各時代の希望
第69章 オリブ山上で
本章はマタイ24章、マルコ13章、ルカ21:5~38に基づく DA 1003.1
「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」と祭司たちと役人たちに言われたキリストのことばは、彼らの心に恐怖を生じさせた。彼らは無関心をよそおっていたが、このことばの意味についてたえず疑問が心のうちにわきあがってくるのであった。目に見えない危険が彼らに迫っているように思えた。国民の誇りである壮麗な宮がまもなく廃虚になるということだろうか。弟子たちもまた悪い予感をいだいて、イエスが何かもっとはっきりした説明をされるのを熱心に待った。イエスといっしょに宮から出て行く時、彼らはその強さと美しさにイエスの注意を向けた。宮の石はまじりけのない純白の大理石で、中には信じられないほど巨大なものもあった。壁の一部は、ネブカデネザルの軍隊の包囲にも耐えたものであった。完全な石工技術によって、それはあたかも石切場からそっくり切り出された1つのどっしりした石のように見えた。このような偉大な壁がどうしてこわされようかと、弟子たちは理解できなかった。 DA 1003.2
キリストの注意が宮の壮麗さにひきつけられた時、こばまれたこのお方の無言の思いはどんなであったろう。なるほど主の目の前の景色は美しかったが、主は、悲しみをこめて、わたしには何もかもわかっていると言われた。なるほど建物はすばらしい。あなたがたはこの壁をさして、破壊されそうにみえないと言りが、わたしのことばを聞きなさい。「その石1つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなる」日がくるのである(マタイ24:2)。 DA 1003.3
キリストのことばは多くの人々が聞いているところで語られた。しかしイエスが1人になられて、オリブ山にすわっておられると、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンアレがみもとにやってきて、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」と言った(マタイ24:3)。 DA 1003.4
イエスは弟子たちに答えるにあたって、エルサレムの滅亡とご自分がおいでになろ大いなる日とを別々にとりあげられなかった。主はこの2つの出来事をいっしょにまぜて描写された。イエスがご自分のごらんになった通りに未来の諸事件を弟子たちに示されたら、彼らはその光景に耐えることができなかったであろう。彼らに対する思いやりから、主は2つの大きな危機をまぜて描写し、その意味を弟子たちが自分で学ぶようにされた。主がエルサレムの滅亡のことを言われた時、その預言のことばはエルサレムの滅亡という事件を超えて最後の大火の日にまで及んでいた。その日には、「主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない」(イザヤ26:21)。この話の全体は、ただ弟子たちのためだけでなく、地上歴史の最後の場面に住む者たちのために語られたのであった。 DA 1003.5
弟子たちの方を向いて、キリストは、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう」と言われた(マタイ24:4、5)。多くのいつわりのメシヤたちが現れて、奇跡を行うと称し、ユダヤ国民の救済の時が来たと宣言する。これらの者は多くの人々をまちがった道へ導くのである。キリストのこのことばは成就した。キリストの死とエルサレム包囲との間に、多くのいつわりのメシヤたちが現れた。しかしこの警告は現代の世に住んでいる者たちのためにも与えられたのである。エルサレムの滅亡に先立って行われたのと同じ欺瞞が、各時代を通じて行われてきたが、それはふたたび行われるであろう。 DA 1003.6
「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない」(マタイ24:6)。エルサレム滅亡の前に、人々は主権を争った。皇帝たちは殺害された。王の近臣と思われている人たちが 殺された。戦争と戦争のうわさがあった。「それは起らねばならないが、まだ(一国家としてユダヤ国家の)終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである」(マタイ24:6~8)。 DA 1003.7
ラビたちがこれらのしるしを見る時、彼らはそれが神の選民を束縛したために諸国にくだる神の刑罰であると宣言するであろうと、キリストは言われた。こうしたしるしはメシヤ来臨のしるしであると、彼らは宣告するであろう。あざむかれてはならない。それらは神の刑罰のはじまりである。人々は自分自身に満足してきた。彼らは悔い改めていやされることがなかった。彼らが束縛からの解放のしるしと言っているしるしは、彼らの滅亡のしるしである。 DA 1004.1
