各時代の希望

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第74章 ゲッセマネ

本章はマタイ26:36~56、マルコ14:32~50、ルカ22:39~53、ヨハネ18:1~12に基づく DA 1036.1

救い主は弟子たちとつれだって、ゆっくりゲッセマネの園の方へ進んで行かれた。雲のない空には過越の満月が輝いていた。旅人たちが天幕を張った町はひっそりと静まっていた。 DA 1036.2

イエスは弟子たちと熱心に語り、彼らを教えておられた。しかしゲッセマネに近づかれると、主は妙にだまってしまわれた。イエスは瞑想と祈りのためにこの場所にたびたびこられた。しかし最後の苦悩のこの夜ほど、イエスの心が悲しみに満ちていたことはなかった。地上での一生のあいだ、イエスは神のこ臨在の光のうちを歩まれた。サタンの精神を吹き込まれている人たちとの戦いに、イエスは、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」と言うことがおできになった(ヨハネ8:29)。しかし今イエスは、神のささえの臨在という光からしめ出されているようにみえた。いまイエスは「とがある者と共に数えられた」(イザヤ53:12)。堕落した人類の罪をイエスがお負いにならねばならない。罪を知らなかったお方の上にわれわれの全部の罪とががおかれねばならない。罪が非常に恐るべきものに見え、イエスの負われねばならない不義の重荷があまりに大きいので、イエスは、そのため天父の愛から永遠にしめ出されるのではないかという恐れにさそわれる。罪とがに対する神の怒りがどんなに恐るべきものであるかを感じて、イエスは、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と叫ばれる(マタイ26:38)。 DA 1036.3

園に近づくと、弟子たちは、主にあらわれた変化に気がついた。イエスがこんなにひどく悲しみ、だまっておられるのを、彼らはこれまで見たことがなかった。イエスが進んで行かれるにつれて、このふしぎな悲しみは一層深くなった。しかし彼らはその原因について、イエスにあえてたずねようとしなかった。イエスのお体はいまにも倒れるかのように揺れた。 DA 1036.4

園に着くと、弟子たちは、主が休まれるように、いつものひっこんだ場所を気づかわしそうにさがした。主がいま歩まれる1歩1歩は、苦しい努力であった。主は、恐るべき重荷の重圧に苦しまれるかのように、声をあげてうめかれた。つきそっている者たちが2度イエスのお体をささえたが、そうしなかったら地面に倒れておしまいになったであろう。 DA 1036.5

園の入口の近くで、イエスは3人の弟子たちのほかは全部残して、彼らに、あなたがた自身のために、またわたしのために祈るようにとお命じになった。主はペテロ、ヤコブ、ヨハネといっしょに、人目につかない奥まった場所へ入って行かれた。この3人の弟子たちは、キリストのいちばん親密な友であった。彼らは変貌の山でキリストの栄光を目撃し、モーセとエリヤがキリストと語っているのを見、天からの声を聞いた。今キリストは非常な苦しみのうちにあって、この3人がそばにいることをお望みになった。このかくれた場所で、彼らはたびたびイエスと夜を明かしたのだった。そのような時には、しばらく目をさまして祈ったあとに、彼らは主からすこし離れたところで邪魔されないままによく眠ってしまい、朝になってもう1度働きに出て行くために、イエスが彼らをおこされたものであった。しかし今主は、彼らに自分といっしょに祈りのうちに夜を明かしてくれるように願われた。それでも主は、ご自分が耐えられねばならない苦悩を彼らにさえ見せるのにしのびない気持ちになられた。主は、「ここに待っていて、目をさましていなさい」と言われた(マルコ14:34)。 DA 1036.6

キリストは、彼らからすこし離れたところ——そんなに遠くではなく、彼らが主を見たりその声を聞いたりできるほどのところ——へ行って、地面にひれふされた。キリストは、罪のためにご自分が天父から隔離されつつあることを感じられた。深淵は広く、暗く、深かったので、キリストの精神はその前でおののいた。この苦悩からのがれるために、キリストは、神としての DA 1036.7

力を働かせてはならないのである。人間として、キリストは、人の罪の結果をお受けにならねばならない。人間として、キリストは、罪とがに対する神の怒りに耐えたまわねばならない。 DA 1037.1

