各時代の希望
第76章 ユダ
ユダの歴史には、神からとうとばれたかもしれない人生が不幸な結末を告げたことが示されている。もしユダが、エルサレムへの最後の旅に出る前に死んでいたら、彼は12弟子の1人としてふさわしい人物とみられ、非常に惜しまれただろう。彼の経歴の終りにあらわされたような特性がなかったなら、各世紀を通じて彼につきまとう嫌悪は存在しなかったであろう。しかし彼の性格が世に公表されたことには1つの目的があった。それは彼と同じように聖なる委託を裏切るすべての者に対する警告となるのであった。 DA 1052.1
過越節のちょっと前に、ユダはイエスを祭司たちの手に売り渡す契約を新たにした。その時、救い主が瞑想と祈りのためによく行かれる場所で主を捕らえる手はずがきめられた。シモンの家での食事の時から、ユダは自分が遂行しようと契約していた行為について反省する機会があったが、彼の意図は変わらなかった。彼は、奴隷の値段の銀30枚で、栄光の主を恥辱と死に売り渡した。 DA 1052.2
ユダは生れっき金銭欲が強かったが、しかしかならずしもこのような行為をするほど堕落しきっていたわけではなかった。貧欲という悪い精神を育てたので、ついにはそれが彼の生活の支配力となっていた。富に対する愛着は、キリストに対する愛よりも比重が大きかった。1つの悪徳のとりことなることによって、彼はサタンに身をまかせ、どこまでも罪の深みに落ちこんで行ったのであった。 DA 1052.3
ユダが弟子たちに加わったのは、多くの人々がキリストに従っている時であった。救い主の教えは、会堂や海辺や山上で語られる主のことばにうっとりと聞き入っている彼らの心を動かした。ユダは病人や障害のある人や盲人たちが町々や都市からイエスのもとに群がり集まってくるのを見た。彼は、瀕死の病人がイエスの足下に置かれるのを見た。彼は、救い主が病人をいやし、悪鬼を追い出し、死人をよみがえらせられた偉大なみわざを目に見た。彼は、自らキリストの力の証拠を感じた。 DA 1052.4
彼は、キリストの教えがこれまで聞いたどんな教えよりもすぐれていることに気づいた。彼は、この大教師を愛し、いっしょにいたいと望んだ。彼は、品性と生活を変えたいという願いを感じ、イエスと関係することによってこのような経験をもちたいと望んだ。救い主はユダを拒否されなかった。主は彼を12人の中にお入れになった。主はユダが伝道者としての働きをするものと信頼された。主は、病人をいやし悪鬼を追い出す力をユダにおさずけになった。しかしユダはキリストにまったく従いきるところまで行かなかった。彼は世俗的な野心や金銭欲を放棄しなかった。キリストに仕える立場を受け入れながら、一方では天来の型にはまろうとしなかった。彼は自分自身の判断と意見を持っていてもよいと考え、批判と非難の精神を育てた。 DA 1052.5
ユダは弟子たちから非常に尊敬され、彼らに対して大きな影響力を持っていた。彼自身も自分の資格を高く評価し、兄弟たちが判断力においても能力においても自分よりずっと劣っているとみなしていた。この人たちは機会を見てそのチャンスを利用することのできない人たちだと、彼は考えた。見通しのきかないこんな人たちを指導者にしていたら教会は決して繁栄しないだろうと、考えた。ペテロは、衝動的で、前後の考えなく行動する人間だった。ヨハネは、キリストの口から出る真理を大事にしているが、ユダから見れば金のやりくりはへただった。マタイは、自分の受けた訓練から万事に正確でなければならないことを教えられていたので、正直という点に非常にやかましかった。そしてユダからみれば、彼はたえずキリストのみことばを瞑想し、それに心を奪われていたので、抜け目なく先のことまで考えなくてはならない事業をまかせることはできなかった。このようにユダは弟子たちを全部かぞえあげてみて、もし事務的な才能のある自分がいなかったら、教会はしばしば困難と混乱に陥るだろうとうぬぼれた。ユダは自分がだれに もだまされない有能な人間であると考えた。彼は自分こそみわざにとって誉れとなるべき人間であると自己評価し、いつもそのように言いふらしていた。 DA 1052.6
