各時代の希望

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第73章 「あなたがたは心を騒がせないがよい」

本章はヨハネ13:31~38、14章~17章に基づく DA 1023.4

天来の愛とこの上なくやさしい同情の思いとをもって弟子たちをみわたしながら、キリストは、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」と言われた(ヨハネ13:31)。ユダは2階の広間から出て行って、キリストは11人の弟子たちとだけおられた。主は彼らとの別離が近づいていることについて語ろうとしておられた。しかしそうする前に、主はご自分の使命の大きな目的をさし示された。主がいつも目の前に見つづけておられたのはこの目的であった。ご自分の屈辱と苦難のすべてを通して天父のみ名の栄光をあらわすことが主の喜びであった。主は弟子たちの思いをまずこのことに向けられる。 DA 1023.5

それから主は、親しみをこめたことばで「子たちよ」と呼びかけ、「わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』」と言われた(ヨハネ13:33)。 DA 1023.6

弟子たちはこれを聞いてよろこぶことができなかった、恐れが彼らをおそった。彼らは救い主のまわりによりそった。彼らの主、愛する教師であり友人であられるお方、それは彼らにとっていのちよりも。大事なお方であった。このお方に、彼らは困難のたびに助けを、悲しみと失望の時に慰めを求めてきた。いまこのお方が孤独な、たよっている群れである彼らから去 ろうとしておられる。彼らの心は暗い予感に満たされた。 DA 1023.7

しかし彼らに対する救い主のことばは望みに満ちていた。主は、彼らが敵に攻撃されることも、困難のために落胆している者たちに対してサタンの策略が非常に効果的であることも知っておられた。そこで主は、「見えるもの」から離れて、「見えないもの」を彼らにさし示された(Ⅱコリント4:18)。主はまた、地上のさすらいから、天の故郷へと彼らの思いを向けられた。 DA 1024.1

主は言われた、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」(ヨハネ14:1~4)。あなたがたのためにわたしは世に来た。わたしはあなたがたのために働いている。わたしが去っても、わたしはあなたがたのために熱心に働くのである。わたしは、あなたがたが信じるようにわたし自身をあなたがたにあらわすために世に来た。わたしは、あなたがたのために天父と協力するためにみもとに行くのである。キリストが去られる目的は、弟子たちが恐れていることとは反対であった。それは最後の別離を意味しなかった。主はもう1度来て、彼らをみもとに受け入れるように、彼らのために場所を用意しようとしておられた。主が彼らのために住居を作っておられる間に、彼らは天の型にかたどって品性を築くのであった。 DA 1024.2

それでも弟子たちは当惑していた。いつも疑いに悩まされるトマスは言った、「『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません、どうしてその道がわかるでしょう』。イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」(ヨハネ14:5~7)。 DA 1024.3

天への道はたくさんあるのではない、それぞれが自分自身の道を選ぶというわけにいかない。キリストは、「わたしは道であり……だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言われる(ヨハネ14:6)。女のすえがへびのかしらを砕くということがエデンで宣告された時に最初の福音が説かれて以来、キリストは道、真理、生命としてかかげられてきた。 DA 1024.4

アダムが生存していた時に、またアベルがあがない主の血を象徴する殺された小羊の血を神にささげた時に、キリストは道であった。キリストは父祖たちと預言者たちが救われる道であった。キリストはわれわれが神に近づくことのできる唯一の道である。 DA 1024.5

「もしあなたがたがわたしを知っていたならば。わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」と、キリストは言われた(ヨハネ14:7)。それでもなお弟子たちは理解しなかった。「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」と、ピリポは叫んだ(ヨハネ14:8)。 DA 1024.6

ピリポの理解の鈍さにびっくりされたキリストは、苦痛に満ちた驚きで、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか」とたずねられた(ヨハネ14:9)。わたしによって父がなさるみわざのうちにあなたは一体父を見ないのか。わたしは父についてあかしをするためにきたことをあなたは信じないのか。「どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)。キリストは人となられた時神でなくなられたのではなかった。ご自分を低くされて人となられたが、神の位はやはりキリストご自身のものであった、キリストだけが人類に天父をあらわすことがおできになったのであるが、弟子たちはこのあらわれを3年以上にわたって目に 見る特権を与えられていた。 DA 1024.7

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」(ヨハネ14:11)。彼らの信仰は、キリストのみわざに示されている証拠におかれる時安全である。それはだれも自分でしたこともなければ、することもできないみわざである。キリストの働きは彼の神性を証拠だてた。キリストを通して、天父があらわされた。 DA 1025.1

弟子たちが父とみ子との間のこの重大な関係を信じるならば、滅びつつある世を救うためのキリストの苦難と死を見る時、彼らの信仰は失われないのであった。 DA 1025.2

キリストは彼らをその低い信仰状態から、キリストがどんなお方であるかということ、すなわちキリストが人の肉体をとられた神であるということに彼らが真に気づいた時に受け入れるような経験へみちびこうとしておられた。 DA 1025.3

主は、彼らの信仰が当然神へみちびかれて行って、そこにいかりをおろすようになるのを見たいと望まれた。まもなく弟子たちの上におそいかかろうとしている試みの嵐に対して、あわれみ深い救い主はどんなに熱心に忍耐強く彼らに準備させようとされたことだろう。主は彼らをご自分と一緒に神のうちにかくれさせたいと望まれた。 DA 1025.4

