各時代の希望
第75章 アンナスの前とカヤパの邸で
本章はマタイ26:57~75、27:1、マルコ14:53~72、15:1、ルカ22:54~71、ヨハネ18:13~27に基づく DA 1042.4
ケデロン川を越え、畑とオリーブの森を抜け、寝静まった町を通って、彼らはイエスをせきたてた。時は真夜中過ぎで、やじりながらイエスのあとをついて行く暴徒たちの叫びが静かな空気に鋭く反響した。救い主はしばられて厳重に護衛され、その足どりは重かった。しかしイエスをとらえた者たちは、懸命に急いで、前大祭司アンナスの邸にイエスをつれて行った。 DA 1042.5
アンナスは現職の祭司一族の長で、その老齢に対する敬意から、大祭司として認められていた。人々は彼の助言を求め、神の声としてそれを実行した。彼がまず第一に、祭司の権力への捕虜としてイエスを見なければならない。彼より経験の浅いカヤパが彼らの意図している目的を達成しそこなうことがないように、彼がこの囚人の審問に立ち会わねばならない。彼の策略、狡猾さ、陰険さがこの機会に利用されねばならない。どんなことがあっても、キリストを有罪に定めねばならないのだ。 DA 1042.6
キリストは形式上サンヒドリンで裁判されるのであった。しかしアンナスの前で、キリストは予備裁判を受けられた。ローマの法律では、サンヒドリンは死刑の酷を執行することができなかった。サンヒドリンは囚人を取り調べ、判決をくだしてからローマ当局の承認を受けることしかできなかった。したがって、ローマ人から犯罪者としてみなされるようにキリストを告発する必要があった。またユダヤ人の目にもキリストを有罪とみとめさせるような告発をみつけ出 さねばならなかった。祭司たちと役人たちの中には、キリストの教えによって罪を悟った者たちも少なくなかったが、彼らは破門されるのがこわいばかりにキリストを告白しないのだった。祭司たちは、ニコデモが、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」と言った質問をよくおぼえていた(ヨハネ7:51)。 DA 1042.7
この質問のためにその時の会議は解散し、彼らの計画は妨げられた。アリマタヤのヨセフとニコデモはいま召集されていなかったが、正しいことのためにはあえて口を出すかもしれないほかの者たちがいた。裁判は、サンヒドリンの議員が致してキリストに反対するように運営されなければならない。祭司たちが主張しようと望んだ告発が2つあった。もしイエスを、神をけがす者として立証できたら、ユダヤ人によって彼を有罪に定めることができる。もし治安を妨害する者として告発できたら、ローマ人によって彼を有罪に定めることができる。アンナスはこの第二の告発をまず確定しようと試みた。彼は、この囚人が手がかりとなるような材料を何かしゃべってくれるように望みながら、弟子たちとイエスの教理について質問した。アンナスはイエスが新しい王国を建設する目的で秘密結社を組織しようとしているということを証拠だてるような陳述を引き出そうと考えた。そうすれば、祭司たちはイエスを治安妨害者また反乱扇動者としてローマ人に引き渡すことができるのだった。 DA 1043.1
キリストは、開いた本を読むように、この祭司の意図を読みとられた。イエスは質問者の心の奥底を読まれるかのように、ご自分と弟子たちとの間に何らかの秘密の結合があるとか、ご自分の計画をかくすために彼らを人目につかないようにひそかに集めているなどということを否定された。イエスはご自分の目的や教えについて何の秘密もなかった。「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない」とイエスはお答えになった(ヨハネ18:2)。 DA 1043.2
救い主はご自分の働きの方法と告発者たちのやり方とを対照された。何か月もの間、彼らはイエスを追いまわしてわなにかけ、秘密裁判に引き出そうと努力していた。そこでは公平な手段によっては達成できないところを偽証によって達成できるかも知れないのであった。いま彼らはその日的を実行しつつあった。真夜中に暴徒たちを使ってイエスを逮捕したり、有罪が確定しないうちからあざけったり侮辱したり、あるいは責めたりなどということが彼らのやり方であって、そうしたことはイエスの方法ではなかった。彼らの行動は法律に違反していた。彼ら自身の法律には、だれでも有罪を立証されるまでは罪のない者として取り扱われねばならないことが明示されていた。彼ら自身の法律によれば、祭司たちは有罪であった。 DA 1043.3
質問者に向かって、イエスは「なぜ、わたしに尋ねるのか」と言われた(ヨハネ18:21)。祭司たちと役人たちは、イエスの動静を監視して、その一言一句を報告させるためにスパイを送ったではないか。このスパイたちは、人々が集まるたびにやってきて、イエスの言行についていちいち情報を祭司たちに伝えたではないか。「わたしが彼らに語ったことは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。わたしの言ったことは、彼らが知っているのだから」とイエスは答えられた(ヨハネ18:21)。 DA 1043.4