「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう」(マタイ24:9、10)。これらのすべてのことをクリスチャンは経験した。父親と母親は子供たちを裏切った。子供たちは親を裏切った。友人は友人をサンヒドリンに引き渡した。迫害者たちはステパノ、ヤコブ、その他のクリスチャンたちを殺すことによってその目的を達成した。 DA 1004.2
神は、ご自分のしもべたちを通して、ユダヤ人に最後の悔い改めの機会をお与えになった。神の証人たちが捕らえられたり、裁判を受けたり、投獄されたりした時に、神はご自身をあらわされた。それでも裁判官たちは彼らに死刑を宣告した。「この世は彼らの住む所ではなかった」(ヘブル11:38)。ユダヤ人たちは、彼らを殺したことによって、神のみ子を新たに十字架につけた。同じことがふたたび起るであろう。当局は宗教の自由を制限する法律を作るであろう。彼らは神だけのものである権利を自分たちのものにするであろう。彼らは神のみが支配されるべき良心を自分たちが強制することができると考えるであろう。今でさえそれが始まっている。この働きはおし進められて、ついには越えることのできない限界にまで達するであろう。その時神は、戒めを守る忠誠な民のために手を出されるのである、 DA 1004.3
迫害が起こるたびに、それを目撃する者たちは、キリストの側に立っかそれとも反対の側に立つかを決定する。不正な宣告を受ける人たちに同情を示す者たちはキリストへの愛着を示しているのである。 DA 1004.4
ほかの者たちは真理の原則が彼らの習慣をたち切るのでつまずいてしまう。多くの者がつまずき倒れ、かつて擁護していた信仰をすてる。試みの時に自分自身の安全を求めて背信する者たちは、偽りのあかしをたて、兄弟たちを裏切る。キリストは、光をこばむ者たちが異常で冷酷な行動をとってもわれわれが驚かないように、このことについて警告された。 DA 1004.5
キリストはエルサレムにのぞむ滅亡のしるしを弟子たちに与え、のがれる方法を彼らに語られた。「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ」(ルカ21:20~22)。この警告は、40年のち、すなわちエルサレムの滅亡の時に注意するように与えられたのであった。クリスチャンはこの警告に従ったので、エルサレムの陥落の時には、クリスチャンはひとりも死ななかった。 DA 1004.6
「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ」とキリストは言われた(マタイ24:20)。安息日をつくられたお方は、それを廃してご自分の十字架につけるようなことをされなかった。安息日はキリストの死によって無効とされなかった。キリストが十字架につけられてから40年のちにも、それは依然として聖なるものとみなされるのであった。弟子たちは逃げることが安息日に起こらないように、40年の間祈るのであった。 DA 1004.7
キリストの話は、エルサレムの滅亡から、この地上歴史の鎖の最後の環であるもっと大きな事件、すな わち神のみ子が威厳と栄光のうちに来臨されることに急速に移って行った。この2つの事件の間に、長い暗黒の世紀、キリストの教会に血と涙と苦悩のみられる幾世紀が、キリストの目の前に開かれていた。弟子たちはその時このような光景を見るのに耐えられなかったので、イエスは短いことばを述べられただけでこの光景を通り抜けられた。 DA 1004.8
「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう」(マタイ24:21、22)。1000年以上にわたって、かつて世に知られなかったような迫害が、キリストに従う者たちにのぞむのであった。キリストの忠実な証人たちが。幾百万となく殺されるのであった。神がご自分の民を保存するために手をさしのべられなかったら、全部滅びたであろう。「しかし選民のためには、その期間が縮められるであろう」と主は言われた(マタイ24:22)。 DA 1005.1
今主は、まちがう余地のないことばをもって、主の再臨についてお語りになり、その来臨に先立つ危険について警告を世にお与えになる。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイ24:23~27)。エルサレム滅亡のしるしの1つとして、キリストは、「多くのにせ預言者たちが起って、多くの人々を惑わすであろう」と言われた。事実にせ預言者たちが起こって、民をあざむき、多数の者を荒野へ連れて行った。魔術士たちと占い師たちは奇跡を行う力があると言って、民を引きよせ、山の淋しいところへ連れて行った。しかにの預言は、末の世のためにも語られたのである。このしるしは再臨のしるしとして与えられている。今でさえもにせキリストたちやにせ預言者たちが主の弟子たちを迷わすためにしるしやふしぎを見せている。「見よ、彼は荒野にいる」という叫びをわれわれは聞かないだろうか。幾千の人々がキリストをみいだそうと望んで荒野へ行かなかっただろうか。人々が死んだ霊魂とまじわるのだと称している幾千の集会から、「見よ、彼はへやの中にいる」という叫びがいま聞こえないだろうか。 DA 1005.2