キリストがこうしたことばを語っておられると、神の栄光がそのみ顔から輝いたので、そこにいる者たちはみな、みことばを夢中になって聞きながら、聖なるおそれにうたれた。彼らの心は一層はっきりキリストの方へ引かれた。そして大きな愛のうちにキリストへ引きつけられるにしたがって、彼らは層お互いに引きっけられた。彼らは天が近いことを感じ、自分たちの聞いたことばは天の父から彼らに与えられたメッセージであると感じた。 DA 1025.5

キリストはことばを続けて、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう」と言われた(ヨハネ14:12)。救い主は、何のためにご自分の神性が人性と結合しているかを弟子たちが理解するように熱望された。キリストは、神の栄光を示し、その回復力によって人が高められるようにこの世にこられた。神はキリストのうちにあらわされたが、それはキリストを通して神が人々のうちにあらわされるためであった。イエスは、人がイエスに対する信仰を通して持つことのできないような特性をあらわしたり、能力を働かせたりされなかった。キリストの完全な人性は、キリストに従うすべての者が、キリストと同じように神に服従する時に所有することのできるものである。 DA 1025.6

「そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」(ヨハネ14:12)。このことによって、キリストは、弟子たちのわざがキリストのみわざよりももっと崇高な性質のものになると言われたのではなく、もっと広い範囲のものになると言われたのである。主は奇跡を行うことだけを言われたのではなく、聖霊の働きのもとに起こるすべてのことを言われたのである。 DA 1025.7

主の昇天後、弟子たちは、主のみ約束の成就に気がついた。キリストの十字架と復活と昇天の場面は彼らにとって生きた現実であった。彼らは預言が文字通りに成就したことを知った。彼らは聖書を調べ、かつてないほどの信仰と確信をもってその教えを受け入れた。彼らは天来の教師イエスが、かつてご自分について言われた通りのお方であったことを知った。彼らが自分たちの経験について語り、神の愛をあがめた時、人々の心はとけ、やわらげられ、多くの人たちがイエスを信じた。 DA 1025.8

弟子たちに対する救い主の約束は、世の終わりにいたるまで教会に対する約束である。神は人類をあがなうすばらしい計画がとるに足りない結果しか生じないようには計画されなかった。自分自身ができることをあてにしないで、神が自分のためにまた自分を通してしてくださることをあてにして、働きに出て行く者は、キリストの約束の成就を確実にみとめるのである。「もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」と、主は断言しておられる(ヨハネ14:12)。 DA 1025.9

その時にはまだ弟子たちは救い主の無限の方法と能力について知っていなかった、主は彼らに、「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった」と言われた(ヨハネ16:24)。彼らの成功の秘訣は、主のみ名によって力と恵みとを求めることにあることを主は説明された。主は、彼らのために願いをするために父の前に出られるのであった。謙遜な嘆願者の祈りを、主は、その人に代って、ご自身の願いとしてささげられる。真心からの祈りはどれも天に聞かれる。それはなめらかなことばではないかも知れないが、その中に心がこもっている時、イエスが奉仕しておられる聖所へのぼって行き、イエスはそれをぎこちないどもることばが1つもなく、ご自身の完全という香で美しくかぐわしいものとして、父にささげてくださるのである。 DA 1026.1

真心と誠実の道は障害物のない道ではない。しかしわれわれは、あらゆる困難の中に祈りへの呼びかけをみとめるのである。神から受けなかった能力を持っている人はだれもいないのであって、その能力のみなもとはどんなに弱い人のためにも開かれている。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」とイエスは言われた(ヨハネ14:13、14)。 DA 1026.2

「わたしの名によって」祈りなさいと、キリストは弟子たちに言われた。キリストに従う者たちは、キリストのみ名によって神の前に立つのである。彼らのために払われた犠牲の価値によって、彼らは神の御目に価値があるのである。キリストの着せられた義によって、彼らはとうとい者とみなされる。神は神をおそれる者たちを、キリストのためにおゆるしになる。神は彼らのうちに罪人のけがれをごらんにならない。神は彼らのうちに、彼らが信じている神のみ子のみかたちをみとめられるのである。 DA 1026.3

神の民が自分自身を低く評価するときに神は失望される。神はご自分の選民が、彼らの上に神がおかれた価値にしたがって自らを評価するように望まれる。神が彼らを所望されたのである、そうでなければ、神は彼らをあがなうために、ご自分のみ子をあのように高価な使命におつかわしにはならなかったのである。神は彼らに用があるのであって、彼らが神のみ名の栄えをあらわすために、神に最高の要求をするときに神はよろこばれる。神の約束に対して信仰を持つときに、大きなことを期待できるのである。 DA 1026.4

しかしキリストのみ名によって祈ることには多くの意味がある。それはわれわれがキリストの品性を受け入れ、キリストの精神をあらわし、キリストのみわざをなすことを意味する。救い主の約束は条件つきで与えられている主は、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と主は言われる(ヨハネ14:15)。主は人を罪のうちにあって救われるのではなく、罪から救われるのである。 DA 1026.5