アンナスはこの決定的な答に沈黙させられた。彼は、かくしておきたいと思っている自分の行動についてイエスから何か言われることを恐れて、この時にはそれ以上何もイエスに言わなかった。役人の1人は、アンナスが沈黙させられたのを見て怒りに満ち、イエスの顔を打って、「大祭司にむかって、そのような答をするのか」と言った(ヨハネ18:22)。 DA 1043.5
キリストは冷静に答えて、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言われた(ヨハネ18:23)。イエスは報復的な激しいことばを出されなかった。その冷静な答は、挑発されることのない潔白で忍耐強くやさしい心から出たのであった。 DA 1043.6
キリストは乱暴と侮辱に鋭く心を痛められた。ご自分が創られた人間、しかも無限の犠牲を払おうとしておられる相手の人間の手で、キリストはあらゆる侮辱を受けられた。キリストの苦しみは、ご自分の聖潔の完全さと罪に対する憎しみに比例していた。悪鬼のようにふるまう人たちによって裁判されることはキリストにとってたえまない苦痛であった。サタンの支配下にある人間どもにとりかこまれていることは、キリストにとって心の底から不快な思いであった。神の権力をひらめかせさえすれば、一瞬間にこの残酷な迫害者たちを打ち倒すことができることを、キリストは知っておられた。それだけに裁判は一層耐えがたいものであった。 DA 1044.1
ユダヤ人は外面的なしるしをもって現れるメシヤを待ち望んでいた。彼らは、キリストが、ちょっとした威圧的な意思だけで人々の思想の流れを変え、いやおうなしにご自分の主権を認めさせられるものと期待した。このように彼らは、キリストが権力を保持し、彼らの野心的な望みを満足させられるものと信じた。だからキリストが侮辱的な仕打ちを受けられた時、神性を発揮するようにとの強い試みがイエスにのぞんだ。ひと言葉で、あるいはひと目で、キリストは、ご自分が王たちと役人たち、あるいは祭司たちと宮にまさるおかたであることを、迫害者たちに告白させることがおできになるのである。しかしご自分がえらばれたその立場を1人の人間として守ることがキリストの困難な仕事であった。 DA 1044.2
天のみ使いたちは愛する主に対するあらゆる行為を目撃した。彼らはキリストを救いたいと熱望した。神の下にある時、天使たちはどんな力でももっている。ある時には、キリストの命令に従って、一晩でアッシリヤ軍の18万5千人を殺した。天使たちは、キリストの裁判のはずかしい光景を見た時、神の敵どもを全滅させることによってその憤りを表明することも容易にできたのである。しかし彼らはそうするように命令されなかった。敵どもを死の運命に追いやることもおできになったお方が、彼らの残酷さに耐えられた。天父を愛しておられるために、また罪を負う者になることを世の初めに契約されたために、キリストは、救うためにおいでになった相手の人たちの粗暴な仕打ちを不平も言わずに忍ばれた。人々がキリストにあびせることができるかぎりのあらゆる嘲笑と悪口を人性のままで耐え忍ぶことがキリストの使命の一部であった。人類のただ1つの望みは、キリストが人々の手と心から受けられるすべてのことに服従されることにあった。 DA 1044.3
キリストは、訴える者たちに乗ずるすきを与えるようなことは何も言われなかった。それなのにキリストは有罪のしるしとしてしばられた。しかしながら見せかけの公正がなければならなかった。法的な裁判の形式をとる必要があった。当局はこの裁判を急ごうと決心した。彼らはイエスが民衆から尊敬されていることを知っていたので、イエスの逮捕が世間のうわさになると救助が試みられるだろうと恐れた。 DA 1044.4
それにまた、もし裁判と処刑を一緒にやってしまわないと、過越の祭のために1週間遅れるのであった。そうなると彼らの計画が挫折するかも知れなかった。イエスを有罪に定めるために、彼らは、主として、暴徒たち、その多くはエルサレムのやじ馬連中のわめき叫ぶ声をあてにした。もし1週間遅れるようなことがあると、興奮は下火になり、反動が起こりそうであった。民衆の中の善良な人たちがキリストのために立ち上がり、多くの人たちが進んでキリストを弁護する証言をたて、キリストのされた偉大な働きを明らかにするであろう。そうなれば、サンヒドリンに対する民衆の怒りが引き起こされるであろう。彼らのやり方が非難され、イエスは釈放されて、多くの人々から新たな尊敬を受けるであろう。そこで祭司たちと役人たちは、自分たちの意図を知られないうちに、イエスをローマ人の手に引き渡そうと決心した。 DA 1044.5
