見た。彼女はカルバリーに十字架がたてられるのを見た。彼女は地が暗黒につつまれるのを見、「すべてが終った」という神秘的な叫びを聞いた。さらに彼女の目はもう1つの光景を見た。彼女はキリストが大いなる白い雲に乗り、一方地は空間に揺れ動き、キリストを殺した者たちがその栄光の前から逃げ出すのを見た。恐怖の叫び声をあげて目をさますと、彼女は、すぐピラトにあてて警告のことばを書いた。 DA 1062.5

ピラトがどうしたらよいかためらっていると、1人の使者が群衆をおしわけて進んで来て、彼の妻からの手紙を手渡した。それにはこう書かれていた。 DA 1062.6

「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」 (マタイ27:19)。 DA 1062.7

ピラトの顔は真っ青になった、彼は自分自身の矛盾する感情に困惑した。しかし彼がぐずぐずしている間に、祭司たちと役人たちは、さらに一層民衆の心をあおりたてていた。ピラトは決断を迫られた。彼はキリストの釈放に役立つかも知れない1つの慣例を今思いついた。この祭の時に、民衆に選ばせて囚人を誰か1人釈放するのが慣例となっていた。この習慣は異教の発明によるもので、その中には正義の影すらなかったが、ユダヤ人はこの習慣を非常に重んじていた。この時、ローマ当局は、死刑の宣告を受けたバラバという囚人を留置していた。この男は自分がメシヤであると主張していた。彼は、これまでと異なった秩序をうちたて、世直しをする権限をもっていると主張した。悪魔的な欺隔のもとに、彼は窃盗や強盗によって手に入れることができる物は何でも自分のものだと主張した。彼はサタンの媒介によってふしぎなわざを行い、民衆の中から信者を獲得し、ローマ政府反対を扇動していた。宗教的な熱心さという仮面のもとに、彼は反逆と残酷なことしか考えない強情で命知らずな悪人だった。この男と、罪のない救い主とのどちらかを選ばせることによって、ピラトは、人々のうちに正義感をめざめさせようと考えた。 DA 1063.1

彼は民衆が祭司たちや役人たちに反対して、イエスに同情するようにしたいと望んだ。そこで群衆の方へ向いて、非常な熱心さで、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」と言った(マタイ27:17)。 DA 1063.2

野獣がほえるように、「バラバをゆるしてくれ」という群衆の答えがあがった。「バラバ、バラバ」という叫び声がますます高まって行った。自分の質問の意味が人々にわからなかったのだろうと思って、ピラトは「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」とたずねた(マルコ15:9)。しかし彼らはふたたび大声で叫んで言った。「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」(ルカ23:18)。「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」と、ビラトはたずねた(マタイ27:22)。大波のように動いている群衆はふたたび悪鬼のようにほえた。悪鬼そのものが、人間の姿をとって群衆の中にいたのだから、「十字架につけよ」という答えよりほかに何を期待することができよう。 DA 1063.3

ピラトは困惑した。彼はこんなことになろうとは考えていなかった。彼は罪のない人間をこの上ない不名誉で残酷な死に引き渡すことをちゅうちょした。わめき声がやむと、ピラトは人々に向かって言った。「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか」(ルカ23:22)。しかし事態はもう議論の段階を過ぎていた。彼らが求めたのはキリストの無罪の証拠ではなくて、キリストの有罪の宣告であった。 DA 1063.4

それでもピラトはイエスを救おうと努力した。「ピラトは3度目に彼らにむかって言った、『では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう』」(ルカ23:22)。イエスの釈放を口にしたことが人々を10倍もの狂乱に駆りたてた。彼らは「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫んだ。ピラトの優柔不断が生んだ嵐はますます高まっていった。 DA 1063.5

イエスは、疲労で弱り、からだじゅう傷ついたまま、捕らえられて、群衆の見ている前でむち打たれた。「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、ばんざい』と言って敬礼をしはじめた。また……つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした」(マルコ15:16)。時々悪者がイエスの手に持たせてあった葦の棒を引ったくり、それでイエスのひたいの上の冠をたたいていばらを頭につきさしたので、血がイエスのお顔とひげをつたわってしたたり落ちた。 DA 1063.6