ユダは自分自身の品性の弱さに盲目だったので、キリストは、ユダが自分の欠点に気づいて直す機会のある立場に彼を置かれた。弟子たちの会計係として、彼はこの小さな群れの必要に備え、また貧しい人々が困っているのを助ける立場に召された。過越の部屋でイエスがユダに、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた時、弟子たちは、イエスが食事に必要なものを買うように命じられたか、あるいは貧しい人々に何かやるように命じられたものと思った(ヨハネ13:27)。ほかの人たちに仕えることによって、ユダは無我の精神を養うことができたのだった。しかしユダは、毎日キリストの教訓を聞き、その無我の生活を目に見ながら、貧欲な性質をほしいままにしていた。彼の手に渡されるわずかな金銭がたえず誘惑となった。キリストのためにすこしばかり奉仕したり、宗教的な目的のために時間をささげたりすると、彼はしばしばそのとぼしい資金の中から自分自身に支払った。彼自身の目には、そうした口実が自分の行為の言いわけになった。だが神の御目には、彼は泥棒であった。 DA 1053.1
キリストが、わたしの王国はこの世の王国ではないとしばしばくりかえされたことばがユダをつまずかせた。彼は、キリストが働かれると思われる分野をきめていた。彼はバプテスマのヨハネが牢獄から救われるように計画した。しかし見よ、ヨハネは、首を切られてしまった。そしてイエスは、王権を主張することも、ヨハネの死に復讐することもなさらずに、弟子たちと田舎にひきこもられた。ユダはもっと攻勢的な戦いを望んだ。もしイエスが弟子たちの計画の実行を引きとめられなければ、働きはもっとうまくいくだろうと彼は考えた。彼はユダヤ人の指導者たちの間に高まる敵意をみとめ、彼らがキリストに天のしるしを求めた時、その挑戦撫視されたのを見た。彼の心は不信に向かって開かれていたので、敵は疑問と反逆の思いを吹きこんだ。なぜイエスはがっかりするようなことばかり言われるのだろう。なぜご自分や弟子たちが裁判や迫害を受けることを予告されるのだろう。 DA 1053.2
新しい王国で高い地位につけるという見込みから、ユダはキリストのみわざを支持するようになったのだ。彼の望みは裏切られるのだろうか。ユダは、イエスが神のみ子でないとは断定していなかった。しかし彼は疑い、キリストの偉大なみわざについて何か説明をみいだそうと求めていた。 DA 1053.3
救い主ご自身の教えにもかかわらず、ユダは、キリストがエルサレムで王として統治されるという考えをたえず表明していた。5千人が養われた時、彼は、このことを実現させようとした。その時ユダは、空腹の群衆に食物をくばるのを手伝った。彼は、自分にも人のためになることをする力があることを知る機会が与えられた。彼は、神への奉仕にかならず伴う満足感を味わった。彼は、群衆の中から病人や苦しんでいる人たちをキリストのもとに連れて行くのを手伝った。彼は、救い主のいやしの力を通して、人々の心にどんなにか安心とよろこびが与えられるのを見た。彼は、キリストの方法を理解できるはずだった。しかし彼は自分自身の利己的な欲望によって盲目になっていた。ユダは、パンの奇跡によってひき起こされた興奮をまっさきに利用した。キリストを無理やりにおしたてて王にしようとする計画に乗り出したのは彼だった。彼の望みは大きく、その失望は激しかった。 DA 1053.4
キリストが会堂で生命のパンについて話されたことがユダの歴史における転機であった。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」ということばを、彼は聞いた(ヨハネ6:53)。彼はキリストが世俗的な幸福よりも霊的な幸福を提供しておられることを知った。彼は自分に先見の明があると思っていたので、イエスが栄誉を受けられることもなく、また弟子たちに高い地位をお与えになることもないということがわかったと思った。彼は離れることができないほど密接にイエスに結びつくことはすまいと決心した。彼は見張っていようと思った。そしてその通り見張っていた。 DA 1053.5
その時から、彼は、弟子たちを混乱させるような疑惑を表明した。彼は議論と人をまよわせる意見とを持ち込み、学者たちやパリサイ人たちがキリストの主張に反対してとなえる議論をくりかえした。 DA 1054.1
大小の心配や苦労、福音の進展にとっての困難や妨害とみえるものなどはすべて福音が真実なものではない証拠であるとユダは解釈した。彼はキリストが述べておられる真理とは何の関係もない聖句をよく持ち出した。こうした聖句は、前後関係を抜きにされると、弟子たちを困惑させ、たえず彼らを襲っている落胆を増し加えた。しかもこうしたことはすべて、自分を良心的にみせるようなやり方でなされた。そして弟子たちが大教師イエスのみことばを確認する証拠をさがしていると、ユダは彼らを気がっかないうちにほかの道へ連れ込むのだった。こうして彼は、宗教的でしかも賢明そうに見える方法で、物事をイエスがお与えになったのとはちがった光に照らして見せ、イエスが意図されなかった意味をそのみことばにつけ加えていた。彼の言うことはこの世の立身出世に対する野心的な欲望をたえずかきたて、こうして弟子たちを彼らが考慮すべきであった重大な事がらから離れさせていた。彼らの中でだれが最高の地位につけられるかということについての争いは、たいていユダがひき起こしたものであった。 DA 1054.2