しかしまず第一に、罪名をみつけ出さねばならなかった。彼らはまだ何の手がかりももっていなかった。アンナスは、イエスをカヤパのところへ連れて行くように命じた。カヤパはサドカイ人に属していたが、そのある者たちはいまやイエスの最も危険な敵となっていた。カヤパ自身、性格的に迫力こそ足りなかっ たが、アンナスと同じように残忍で、無情で、破廉恥であった。彼はイエスを滅ぼすためなら手段をえらばなかった。時は早朝で、まだ暗かった。たいまつとあかりをつけて、武器をもった一団が、囚人をつれて大祭司の邸へやってきた。そこで、サンヒドリンの議員たちが集まってくるまでの間、アンナスとカヤパはふたたびイエスに質問したが、効果はなかった。 DA 1044.6
法廷の広間に会議が召集されると、カヤパが議長として席を占めた。そのどちらの側にも裁判官とこの裁判に特別の関心をもっている人たちが座を占めた。大祭司の座の下の壇にローマの兵士たちが配置された。イエスは、大祭司の席の足ドに立たれた。そのイエスに全部の者の視線がそそがれた。興奮は強烈であった。この群衆の中にあって、イエスだけが冷静でおだやかであった、イエスをとりまいている空気までが聖なる感化に満ちているように思えた。 DA 1045.1
カヤパはイエスを競争相手と考えていた。人々が救い主のことばを熱心に聞き、イエスの教えを受け入れそうなのが、大祭司の激しいねたみをひき起こしていた。しかしいまカヤパは、この囚人を見て、その高貴で威厳のある態度に感心させられた。この人は神と同じおかたであるという確信がひらめいた。だが次の瞬間、彼はその思いを嘲笑のうちに打ち消した。たちまち彼の声は、イエスにその偉大な奇跡をみんなの前で行うようにと要求する侮蔑的でおうへいな調子となってひびき渡った。しかし彼の声は救い主の耳にはあたかも聞こえないようであった。人々は、アンナスとカヤパの興奮した、悪意のある態度と、冷静で威厳のあるイエスの態度とをくらべた。かたくなな群衆の心にさえ、神々しい雰囲気をもったこの人を犯罪者として有罪にすべきだろうかという疑問が浮かんだ。 DA 1045.2
カヤパは、そうした空気が生まれてくるのをみとめると、裁判を急いだ。イエスの反対者たちは非常に困り切っていた。彼らはイエスを有罪に定めようとやっきになったが、どうやってこの目的を達してよいかわからなかった。会議の議員たちは、リサイ人とサドカイ人に分かれていた。彼らの間にはにがにがしい敵意と論争があった。彼らは、口論を恐れて、ある論争点にはあえてふれようとしなかった。イエスが二言三言言われたら、彼らの間の偏見が刺激され、そのことによって、彼らの怒りをご自身からそらすことがおできになるのだった。カヤパはそのことを知っていたので、論争を引き起こすようなことを避けたいと望んだ。キリストが祭司たちと律法学者たちを公然と非難されたことや、キリストが彼らを偽善者また人殺しと呼ばれたことなどを証明する証人はたくさんいた。しかしそうした証言をいま持ち出すことは得策ではなかった。サドカイ人がパリサイ人との激しい論争中に同じことばをパリサイ人に対して使ったことがあった。またこのような証言は、ローマ人にとってはたいしたことではなかった。というのは彼ら自身バリサイ人の見せかけを不快に思っていたからである。イエスがユダヤ人の言い伝えを無視し、彼らの制度の多くについて不敬なことを言われたという証拠はたくさんあった。しかし言い伝えについても、パリサイ人とサドカイ人は激しい議論をたたかわせていた。そしてこの証拠もローマ人にとってはすこしも重要ではなかった。キリストの反対者たちは、安息日の遵守についてあえてキリストを訴えようとしなかった。その問題を調べることによって、キリストの働きの性格が明らかにされることを恐れたからであった。もしキリストのいやしの奇跡が明るみに出ると、祭司たちの目的そのものがくつがえされるのであった。 DA 1045.3
イエスが反乱を扇動し、別な政府を作ろうとされたと訴えるために買収された人たちが、偽りの証人となった。しかし彼らの証言は漠然としていて、矛盾だらけであった。取り調べが進むうちに、彼らは自分たちの陳述の偽りを立証した。 DA 1045.4
キリストは公生涯の初め頃、「この神殿をこわしたら、わたしは3日のうちに、それを起すであろう」と斉われた(ヨハネ2:19)、イエスは預言の比喩的なことばを用いて、ご自身の死とよみがえりをこのように預言されたのであった。「イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである」(ヨハネ2:21)。ユダヤ人はこのことばを、エルサレムの神殿に ついて言われたものとして、文字通りの意味に受けとった。キリストが言われたすべてのことの中で、イエスを不利な立場に陥れるために用いることのできるものは、このことば以外にないことを祭司たちは知った。彼らはこのことばを偽って陳述することによって、有利な立場を獲得しようと望んだ。ローマ人は神殿の再建と装飾に従事したので、この宮を非常に誇りにしていた。神殿に対して少しでも軽蔑を表明したら、かならずローマ人の憤激が引き起こされるだろう。ここに、ローマ人とユダヤ人、パリサイ人とサドカイ人の一致点が見いだされた。神殿に対してはだれでもみな非常な崇敬の念をいだいていたからである。この点について2人の証人がみつかったが、彼らの証言は、ほかの証人たちのように矛盾していなかった。イエスを訴えるように買収されたこの2人のうちの1人が言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、3日の後に建てることができる、と言いました」(マタイ26:61)。このように、キリストのことばは偽って伝えられた。 DA 1045.5