これは降神術が叫んでいる主張である。しかしキリストは何と言っておられるだろうか。「信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイ24:26、27)。 DA 1005.3
救い主は来臨のしるしをお与えになっている。のみならず、主はこれらの最初のしるしが現れる時を定めておられる。「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24:29~31)。 DA 1005.4
法王による大迫害が終わると、日は暗く月はその光を放つことをやめると、キリストは言明された。次に星が天から落ちるのである。そして主は言われる、「いちじくの木からこの警を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタイ24:32、33)。 DA 1005.5
キリストはご自分の来臨についてしるしをお与えになった。われわれはキリストが戸口まで近づいておられる時を知ることができると、主は言明しておられる。主はこれらのしるしを見る人々について、「これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びるこ とがない」と言われる(マタイ24:34)。これらのしるしは、すでに現れた。いまや主の来臨が迫っていることをわれわれは確実に知っている。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」と主は言われる(マタイ24:35)。 DA 1005.6
キリストは雲に乗って大いなる栄光のうちにこられる。多くの輝く天使たちがキリストにつき従う。主は、死人をよみがえらせ、生ける聖徒たちを栄光から栄光へ変えるためにこられる。主を愛し、その戒めを守った者たちに栄光を与え、彼らをみもとに連れて行くために、宅はおいでになる。主は、彼らを、またご自分の約束をお忘れにならなかった。 DA 1006.1
家族はふたたび一緒になる。死者を見るとき、神のラッパが鳴りわたる朝のことを思うことができる。その時、「死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(Ⅰコリント15:52)。もうしばらくすれば、「麗しく飾った王」にお会いするのである(イザヤ33:17)。もうしばらくすれば、主はわれらの目から涙を全くぬぐいとってくださる。もうしばらくすれば、主はわれらを「その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さる」(ユダ24)。だから主は、来臨のしるしをお与えになった時に、「これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」と言われた(ルカ21:28)。 DA 1006.2
しかしキリストは、来臨の日時をお示しにならなかった。主ご自身も再臨の日時を知らせることができないとはっきり弟子たちに言われた。もしこのことを自由に示すことがおできになったら、たえず期待して待つ態度を持ちつづけるように弟子たちに勧める必要はなかったであろう。主の来臨の日時を知っていると主張する人たちがいる。彼らは熱心に将来を描く。しかし主は彼らにそうした立場をとらないようにと警告された。人の子がふたたびおいでになる正確な日時は神の奥義である。 DA 1006.3
キリストはことばをつづけて、来臨される時の世の状態を指摘される。「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」(マタイ24:37~39)。キリストはここに、この世の千年期、すなわち、すべての人が永遠のために備えをする1000年間についての考え方を示してはおられない。人の子がふたたびおいでになる日は、ノアの日と同じようであろうと、主は言っておられる。 DA 1006.4
ノアの時代はどうだっただろうか。「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた」(創世記6:5)。 DA 1006.5