そして、主を愛する者たちは、従うことによって彼らの愛を示すのである。 DA 1026.6

すべての真の服従は心から生れる。キリストにとってはそれは心の働きであった。もしわれわれが承知するなら、キリストはわれわれの思いやこころざしと一体となり、われわれの心と思いとを1つにしてご自分のみこころに一致させてくださるので、キリストに従う時に、われわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない。意志は洗練され、きよめられて、主のご用をなすことに最高の喜びをみいだす。神を知ることはわれわれの特権であるが、このように神を知るときに、われわれの生活は変わろことのない服従の生活となる。キリストのご品性の真価を認めることによって、神とまじわることによって、罪はわれわれにとって憎むべきものとなる。 DA 1026.7

キリストが人性のうちにあって律法を生活されたように、われわれも、キリストに力を求めてよりすがる時に、それができるのである。しかし自分の義務についての責任を他人におしつけて、彼らがわれわれにすべきことを告げてくれるのを待ってはならない。われわれは人の助言にたよることはできない。主はほかの人にお教えになるのと同じようによろこんでわれわ れの義務をお教えになる。もし信仰をもって主のみもとに行くならば、主はご自分の奥義をわれわれに個人的に語ってくださる。神がエノクにそうされたように、われわれと交わるために近づかれる時に、われわれの心はしばしばうちに燃える。神をよろこばせないようなことは何もしないと決心する者は、自分の問題を神の前に持ち出したあとで、とるべき道を知るであろう。そして彼らは、知恵ばかりでなくまた力を受けるのである。服従と奉仕の力は、キリストが約束されたように彼らにさずけられる。キリストに与えられたものは何であっても、——堕落した人類の必要を満たすためのものは何でも——人類のかしらまた代表者としてキリストに与えられた、「そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを行っているからである」(Ⅰヨハネ3:22)。 DA 1026.8

キリストは、ご自身をいけにえの供え物としてささげられる前に、ご自分に従う者たちに与える最も重要で完全な賜物をお求めになった。それは無限の恵みの資源を彼らの手のとどくところにもたらす賜物であった。キリストはこう言われた、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰って来る」(ヨハネ14:16~18)。 DA 1027.1

これより前に、みたまは世におられた。あがないの働きの最初から、みたまは人々の心に働きかけておられた。しかしキリストが世におられる間は、弟子たちはほかの助け手を望まなかった。キリストの存在が取り去られてはじめて彼らはみたまの腰を感じるようになり、そのときみたまがこられるのであった。 DA 1027.2

聖霊はキリストの代表者であるが、人間の個性を備えておられないので、これに拘束されない。キリストは、人性の制約を受けておられたので、どこへでもみずから行かれるわけにいかなかった。だから、キリストが父のみもとに行かれて、地上におけるご自分の後継者として聖霊をお送りになることは彼らの利益であった。そうすれば、場所やキリストとの個人的接触などによる特典はだれにもないのであった。みたまによって、救い主はだれにでも近づかれるのであった。この意味において、主は、天にのぼられなかったとした場合よりも一層近く彼らのそばにおられるのであった。 DA 1027.3

「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネ14:21)。イエスは弟子たちの将来を見通された。ある者は処刑台に立たされ、ある者は十字架につけられ、ある者は海のさびしい岩の間に島流しにされ、またほかの者たちは迫害と死にあうことを、イエスはご存じであった。主はどの試みにもご自分が一緒におられるという約束をもって弟子たちを励まされた。この約束は少しも効力を失っていない。 DA 1027.4

主のために牢獄に横たわり、あるいはさびしい島に追放されている忠実なしもべたちのことを、主は全部知っておられる。主は自らそこにいて彼らを慰められる。真理のために信者が不正な裁判の座に立つ時、キリストは彼のかたわらに立っておられる。彼の上に浴びせられるすべての非難はキリストの上に落ちかかるのである。キリストがその弟子の身代りとなってふたたび有罪の宣告を受けられるのである。人が牢獄の壁の中に閉じこめられる時、キリストはご自分の愛をもって心をよろこぼせてくださる。人が主のために死にあう時、キリストは、わたしは「生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」とぼわれる(黙示録1:18)。わたしのために犠牲となる生命は、永遠の栄光へと生きながらえるのである。 DA 1027.5

どんな時にも、どんな場所でも、どんな悲しみにも、どんな苦しみにも、前途が暗く将来が困難に見えて 無力と孤独を感じる時にも、信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。この世のすべての友から離れるような事情が起こるかもしれない。しかしどんな事情もどんな距離もわれわれを天の助け主から離れさせることはできない。どこにいようとも、どこへ行こうとも、主はいつもわれわれの右にあって、力づけ、助け、ささえ、励まされる。 DA 1027.6

弟子たちはそれでもキリストのことばの霊的な意味を理解しなかったので、主はもう一度その意味を説明された。みたまによって、わたしはあなたがたにわたし自身をあらわすであろうと、主は言われた(ヨハネ14:21参照)。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」る(ヨハネ14:26)。もうあなたがたは、理解できないと言わないだろう。もうあなたがたは鏡にうつして見るようにおぼろげに見ることはないであろう。あなたがたは、「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知」ることができるであろう(エペソ3:18、19)。 DA 1028.1

弟子たちはキリストの生涯とその働きについてあかしをたてるのであった。彼らのことばを通して、キリストは地上のすべての民に語られるのであった。しかしキリストの屈辱と死によって、彼らは大きな試みと失望にあうのであった。この経験ののちに、彼らのことばが正確なものとなるために、イエスは、助け主が「わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」と約束された(ヨハネ14:26)。 DA 1028.2