もしキリストが話されたとおりに正確にこのことばが報告されたら、たとえサンヒドリンでもキリストを有罪にするわけにはいかなかっただろう。もしイエスが、ユダヤ人が主張するようなただの人間だったら、キリストの宣言は、不合理で高慢な精神を表しているだけで、神を冒瀆する罪とまでは解釈されなかっただろう。偽りの証人たちがまちがった陳述をしても、キリストのことばには、ローマ人から死刑に値する犯罪とみなされるようなものは何も含まれていなかった。 DA 1046.1
イエスは忍耐強く、矛盾する証言を聞かれた。イエスは自己弁護のことばを一言も出されなかった。イエスを訴える者たちは、とうとう話がもつれ、混乱し、逆上した。裁判はすこしも進行しなかった。そして彼らの計略は失敗しそうにみえた。カヤパは必死だった、最後に1つの手段が残っていた。キリストが自分自身に有罪の宣告をくだすように仕向けなければならない。大祭司は裁判官の席から立ち上がったが、その顔は怒りにゆがみ、その声と態度には、もし彼にその権利があったら目の前の囚人を打ち倒すだろうということがはっきり表れていた。「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」と彼は叫んだ(マタイ26:62)。 DA 1046.2
イエスは沈黙を守られた。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった、ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53:7)。 DA 1046.3
ついにカヤパは、右手を天に向かってあげ、厳粛な宣誓の形式で、イエスに問いかけた。「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」(マタイ26:63)。 DA 1046.4
この訴えに対して、キリストはだまっていられなかった。沈黙すべき時があるとともに、語るべき時があった。イエスは直接問いかけられるまでは日を開かれなかった。いま答えることによってご自分の死が確定することをイエスは承知しておられた。しかしいま国民から最高の権威を認められた者によって、いと高き神のみ名のもとに、訴えがなされたのである。キリストは法に対して正しい尊重心を示さないようなことはされなかった。それよりも、ご自身と天父との関係が問題にされたのである。イエスはご自分の性格と使命をはっきり宣言されなければならない。イエスは弟子たちに、「人の前でわたしを受けいれる者を。わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」と言われたことがあった(マタイ10:32)。いまイエスは、ご自身の模範によって、この教えをくりかえされた。 DA 1046.5
イエスが、「あなたの言うとおりである」と答えられた時、だれもがみな耳をそばだてて、目をイエスのお顔にじっとそそいだ。そしてイエスが、「しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」とつけ加えられた時、その青ざめ顔を天の光が照らしたようにみえた(マタイ26:64)。 DA 1046.6
一瞬間、キリストの人としての姿に神性がひらめいた。大祭司は救い主の射るような11艮光の前にたじろ いだ。イエスの表情は彼のかくれた意図を見抜き、彼の心に焼きっくように思われた。迫害された神のみ子の鋭い眼光を彼はその後死ぬまで忘れなかった。 DA 1046.7
「あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」とイエスは言われた(マタイ26:64)。このことばの中に、キリストはその時起こっている場面と反対の場面をお示しになった。生命と栄光の主なるキリストが神の右に座しておられるというのである。キリストは全地のさばき主となられ、その決定についてもはや訴えることはできないのである。その時すべての秘密の事柄が神のみ顔の光の中に示され、各人の行為に従ってすべての人に判決が宣告されるのである。 DA 1047.1
キリストのことばは大祭司を驚かせた。死人のよみがえりがあって、その時すべての者が神のさばきの座に立ち、それぞれの行為にしたがって報いを受けるという思いは、カヤパにとって恐怖すべき思いであった。将来、自分の行為にしたがって宣告を受けるということを、彼は信じたくなかった。最後のさばきの光景が彼の心の中をパノラマのように通りすぎた。一瞬間彼は、墓が永遠にかくしておきたいと望んでいるいろいろな秘密とともに死人を手離す恐るべき光景を見た。一瞬、彼は、自分が永遠のさばき主の前に立っていて、すべてのことをごらんになる神の御目が自分の魂を見抜き、死人と共に葬ってしまったと思っていた秘密が明るみに出されているような気がした。 DA 1047.2
