各時代の希望

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第71章 しもべの中のしもべ

本章はルカ22:7~18、24、ヨハネ13:1~17に基づく DA 1012.3

エルサレムの住宅の2階座敷で、キリストは弟子たちと食卓についておられた、彼らは過越節を守るために集まったのであった。救い主は、12人の弟子たちとだけで、この過越の食事を守りたいと望まれた。主はご自分の時がきていることを知っておられた。イエスご自身が真の過越の小羊であって、過越の食事の日にいけにえとしてささげられるのであった。主は怒りのさかずきを飲もうとしておられた。まもなく主は最後の苦難のバプテスマをお受けにならねばならなかった。しかし主にとってまだ静かな数時間が残っていたので、愛する弟子たちのためにその時間をすごされるのであった。 DA 1012.4

キリストの一生は無我の奉仕の一生であった。「仕えられるためではなく、仕えるため」というのが、主の1つ1つの行為の教えであった(マタイ20:28)。しかし弟子たちは、この教えをまだ学んでいなかった。この最後の過越の晩さんの時に、イエスは、実際の例を通してその教えをくりかえされ、それが彼らの頭と心にいつまでも残る印象を与えたのであった。 DA 1012.5

イエスと弟子たちとの対談は、たいてい静かな喜びの時間となったので、彼らはみなこれを非常に大切にしていた。過越の晩さんは特別に興味のある場面であったが、イエスはこの時心に悩んでおられた。イエスの心は苦しみ、その顔はくもっていた。イエスが2階の広間で弟子たちと会われた時、彼らは、何かが主の心に重くのしかかっていることに気がつき、その原因はわからなかったけれども、イエスの悲しみに同情した。 DA 1012.6

彼らが食卓のまわりに集まると、主は、心を動かされるような悲しい口調で言われた。「『わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは2度と、この過越の食事をすることはない』、そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない』」(ルカ22:15~18)。 DA 1012.7

キリストは、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(ヨハネ13:1)。主は今十字架の影の中におられ、その心に苦しみ悩んでおられた。主は、ご自分が裏切られる時に捨てられることを知っておられた。主は、犯罪者が受ける最も屈辱的な方法でご自分が死刑にされることをご存じであった、主は、ご自分が救うためにこられた人々の忘恩と残酷さを知っておられた。主はご自分がどんなに大きな犠牲を払わねばならないか、しかもまたそれがどれほど多くの人たちにとってむだであるかをご存じであった。主は、目の前にあるすべてのことを知っておられたのだから、ご自身の屈辱と苦難についての思いに当然圧倒されたかもしれなか った。しかし主は、これまで主ご自身のものとして共にいて、主のはずかしめと悲しみと虐待とが過ぎ去ってからは、世に残されて戦わねばならない12人の弟子たちをごらんになった。主はご自身の苦難を思われる時、その思いはいつも弟子たちと関連していた。主はご自分のことをお考えにならなかった。主の心の中では弟子たちについての心配が一番大きいのであった。 DA 1012.8

弟子たちと一緒のこの最後の夜、イエスには彼らに話したいことがたくさんあった、主が与えたいと願っておられることを受ける備えができていたら、彼らは、胸の張り裂けそうな苦悩や、失望と不信に陥らないですんだのである、しかしイエスは、ご自分が語らねばならないことに弟子たちが耐えることができないことをお知りになった。主が彼らの顔をじっとごらんになった時、警告と慰めのことばは日の中でとまってしまった。沈黙のうちにしばらくの時が過ぎた。イエスは待っておられるようにみえた。弟子たちの心は平静ではなかった。キリストの悲しみによってめざめさせられた同情心とやさしさは消えてしまっているよりにみえた。ご自身の苦難をさし示している主の悲しみに満ちたことばは、ほとんど印象に残っていなかった。彼らがお互いにかわす目つきは嫉妬と争いを物語っていた。 DA 1013.1

