各時代の希望
第70章 「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者」
本章はマタイ25:31~46に基づく DA 1009.1
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて……彼らをより分け」るであろう(マタイ25:31)。このようにキリストは、オリブ山で、大いなるさばきの日の光景を、弟子たちに描写された。しかもこの決定は、1つの点にかかっていると、主は言われた。国民が主の前に集められる時、そこには2つの階級しかないのであって、彼らの永遠の運命は、貧しい者や悩める者を通して主のためにつくしたか、それともつくすことを怠ったかによってきまるのである。 DA 1009.2
その日には、キリストは、ご自分が人々のあがないのために生命をささげて彼らのためにつくされた大いなるみわざを彼らの前にお示しにならない。主は、人々が主のためになした忠実な働きをお示しになる。主はその右手を置かれる人々にこう言われる、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」(マタイ25:34~36)。しかしキリストからほめられる人たちは、自分がキリストに奉仕していたことを知らない。彼らのとまどった質問に、主はこう答えられる。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)。 DA 1009.3
イエスは、弟子たちに、あなたがたはすべての人々に憎まれ、迫害され、苦しめられると言われた。多くの者が家から追われ、貧乏になるだろう。多くの者が病気と欠乏に苦しめられるだろう。多くの者が獄に入れられるだろう。 DA 1009.4
キリストのために友人や家庭を捨てるすべての者に、主は、この世で百倍を約束された。いま主は兄弟たちに奉仕するすべての者に、特別な祝福を保証された。わたしの名のために苦しみを受けるすべての者のうちにあなたがたはわたしを認めるのであると、イエスは言われた。わたしに奉仕するように、あなたがたは彼らに奉仕すべきである。これがあなたがたがわたしの弟子である証拠である。 DA 1009.5
天の家族に生まれた者はみな、特別な意味において主の兄弟である。キリストの愛が主の家族を結びつけ、この愛があらわされるところにはどこにでも天の関係があらわされる。「すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている」(Ⅰヨハネ4:7)。 DA 1009.6
さばきの時に、キリストからほめられる者たちは、神学についてはほとんど知っていなかったかも知れないが、彼らはキリストの原則を心に宿していた。天来のみたまの感化を通して、彼らはまわりの人たちの祝福になっていた。異教徒の中にさえ、親切心のある人たちがいる。いのちのみことばを聞かないうちから、彼らは宣教師たちと親しくなり、自分自身の生命の危険をおかしてまで宣教師たちに奉仕した。異教徒の中には、知らないで真の神を礼拝している人たち、すなわち人を通して光を与えられたことのない人たちがいるが、それでも彼らは滅びないのである。彼らは書かれた神の律法については無知であるが、自然を通して語りかける神のみ声を聞き、律法に要求されていることを実行した。彼らのわざは聖霊が彼らの心に触れた証拠であって、彼らは神の子らとして認められる。 DA 1009.7
諸国民や異教徒の中のへりくだる者たちは、救い主の日から、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」ということばを聞いて、どんなに驚き、よろこぶことだろう(マタイ25:40)。限りない愛であられる主の心は、主に従う者たちがその嘉納のことばを聞いて驚きと喜びの思いで見上げるとき、どんなにか喜ばれることだろう。 DA 1009.8
しかしキリストの愛は、ある種類の人たちに限られているのではない。主は入類の一人一人と一体になられる。われわれが天の家族の一員となるために、主は地の家族の一員となられた。主は人の子であり、したがってアダムのすべての息子娘にとって兄弟である。主に従う者たちは、滅びつつあるまわりの世の人々と無関係だと思ってはならない。彼らは人類という大きな網の一部である。天の神は、彼らを聖徒の兄弟であると同時に、また罪人の兄弟として見ておられる。キリストの愛は、堕落した者、まちがっている者、罪深い者を包む。堕落した魂をひきあげるためになされたすべての親切な行為、すべての愛の行為は、主に対してなされたものとして受けとられる。 DA 1010.1