キリストはいま、これまでとちがった態度をとっておられた。主の苦難は、預言者ゼカリヤのことばによって最もよくえがかれている。「万軍の主は言われる、『つるぎよ、立ち。上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ』」(ゼカリヤ13:7)。罪深い人間の身代りまた保証人として、キリストは神の正義の下に苦難を受けておられた。主は、正義が何であるかがおわかりになった。これまでキリストは、他人のために執り成すお方であったが、いま主はご自分のために執り成してくれる者がほしいと望まれた。 DA 1037.2

キリストは、天父とのつながりが切れたと感じられた時、人としてのご自分の性質では、きたるべき暗黒の勢力との戦いに耐えることができないと心配された。試みの荒野では人類の運命がかけられていた。その時キリストは勝利者となられた。いま誘惑者は、最後の恐るべき戦いのためにやってきていた。このために、サタンは、キリストの3年の公生涯のあいだ準備してきた。サタンはすべてをかけていた。もしここで失敗すれば、支配への望みは失われるのである。この世の王国はついにキリストのものとなり、彼自身は敗北して追い出されるのである。しかし、もしキリストに打ち勝っことができれば、地はサタンの王国となり、人類は永遠に彼の権力下におかれるのである。この戦いの結果を目の前にして、キリストの魂は、神からの隔離という恐れに満たされた。もしキリストが罪の世の保証人となられるならば、隔離は永遠のものとなり、キリストは、サタンの王国と一体となり、ふたたび神と1つになることがおできにならないであろうと、サタンはキリストに告げた。 DA 1037.3

しかもこの犠牲によって、何の益があるのだろうか。人間の不義と忘恩は何と絶望的にみえることだろう。サタンは、事態の最悪の面をあがない主に強調した。現世的な特権と霊的な特権において、ほかのどんな民よりもまさっていると主張している民があなたをこばんだのだ。特選の民として彼らに与えられた約束の基であり、中心であり、印であるあなたを、彼らは殺そうとしている。あなた自身の弟子の1人は、あなたの教えをきき、教会活動の先頭に立っていたのに、あなたを裏切るだろう。あなたの最も熱心な弟子の1人があなたを知らないと言うだろう。全部の者があなたを見捨てるだろう。こうした思いに、キリストは身も心も嫌悪をおぼえられた。主が救おうと試みられた人たち、主がこれほど愛された人たちが、サタンの陰謀に加わるのだということがキリストの魂を刺し通した。戦いは激しかった。その激しさは、キリストの国民の不義、告発者や裏切り者の不義、悪のうちにある世の不義であった。人の罪がキリストの上に重くのしかかり、罪に対する神の怒りの意識がキリストの生命をすりへらしていた。 DA 1037.4

キリストが、人の魂のために払われる価について思いをめぐらしておられる姿を見なさい。苦悩のあまり、主は、神から遠くへ引き離されまいとするかのように、冷たい大地にすがりつかれる。冷たい夜露がそのひれふしたお体におりるが、主は気にされない。その青ざめたくちびるから、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とのいたいたしい叫びがもれる。それでもなお主は、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とつけ加えられる(マタイ26:39)。 DA 1037.5

人の心は苦難のうちにあって同情を求める。このような熱望をキリストは全心全霊の奥底まで感じられた。キリストは、悲しみと苦しみの時にしばしぼ祝福し、慰め、保護しておやりになった者たちから何か慰めのことばを聞きたいと心の底から望んで、魂の最高の苦悩をいだいて、弟子たちのところへこられた。彼らにいつも同情のことばをかけてこられたお方が、いま超人的な苦悩を経験し、弟子たちが主のために、また自分自身のために祈っていることを知りたいと熱望された。罪の邪悪さがどんなに暗くみえたことだろう。ご自分は神の前に罪のないお方のままでいて、人類の不義の結果は彼ら自身に負わせたらよいでは ないかという誘惑が激しかった。弟子たちがこのことを理解し、感謝しているということを知ることさえできたら、キリストは力づけられるのであった。 DA 1037.6