その光景は祭司の視界から消えた。キリストのことばはサドカイ人である彼の神経にさわった。カヤバは、よみがえりとさばきと来世についての教えを否定していた。彼はこんどは悪魔のような狂暴さで怒った。目の前に捕らえられているこの男はわたしの番大事な教理を攻撃しようというのか。彼は、人々が彼のよそおった恐怖心を見こるとができるように、自分の衣を裂いて、単刀直入にこの囚人を冒瀆の罪に定めるようにと要求した。「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」と、彼は言った(マタイ26:65、66)。そこで彼らはみなイエスを有罪と断定した。 DA 1047.3
罪の自覚が怒りとまじって、カヤパはこのような行動に出たのであった。彼はキリストのことばを信じることに激しい怒りを覚え、真理の深い自覚のもとに自分の心を裂いてイエスがメシヤであることを告白しようとしないで、断固たる抵抗のうちに祭司の衣を裂いた。この行為には深い意味があった。カヤパはその意味にすこしも気づいていなかった。裁判官たちに影響を及ぼしてキリストを有罪に定めるためになされたこの行為によって、大祭司は自分自身を罪に定めた。神の律法によって、彼は祭司職の資格を失った、彼は自分自身に死刑の宣告をくだしたのであった。 DA 1047.4
大祭司は衣を裂くべきではなかった。レビ記の律法によると、これは死の宣告をもって禁止されていた。どんな事情があっても、どんな場合にも、祭司は衣を裂いてはならなかった。ユダヤ人の間では、友人が死ぬと衣を裂くのが慣習となっていたが、しかし祭司はこの慣習を守るべきではなかった。このことについて、キリストはモーセにはっきりした命令をお与えになっていた(レビ10:6参照)。 DA 1047.5
祭司の着ているものはすべて完全で傷のないものでなければならなかった。この美しい祭司服によって、大いなる本体であられるイエス・キリストのご品性が象徴されていた。衣服でも態度でも、ことばでも精神でも、神は完全なものしか受け入れることがおできにならない。神は聖なるお方であるから、その栄光と完全さが地上の奉仕に表されねばならない。天の奉仕の聖潔は完全なものしか正しく代表することはできない。有限な人間は、悔い改めた、けんそんな精神を表明することによって自分自身の心を裂くことができる。これを神は認めてくださる。しかし祭司の衣を裂いてはならなかった。祭司の衣を裂くことは天の事物の象徴を傷っけるからであった。破れた衣のままあえて祭司の務めに出て来て、聖所の奉仕にたずさわる大祭司は、自分自身を神から切り離し た者とみなされた。衣を裂くことによって、彼は代表的な人物となることを自らたち切ったのである。彼はもはや職務を行う祭司として神から認められなかった。カヤパが示したようなこうした行為は、人間の激情、人間の不完全さを示した。 DA 1047.6
衣を裂くことによって、カヤパは神の律法を無効にし、人間の言い伝えに従った。人間の作った律法には、神が冒瀆された場合、祭司はその罪の恐ろしさに衣を裂いても罪とされないことが定められていた。こうして神の律法は、人間の律法によって無効にされた。 DA 1048.1
大祭司の一挙一動は人々から関心をもって見守られていた。そこでカヤパは、効果をあげるために、自分の敬慶さを示したいと思ったのである。しかしキリストを訴えるためにもくろまれたこの行為によって、カヤパは、神が、「わたしの名が彼のうちにある」と言われたお方をののしっていた(出エジプト23:21)。カヤパ自身が神を冒瀆していたのである。神からの断罪の下にありながら、彼はキリストの上に神の冒瀆者としての宣告をくだした。 DA 1048.2
カヤパが衣を裂いた時、彼の行為は、ユダヤ国民が1つの民としてそののち神に対して占めるべき立場について意義をもっていた。かつては神に祝福された民が彼ら自身を神から隔離し、エホバに否認される民に急変しつつあった。キリストが十字架上で、「すべてが終った」と叫ばれ、神殿の幕が真二つに裂けた時、聖なる監視者であられる神は、ユダヤ人が彼らのすべての型の原型であり、彼らのすべての影の本体であられるキリストを拒否したことを宣言された。イスラエルは神から離縁されたのである。カヤパが、天の大祭司キリストの代表者であると主張していることを示している祭司服をその時裂いたのは当然であった。その祭司服は彼にとっても民にとってももはや何の意味もなくなったからである。大祭司カヤパが自分自身のためにまた国民のために、恐ろしさのあまりその衣を裂いたのは当然であった。 DA 1048.3