ああ天よ、驚嘆せよ、ああ地よ、驚け。迫害する者たちと迫害されるお方とを見よ。狂気した群衆が世の救い主をとりかこんでいる。嘲りと冷笑が冒瀆のきたないことばに入りまじる。冷酷なやじ馬たちがイエスのいやしい生れと貧しい生活を口にする。神の み子であるというイエスの主張がからかわれ、俗悪な冗談と侮辱的な冷笑が口からロへ伝わる。 DA 1063.7

残酷な暴徒たちに救い主を虐待させたのはサタンであった。できればイエスのうちに復讐心を起こさせるか、あるいはイエスがご自分の釈放のために奇跡を行われるようにしむけることによって、救いの計画を破壊することがサタンの目的であった。イエスの人間生活に1つでも欠点があれば、あるいはイエスの人性が恐るべき試練に1度でも耐えられなかったら、神の小羊は不完全な供え物となり、人類のあがないは失敗したのである。しかし、命令しさえすれば天の万軍をご自分の助けに呼ぶことがおできになるお方が、天の威光をひらめかせることによって暴徒たちを恐怖のうちに目の前から追い払うことができたお方が、最も下等な侮辱と暴行とをどこまでも平静に受けられたのであった。 DA 1064.1

キリストの反対者たちは神性の証拠として奇跡を要求した。彼らは、彼らが求めたどんな証拠よりも大きな証拠を与えられた。キリストの迫害者たちがその残酷さのために人間以下になりさがってサタンに似た者となったように、イエスはその柔和と忍耐によって人間以上に高められ、神とひとしいお方であることを証明された。イエスの屈辱はイエスが高められることの保証であった。イエスの傷ついたこめかみから顔とひげを伝わって流れた苦悩の血のしたたりは、イエスがわれらの大祭司として「喜びのあぶら」をそそがれることの保証であった(ヘブル1:9)。 DA 1064.2

救い主をどんなに虐待してもその口から一言のつぶやきも出させることができなかったことを知った時、サタンは激しく怒った。イエスは、人の性質をとっておられたが、神のような堅固さによってささえられ、どの点においても、天父のみこころから離れたまわなかった。 DA 1064.3

ピラトがイエスをむち打ちと嘲りに引き渡した時、彼は群衆の同情心を起こそうと考えた。彼は、人々がこのことをト分な刑罰だと決定するように望んだ。祭司たちの敵意もそれで満足させられるだろうと、彼は考えた。しかしユダヤ人たちは、鋭い目で、無罪を宣告された人間をこのように罰することの弱点を見抜いた。彼らは、ピラトが囚人のいのちを助けようとしていることがわかっていたので、イエスを釈放してはならないと決心していた。われわれをよろこばせ満足させるために、ピラトは彼をむち打たせたのだ、もし事態を決定的な結果にまで追い込めば、確実に目的を達することができると、彼らは考えた DA 1064.4

ピラトはいま、バラバを法廷に連れてくるように呼びにやった。それから彼は、2人の囚人を並べて、救い主の方を指さしながら、重々しい嘆願の口調で、「見よ、この人だ」「わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」と言った(ヨハネ19:5、4)。 DA 1064.5

神のみ子は、あざけりの衣といばらの冠をつけて立っておられた。腰まで衣をはがされたその背中には、残酷なむちの跡が尾を引いていて、そこから血がとめどなく流れていた。イエスのお顔は血に染み、疲労と苦痛の跡があらわれていた。しかし、この時ほどイエスのお顔が美しく見えたことはなかった、救い主の顔つきは、反対者たちの前にあって醜くならなかった。お顔のつくりの1つ1つがやさしさと忍従と残酷な敵に対する最もやさしい同情とをあらわしていた。イエスの態度には臆病な弱さがなく、寛容の力と威厳があった。イエスのかたわらの囚人はこれとはいちじるしく対照的であった。バラバの顔つきのどの線も、彼がまさしく手に負えない悪党であることを物語っていた。その対照は見る者の一人一人に語りかけた。見物人の中には泣いている人たちもいた。イエスをながめて、彼らの心は同情でいっぱいになった。祭司たちと役人たちさえ、イエスがご自分の主張された通りのお方であることを自覚した。 DA 1064.6