イエスはことばをつづけて言われた、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:12~14)。イエスは弟子たちの前に広大な真理の道をお示しになった。 DA 1028.3

しかし彼らはキリストの教えを律法学者やパリサイ人の言い伝えや格言と区別することは非常に困難であった。彼らはラビたちの教えを神の声として受け入れるように教育されていたので、それはいまだに彼らの心を支配する力をもち、彼らの意見を形づくっていた。世俗的な考えやこの世の事物がいまだに彼らの思いの中に大きな場所を占めていた。キリストはご自分のみ国の霊的な性質についてたびたび彼らに説明されたが、彼らはそれを理解しなかった。彼らの頭は混乱していた、彼らはキリストが示された聖句の価値を理解しなかった。キリストの教えの多くは彼らにほとんど益を与えていないように思われた。イエスは、彼らがイエスのことばの真の意味をとらえていないことをお知りになった。主は、聖霊がそうしたことばを彼らの心に思い出させてくださるということを、あわれみ深くも約束された。また主は、弟子たちが理解できない多くのことをこれまで言わないでおかれた。そうしたこともみたまによって彼らに教えられるのであった。みたまは彼らが天の事物を理解するように彼らのさとりを開いてくださるのであった。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネ16:13)。 DA 1028.4

助け主は「真理の御霊」と呼ばれている。助け主の働きは真理を明らかにし、これを守ることである。助け主はまず真理のみたまとして心に住みこりして助け主となられる。真理には慰めと平安があるが、虚偽には真の平安も慰めもない。サタンが人の心を支配する力を手に入れるのは偽りの説や言い伝えを通してである。サタンは人々を偽りの標準へ向けることによって、まちがった品性を形成する。聖霊は、聖書を通して心に語り、真理を心に印象づける。こうしてみたまは誤りをばくろし、それを魂から追い出される。キリストが選民をご自身に心服させられるのは、真理のみたまが神のみことばを通して働くことによってである。 DA 1028.5

イエスは、弟子たちに聖霊の任務をくわしく説明された時に、ご自身の心に霊感を与えたよろこびと望み を彼らに吹きこもうとされた。主はご自分が教会に十分な助けをお与えになったことをよろこばれた。 DA 1028.6

聖霊は主がご自分の民を高めるために天父に嘆願することがおできになるすべての賜物の中の最高のものであった。みたまは人を生れかわらせる働きをするものとして与えられるのであって、これがなければ、キリストの犠牲は何の役にもたたなかったであろう。悪の力は幾世紀にわたって強められ、人々がこのサタンのとりことして屈服していることは驚くばかりであった。罪に抵抗してこれに打ち勝つ唯一の道は、制限された力ではなく天来の満ち足りた力をもってこられる第三位の神、聖霊の偉大な働きを通してである。世のあがない主によって達成されたことに効果を与えるのはみたまである。心が清くされるのはみたまによってである。みたまによって、信者は神の性質にあずかる者となる。すべての先天的後天的な悪の傾向に打ち勝つ天来の力として、またご自身の品性を教会に印象づける天来の力として、キリストはみたまをお与えになった。 DA 1029.1

みたまについて、イエスは、「御霊はわたしに栄光を得させるであろう」と言われた(ヨハネ16:14)。救い主は父の愛を実際に示すことによって父の栄光をあらわすためにこられた。そのようにみたまも、キリストの恵みを世にあらわすことによってキリストの栄光をあらわすのであった。神のみがたちが人間のうちに再現されるのである。神の栄え、キリストの栄光は、神の民の品性の完成に含まれている。 DA 1029.2

「それ(真理のみたま)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16:8)。みことばを説くことは、聖霊のたえまない臨在と助けがなければ何の効果もない。これが天来の真理の唯一の効果的な教師である。真理が聖霊に伴われて心に入る時にのみ、それは良心をめざめさせ、あるいは生活を一変させる。人は神のみことばの字句を示すことができ、そのすべての命令と約束とをよく知っているかもしれない。しかし聖霊によって真理がはっきり頭に入らないならば、魂は岩なるキリストの上に落ちてくだけないのである。どんなに教育があっても、どんなに大きな特典をもっていても、神のみたまの協力がなければ、人は光のうつわとなることができない。 DA 1029.3

種子が、天の露によって芽を出すのでなければ、福音の種子をまくことには効果がない。新約聖書の1巻が書かれる前に、キリストの昇天後1つの福音の説教がなされる前に、聖霊が祈っている使徒たちの上にのぞんだのであった。その時彼らの反対者たちのあかしは、「エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている」というのであった(使徒行伝5:28)。 DA 1029.4

キリストは聖霊の賜物をご自分の教会に約束されたが、その約束は、最初の弟子たちと同じようにまたわれわれのものである。しかしほかのすべての約束と同じように、それは条件つきで与えられている、主の約束を信じ、これをわがものと主張する人は多い。彼らはキリストについて語り、聖霊について語るが、何の益も受けない。彼らは天来の力によってみちびかれ、支配してもらうために魂をあけわたそうとしない。われわれが聖霊を用いることはできない。みたまがわれわれを用いてくださるのである。みたまを通して、神は民のうちに働き、「その願いを起させ、かっ実現に至らせ」てくださるのである(ピリピ2:13)。しかし多くの者はこれに従おうとしない。彼らは自分で自分を支配したいのである。これが、彼らが天の賜物を受けない理由である。みたまは、へりくだった心で神に仕え、そのみちびきと恵みを待ち望む者にだけ与えられる。神の力は彼らが求め、受けるのを待っている。 DA 1029.5