イエスが富める若い役人に、弟子としての条件を示された時、ユダはよろこぼなかった。彼はイエスがまちがいを犯されたと考えた。この役人のような人たちを信者の仲間に加えることができたら、どんなにかキリストのみわざの助けになるだろうと、彼は考えた。もし自分が助言者として受け入れられさえしたら、この小さな教会の利益になるような多くの計画を提案できるのだがと、彼は考えた。自分の原則や方法は、キリストのそれよりいくらか異なっているだろうが、しかしそうしたことでは、自分の方がキリストより賢明なのだと、彼は思った。 DA 1054.3
キリストが弟子たちに言われたすべてのことの中には、ユダが心の中で同意できないものがあった。彼の感化によって不満というパン種が急速に作用していた。弟子たちはすべてこうしたことの真因が分らなかった。しかしイエスは、サタンが自分の特性をユダに伝え、こうして、ほかの弟子たちに感化を及ぼす道が開かれっっあることを見ておられた、そのことをイエスは、ご自分が裏切られる1年前に断言された。「あなたがた12人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」と、イエスは言われた(ヨハネ6:70)。 DA 1054.4
しかしユダは公然と反対もしなければ、救い主の教えを問題にする様子もなかった。シモンの家で食事をした時まで、彼は不平を外にもらさなかった。マリヤが救い主の足に油をそそいだ時、ユダはその貪欲な性質をあらわした。イエスから譴責されて、彼の精神はにがい恨みに変わったようであった。傷つけられた誇りと、復讐心とが壁を打ち倒し、長い間ほしいままにしていた貧欲が彼を支配した。このことはまた罪をいつまでももてあそんでいる人間の経験となる。堕落の要素に抵抗し、これに打ち勝たないならば、それは、サタンの誘惑に応じ、その魂はサタンの思いのままにとりことなるのである。 DA 1054.5
しかしユダはまだまったくかたくなになりきってはいなかった。救い主を売り渡すことを2回約束したあとでも、悔い改める機会があった。過越の晩餐の時に、イエスは反逆者の意図をばくろすることによつてご自分の神性を証明された。イエスは、弟子たちにお仕えになった時に、やさしくユダもその中に加えられた。しかし最後の愛の訴えは無視された。その時ユダの問題は決定した。そしてイエスが洗っておやりになった足は、裏切り者の仕事へと出て行ったのである。 DA 1054.6
もしイエスが十字架につけられるものなら、その事件はかならず起こるのだと、ユダは推論した。救い主を売り渡す自分自身の行為は結果を変えないであろう。もしイエスが死なれないのなら、自分の行為はイエスがご自分を救われるのを促進するにすぎないだろう。いずれにしても、自分は、裏切り行為によつていくらかもうかるのだ。彼は、主を裏切ることによってりこうな取引をしたと計算した。 DA 1054.7
しかしながらユダは、キリストが捕らえられろことを承知されるとは信じなかった。裏切ることによって、キリストに思い知らせることが彼の目的だった。今後キリストが、正当な尊敬をもって彼を取り扱うように注意されるように、ユダは自分の役割を果たすつもりだった。 DA 1055.1
しかしユダは、自分がキリストを死に渡しているとは知らなかった。救い主が讐によって教えられた時、律法学者たちとパリサイ人たちはそのきわだった例話を何度われを忘れて聞いたことだろう。何度彼らは自分自身に不利な宣告をくだしたことだろう。彼らの心に事実が思い知らされると、彼らは怒りに満たされ、石を拾ってイエスに投げつけようとしたことが何度あったことだろう。しかしイエスは何度も何度もお逃げになった。これほど何回もわなをのがれられたのだから、とても捕らえられるがままにはされまいとユダは思った。 DA 1055.2
ユダはためしてみようと決心した。もしイエスが本当にメシヤなら、イエスに多くのことをしてもらった民衆はイエスのもとに集合して、イエスを王として宣言するだろう。そうすれば、現在もやもやしている多くの人々の心が永久に決着するだろう。王をダビデの位につけた功績は自分のものとなるだろう。そしてこの行為によって自分は新しい王国でキリストに次ぐ最高の位を獲得するであろう。 DA 1055.3