キリストをとりかこんでいたローマの兵士たちの全部が無慈悲だったわけではない。ある者たちは、イエスが犯罪人か危険な人物である形跡が1つでもあらわれているかどうか熱心にその顔を見守った。時々彼らはふり返ってバラバに軽蔑の視線を投げた。彼を腹の底まで見抜くのには深い洞察力はいらなか った。ふたたび彼らはさばきにかけられているお方に向き直るのであった。彼らは、この聖なる受難者を深い同情の思いをもってながめた。キリストの無言の服従は、彼らがこのお方をキリストとして認めるまで、あるいはこのお方をこばんで自分自身の運命を決定するまで、決して消し去ることのできない光景を彼らの心に焼きつけた。 DA 1064.7

ピラトは、救い主が不平も言わずに忍耐しておられるのを見て驚きの念に満たされた。彼は、ユダヤ人たちが、バラバとくらべて、この人を見れば、心を動かされて同情するだろうと信じて疑わなかった。しかし彼は、世の光として祭司たちの暗黒と誤りを明らかにされたキリストに対する彼らの熱狂的な憎しみがわからなかった。彼らは、暴徒たちを気違いじみた激情へ駆りたて、ふたたび祭司たち、役人たち、民衆が、「十字架につけよ、十字架につけよ」と恐ろしい叫び声をあげた。ついにピラトは、彼らの道理をわきまえない残酷さにすっかり忍耐心を失いながら、絶望的な叫びをあげて言った。「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」(ヨハネ19:6)。 DA 1065.1

このローマ人総督は、残酷な場面を見なれていたが、有罪を宣告されてむち打たれ、額と裂けた背中から血を流しながらもなお王座にある王のような態度を保っているこの受難の囚人に対する同情に心を動かされた。しかし祭司たちは、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」と言明した(ヨハネ19:7)。 DA 1065.2

ピラトははっとした。彼は、キリストとその使命について正しい観念を持っていなかったが、神について、また人間よりもまさった存在について漠然とした信仰を持っていた。前に1度彼の心を通りすぎた1つの思いが、いまもっとはっきりした形をとって現れた。嘲りの紫の衣を着、いばらの冠をかぶって目の前に立っているのは神ではないだろうかと彼は疑った。 DA 1065.3

もう1度ピラトは法廷に入って行って、「あなたは、もともと、どこからきたのか」とイエスに言った(ヨハネ19:9)。しかしイエスは返事をされなかった。救い主はすでにピラトに十分語り、真理の証人としてのご自分の使命について説明されたのだった。ピラトはその光を無視したのだった。彼は原則と権威を暴徒たちの要求に屈服させることによって、裁判官という高い職務をけがしたのだ。イエスは彼のためにそれ以上の光をお与えにならなかった。イエスの沈黙にいらだって、ピラトは横柄に言った。「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」(ヨハネ19:10)。 DA 1065.4

イエスは答えて言われた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」(ヨハネ19:11)。 DA 1065.5

このように、憐れみ深い救い主は、激しい苦難と悲しみの最中にも、イエスを十字架につけるために引き渡したローマ人総督の行為をできるだけゆるしておやりになった。これはいつまでも世にも伝えられるべき何というとうとい光景だったことだろう。それは全地のさばき主であられるキリストの品性に何というとうとい光を放ったことだろう。 DA 1065.6

「わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」とイエスは言われた。キリストは、大祭司としてユダヤ国民を代表しているカヤパのことを言われたのである。彼らはローマ当局を支配している原則を知っていた。彼らはキリストをあかししている預言について、またキリストご自身の教えと奇跡について光を与えられていた。 DA 1065.7

ユダヤ人の裁判官たちは、彼らが死刑を宣告したお方の神性についてまちがう余地のない証拠を与えられていた。そこで彼らは、彼らの光にしたがってさばかれるのであった。 DA 1065.8