キリストはいたいたしい努力をもって立ちあがり、連れの者たちを残しておかれた場所へよろめきながらもどってこられた。しかし彼らは「眠っていた」(マタイ26:40)。彼らが祈っているということがわかったら、主の心は救われたであろう。彼らがサタンの勢力に打ち負かされることがないように神に保護を求めていたら、主は彼らの固い信仰に慰められたであろう。しかし彼らは、「目をさまして祈っていなさい」と何度も言われた警告を心にとめていなかった(マタイ26:41)。最初彼らは、いつもは冷静で威厳のある主が、理解できないほどの悲しみと戦っておられるのを見て非常に心配した。苦しんでおられる主の強い叫びを聞いて、彼らは祈った。彼らは、主を見捨てる気持ちはなかったが、神に祈りつづけていたら払い落とせたはずのもうろうとしたまひ状態に陥っているようだった。試みに耐えるためには目をさまして熱心に祈ることが必要であるということに、彼らは気がついていなかった。 DA 1038.1

イエスは、園の方へ足を向けられる直前に、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう」と弟子たちに言われた(マタイ26:31)。彼らは牢獄にでも、死にいたるまでも主と共に行きますと最大限の保証をしていた。そして気の毒にも自信の強いペテロは、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」とっけ加えた(マルコ14:29)。しかし弟子たちは自分自身にたよっていた。彼らはキリストにすすめられたように大いなる助け主を見ていなかった。だから救い主が彼らの同情と祈りを最も必要とされた時に、彼らは眠っていた。ペテロさえ眠っていた。 DA 1038.2

イエスの胸によりかかっていた愛する弟子ヨハネも眠っていた。実際、ヨハネは、主に対する愛から目をさましているべきであった。主の最高の悲しみの時に、ヨハネの熱心な祈りが愛する救い主の祈りに加えられるべきであった。あがない主は、弟子たちの信仰が衰えないように、彼らのために夜通し祈られたことが何度もあった。もしイエスが前に1度ヤコブとヨハネにたずねられたことのある質問、すなわち「あなたがたは、……わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」という質問をいまされるとしたら、彼らはあえて「できます」とは答えなかったであろう(マタイ20:22)。 DA 1038.3

弟子たちはイエスの声で目をさましたが、彼らはそれがイエスであることがほとんどわからなかった。主のお顔は苦悩のために変りはてていた。イエスはペテロに語りかけて、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」と言われた(マルコ14:37、38)。弟子たちの弱さにイエスの同情心が目覚めた。主は、ご自分が売りわたされて殺される時に弟子たちにのぞむ試みに彼らが耐えることができないだろうと心配された。主は彼らを責めないで、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と言われた。この大きな苦悩の中にあってもなお主は、彼らの弱さをゆるそうとされた。「心は熱しているが、肉体が弱いのである」と、主は言われた(マタイ26:41)。 DA 1038.4

ふたたび神のみ子は、超人的な苦悩に陥り、気を失いそうに力がつき果てて、よろめきながら前の戦いの場所へ戻って行かれた。主の苦しみは前よりも一層ひどかった。魂の苦悩がイエスにのぞむと、「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)。いとすぎの木としゅろの木がイエスの苦悩について無言の目撃者であった。暗黒の勢力と1人で戦っておられる創造主のために自然が泣いているかのように、葉の茂った木の枝から重いしずくがイエスの悲しいお姿の上に落ちた。 DA 1038.5

しばらく前には、イエスは、堂々たる杉の木のように立って、激しく襲いかかる反対の嵐に耐えておられた頑固な意志や、悪意と狡猜さに満ちた心がイエスを混乱させ、圧倒しようとつとめてもむだだった。イエスは、神のみ子として天来の威厳をもって耐えられた。 ところが今イエスは、激しい嵐に打たれて折れた葦のようであった。イエスは、1歩1歩暗黒の勢力に勝利して、勝利者としてご自分の働きの完成に近づいておられた。すでに栄光を受けたお方として、イエスは神と1つであることを主張された。ためらうことのない調子で、イエスは賛美の歌を口から出された。イエスは弟子たちに勇気のあるやさしいことばで語られた。しかし今暗黒の勢力の時が来ていた。今イエスの声は、静かな夜の大気の中で、勝利の調べではなく、人間の苦悩に満ちた調べにきこえた。「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」との救い主のことばが、眠い弟子たちの耳につたわってきた(マタイ26:42)。 DA 1038.6

弟子たちの最初の衝動はみもとに行くことであった。しかしイエスは、そこにとどまって、目をさまし祈っているように命じられた。イエスが彼らのところにこられると、彼らはまだ眠っていた。もう1度主は弟子たちとの親しいまじわり、主をほとんど圧倒している暗黒の魔力を払いのけて安心感を与えてくれるような弟子たちのことばを熱望された。しかし弟子たちのまぶたは重かった。「そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった」(マルコ14:40)。主がそばにこられたので彼らは目をさました。彼らは主のみ顔が苦悩のために血の汗にぬれているのを見て、恐怖に満たされた。主の心の苦しみを彼らは理解できなかった。「彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである」(イザヤ52:14)。 DA 1039.1