天のみ使いたちは救いを継ぐ者たちに仕えるために送られる。救いを継ぐ者たちがだれであるかは今はわからない。だれが勝利し、光のうちにある聖徒の嗣業にだれがあずかるかはまだ明らかでない。しかし天のみ使いたちは地の果てから果てまで行きめぐって、悲しんでいる者たちを慰め、危険に陥っている者たちを保護し、人々の心をキリストにみちびいている。1人としておろそかにされたり、見過ごされたりしない。神は人をかたより見られるお方ではなく、ご自分がっくられたすべての魂を同じように守られる。 DA 1010.2
困り著しんでいるクリスチャンたちに戸を開く時、あなたは目に見えない天使たちを迎え入れているのである。あなたは天使たちとのまじわりを招いているのである。彼らは喜びと平和のきよい雰囲気をもってくる。彼らが口に賛美をもってやってくるとき、天ではそれに応ずる歌の調べが聞かれる。愛の行為の1つ1つに天では音楽がかなでられる。天父はそのみ座から、無我の働き人をご自分の最もとうとい宝にかぞえられる。 DA 1010.3
キリストの左側にいる者たち、すなわち貧しい者や苦しんでいる者を通してキリストをおろそかにした人たちは、自分の罪を意識しない。サタンが彼らを盲目にしたのである。彼らは兄弟たちに対してどうすべきであったかを認めなかった。彼らは自分のことばかり考えていて、他人の必要をかまわなかった。 DA 1010.4
神は金持ちの人たちが神の筈しんでいる子らを助け慰めるように、彼らに富をお与えになった。ところが彼らは、他人の欠乏に対して無関心であることが多い。彼らは貧しい兄弟たちよりも自分はえらいのだと思っている。彼らは貧しい人の立場になってみない。貧しい人たちの試みや戦いがわからないので、彼らの心から同情が消えてなくなる。高価な住居やすばらしい教会堂の中にいて、富める人たちは貧しい人たちをよせつけない。困っている人たちを恵むために神がお与えになった金銭が、わがままな高慢心と利己心のために費やされる。貧しい人たちは神のやさしい憐れみについて与えられるはずの教訓を毎日奪われている。神は、生活の必需品を与えて楽しく暮せるように十分な備えをされたのである。彼らは生活を窮屈にする貧乏を否応なしに感じさせられて、ねたみ、うらやみ、悪い憶測に満たされるように誘惑されることがしばしばある。自分で欠乏の重荷に耐えたことのない人たちは、しばしば貧しい人たちに侮蔑的な態度をとり、彼らに自分たちは貧民のようにみられているという気持ちを起こさせる。 DA 1010.5
しかしキリストはすべてそうしたことを見ておられ、飢えかわいていたのはわたしだったのだと言われる。見知らぬ人はわたしだったのだ。病んでいたのはわたしだったのだ。獄にはいっていたのはわたしだったのだ。あなたがごちそうのいっぱい並んだテーブルについて食べていた時に、わたしはあばらやや人通りのない街路で飢えていた。あなたがぜいたくな家で安楽に暮していた時に、わたしは頭を横たえる場所もなかった。あなたのたんすの中にぜいたくな衣服がいっぱいつまっていた時に、わたしは着るものが何もなかった。あなたが快楽を追い求めていた時に、わたしは獄の中で弱りはてていたのだ。 DA 1010.6
あなたが飢えている貧しい人たちにほんの少しのパンをしぶしぶ分け与えた時に、また身を切るような寒さから彼らをおおうために薄っぺらな衣服を彼らに与えた時に、あなたはそれを栄光の主に与えていたのだということを知っていただろうか。あなたの人生の間、わたしはそうした苦しむ者の姿をとってあな たのそばにいたのだ。しかしあなたはわたしを求めなかった。あなたはわたしとの交わりに入ろうとしなかった。わたしはあなたを知らない。 DA 1010.7
キリストが地上で生活された場所をおとずれ、キリストが歩まれた場所を歩き、キリストが好んでお教えになった湖のほとりや、キリストがたびたび目をとめられた丘や谷を眺めることができたら大きな特権だろうと思う人が多い。しかし、イエスの足跡を歩むために、ナザレやカペナウムやベタニヤに行く必要はない。病床のかたわらや、貧しいあばらやや、大都会の雑踏する横町や、人の心が慰めを必要としている場所ならどこにでも、イエスの足跡がみいだされる。イエスが地上におられた時にされた通りのことをすることによって、われわれはイエスの足跡を歩むのである。 DA 1011.1