この約束された祝福を信仰によって求める時に、ほかのすべての祝福は次々と与えられる。それはキリストの恵みの富にしたがって与えられるのであって、主はどの魂にもその受け入れる能力にしたがっていつでも与えてくださる。 DA 1029.6

弟子たちへの談話の中で、イエスは、ご自身の苦難と死を暗示する悲しいことばはすこしも言われなかった。彼らに対するキリストの最後の遺産は、平安という遺産であった。主は言われた、「わたしは平安 をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27)。 DA 1029.7

2階の広間を去られる前に、救い主は弟子たちを促して賛美の歌をうたわれた。主のみ声は、悲嘆の調べではなく、過越節の賛美の楽しい調べにきこえた。 DA 1030.1

「もろもろの国よ、主をほめたたえよ。 DA 1030.2

もろもろの民よ、主をたたえまつれ。 DA 1030.3

われらに賜わるそのいつくしみは大きいからである。 DA 1030.4

主のまことはとこしえに絶えることがない。 DA 1030.5

ドをほめたたえよ」 DA 1030.6

(詩篇117篇) DA 1030.7

賛美歌をうたってから、彼らは外へ出て行った。雑踏する通りを進んで行き、町の門を過ぎて、彼らはオリブ山の方へ行った。彼らはそれぞれの思いにふけりながら、ゆっくり進んで行った。山の方へ向かって下り始めた時、イエスは最も悲しい口調で、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである」と言われた(マタイ26:31)。弟子たちは悲しみと驚きにうたれて耳を傾けた。カペナウムの会堂で、キリストがご自分のことを生命のパンであると言われた時に、多くの者がつまずき、主から離れ去ったことを彼らは思い出した。しかしその時12人は不忠実ではなかった。ペテロはその時、兄弟たちに代って語り、キリストに対する忠誠心を表明した。 DA 1030.8

その時キリストは、「あなたがた12人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」と言われた(ヨハネ6:70)。 2階の広間では、イエスは、12人の中の1人がわたしを裏切り、またペテロがわたしを知らないと言うだろうと言われた。しかしこんどは、主のことばには彼らの全部が含まれていた。 DA 1030.9

するとペテロが、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはっまずきません」と激しく抗議の声をあげた(マルコ14:29)。2階の広間で彼は「あなたのためには、命も捨てます」と断言したのであった(ヨハネ13:37)。イエスは、ペテロがその晩救い主を知らないと言うであろうと警告された。いまキリストはその警告をくりかえして、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが2度鳴く前に、そう言うあなたが、3度わたしを知らないど言うだろう」と言われた(マルコ14:30)。しかし「ペテロは力をこめて言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。みんなの者もまた、同じようなことを言った」(マルコ14:31)。自信のあるままに、彼らは、知っておられる主の再度のことばを否定した。彼らは試練に対する備えができていなかった。試みが彼らを襲う時に、彼らは自分自身の弱さをさとるのであった。 DA 1030.10

ペテロが牢獄までも死にいたるまでも王について行くと言った時、そのことばにうそはなかった。しかし彼は自分自身を知らなかった。彼の心の中には。周囲の事情に扇動されると芽を出す悪の要素がかくれていた。彼がその危険に気づかなければ、それは彼を永遠に滅ぼすものとなるのであった、救い主は彼のうちに、キリストに対する愛さえ圧倒してしまうような自分を愛する思いと自信とがあるのをごらんになった。弱さ、克服されていない罪、軽率な精神、きよめられていない性質、試みにとびこんで行く無頓着さなどといったものが多分に彼の経験にあらわれていた。キリストの厳粛な警告は、心をさぐるようにとの呼びかけであった。ペテロは自分を信頼しないで、キリストに対するもっと深い信仰を持つ必要があった。 DA 1030.11

もし彼がけんそんにこの警告を受け入れていたら。彼は群れの牧者であられるイエスにその羊の群れを守ってくださるように嘆願したであろう。ガリラヤの海で沈みかけた時に、彼は、「主よ、お助けください」と叫んだ(マタイ14:30)。するとキリストのみ手がさし出されて彼の手をつかんだ。そのようにいま、彼がイエスに向かって、わたしを自分自身から救ってくださいと叫んでいたら、彼は守られたのである。しか しペテロは、自分が信頼されていないと感じ、そのことを情けないと思った。彼はすでにつまずいていた。そしてますますかたくなに自信をもった。 DA 1030.12

イエスは憐れみの目で弟子たちをごらんになる。主は彼らを試みから救うことがおできにならないが、慰めのないままにはしておかれない。主はご自分がよみの鎖をたちきられること、また彼らに対するご自分の愛が変わらないことを保証される。「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」と主は言われる(マタイ26:32)。こばむ前に、彼らはゆるしの保証を与えられる。キリストの死とよみがえりののちに、彼らは自分たちがゆるされ、キリストの心にいとしい者であることを知った。 DA 1031.1