洪水前の世界の住民は、エホバから離れ、その聖なるみこころを行うことをこばんだ、彼らは自分自身のきよくない想像とゆがめられた考え方に従った。彼らが滅ぼされたのはその悪のためであった。今日、世は同じ道をたどっている。千年期の栄光についてのうれしがらせるようなしるしはどこにもない。神の律法を犯している者たちは地を悪で満たしている。かけごと、競馬、ばくち、放とう、好色的な行為、抑制のない情欲などのために、世は非常な勢いで暴虐に満たされている。 DA 1006.6
エルサレムの滅亡の預言の中に、キリストは、「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」と言われた(マタイ24:12~14)。 DA 1006.7
この預言はふたたび成就するのである。当時はびこっていた不義は今の時代にもそのまま見られる。福音の宣伝についての預言も同様である。エルサレムの陥落前に、パウロは、聖霊に感じて書き、「この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられた」と、宣言した(コロサイ1:23)。同じように、いま人の子がこられる前に、この永遠の福音は、「あらゆる国民、部族、国語、民族」に宣べ伝えられるのである(黙示録14:6)。神は「世界をさ ばくためその日を定め」られた(使徒行伝17:31)。キリストはその日がいつはじまるかをお告げになっている。主は世のすべての人が悔い改めるとは言われないで、「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」と言っておられる(マタイ24:14)。 DA 1006.8
世に福音を伝えることによって、主の再臨を早めることが、われわれの力でできる。われわれは神の日の到来を待っているだけでなく、これを早めるのである。キリストの教会が命じられた働きを主がお定めになった通りにしていたら、全世界に対する警告はすでに終わって、主イエスは力と大いなる栄光をもってこの地上においでになっていたのである。 DA 1007.1
キリストは、来臨についてのしるしをお与えになってから、「このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。……絶えず目をさまして祈っていなさい」と言われた(ルカ21:31、36)。神はきたるべきさばきについていつも警告をお与えになってきた。自分たちの時代に対する神のみことばを信じ、神の戒めに従って信仰を実践した人たちは、従わない者たちや、信じない者たちの上に落ちかかったさばきをまぬかれた。「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」ということばがノアに与えられた(創世記7:1)。ノアは従い、そして救われた。ロトに、「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」ということばが与えられた(創世記19:14)。ロトは天の使者たちの守りに身を委ね、そして救われた。そのようにキリストの弟子たちは、エルサレムの滅亡について警告を与えられた。きたるべき滅亡のしるしを見守っていた人たちは都をのがれて、滅亡をまぬかれた。そのように今われわれは、キリストの再臨と世にのぞもうとしている滅亡について警告が与えられている。この警告に注意する者は救われるのである。 DA 1007.2
キリスト来臨の正確な時はわからないのだから、目をさましているようにと命じられている。「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである」(ルカ12:37)。主の来臨を待ち望んでいる者たちは、何もしないでただ期待して待っているのではない。キリストの来臨を期待することによって、人々は主を恐れ、不義に対する主のさばきを恐れるのである。彼らは主がさし出された憐れみをこばむ大きな罪を自覚するのである。主を待ち望んでいる者たちは真理に従うことによって自らの魂をきよめる。彼らは油断のない警戒に熱心な働きを結合する。彼らは、主が戸口におられることを知っているので、魂の救いのために天使たちと協力して働くように熱意をよび起こされる。こういう人たちが主の家族に、「時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い」しもべたちである(ルカ12:42)。 DA 1007.3
彼らはいま特にあてはまる真理を宣べ伝えている。エノク、ノア、アブラハム、モーセがそれぞれの時代のために真理を宣べ伝えたように、キリストのしもべたちは今この世代に対する特別の警告を与えるのである。 DA 1007.4
ところがキリストはもう1つの階級の人々をお示しになった。「もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう」(ルカ12:45、46)。 DA 1007.5