イエスは、引き返して、ふたたび1人になられると、大いなる暗黒の恐ろしさに圧倒されて、ぱったりうつぶせになられた。神のみ子の人性はこの試みの時にたじろいだ。主は、こんどは弟子たちの信仰が失われないようにと祈らず、試みられ、苦しんでおられるご自分の魂のために祈られた。 DA 1039.2

恐るべき瞬間がきていた。それは世の運命を決定する瞬間であった。人類の運命ははかりでゆれていた。キリストは、不義な人類に課せられた杯から飲むことをいまでも拒否することがおできになった。まだ遅くなかった。主はひたいの血の汗をふいて、人類を罪とがのうちに滅びるままにしておくこともおできになった。罪人にその罪の値を受けさせて、わたしは父のみもとにもどろうと言うこともおできになった。神のみ子は、屈辱と苦悩のにがい杯を飲まれるだろうか。罪なきお方が不義な者を救うために罪の行為の結果を受けられるだろうか。イエスの青ざめたくちびるから、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」とのことばがふるえながらもれる(マタイ26:42)。 DA 1039.3

3度、イエスはその祈りを口にされた。3度、人性は最後にして最高の犠牲の前にひるんだ。しかしいま人類の歴史が世のあがない主の前に現れる。律法を犯した者たちは、放っておけば滅びなければならないことを、主はお知りになる。主は人類の無力をさとられる。主は罪の力をお知りになる。滅びる運命にある世のわざわいと嘆きが主の前に現れる。主は、世のさし迫った運命を見て決心される。ご自分がどんなに犠牲を払ってでも、主は人類を救おうとされる。滅びつつある幾百万の人がイエスを通して永遠の生命を受けられるように、イエスは血のバプテスマを受け入れられる。主が純潔と幸福と栄光に満ちた天の宮廷を去られたのは、失われた1匹の羊、罪とがによって堕落した1つの世界を救うためであった。だから主は、ご自分の使命から離れようとなさらない。イエスは、罪を犯した人類のためにあがないの供え物となられるのである。いまイエスの祈りには、「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、服従することだけが表明される(マタイ26:42)。 DA 1039.4

決心をされると、イエスは、それまでわずかにからだをもたげておられた地面に、いまにも死んでしまわれるかのようにばったり倒れておしまいになった。失神したようになっておられる主の頭をやさしく手でささえ、人の子と異なって見えるほどそこなわれたそのひたいをふいてさしあげるはずの弟子たちはその時 どこにいたのだろう。救い主はただ1人でさかぶねを踏まれ、もろもろの民のなかに主と事を共にする者はなかった。 DA 1039.5

しかし神はみ子と共に苦しまれた。天使たちは救い主の苦悩を見守っていた。彼らは、主がサタンの大軍にとりかこまれ、その人性が身ぶるいするような、ふしぎな恐れに圧倒されるのを見た。天は沈黙していた。立琴は音をたてなかった。天父が愛するみ子からご自分の光と愛と栄光の輝きをとり去られるのを天使たちが無言の悲しみのうちに驚いて見守っている有様をもし人間が見ることができたら、彼らは罪が神の御目にどんなに恐るべきものであるかをもっとよくさとるであろう。 DA 1040.1

戦いが終りに近づくにしたがって、他世界の聖者たちと天のみ使たちは熱心な関心をもって見守っていた。サタンと悪天使たち、すなわち背信の大軍が、あがないの働きにおけるこの大危機を熱心に見守った。善と悪の両勢力は、キリストの3度くりかえされた祈りにどんな応答が与えられるかを見ようと待った。天使たちはこの聖なる受難者の苦しみをとり除いてさしあげたいと願ったが、そうするわけにいかなかった。神のみ子にとってのがれる道はなかった。すべてのことが危険に瀕し、神秘の杯が受難者の手でふるえているこの恐るべき危機に、天が開け、一条の光が嵐の暗黒のようなこの危機の時を照らし、サタンが落ちたあとの地位を占めて神のそばに立っている大いなる天使が、キリストのかたわらにやってきた。この天使はキリストの手から杯を取り去るために来たのではなく、キリストがそれを飲まれるのを力づけるために、天父の愛の確証をもってやってきたのであった。彼は、神と人であられる嘆願者イエスに力を与えるためにやってきた。彼は開いている天をキリストに指さし、キリストの受難の結果救われる魂について語った。天父がサタンよりも偉大で強力であられるということ、キリストの死の結果はサタンの完全な敗北であること、この世の王国はいと高き神の聖徒たちに与えられることをキリストに保証した。キリストはご自分の魂の苦しみを見て満足されるであろう、なぜなら多数の人類が救われ、しかも永遠に救われるのを見られるからであると、だ使はキリストに語った。 DA 1040.2