イエスは弟子たちとオリブ山のふもとにあるゲッセマネへ行かれる途中であった。そこは人里離れた場所で、主がたびたび祈りと瞑想のために行かれたところである。救い主は、世に対するご自分の使命について、また弟子たちとご自分との間の霊的な関係について、彼らに説明してこられた。いま主はその教えを例示される。月が明るく輝いて、イエスの前に繁茂したぶどうの木が現れる。主は弟子たちの注意をそのぶどうの木へ向けて、それを1つの象徴としてお用いになる。 DA 1031.2

「わたしはまことのぶどうの木……である」とイエスが言われる(ヨハネ15:1)。イ土スはご自分を象徴されるのに、優美なしゅろの木や高い杉の木やたくましいかしの木を選ばないで、巻きひげのまつわりついたぶどうの木を例にとられる。しゅろの木も杉の木もかしの木も1本立ちである。それはささえを必要としない。しかしぶどうの木はたなにからみついて、天の方へのぼって行く。そのように、人性をとられたキリストは神の力にたよられた。「わたしは、自分からは何事もすることができない」とイエスは言明された(ヨハネ5:30)。 DA 1031.3

「わたしはまことのぶどうの木……である」(ヨハネ15:1)。ユダヤ人はいつもぶどうの木を植物の中で最も高貴なもの、また力があり、すぐれていて、実をむすぶすべてのものの型とみなしていた。イスラエルは神が約束の地に植えられたぶどうの木として象徴されていた。ユダヤ人は、自分たちがイスラエルとつながっていることに救いの望みを置いていた。しかしイエスは、わたしがまことのぶどうの木であると言われる。イスラエルとつながっていることによって神の生命にあずかる者、神の約束を継ぐ者となれると思ってはならない。わたしを通してのみ霊的生命が受けられるのだ。 DA 1031.4

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハネ15:1)。パレスチナの丘に、天の父がこのよいぶどうの木を植えられ、父ご自身が農夫であった。多くの人たちがこのぶどうの木の美しさにひきつけられ、それが天から出たものであることを宣言した。しかしイスラエルの指導者たちには、それはかわいた土から出た根のように見えた。彼らはその木を引き抜いてこれを傷つけ、けがれた足の下にふみつけた。彼らはそれを永久に滅ぼそうと考えた。しかし天の農夫はご自分の木を決して見すごしにされなかった。人々がその木を殺してしまったと考えたあとで、天の農夫はそれを取りあげ、壁の向こう側に移植された。ぶどうの木の幹はもう見られなくなった。それは人々の乱暴な攻撃からかくされた。しかしまことのぶどうの木の枝は壁をこえてたれさがった。その枝はまことのぶどうの木を代表するのであった。その枝によって、まだまことのぶどうの木につぎ木をすることができた。その枝から実が得られた。それは通りかかる人がもいで収穫となった。 DA 1031.5

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とキリストは弟子たちに言われた(ヨハネ15:5)。キリストは弟子たちから引き離されようとしておられたが、彼らとキリストの霊的結合は変らないのであった。枝とぶどうの木とのっながりは、あなたがたとわたしとの間の関係を表していると、キリストは言われた、、若枝が生きたぶどうの木につがれて、せんいはせんいと、木目は木目とっながって、木の幹へと生長するのである。ぶどうの木の生命は枝の生命となる。 DA 1031.6

そのように、罪とがのうちに死んだも同様の魂は、キリストにつながることによって生命を受けるのであ る。キリストを自分自身の救い主として信じる信仰によって、この結合がなされる。罪人は自分の弱さをキリストの強さに、自分のむなしさをキリストの充実に、自分のもろさをキリストの耐久力に結合させる。そのとき彼は、キリストの心を持つのである。キリストの人性はわれわれの人性に触れ、われわれの人性は神性に触れたのである。こうして聖霊の働きを通して、人は神の性質にあずかる者となる。彼は愛するみ子のうちに受け入れられる。 DA 1031.7

キリストとのこのつながりは、1度できたら、持続しなければならない。キリストは、「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとっながっていよう、枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」と言われた(ヨハネ15:4)。これは気まぐれな接触でもなければ、ついたり離れたりする関係でもない。枝は生きたぶどうの木の一部となるのである。根から枝への生命と力と実りの伝達はさまたげられることなく、たえまなく行われる。ぶどうの木から離れると、枝は生きることができない。あなたがたはわたしを離れては生きることができないと、イエスは言われた。あなたがたがわたしから受けた生命は、たえまないまじわりによってのみ持続されるのだ。わたしなしでは、あなたがたは1つの罪にうち勝つことも、1つの試みに抵抗することもできない。 DA 1032.1

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとっながっていよう」(ヨハネ15:4)。キリストにつながっているということは、そのみたまをたえず受けること、すなわちキリストの奉仕に無条件に服従する生活である。人と神との間に伝達のチャンネルがたえず開かれていなければならない。ぶどうの枝が生きた木の幹からたえず樹液を吸うように、われわれもイエスにすがりつき、信仰によって主から力と主ご自身の完全な品性を受けるのである。 DA 1032.2