誰でもみな何かすることをみつけることができる。「貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいる」とイエスは言われた(ヨハネ12:8)。だからだれでも、自分は主のために働くことのできる場所がないと思うには及ぼない。無知と罪の鎖につながれて滅びようとしている幾百千万の魂が、彼らに対するキリストの愛を聞いたことさえないのである。もしわれわれと彼らの立場が入れかわったとしたら、われわれは彼らにどうしてもらいたいと望むだろうか。われわれは自分の力の及ぶ限り、そうしたことをすべて彼らのためにする最も厳粛な義務がある。われわれは。一人人みなキリストの一生の原則によって、さばきの時に立っか倒れるかしなければならないのであるが、その原則とは、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」である(マタイ7:12)。 DA 1011.2
救い主は、悲しみに満ち、試みられている魂を世話することのできる教会を建てるために、ご自分のとうとい生命をお与えになった。信者の群れは、貧しく、無教育で、無名の人たちかも知れない。しかしキリストのうちにある時、彼らは、家庭において、近隣において、教会において、また遠い地方において働くことができ、その結果は永遠と同じように遠大なものとなる。 DA 1011.3
多くの若い弟子たちが、クリスチャン経験のほんの初歩から1歩も前進しないのは、この働きがおろそかにされているからである。イエスから「あなたの罪はゆるされた」と告げられたときに、彼ら自身の心のうちに燃えた火は、困っている人たちを助けることによって燃えつづけることができたのである。若い人たちにとって危険の原因となり易い不安定な精力は、祝福の流れとなって流れ出る水路へとみちびくことができたのである。他人のためによいことをする働きによって自我が忘れられるのである。 DA 1011.4
他人に奉仕する人たちは、大牧者イエスから奉仕される。彼らは白ら生ける水を飲み、そして満足する。彼らは興奮させられる娯楽や、生活上の何らかの変化を熱望しない。興味をひく大きな話題は、滅びようとしている魂をどうやって救うかである。社交的なまじわりは有益であろう。あがない主の愛が人々の心を1つに結びつけるのである。 DA 1011.5
われわれは、神と共に働く者であることを認める時、神の約束について無関心な語りかたをしない。それはわれわれの心のうちに燃え、われわれのくちびるを熱する。無知で、しつけがなく、反逆してばかりいる民に奉仕するためにモーセが召された時、神は彼に、「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」と約束された(出エジプト33:14)。神はまた「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われた(出エジプト3:12)。この約束は、苦しみ悩む人たちのためにキリストに代って働くすべての者に対する約束である。 DA 1011.6
人に対する愛は、神の愛がこの地上にあらわされたものである。栄光の王キリストがわれわれと1つになられたのは、この愛を植えつけ、われわれを1つの家族の子らにするためであった。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」とのキリストの別れのことばが成就される時、またキリストが世の人々を愛されたようにわれわれも彼らを愛する時、その時われわれにとってキリストの使命は達成されるのである(ヨハネ15:12)。われわれは天国にふさわしい者となる。なぜならわれわれの心のうちには天国があるからである。 DA 1011.7
「死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか」(箴言24:11、12)。大いなるさばきの日には、キリストのために働かなかった人たち、自分のことばかりを考え、自分のことだけのために暮していた人たちは、全地の審判者なる神から悪をなした者たちと同列におかれるであろう。彼らは同じ罪の宣告を受けるのである。 DA 1012.1
どの魂にも責任が負わされている。大牧者イエスは、一人一人に、「あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか」と要求される(エレミヤ13:20)。「主があなたを罰されろときあなたは何と言うであろうか」(エレミヤ13:21・英訳)。 DA 1012.2