この悪いしもべは、「主人の帰りがおそい」と心の中で思っている。彼は、キリストがおいでにならないとは言わない。彼は主の再臨という考えを嘲笑しない。しかし心の中で、またその行為とことばによって、主の来臨が遅いと宣言する。彼は、ほかの人たちの心から、主はすみやかにこられるという確信を追い出す。彼の影響で、人々の間に独断的で不注意な遅れが生じる。人々の世俗心とまひ状態がますますひどくなる。世俗的な欲望、堕落した思いが心を占領する。悪いしもべは、酔っぱらいといっしょに飲み食いし、世の人々といっしょになって快楽を求める。彼は仲間のしもべたちを打ちたたいて、主人に忠実な 者たちを責め、非難する。彼は世俗の人たちにまじる。彼は世俗の人々と同じように罪を犯す。それは恐るべき同化作用である。世俗の人たちといっしょに彼はわなに捕らえられる。「その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」(マタイ24:50、51)。 DA 1007.6
「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない」(黙示録3:3)。キリストの来臨はにせ教師たちの不意を襲う。彼らは、「平和だ無事だ」と言っている(Ⅰテサロニケ5:3)。エルサレムが陥落する前の祭司たちと教師たちのように、彼らは教会が世俗的な繁栄とほまれを受けることを期待する。彼らは時のしるしをこの事の予表として解釈する。しかし霊感のことばには何と言われているだろうか。 DA 1008.1
「突如として滅びが彼らをおそって来る」(Ⅰテサロニケ5:3)。全地に住んでいるすべての者たちに、この世をわが家としているすべての者たちに、神の日はわなのようにやってくる。それは忍び足の盗人のように彼らにやってくる。 DA 1008.2
世は放蕩に満ち、邪悪な快楽に満ちて、現世的な安全の中に眠っている。人々は主の来臨をずっとのちのことにしている。彼らは警告をあざ笑う。「すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」「あすも、きょうのようであるだろう、すばらしい日だ」という高慢な誇りが表明される(Ⅱペテロ3:4、イザヤ56:12)。もっと大いに楽しもうというのである。しかしキリストは、「見よ、わたしは盗人のように来る」と言われる(黙示録16:15)。世の人々が嘲笑して、「主の来臨の約束はどうなったのか」とたずねているその時に、しるしは成就しつつある(Ⅱペテロ3:4)。彼らが「平和だ無事だ」と叫んでいる時に、突然の滅びがのぞみつつある(Ⅰテサロニケ5:3)。嘲笑する者、すなわち真理をこばむ者が僣越になった時、各方面の金もうけ仕事が原則を無視してくりかえされている時、研究者が聖書以外のあらゆる知識を熱心に求めている時、キリストは盗人のようにこられる。 DA 1008.3
世のすべてのものが激動している。時のしるしは険悪な兆候を示している。きたるべき事件が影を前方に投げている。神のみたまは地から引き上げつつあり、海と陸に次々と災害が起こっている。嵐、地震、火事、洪水、あらゆる種類の殺人が起こっている。だれが将来を読むことができよう。どこに安全があるだろう。人についても、この世についても保証は何もない。人々は自分の選んだ旗の下に急いで参加している。落ちつかないで彼らは自分たちの指導者たちの動きを待ち、見守っている。主の現れを待ち、見守り、そのために働いている人たちがいる。もう一方の種類の人たちは最初の大背信者の統率下に参加している。避けるべき地獄と獲得すべき天国とがあることを全心全霊から信じている人は少ない。 DA 1008.4
危機は徐々にわれわれに忍びよっている。太陽は空に輝き、いつもの軌道を通り、天はいまも神の栄光をあらわしている。人々はあいかわらず飲み食い、植え、建て、めとり、とついでいる。商人たちはあいかわらず売り買いしている。人々は最高の地位を争ってお互いにおしのけ合っている。快楽を愛する者たちがあいかわらず劇場や、競馬や、ばくち場におしかけている。最高の興奮が行き渡っていうが、恩恵の時は急速に閉じられつつあり、各人の運命が永遠に決定されようとしている。サタンは自分の時が短いことを知っている。サタンは人々が欺かれ、惑わされ、心を占領され、夢中になって、ついには恩恵の日が終わり、恵みの戸が永遠に閉ざされるように、すべての手下を働かせてきた。 DA 1008.5
オリブ山での主の警告のことばは、幾世紀を経て今日のわれわれに厳粛にひびいてくる。「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕らえることがないように、よく注意していなさい。……これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカ21:34、36)。 DA 1008.6