根は枝を通して小枝の先端にまで栄養を送る。同様にキリストは、霊的な力の流れを信者の一人一人に送られる。魂がキリストにつながっているかぎり、しぼんだり枯れたりする危険はない。ぶどうの木の生命は枝になる香り高い実にあらわれる。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何1つできないからである」とイエスは言われた(ヨハネ15:5)。神のみ子を信じる信仰によって生きるとき、みたまの実はわれわれの生活の中に見られ、1つとして失われることはない。 DA 1032.3

「わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞ」かれる(ヨハネ15:1、2)。外面的にはぶどうの木につぎ木されていながら、生命のつながりがないかもしれない。すると成長もなければ、実りもない。同じように、信仰によってキリストとほんとうにつながっていないで、表面的な関係しかないかもしれない。信仰の告白によって人は教会に加わるが、その品性と行為は彼らがキリストにつながっているかどうかを示している。もし実をむすばなければ、彼らは偽りの枝である。彼らがキリストから離れていることは、枯れた枝によって表されているのとまったく同じ滅亡を意味する。「人がわたしにつながっていないならば。枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」とキリストは言われた(ヨハネ15:6)。 DA 1032.4

「実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために。手入れしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15:2)。イエスに従ってきた選ばれた12人のうち、1人は枯れた枝としてとりのぞかれようとしており。ほかの者たちは激しい試みという刈り込みのナイフを受けるのであった。イエスは厳粛にやさしく農夫の目的を説明された。刈り込みは苦痛を生ずるが、ナイフを使われるのは天父である。天父は気まぐれな手や無頓着な心で働かれない、地面をはって行く枝がある。そうした枝は、巻きひげがからみついている地面のささえから切り離さねばならない。それは天へ向かって伸び、神にささえを見いだすのである。生命の流れをぶどうの実から奪ってしまうほど葉が 多ければ、その葉を刈り込まねばならない。繁茂しすぎているのは切り落して、義の太陽のいやしの光線のはいる余地をつくらねばならない。農夫は、もっとみごとな、もっとたくさんの実がなるように、有害な成長を刈り込むのである。 DA 1032.5

「あなたがたが実を豊かに結(ぶならば)……それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」とイエスは言われた(ヨハネ15:8)。神は、あなたを通して、ご自身の品性の聖潔、慈愛、あわれみをあらわそうと望まれる。しかし救い主は、弟子たちに、実を結ぶために骨折るようにとは命じられない。主はわたしにつながっていなさいと彼らに言われる。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」と主は言われる(ヨハネ15:7)。キリストがご自分に従う者たちの中に住まれるのはみことばを通してである。これは、キリストの肉を食べ、その血を飲むことによってあらわされているのと同じ生命のつながりである。キリストのみことばは霊であり生命である。みことばを受けることによって、あなたはぶどうの木であられるキリストの生命を受けるのである。あなたは、「神の口から出る1つ1つの言で生きるものである」(マタイ4:4)。あなたのうちにあるキリストの生命は、キリストのうちにあるのと同じ実を生ずる。キリストのうちに生き、キリストに固着し、キリストにささえられ、キリストから栄養分をとる時に、キリストと同じ実を結ぶのである。 DA 1033.1

弟子たちとのこの最後の集まりにおいて、キリストが彼らのために表明された大きな願いは、キリストが彼らを愛されたように彼らが互いに相愛することであった。いく度もキリストはこのことを語られた。「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」と、イエスはくりかえして言われた(ヨハネ15:17)。イエスが2階の広間で弟子たちとだけおられた時の最初の命令は、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」であった(ヨハネ13:34)。弟子たちにとって、このいましめは新しいものであった。彼らは、キリストが彼らを愛されたように互いに愛していなかったからである。新しい考えと動機が彼らを支配しなければならないということ、新しい原則を彼らが実行しなければならないということ、主の生涯と死を通して彼らが愛について新しい観念を受け入れるということを、キリストはお知りになった。 DA 1033.2

互いに愛し合いなさいという命令は、主の自己犠牲の光に照らしてみる時、新しい意味を持っていた。恵みの全体の働きは、愛と克己と自己犠牲的努力のたえまない1つの奉仕である。キリストが地上に滞在しておられた一刻一刻に神の愛はおさえることのできない流れとなってキリストから流れていた。キリストのみたまを吹き込まれる者はみなキリストが愛されたように愛するのである。キリストを動かした原則がお互いの間における彼らの態度の動機となるのである。 DA 1033.3

この愛は彼らが弟子であることの証拠である。「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」とイエスは言われた(ヨハネ13:35)。人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれる時、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致がある時、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である。それはまた超自然的な悪の力に抵抗するのに神の性質には力があるということ、神の恵みは生れつきの心に固有の利己心を征服するということを示している。 DA 1033.4

この愛が教会内であらわされる時、かならずサタンの怒りがひき起こされる。キリストは弟子たちに安楽な道をお示しにならなかった。キリストは言われた、「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではな い。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである」(ヨハネ15:18~21)。福音は、反対、危険、損害、苦難の中を攻勢的な戦いによって前進するのである。しかしこの働きをする者は、主の足跡に従っているにすぎない。 DA 1033.5

世のあがない主として、キリストは失敗とみえるようなことにたえず直面された。この世界へのあわれみの使者であられるキリストは、人々を高め、救うためにご自分がなしたいと熱望されたような働きをあまりなさらないようにみえた。サタンの勢力がキリストの道に反対するためにたえず働いていた。しかしキリストは落胆しようとされなかった。 DA 1034.1