サンヒドリンはイエスを死刑に値する者と宣告した。しかし夜間に囚人を審問することはユダヤ人の律法に反していた。法律上の有罪は、昼間正式に会議を開く以外には宣告をくだすことができなかった。それにもかかわらず救い主はいま罪の宣告を受けた犯罪人としてとり扱われ、最もいやしく、下等な人間どもの虐待の手に引き渡された。大祭司の邸は中庭をかこんでいて、そこに兵士たちや群衆が集まっていた。この庭を通ってイエスは、番兵の詰所へ連れて行かれたが、神のみ子であるというイエスの主張に四方から嘲笑が浴びせられた。「力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくる」と言われたイエスのおことばが、ひやかし半分にくりかえされた(マルコ14:62)。番兵の詰所で正式な裁判を待っておられる間、イエスは保護されなかった。無知な群衆は、イエスが会議の席で残酷にとり扱われたのを見ていたので、彼らも、それにならって、悪魔的な性質の要素を思う存分に発揮した。キリストの気高さと神々しい態度そのものが彼らを狂気にかりたてた。キリストの柔和、純潔、堂々たる忍耐は、彼らのうちにサタンから生ずる憎悪心を満たした。慈悲と正義はふみつけられた。神のみ子イエスの場合ほど非人間的なやり方で扱われた犯罪人はなかった。 DA 1048.4
しかしもっと鋭い苦悩がイエスの心を裂いた。どんな敵の手もこれより深い苦痛を伴う打撃を与えることはできなかった。カヤパの前で嘲笑的な取り調べを受けておられる時に、イエスはご自身の弟子の1人から否認されていたのであった。 DA 1048.5
園で主を見捨ててから、弟子たちの中の2人が、イエスを引き立てて行く群衆のあとから、間隔をおいてついて行った。この弟子たちはペテロとヨハネであった。祭司たちは、ヨハネがイエスの有名な弟子であることを知っていたので、彼が先生の屈辱を目撃したらこんな人を神のみ子として信じていたことを馬鹿らしく思うようになるだろうと希望して、法廷の中へ入れてくれた。ヨハネがペテロのために話をつけてくれたので、ペテロもまた中に入ることができた。 DA 1048.6
中庭では火を燃やしていた。ちょうど夜明け前で、夜の一番寒い時刻だったからである。一団の人々が火のまわりに集まっていたので、ペテロは無遠慮 に彼らの中に加わった。彼はイエスの弟子であることに気づかれたくなかった。何気なく群衆の中にまじっていることによって、彼は、自分がイエスを法廷に引き連れてきた人々の仲間だと思われるように望んだ。 DA 1048.7
しかし焔の光がペテロの顔を照らすと、戸口のところにいた女がさぐるような目つきで彼を見た。彼女はペテロがヨハネといっしょにはいってきたのを見ていた。女はペテロの顔に落胆の色をみとめ、彼がイエスの弟子であるかも知れないと思った。この女はカヤパの家族の召使いの1人で、知りたがりやであった。彼女はペテロに、「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」と言った(ヨハネ18:17)。ペテロはびっくりして、まごついた。居合わせた人々の目がたちまちペテロに釘づけにされた。ペテロは女の言っていることがわからないようなふりをした。しかし女はあくまでもこの男はイエスといっしょにいたとまわりの人たちに言った。ペテロは返事をしないわけにいかないような気がしたので、怒って、「そんな人は知らない」と言った(マタイ26:72)。これが最初の拒否であった。するとすぐににわとりが鳴いた。ああ、ペテロよ、こんなにたちまち主を恥じるとは。こんなにたちまち主をこばむとは。 DA 1049.1
弟子のヨハネは、法廷にはいって行ったが、自分がイエスの弟子であることをかくそうとしなかった。彼は。主をののしっている粗暴な連中の中にまじらなかった。彼は正体をかくして嫌疑を受けるようなことをしなかったので、あやしまれなかった。彼は暴徒の目のとどかない片隅に行ったが、しかしできるだけイエスの近くにいた。そこで彼は主の裁判に起こったすべてのことを見たり聞いたりできた。 DA 1049.2
ペテロは自分の正体を知られないようにくふうしていた。彼は無関心な風をよそおって、敵の陣地に身を置いたので、たちまち誘惑のとりこになった。もし主のために戦うように召されたのだったら、彼は勇敢な戦士だっただろう。しかし嘲笑の指が自分に向けられた時、彼は臆病者であることをばくろした。主のために活動的に戦うことにはしりごみしないのに、嘲笑に負けて信仰を否定する人が多い。避けねばならないものとまじわることによって、彼らは自分自身を誘惑の道に置く。彼らは誘惑するように敵を招いて、ほかの事情のもとでは決して罪を犯さないようなことを、言ったりしたりする。今日、苦難や非難を恐れて信仰を偽装するキリストの弟子は、法廷におけるペテロの場合のように、主をこばむのである。 DA 1049.3