最も大きい罪と最も重い責任は、国民の中で最高の地位を占めている人たち、卑劣にも自ら裏切りつつあった聖なる信任の受託者たちにあった。ピラトもヘロデもローマの兵士たちも、イエスについては比較的に無知だった。彼らは、イエスを虐待することに よって祭司たちと役人たちをよろこはせようと思った。彼らは、ユダヤ国民が豊かに受けたような光を与えられていなかった。もし兵士たちに光が与えられていたら、彼らはあんなにも残酷にキリストをとり扱うようなことはしなかったであろう。 DA 1065.9

ふたたびピラトは、救い主を釈放するようにと提案した。「しかしユダヤ人たちが叫んで言った、『もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません』」(ヨハネ19:12)。このように、これらの偽善者たちはカイザルの権威を熱心に支持しているようなふりをした。ローマ人による統治に反対する者たちの中で、ユダヤ人は最も激しかった。彼らは、安全な時には、彼ら自身の国の規則と宗教上の規則を最も圧制的に励行したが、何か残虐な目的を達成しようと望む時には、カイザルの権力を称賛した。キリストの破滅を達成するために、彼らは自分たちが憎んでいる外国の法律に対する忠誠を口にするのだった。 DA 1066.1

「自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」と彼らは言い続けた(ヨハネ19:12)。これはピラトの急所をついていた。彼はローマ政府から疑いの目で見られていたので、こんなうわさをたてられたら身の破滅になることを知っていた。もしユダヤ人を妨害すれば、その怒りが自分に向けられることを彼は知っていた。彼らは復讐をとげるためには、手段をえらばないであろう。現にピラトの目の前に、彼らが理由もなく憎悪している人間の生命をどこまでもねらっている1つの例があるのだ。 DA 1066.2

それからピラトは、裁判官席にすわり、ふたたびイエスを人々に示して、「見よ、これがあなたがたの王だ」と言った(ヨハネ19:14)。するとふたたび「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」という狂気じみた叫びがあがった。ピラトは遠近に聞こえるような声で、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」とたずねた。しかし、不敬虔で冒瀆的な口から、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」ということばが出てきた(ヨハネ19:15)。 DA 1066.3

こうして異教の統治者を選ぶことによって、ユダヤ国民は神権政治から離れた。彼らは自分たちの王として神をこばんだ。これからは彼らに救済主はないのだった。彼らにはカイザルのほかに王がなかった。民をここまで引っぱってきたのは祭司たちと教師たちであった。このために、彼らは、その後に起こった恐るべき結果に責任があった。国民の罪、国民の破滅は、宗教界の指導者たちに原因があった。 DA 1066.4

「ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』」(マタイ27:24)。恐れと自責の念で、ピラトは救い主を見た。上向きのおびただしい顔の波の中で、イエスのお顔だけが平和であった。イエスの頭のあたりにはやわらかな光が輝いているようにみえた。ピラトは、心の中で、この人は神だと言った。ピラトは、群衆の方をふり向いて断言した。わたしは彼の血に責任がない。おまえたちがこの人を引き取って十字架につけるがよい。だが祭司たちと役人たちよ、よく聞け、彼は正しい人間だぞ。今日のこのしわざについては、彼が自分の父と主張している神が、わたしではなくおまえたちをさばかれるように。次にピラトは、イエスに言った。この行為についてわたしをゆるしていただきたい、わたしはあなたを救うことができない。そして彼は、ふたたびイエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。 DA 1066.5

ピラトはイエスを救いたいと望んだ。しかしそうすれば自分の地位と名誉を保つことができないことを彼は知った。この世の権力を失うより、彼は罪のない人間を犠牲にする方を選んだ。 DA 1066.6

同様に、損失と苦難とをまぬかれるために原則を犠牲にする者がどんなに多いことだろう。良心と義務は1つの方向をさし示し、利己心はほかの方向をさし示す。潮流はまちがった方向へ強く流れるので悪と妥協する者は不義という深い闇へ押し流される。 DA 1066.7