「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った」(ルカ22:24)。キリストの面前で行われたこの争いは主を悲しませ、傷つけた。弟子たちは、キリストがご自分の権力を主張されてダビデの位を占められるのだという好き勝手な考えに執着していた。そしてそれぞれに心の中で依然として王国の最高の地位にあこがれていた。彼らは、自分自身に、またお互いの上に勝手な評価をくだし、兄弟たちを自分よりもりつばな人としてみないで、自分自身をまず最高とした。ヤコブとヨハネがキリストの王座の右と左にすわりたいと願ったことが、ほかの弟子たちの憤激をひき起こしていた。2人の兄弟があつかましくも最高の地位を求めたことから、10人の弟子たちが怒って、離反の恐れがあった。自分たちはまちがって判断されている、自分たちの忠誠心や才能は認められていないのだと彼らは思った。ヤコブとヨハネに対して最も手きびしかったのはユダだった。 DA 1013.2

弟子たちが晩さんのへやに入って行った時、彼らの心は憤然とした気持ちで一杯だった。ユダはキリストのすぐ左側に割りこんだ。ヨハネは右側にいた。もし最高の位置というものがあるなら、ユダはそれを占めようと決心していたが、その位置はキリストの隣であるように思われた。しかもユダは裏切り者であった。 DA 1013.3

不和の原因がほかにも起こっていた。食事の時には、しもべが客の足を洗うのが習慣だったので、この場合も足を洗う準備ができていた。足を洗うために水差しもたらいも手ぬぐいも用意されていた。ところがしもべがいなかったので、弟∫たちがその役を果たす立場にあった。しかし弟子たちはそれぞれ誇りを傷つけられたという思いに負けて、誰もしもべの役割を果たすまいと決心していた。みんなは平然とした無関心さをよそおい、自分たちがすることがあることに気がつかないふりをしていた。沈黙することによって、彼らは自分を低くすることをこばんだ。 DA 1013.4

キリストは、このようにあわれな魂を、サタンが彼らに決定的に勝利することのできないところへどうやってみちびかれるだろう。ただ口先だけで弟子であると言うことが弟子となることではなく、また天国に入ることを保証するものでもないことを、キリストはどうやってお示しになることができるだろう。真の偉大さは愛の奉仕、真の謙遜にあるということを、キリストはどうやってお示しになることができるだろう。 DA 1013.5

キリストはどのようにして彼らの心に愛を燃やし、また主が彼らに話したいと熱望しておられることをどのようにして彼らにわからせることがおできになるだろう。 DA 1013.6

弟子たちはお互いに仕えるために動こうとしなかった。イエスは彼らがどうするかを見るためにしばらく待っておられた。それから、天来の教師であられるイエスが、食卓から立ちあがられた。主は動作のじ ゃまになる上着をぬぎ、タオルをとって腰にまかれた。弟子たちは、驚きと興味の念をもって、何事が起こるのかだまって見ていた。主は「それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」(ヨハネ13:5)。この行為が弟子たちの目を開いた。彼らの心は激しい恥ずかしさと不面目な思いに満たされた。彼らは無言の譴責を理解し、自分たちの姿をまったく新しい光のうちに見た。 DA 1013.7

このようにキリストは、弟子たちに対する愛をあらわされた。彼らの利己的な精神をごらんになって、主の心は悲しみに満たされたが、主は彼らの問題について議論されなかった。その代わりに、主は、彼らが決して忘れることのできない模範をお与えになった。弟子たちに対する主の愛は、簡単にさまたげられたり、消えたりしなかった。主は、「父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを」わかっておられた(ヨハネ13:3)。主はご自分の神性を十分に意識しておられた。しかし主は、王冠と王衣をぬいで、しもべの姿をとられたのであった。地上における主の最後の行為の1つは、しもべのしたくをしてしもべの役割を果たされることであった。 DA 1014.1

過越の前に、ユダは祭司たち、律法学者たちともう1度出会って、イエスを彼らの手に引き渡す契約を取りきめていた。それなのに彼は、そのあとで、何の悪いこともしなかったかのように弟子たちの中にまじって過越の食事を用意する働きに関心を示していた。弟子たちはユダの意図について何も知らなかった。彼の秘密を見ぬくことがおできになったのはイエスだけだった。しかし主はユダを暴露されなかった。 DA 1014.2