ペテロは主の裁判に何の関心もないように見せかけようとしたが、主の受けられる残酷なあざけりを聞き、虐待を見ると、心は悲しみにかきむしられるようだった。それにもまして彼が驚き怒ったことは、イエスがこのような仕打ちに身をまかせることによってご自身と弟子たちをはずかしめられることだった。自分の本心をかくすために、彼は、イエスの迫害者たちの時ならぬじょうだんにつとめて加わろうとした。しかし彼の様子は不自然だった。彼は行為によってうそをついていた。彼は、無関心にしゃべろうとつとめていたが、主の上に浴びせられる悪口に憤慨の表情をおさえることができなかった。 DA 1049.4
ふたたびペテロに注意が向けられ、彼はもう1度イエスの弟子であるととがめられた。するとペテロは、こんどは誓って、「その人のことは何も知らない」と断言した(マタイ26:74)。それでも、もう1度機会が彼に与えられた。1時間が過ぎた頃、大祭司のしもべの1人で、ペテロに耳を切られた男の近親の者が、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」とたずねた。そして「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」と言った(ヨハネ18:26、マタイ26:73)。 DA 1049.5
これを聞いてペテロは急に怒った。イエスの弟子たちはきれいなことばを使うことで有名だった。質問者たちを完全にあざむいて、自分の偽りの正体を正当化するために、ペテロはこんどはきたないことばで主を知らないと誓った。するともう1度にわとりが鳴いた。するとペテロはそれを聞いて、「にわとりが2度鳴く前に、そう言うあなたが、3度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスのことばを思い出した(マルコ14:30)。 DA 1049.6
この下等な誓いのことばを出したペテロの舌の根がまだかわかないうちに、そしてにわとりのかん高い鳴き声がまだ彼の耳にひびいていた時に、救い主はしかめつらの裁判官たちの前からふり向いてこのあわれな弟子をまともにごらんになった。同時にペテロの目は主にひきつけられた。そのやさしい顔つきのうちにペテロは深い憐れみと悲しみとを読んだが、怒りのかげはなかった。 DA 1050.1
青ざめた苦難の顔、ふるえる唇、あわれみとゆるしの顔つき、——そうした光景がペテロの心を矢のように刺し通した。良心がめざめ、記憶がよみがえった。ほんの2、3時間前に自分は主といっしょに獄までも死までも行きますと言った約束が思い出された。救い主が2階座敷で、彼がその夜主を3回こばむであろうと言われた時の悲しみを彼は思い出した。ペテロはイエスを知らないと断言したばかりだったが、いま激しい悲しみのうちに、主が自分をこんなにもよく知っておられ、こんなにも正確に自分の心と、自分自身も知らなかった虚偽を読み取っておられたことに気がっいた。 DA 1050.2
思い出が潮のように彼を襲った。まちがいを犯している弟子たちに対する救い主のやさしいいつくしみ、その親切と寛容、そのやさしさと忍耐——何もかもが思い出された。彼は、「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」との注意を思い起こした(ルカ22:31、32)。彼は自分自身の忘恩、虚偽、偽証を恐怖の思いでふりかえった。もう1度主を見た時、彼はそこに神聖をけがす手が主の顔を打つためにふりあげられるのを見た。それ以上その場にいられなくなって、彼は、断腸の思いで法廷を走り出た。 DA 1050.3
ペテロは、孤独と暗黒のうちに道を急いだが、どこへ行くのかわからず、またどこへ行こうとかまわなかった。ついに彼は自分がゲッセマネにいることに気がついた。2、3時間前の光景が彼の心にまざまざとよみがえった。血の汗にまみれ、苦悩にけいれんしていた主の苦難のお顔が彼の前に浮かびあがった。彼は主がただ1人で祈りのうちに泣き苦しんでおられた時、一方ではその試練の時間に主といっしょに苦しむべき者たちが眠っていたことを、激しい後悔とともに思い出した。そして「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と詫われた主の厳粛な命令を思い出した(マタイ26:41)。彼はもう1度法廷の場面を目撃した。救い主の屈辱と悲嘆に自分が最も重い負担を加えたことを知ることは、血の出る思いのする彼の心にとって非常な苦痛であった。イエスが苦悶のうちに天父に魂をそそぎ出されたその場所にうつぶせに倒れて、ペテロは死んでしまいたいと思った。 DA 1050.4
イエスが日をさまして祈りなさいと命じられたのに眠っていた時、ペテロはこの大きな罪に対して道を備えていた。弟∫たちはみな、あの危機の時に眠ったことによって、大きな損失をこうむった。キリストは、彼らが経験しなければならない激しい試練をご存じだった。試練に対する彼らの備えができないように、サタンが彼らの感覚を麻痺させようと働くのをイエスは知っておられた。そこでイエスは彼らに警告をお与えになったのである。園にいた時間に、目をさまして祈っていたら、ペテロは自分自身の弱い力にたよるがままに放ってはおかれなかったであろう。彼は主をこばむようなことをしなかったであろう。弟子たちがキリストの苦悶に共に目をさましていたら、彼らは十字架上のイエスの苦難を仰ぎ見る備えができていたであろう。彼らはキリストの圧倒的な苦悶の性格をある程度理解したであろう。彼らはご自分の苦難と死とよみがえりを予告しておられたイエスのみことばを思い出すことができたであろう。最も苦しい時の暗やみのさなかにいくらか希望の光がその暗黒を照らし、彼らの信仰をささえたであろう。 DA 1050.5