この偽りの弟子はイエスを売り渡す役割を演じた。ゲツセマネの園で、ユダが暴徒のかしらたちに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と言った時、彼は、キリストが彼らの手から逃げられるものと信じきっていた(マタイ26:48)。そうしたら、もし彼らがユダを責めたら、だからしっかりつかまえなさいと言ったではないかと彼は言うことができるだろう。 DA 1055.4
ユダはキリストを捕らえる人たちが、ユダのことばどおりに、キリストを固くしばるのを目に見た。彼は救い主が連れて行かれるままになられるのを見て驚いた。彼は心配して、園からユダヤ人の役人たちが裁判するところヘイエスについて行った。彼は、イエスが彼らの前に神のみ子として現れ、彼らの計略や権力をうちくだいて、反対者たちを驚かされるだろうと、その一挙一動を見守った。しかし時々刻々過ぎても、イエスがあらゆる悪口を浴びせられるがままになっておられるのを見て、この裏切り者は、主を死に売り渡してしまったという恐怖に襲われた。 DA 1055.5
裁判が終りに近づくと、ユダは罪を犯した良心の苛責に耐えられなくなった。突然しゃがれ声が法廷にひびき渡り、すべての人々の心に恐怖の戦懐を与えた。ああ、カヤパよ、その人に罪はありません。助けてやってください。 DA 1055.6
その時、背の高いユダの姿が、びっくりした人々の中を突進して行くのが見られた。彼の顔は青ざめ、やつれ果て、そのひたいには大粒の汗が吹き出していた。彼は裁判長の席に走りよると、主を売り渡した代価である銀30枚を大祭司の前に投げた。そして、カヤパの衣を力いっぱいにつかみながら、イエスは死に値するようなことは何もしなかったのだと断言して、その釈放を嘆願した。カヤパは怒ってユダを払いのけたが、混乱してしまって何と言ってよいかわからなかった。祭司たちの不信行為がばくろされた。彼らがこの弟子を買収して主を裏切らせたことが明らかとなった。 DA 1055.7
「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」とユダはまた叫んだ。大祭司は落ちっきを取り戻しながら、あざけりの色を浮かべて、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」と答えた(マタイ27:4)。祭司たちは進んでユダを自分たちの道具にした。しかし彼らはユダの卑劣さをあざけった。ユダが彼らに向かって告白した時、彼らははねつけた。 DA 1055.8
ユダは、こんどはイエスの足下に身を投げて、イエスが神のみ子であることを告白し、どうかご自分を救ってくださるようにと嘆願した。救い主はご自分を裏切った者を責められなかった。主はユダが悔い改めていないことを知っておられた。彼の告白は不義の魂に迫られ、自分の罪についての自覚とさばきを恐れる思いから出たものであった。彼は自分が罪のな い神のみ子を売り渡し、イスラエルの聖者をこばんだことについて、心の底からの深い悲しみを感じていなかった。しかしイエスは、非難のことばを出されなかった。主は、あわれみをもってユダをごらんになり、この時のためにわたしは世にきたのだと言われた。 DA 1055.9
驚きのささやきが集まっている人々の中に起こった。彼らは、自分を裏切った者に対するキリストの寛容さを驚きの思いをもって見た。この人はただの人間ではないという確信がもう1度わき起こった。だがもし彼が神のみ子なら、どうして束縛からのがれて、告発者たちに勝利されないのだろうと、彼らは疑った。 DA 1056.1
ユダは自分の嘆願がむだなことを知ると、もうだめだ、もうだめだと叫びながら法廷から走り出た。彼はイエスが十字架につけられるのを見ながら生きてはいられない気がした。そして絶望のあまり、出て行って自ら首をつって死んだ。 DA 1056.2
その同じ日の遅くに、ピラトの法廷からカルバリーへの途中、イエスを十字架の処刑場へ引っ張って行く邪悪な群衆の喚声と嘲笑がとだえた。人目につかない寂しい場所を通り過ぎた時、彼らは枯れた木の根もとにユダの死体を見たのである。それは目をそむけたくなるような光景であった。ユダが木につるして首をつったひもは、からだの重みで切れていた。彼のからだは落ちて無惨につぶれ、犬どもがいまそれをむさぼり食べていた。彼の遺体はすぐ目に見えないところに埋められた。群衆の間にはあざけりが少なくなり、多くの青ざめた顔が内心の思いをあらわしていた。イエスの血について罪を犯した人たちの上に、すでに報いがおとずれているようにみえた。 DA 1056.3