イエスは彼の魂を求めておられた。主は、滅ぶべき都エルサレムについて泣かれた時にこの都に対して感じられたような重荷を、ユダに対して感じておられた。主は、どうしておまえをあきらめることができようと、心の中で泣いておられた。この迫る愛の力をユダは感じた。救い主がご自分の手で彼のよごれた足を洗い、手ぬぐいでふかれた時、ユダの心はいまこの場で自分の罪を告白してしまおうという衝動に何度もかられた。しかし彼はへりくだろうとしなかった。彼は悔い改めに対して心をかたくなにし、一瞬間おしのけられていたもとの衝動がふたたび彼を支配した。ユダは、今度は、弟子たちの足を洗っておられるキリストの行為につまずいた。イエスがこんなに自らを低くされるのだったら、とてもイスラエルの王になられることはできないと彼は思った。現世の主国における世俗的栄誉に対するいっさいの希望が失われた。キリストに従うことからはやはり何の利益も得られないのだとユダは納得した。ユダは、主がご自分を低くされたと思ったので、それを見てから、主を否認し、自分はだまされていたのだと告白しようという考えをいっそう固めた。彼は悪魔に占領されていたので、主を裏切ることによって、自分が同意した働きをやりとげようと決心した。 DA 1014.3

ユダは、食卓にすわる場所をえらぶ時に、一番先にすわろうとしたが、キリストはしもべとして一番先に彼に奉仕された。ユダはヨハネに対して非常ににがにがしい感情をいだいていたが、そのヨハネは一番あとまわしになった。しかしヨハネは、そうされたからといって譴責されたとも、あるいは軽んじられたとも思わなかった。キリストの行為を見た時、弟子たちは非常に心を動かされた。ペテロの番になると、彼は驚いて、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と叫んだ(ヨハネ13:6)。キリストのへりくだりが、彼の心をうち砕いた。彼はこの奉仕をする者が弟子たちの中に1人もいなかったことを思って恥ずかしい思いに満たされた。キリストは、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」と言われた(ヨハネ13:7)。ペテロは、神のみ子と信じている主が、しもべの役割を果たしておられるの観るにしのびなかった。彼は全心全霊でこの屈辱感と戦った、キリストがこのためにこられたのであることに彼は気がつかなかった。彼は非常な力をこめて、「わたしの足を決して洗わないで下さい」と叫んだ(ヨハネ13:8)。 DA 1014.4

キリストはペテロに向かっておごそかに言われた。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」(ヨハネ13:8)。ペテロがこぼんだ奉仕は、もっと高いきよめの型であった。キリストは心から罪のけがれを洗い落とすためにこられたのであった。キリストに足を洗ってもらうのをこばむことによって、ペテロは低いきよめの中に含まれている高いきよめをこぼんでいるのであった。彼は事実上主をこばんでいるのであった。 DA 1015.1

われわれのきよめのためにキリストに働いていただくことは、主にとっていやしいことではない。最も真実な謙遜は、われわれのために備えられているどんなことでも感謝の心をもって受け入れ、キリストのために熱心に奉仕をすることである。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」とのイエスのことばを聞いて、ペテロは、自分の高慢とわがままに打ち勝った(ヨハネ13:8)。彼はキリストとなんの係わりもなくなるという思いに耐えられなかった。それは彼にとって死であった。「シモン・ペテロはイエスに言った、『主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も』。イエスは彼に言われた、『すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから』」(ヨハ不13:9、10)。 DA 1015.2

このことばには身体のきよめよりももっと深い意味がある。キリストはまだ低いきよめに例示されている高いきよめについて語っておられる。入浴した者は清潔であるが、サンダルをはいた足はすぐによごれるので。また洗わねばならない。そのように、ペテロと兄弟たちは、罪と汚れとをきよめる大いなる泉で洗われていた。キリストは彼らをご自分のものとしてみとめられた。しかし、試みのために彼らは悪に陥っていたので。依然として主のきよめの恩恵が必要だった。イエスが彼らの足のほこりを洗うためにタオルを腰にまかれた時、主はその行為によって、彼らの心から不和、嫉妬、高慢を洗い流したいと望まれた。このことは、彼らのほこりまみれの足を洗うことよりもずっと重大なのであった。その時の彼らの精神では、キリストとまじわる用意のできている者は1人もいなかった。謙遜と愛の状態に達するまでは、過越の食事にあずかる用意、すなわちキリストが制定しようとしておられる記念式にあずかる用意ができていないのであった。彼らの心はきよめられねばならない。 DA 1015.3