夜が明けるとすぐに、サンヒドリンはもう1度召集され、イエスはもう1度会議室へ連れて行かれた。イエスはご自分が神のみ子であることを宣言されたので、彼らはそのことばからイエスに対する告発を引き出した。しかし彼らは、そのことについてイエスを罪 に定めることができなかった。彼らの多くはその夜の会議に出席していなかったので、イエスのことばを聞かなかったからである。ローマ人の法廷では、そうしたことばが死刑に値するとはまったくみなされないことを、彼らは知っていた。しかしもしイエスの口から直接そうしたことばをもう1度みなが聞くことができるなら、彼らの目的は達せられるであろう。イエスがメシヤであることを主張されたら、それを治安妨害する政治上の主張と解釈できるであろう。 DA 1050.6
そこで彼らは言った。「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」(ルカ22:67)。しかしキリストはだまっておられた。彼らはイエスに質問を集中しつづけた。ついに悲哀のこもった調子で、イエスはお答えになった。「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう」(ルカ22:67、68)。しかし彼らに口実の余地を与えないために、イエスは、「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」と厳粛な警告をつけ加えられた(ルカ22:69)。 DA 1051.1
彼らは口をそろえて、「では、あなたは神の子なのか」とたずねた。イエスは彼らに、「あなたがたの言うとおりである」と言われた。すると彼らは、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」と叫んだ(ルカ22:70、71)。 DA 1051.2
このようにして、イエスはユダヤ当局者たちから3度目の有罪の宣告を受けて死なれることになった。いま必要なことは、ローマ人がこの有罪の宣告を裁可して、イエスを自分たちの手に引き渡してくれることだけだと、彼らは考えた。 DA 1051.3
それから侮辱と嘲笑の3度目の光景が見られたが。それは無知な暴徒たちから受けられたものより一層激しかった。それは祭司たちと役人たちのいる前で、しかも彼らの承知のトに行われた。同情や人情味は、彼らの心からまったく失われていた。彼らの議論が無力でイエスの声を沈黙させられなくても、各時代において異端者たちを沈黙させるために用いられてきたほかの武器、すなわち苦難と暴力と死があった。 DA 1051.4
裁判官たちがイエスの有罪を宣告すると、人々は悪魔的な狂暴さにとりっかれた。怒号する声は野獣がほえるのに似ていた、群衆は、有罪だ、死刑だと叫びながら、イエスをめがけて突進した。ローマの兵士たちが手を出さなかったら、イエスはカルバリーの十字架に釘づけられるまで生きられなかったであろう。ローマ当局が一卜渉し、武力によって暴徒の暴力を抑えなかったら、イエスは裁判官たちの日の前で八つ裂きにされたであろう。 DA 1051.5
異教の人たちは、まだ何も有罪の証拠のない人がこのように残虐な取り扱いを受けるのを見て怒った。ローマ人の役人たちは、ユダヤ人がイエスに有罪を宣告したことは、ローマの権力の侵害であり、また本人の証言だけによって死刑に処することはユダヤ人の律法にも反していると宣言した。この干渉は裁判の進行を一時的にゆるめたが、しかしユダヤ人の指導者たちは同情と恥に対して一様に無感覚になっていた。 DA 1051.6
祭司たちと役人たちは、職務上の威厳を忘れて、口ぎたないことばで神のみ子をののしった。彼らはイエスの生まれをあざけった。彼らは、自らをメシヤと宣言したイエスの僣越さは最も不名誉な死に値すると宣言した。最も堕落した人たちが救い主に対する不当な侮辱に加わった。1枚の古い衣がイエスの頭にすっぽりかぶせられると、迫害者たちは、イエスの顔を打って、「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」と言った(マタイ26:68)。衣が取りのけられると、1人のあわれな恥知らずがイエスの顔につばを吐きかけた。 DA 1051.7
神の天使たちは、愛する主に対する侮辱の顔つき、ことば、行為を1つももらさず忠実に記録した。嘲笑したあげく、冷静な、青ざめたキリストの顔につばを吐きかけた卑劣な人たちは、いつか太陽よりも明るく輝く栄光のうちにそのみ顔を見るのである。 DA 1051.8