ピラトは暴徒たちの要求に屈服した。彼は自分の地位を危険にさらすよりも、イエスを十字架につけるために、引きわたした。しかし彼の用心にもかかわら ず彼の恐れていたことがのちになって彼の身に起こった。彼は名誉をはぎとられてその高い地位から追われ、キリストの十字架ののちまもなく、悔恨と傷つけられた誇りに苦しみながら、自らのいのちをたった。このように、罪と妥協する者はみな悲哀と破滅だけしか得られないであろう。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはっいに死に至る道となるものがある」(箴言14:12)。 DA 1066.8

ピラトが、自分はキリストの血について責任がないと宣言した時、カヤパは挑戦的に「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と答えた(マタイ27:25)。この恐ろしいことばは祭司たちと役人たちにとりあげられ、それは群衆によって人間とは思えないような絶叫となって反響した。全群衆は答えて言った。「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。 DA 1067.1

イスラエルの民は彼らの選択をした。イエスを指さして、彼らは「その人ではなく、バラバを」と言った(ヨハネ18:40)。強盗であり殺人者であったバラバは、サタンの代表者であった。キリストは神の代表者であった。キリストがしりぞけられ、バラバが選ばれた。彼らはバラバをもらうことになった。この選択をするに当って、彼らは、始めからうそつきで人殺しだった彼を受け入れたのである。サタンが彼らの指導者であった。国民として彼らはサタンの命令を実行するのであった。サタンのわざを、彼らはするのであった。サタンの統治に彼らは服しなければならない。キリストの代わりにバラバを選んだ民は、時の続くかぎりバラバの残酷さを感じるのであった。 DA 1067.2

うたれた神の小羊をながめながら、ユダヤ人たちは、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と叫んだ(マタイ27:25)。その恐るべき叫びは、神のみ座にのぼって行った。彼らが自らの上にくだしたその宣告は、天に記録された。その祈りは聞かれた。神のみ子の血は、永遠ののろいとなって、彼らの子らとそのまた子らの上にあった。 DA 1067.3

それは、恐ろしくもエルサレムの滅亡に実現された。それは、恐ろしくも1800年間にわたってユダヤ国民の状態にあらわされてきた。すなわち彼らは、ぶどうの木から切り離された枝、集められて焼かれる枯れた、実をむすばない枝であった。世界中どこの国でも、幾世紀にわたって、彼らは、罪とがのうちに死んだ。 DA 1067.4

その祈りは、恐ろしくも大いなるさばきの日に成就するのである。キリストが、やじ馬どもにかこまれた囚人としてではなく、ふたたびこの地上にこられる時、人々は彼を見るのである。その時彼らは、イエスを天の王として見るのである。キリストはご自身の栄光と、天父の栄光と、聖天使たちの栄光のうちに、こられる。勝ち誇った美しい神の子ら、千々万々の天使たちが、比類のない美しさと栄光とをもって、キリストの道中につき従うのである。その時キリストは、栄光の王座におすわりになり、その前に万国の民を集められる。その時すべての目はキリストを見るが、キリストを刺した者たちもまた見るのである。いばらの冠の代わりに、キリストは、栄光の冠——冠の中の冠をつけておられる。あの古い紫の王衣の代わりに、キリストは、「どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできない」ほどの真白い衣を着ておられる(マルコ9:3)。「その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされている」(黙示録19:16)。キリストをあざけり、打ちたたいた人たちもそこにいる。祭司たちと役人たちは、ふたたびあの法廷の光景を見る。あらゆる出来事が、火の文字で書かれているかのように、彼らの前に現れる。「その血の責任はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と祈った人たちは、この時、その祈りの答を受けるのである。その時全世界は、知り、そして理解する。 DA 1067.5

彼らは、あわれな、弱々しい、有限な人間である自分たちが誰と戦い、何と戦ってきたかに気がつくのである。恐ろしい苦悩と恐怖のうちに、彼らは山と岩とに向かって叫ぶであろう。「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ、、御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」(黙示録6:16、17)。 DA 1067.6