高慢心と利己心は不和と憎しみをつくり出すが、イエスは、彼らの足を洗うことによって、そのすべてを洗い流された。気持ちの変化が生じた。イエスは、彼らをごらんになって、「あなたがたはきれいなのだ」と言うことがおできになった(ヨハネ13:10)、いまや心の一致があり、お互いに対する愛があった。彼らはへりくだり、教えを受け入れる気持ちになっていた。ユダのほかは、一人一人が最高の地位を互いにゆずり合う気持ちになった。いま彼らはおだやかな、感謝の思いをもってキリストのみことばを受け入れることができた。 DA 1015.4

ペテロとその兄弟たちのように、われわれもまたキリストの血によって洗われたのであるが、悪との接触によってしばしば心の純潔がけがされる。キリストのきよめの恩恵を求めて、みもとに行かねばならない。ペテロは自分のよごれた足が主のみ手にふれることをちゅうちょした。しかし、われわれの罪深い、けがれた心がキリストの心にふれることがどんなに多いことだろう。われわれの悪い性質、虚栄心、高慢な心は、キリストにとってどんなに悲しむべきものだろう。それでもなおわれわれは、自分のすべての弱さとけがれとを主のみもとに持って行かねばならない。キリストだけがわれわれを洗いきよめてくださることができるのである。われわれは、主のきよめの力によってきよめていただかねば、主とまじわる用意ができていないのである。 DA 1015.5

イエスは、弟子たちに「あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」と言われた(ヨハネ13:10)。主はユダの足を洗われたが、彼の心は主に屈服していなかった。その心はきよめられなかった。ユダは自分自身をキリストに屈服させていなかった。 DA 1015.6

キリストは弟子たちの足を洗ってから、上着を取り、 ふたたび腰をおろして、彼らにこう言われた。「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない」(ヨハネ13:12~16)。 DA 1015.7

キリストは、ご自分が弟子たちの足を洗われたけれども、それは主の威厳をすこしもそこなうものではないということを彼らにわからせたいとお思いになった。「あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである」(ヨハネ13:13)。主は、無限にすぐれたお方であられたが、この奉仕に恩恵と意義を与えられた。キリストほど高い地位にある者は誰もないのに、主は、身をかがめて最もいやしいっとめをされた。人の生まれつきの心に住みつき、自分自身に仕えることによってますます強くなる利己心のために、主の民が道をまちがえないようにキリストご自身が謙遜の模範を示されたのである。主はこの大きな問題を人の責任にまかせておかれなかった。神と等しいお方であるキリストご自身が、弟子たちに対してしもべとしてふるまわれたほど、主はこの問題を重視された。彼らが最高の地位を争っている間に、すべての人がひざまずく主、栄光の天使も仕えることを名誉としている主が、ご自分を主と呼んでいるこれらの人たちの足を、ひざまずいて洗われた。主はご自分を裏切る者の足を洗われた。 DA 1016.1

その生活と教訓を通して、キリストは、神にみなもとがある無我の奉仕について完全な実例をお与えになった。神はご自分のために生活されない。世界を創造することによって、また万物をささえることによって、神はたえずほかのもののために奉仕しておられる。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ5:45)。この奉仕の理想を、神はみ子に託されたのである。イエスが人類のかしらに立つために与えられたのは、奉仕することがどういうことであるかをご自分の模範によって教えるためであった。イエスの一生は奉仕の法則の下にあった。主はすべての人に仕え、すべての人に奉仕された。こうして主は、神の律法を生活し、ご自分の模範によって、われわれが神の律法にどのように従うべきかを示された。 DA 1016.2

イエスは、この原則を弟子たちのうちに確立しようと幾度も試みられた。ヤコブとヨハネが高い地位を願ったとき、主は、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人と……ならねばならない」と言われた(マタイ20:26、27)。わたしの主国では優先と優越は許されない。唯一の偉大さは謙遜の偉大さである。唯一の卓越は他人への奉仕に献身することにある。 DA 1016.3

今、弟子たちの足を洗ってしまわれると、主は、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」と言われた(ヨハネ13:15)。このことばによって、キリストはもてなしの慣習を命じられただけではなかった。旅のほこりを除くために客の足を洗うことよりももっと深い意味があった。キリストはここに1つの宗教的行事を制定しておられたのである。主の行為によって、この謙遜式は、聖別された儀式となった。それは、謙遜と奉仕についてのキリストの教訓をいつも心におぼえているように、弟子たちによって守られるのであった。 DA 1016.4