イザヤの預言を通して、主はこう宣言しておられる、「わたしはいたずらに働き、益なく、むなしく力を費した。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある。……イスラエルをおのれのもとに集めるために、……(わたしは主の前に尊ばれ、わが神はわが力となられた)」(イザヤ49:4、5)。次の約束はキリストに与えられているのである。「イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌みきらわれる者……にむかってこう言われる、……『わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。わたしは捕らえられた人に「出よ」と言い、暗きにおる者に「あらわれよ」と言う。……彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ』」(イザヤ49:7~10)。 DA 1034.2

イエスは、このことばに信頼し、サダンが優勢になるのをおゆるしにならなかった。キリストの屈辱の最後の歩みが踏み出されようとしていた時に、最も深い悲しみが主の魂をとりかこもうとしていた時に、主は弟子たちに「この世の君が来る……だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」「この世の君がさばかれる」「今こそこの世の君は追い出されるであろう」と言われた(ヨハネ14:30、16:11、12:31)。 DA 1034.3

預言の目をもって、キリストはご自分の最後の大争闘に起こる場面をたどられた。キリストは、ご自分が「すべてが終った」と叫ばれる時に、全天が勝利することを知っておられた(ヨハネ19:30)。主の耳は、天の宮廷における遠くの音楽と勝利の叫びをとらえた。その時サタンの王国では葬式の鐘が鳴らされ、一方キリストのみ名は宇宙の世界から世界へと告げ知らされることを、主はご存じであった。 DA 1034.4

キリストは、弟子たちが求めたり思ったりすることができるよりももっと多くのことを彼らのためにすることがおできになることをよろこばれた。世界がつくられる前から神のご命令が出されていることをご存じだったので、キリストは、確信をもって語られた。キリストは、真理が、聖霊の全知全能によって武装されて悪との戦いに勝利し、キリストに従う者たちの上に血に染まった旗が高らかにひるがえることを知っておられた。信頼している弟子たちの一生は、キリストの一生と同じようにたえまない勝利の連続となり、それはこの地上では勝利とは見えないが、大いなる来世においてその勝利がみとめられるということを、主は知っておられた。 DA 1034.5

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。キリストは衰えも、落胆されなか。応キリストに従う者たちはこれと同じ持久力のある信仰をあらわすのである。彼らはキリストが生活されたように生活し、キリストが働かれたように働くのである。なぜなら彼らは、キリストを大いなる監督としてたよっているから である。彼らは勇気、精力、不屈の精神を持たねばならない。不可能にみえることが彼らの道をさまたげても、キリストの恩恵によって彼らは前進するのである。困難を嘆かないで、それを乗り越えるように命じられている。どんなことにも失望することなく、どんなことにも望みを持つのである。キリストは、ご自分の比類のない愛という黄金の鎖で、彼らを神のみ座にむすびつけられた。すべての力のみなもとから発する宇宙の最高の力を彼らに与えることが神の御目的である。彼らは、悪に抵抗する力、この世も、死も、よみも征服することのできない力、キリストが勝利されたように彼らにも勝利させる力を与えられるのである。 DA 1034.6

キリストは、天の秩序、天の統治制度、天のきよい調和を地上のご自分の教会にあらわすように意図しておられる。このようにして、キリストはご自分の民によって栄光を受けられるのである。 DA 1035.1

彼らを通して義の太陽はくもりのない光輝をもって世を照らすのである。キリストはご自分があがない、買われた所有物である民から、栄光という大きな収入が受けられるように、教会に十分な便宜をお与えになった。 DA 1035.2

キリストは、ご自分の民がキリストご自身の満ち足りた力をあらわすように、彼らに能力と祝福をおさずけになった。キリストの義をさずけられている教会は、キリストの宝庫であって、そこではキリストのあわれみ。恵み、愛という富が十分にあますところなくあらわされる。キリストは、ご自分の屈辱の報い、またご自分の栄光を補足するものとして、ご自分の民の純潔と完全をごらんになる。キリストは、大いなる中心であって、そこからすべての栄光が放射される。 DA 1035.3

望みに満ちた強いことばをもって救い主はその教えを終えられた。それから、弟子たちのための祈りに魂の重荷をそそぎ出された。目を天に向けて、キリストは、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがっかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と祈られた(ヨハネ17:1~3)。 DA 1035.4

キリストはご自分に与えられたわざをなしとげられた。キリストは地上で神の栄光をあらわされた。主は父のみ名をあらわされた。キリストは、人々の中にご自分の働きを続けて行く者たちをお集めになった。そして主はこう言われた。「わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが1つであるように、彼らも1つになるためであります。……わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは……みんなの者が1つとなるためであります。……わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に1つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」(ヨハネ17:10、11、20、21、23)。 DA 1035.5

こうして天来の権威を持っているお方のことばで、キリストは、ご自分の選ばれた教会を父の腕におまかせになる。聖別された大祭司として、キリストはご自分の民のためにとりなされる。忠実な羊飼いとして、キリストはご自分の群れを大能のかげ、じょうぶで安全なかこいの中にお集めになる。サタンとの最後の戦いがキリストを待っている。主はその戦いに応ずるために出て行かれる。 DA 1035.6