キリストの苦しみはやまなかったが、しかし意気消沈と落胆はなくなった。嵐は決して衰えていなかったが、そのまととなっておられたお方はその激しさに耐える力が与えられた。イエスは冷静に落ちつかれた。血のついたイエスのお顔に天来の平安が宿つた。イエスはどんな人間もかつて耐えなかったことに耐えられたのだった。イエスはすべての人のために死の苦しみを味わわれたからである。 DA 1040.3

眠っていた弟子たちは救い主をとりまいている光で急に目がさめた。彼らは、ひれふておられる主の上に天使がかがみこんでいるのを見た。彼らは、その天使が救い主の頭を自分の胸に持ちあげて、天の方を指さしているのを見た。彼らは、その天使が、最も美しい音楽のように、慰めと希望のことばを語っている声を聞いた。弟子たちは変貌の山で見た光景を思い出した。彼らは、宮の中でイエスをとりまいた栄光と、雲の中から語られた神のみ声を思い出した。いまその同じ栄光がふたたびあらわされたので、彼らはもはや主について心配しなかった。主は神の守りのうちにおられ、偉大な天使が主を保護するためにつかわされたのだ。ふたたび弟子たちは、疲れのあまり、うち勝ちがたいふしぎなねむたさに負ける。ふたたびイエスは彼らが眠っているのに気づかれる。 DA 1040.4

主は彼らを悲しそうにごらんになって、「まだ眠つているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ」と言われる(マタイ26:45)。これらのことばを語っておられる時にも、イエスはご自分をさがし求めている暴徒たちの足音を聞いて、「立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」と言われた(マタイ26:46)。 DA 1040.5

イエスが裏切り者に会うためにふみ出された時、さっきまでの苦しみの跡はすこしもみえなかった。弟子たちより先へ出て行って、主は「だれを捜しているのか」と言われた。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは、「わたしが、それである」と応じ られた(ヨハネ18:4、5)。これらのことばが語られた時、さっきイエスに仕えた天使がイエスと暴徒たちとの間に入った。一条の天来の光が救い主のみ顔を照らし、鳩のような形をしたものがイエスをおおった。この天来の栄光の前に、残忍な暴徒たちは一瞬間も立っていることができなかった。彼らはよろめいてうしろへさがった。祭司たち、長老たち、兵士たちは、それにユダさえも、死人のように地面に倒れた。 DA 1040.6

天使が退くと、光は消えた。イエスは逃げる機会があったが、冷静に落ち着いてふみとどまっておられた。栄光を受けたお方として、イエスは、いまご自分の足下に無力のままうつぶせに倒れている冷酷な一群の真ん中に立っておられた。弟子たちは、ふしぎな思いとおそれの思いで、だまったままそれを眺めていた。 DA 1041.1

しかしたちまち場面は変わった。暴徒たちは立ち上がった。ローマの兵士たち、祭司たち、ユダがキリストをとりかこんだ。彼らは自分たちの無力を恥じ、イエスがまた逃げ出されるのではないかと恐れているようだった。あがない主はもう1度「だれを捜しているのか」と質問された(ヨハネ18:7)。彼らは目の前に立っているお方が神のみ子であるという証拠を見たのに、まだ納得しようとしなかった。「だれを捜しているのか」との問いに、彼らはもう1度「ナザレのイエスを」と答えた。すると救い主は、「わたしがそれであると、言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」と。弟子たちを指さして言われた(ヨハネ18:7、8)。イエスは弟子たちの信仰が弱いことを知っておられ、彼らを試みと苦難から守ろうとされた。彼らのために主はご自分を犠牲にする覚悟ができていた。 DA 1041.2