この儀式は、聖さん式のためにキリストがお定めになった準備である。高慢、不和、権力争いが宿っているあいだは、心はキリストとのまじわりにはいることができない。われわれは、キリストの体と血との聖さんを受ける用意ができていない。そこでイエスは、ご自分の謙遜を記念するものを最初に守るようにお定めになったのである。 DA 1016.5

神の子らがこ儀式にあずかる時、彼らは生命と栄光の主のみことばを思い出さねばならない。「わた しがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はっかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」(ヨハネ13:12~17)。 DA 1016.6

人のうちには、自分を兄弟よりも高く評価し、自我のために働き、最高の地位を求める傾向がある。そしてこのことから、しばしば悪い憶測と冷酷な精神が生じる。聖さん式に先立つ洗足式は、こうした誤解を一掃し、人を利己心から引き離し、高慢というたけうまからおろして、兄弟に仕えるへりくだった心を与えるのである。 DA 1017.1

天の聖なる監視者であられる聖霊は、この式の間、臨在されて、これを魂をさぐる時、罪を自覚する時、罪がゆるされたというありがたい確証の時としてくださる。恵みに満ちておられるキリストはそこにおられて、利己的な水路を流れていた心の思いの流れを変えてくださる。聖霊は、主の模範に従う者たちの感受性を鋭くしてくださる。われわれのための救い主の屈辱を思い出す時、思いは思いとつながり、記憶の鎖、すなわち神の大いなる恵みと地上の友の好意とやさしさの記憶が呼び起こされる。祝福を忘れ、恵みを悪用し、親切を軽んじたことが心に思い出される。愛というとうとい植物を追い出していた冷酷という根があらわれる。品性の欠点、義務の怠慢、神への忘恩、兄弟たちに対する冷淡さが思い出される。罪は、神がそれをごらんになる光をとおして見られる。われわれの思いは自己満足の思いではなくて、きびしく自己を責める思いと謙遜な思いである。不和を生じさせたあらゆる障害を打破する力が心に与えられる。悪意と悪口は捨て去られる。罪は告白され、ゆるされる。心をやわらげるキリストの恩恵が魂に入り、キリストの愛が人びとの心を引きよせて、祝福された一致を生じさせる。 DA 1017.2

準備の式についての教訓をこのように学ぶ時、もっと高い霊的な生活を望む思いが燃やされる。この望みに天の証人イエスが答えてくださるのである。魂が高められる。われわれは、罪がゆるされたことを意識して聖さんにあずかることができる。キリストの義という日光が心の部屋と魂の宮を満たす。われわれは、「世の罪を取り除く神の小羊」を見るのである(ヨハネ1:29)。 DA 1017.3

この儀式の精神を受け入れる者には、それは決してただの儀式とはならない。それは「愛をもって互に仕えなさい」という教訓をいつも教えている(ガラテヤ5:13)。弟子たちの足を洗うことによって、キリストは、彼らをご自分と共に天の宝という永遠の富を継ぐ者とならせるためなら、どんなにいやしい奉仕でもなさるという証拠をお示しになった。キリストの弟子たちは、同じ儀式を行うことによって、兄弟たちに仕えることを同じように誓うのである。この儀式が正しく守られる時にはいつでも、神の子らは、互いに助け祝福するために聖なる関係に入る。 DA 1017.4

彼らは一生を無我の奉仕にささげることを誓うのである。しかもそれは、お互いのためだけではない。彼らの働きの分野は主の働きの分野と同じように広いのである。世はわれわれの奉仕を必要としている人々で満ちている。貧しい人たち、無力な人たち、無知な人たちが四方にいる。2階の広間でキリストと交わった人たちは、キリストと同じように奉仕するために出て行くのである。 DA 1017.5

すべての者から仕えられるお方であったイエスが、すべての者のしもべとなられるためにこられた。そして主はすべての者にお仕えになったので、またすべての者から仕えられ、あがめられるのである。だから、主の聖なるご性質にあずかり、魂があがなわれるのを見る喜びに、主とともにあずかりたい者は、無我の奉仕という主の模範に従わねばならない。 DA 1017.6

このことはすべて、「わたしがあなたがたにしたと おりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」というイエスのことばに含まれていた(ヨハネ13:15)。これこそ主がこの儀式を定められた目的であった。主はまたこう言っておられる。「もしこれらのことがわかっていて」、すなわち主の教訓の目的がわかっていて、「それを行うなら、あなたがたはさいわいである」と(ヨハネ13:17)。 DA 1017.7