裏切り者のユダは自分が果たす役割を忘れていなかった。暴徒たちが園に入ってきた時、ユダは先頭に立ち、すぐうしろに祭司長がつづいていた。ユダは、イエスの追跡者たちに合図して、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と言っていた(マタイ26:48)。いま彼は、暴徒たちとは関係のない者のようなふりをしている。イエスのすぐそばまでくると、彼は親しい友としてイエスの手をとる。そして「先生、いかがですか」ということばとともに、イエスに接吻をくりかえし、危機にあるイエスに同情しているかのように、泣き出しそうにみえる(マタイ26:49)。 DA 1041.3

イエスは彼に「友よ、なんのためにきたのか」と言われた(マタイ26:50)。そして、「ユダあなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」とつけ加えられた時、イエスの声は悲しみにうちふるえた(ルカ22:48)。この訴えは裏切り者の良心をめざめさせ、そのかたくなな心を動かすべきだった。しかし彼は、名誉、誠実、人間的なやさしさから見放されていた。彼は心をやわらげる様子も見せないで、大胆不敵につっ立っていた。わが身をサタンに引き渡したユダは、サタンに抵抗する力をもたなかった。イエスは裏切り者の接吻をこばまれなかった。 DA 1041.4

暴徒たちは、たったいま彼らの目の前で栄光を受けられたお方の体にユダがさわったのを見て大胆になった。彼らはいまイエスを捕らえ、これまでたえず恵みのわざをなすために用いられたそのとうとい手をしばろうとしはじめた。 DA 1041.5

弟子たちは、主が捕らえられるようなことはなさらないと思っていた。なぜなら、暴徒たちを死人のように倒れさせた同じ力で彼らを無力にしておいて、イエスと弟子たちは逃げることができたからである。彼らは愛するお方の手をしばるためにひもが取り出されるのを見て失望し、憤慨した。ペテロは、怒りのあまりすばやく剣を抜き、主を防衛しようとしたが、祭司長のしもべの片耳を切り落としただけだった。イエスがそれをごらんになって、ローマの兵士たちに固くおさえられている手をふりほどき、「それだけでやめなさい」と言いながら、負傷した耳に手をつけられると、それはたちまちもとどおりになった(ルカ22:51)。イエスはそれからペテロに言われた。「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか」(マタイ26:52、 53)。——弟子たちの一人一人の代わりに一軍団である。ああ、なぜ主はご自分とわれわれを救われないのかと弟子たちは思った。彼らの無言の思いに答えて、主は、「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」「父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」とつけ加えられた(マタイ26:54、ヨハネ18:11)。 DA 1041.6

ユダヤ人の指導者たちは、お役人の威厳をすてて、イエスの追跡に加わっていた。イエスを捕らえることは重大事だったので、下役人たちにまかせておけなかった。陰険な祭司たちと長老たちは、宮守がしらや暴徒たちといっしょに、ユダのあとについてゲッセマネにきていた。要人たちが、あたかも野獣でも追跡するかのように、あらゆる種類の武器を手にしてわいわい騒いでいる暴徒たちの仲間に入っていたのである。 DA 1042.1

祭司たちと長老たちの方に向いて、キリストは、その鋭い視線を彼らにそそがれた。キリストが語られたことばを、彼らは生きているかぎり忘れないであろう。そのことばは大能の神からの鋭い矢のようであった。キリストは、威厳をもってこう言われた。あなたがたはどろぼうや強盗に向かうように剣や棒をもってわたしに立ち向かっている。毎日わたしは宮にすわって教えていた。あなたがたはわたしを捕らえる機会があったのに何もしなかった。あなたがたの働きのためには夜が都合がよいのだ、「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」(ルカ22:53)。 DA 1042.2

弟子たちは、イエスが捕らえられ、しばられるままになられるのを見て恐れた。彼らは、イエスがご自分と弟子たちの上にこの屈辱をおゆるしになったことにつまずいた。彼らはイエスの行為を理解できなかった。そしてイエスが暴徒たちに屈服されたことを非難した。憤慨と恐怖のあまり、ペテロはみんな逃げ出そうと言い出した。このさそいに応じて、「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」(マルコ14:50)。しかしキリストはこの逃亡を予告しておられた。「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来ろであろう」と、イエスは言われたのであった(ヨハネ16:32)。 DA 1042.3