各時代の希望

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第68章 外庭で

本章はヨハネ12:20~43に基づく DA 999.1

「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシャ人がいた。彼らはガリラヤのべッサイダ出であるピリポのところにきて、『君よ、イエスにお目にかかりたいのですが』と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた」(ヨハネ12:20~22)。 DA 999.2

この時、キリストの働きは残酷な敗北の様子を示していた。キリストは、祭司たちやパリサイ人たちとの論争に勝利されたが、彼らからメシヤとして受け入れられないことは明らかであった。最後的な分離がきていた。弟子たちにはこの問題が絶望的に思えた。しかしキリストはこ自分の働きを完成しようとしておられた。ユダヤ国民ばかりでなく、全世界にとって関係のある大事件がまさに起ころうとしていた。キリストは、世の人々の飢えた叫びを反響している「イエスにお目にかかりたいのですが」という熱心な願いを聞かれると、お顔が明るく輝き、「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われた。ギリシャ人たちの願いの中に、主はご自分の大いなる犠牲の結果についての保証をごらんになった。 DA 999.3

キリストの生涯の初めに東方から博士たちがやってきたように、キリストの生涯の終わりに、このギリシヤ人たちは救い主をみいだすために西方からやってきた。キリストがお生まれになった時、ユダヤ人は自分たちの野心的な計画に夢中になっていたので、キリストの来臨を知らなかった。異教国のマギたちは、救い主を拝するためにささげ物をたずさえてうまぶねへやってきた。同様に、ギリシャ人たちは、世の諸国諸族諸民を代表してイエスに会いにやってきた。同じように全地の各時代の人々は、救い主の十字架に引きよせられるのである。同じように「多くの人が東から西からきて、天国で、あぶらはむ、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」のである(マタイ8:11)。 DA 999.4

ギリシャ人たちは、キリストがエルサレムに凱旋的な入城をされたことを聞いていた。一部の人たちが、キリストは祭司たちと役人たちを宮から追い出されたということ、またキリストがダビデの位を占め、イスラエルの王として支配されるということを想像して、そのうわさをひろめた。ギリシャ人たちはキリストの使命について真相を知りたがった。「イエスにお目にかかりたいのですが」と彼らは言った。彼らの願いはかなえられた。このたのみがイエスに伝えられた時、イエスはユダヤ人以外の者はだれもはいれない宮の内部におられたが、外庭のギリシャ人たちのところへ出てこられて、彼らに自ら面接された。 DA 999.5

キリストが栄光を受けられる時がきていた。主は十字架の影に立っておられたが、ギリシャ人たちの問い合わせは、主がまさに払おうとしておられる犠牲によって多くの息子娘たちが神へみちびかれることをイエスに示した。主は、ギリシャ人たちがその時には夢にも思わなかった立場におられる主をまもなく見ることを知っておられた。彼らは、主が強盗殺人のバラバと並んで立たれ、しかも神のみ子よりもバラバがえらばれて釈放されるのを見るのであった。彼らは人々が、祭司たちと役人たちに吹込まれて選択するのを耳にするのであった。「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」という問いに、「彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った」(マタイ27:22)。人々の罪のためにこのあがないの供え物をすることによって、キリストはご自分のみ国が完成され、それが世界中にひろがることをご存じであった。主は回復者として働かれ、そのみたまは勝利するのであった。一瞬間、主は将来をごらんになって、全地のすみずみまで、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とのべつたえている声をお聞きになった(ヨハネ1:29)。この見知らぬ人たちの中に、主は、ユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁がとりこわされ、諸国諸族諸民が救いのおとずれを聞く時の大収穫の保証をごらんになった。このこと、すなわち主の望み 成されることについての予想は、「人の子が栄光を受ける時がきた」というみことばに表現されている(ヨハネ12:23)。しかし栄光を受けるためにはどのような道を通らねばならないかということが、キリストの頭から決して離れなかった。異邦人がかり集められることは、近づきつつあったキリストの死に続くのであった。主の死によってのみ、世は救われるのであった。 DA 999.6

一粒の麦のように、人の子は地に投げられて死に、目に見えないところに葬られねばならなかった。しかし主はふたたび生きられるのであった。 DA 1000.1

キリストは、弟子たちにわかるように、自然の事物を例にとってご自分の将来をお示しになった。キリストの使命の真の結果はその死によって到達されるのであった。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と主は言われた(ヨハネ12:24)。麦の粒が地に落ちて死ぬ時に、それは芽生えて実を結ぶ。そのように、キリストの死は、神の国のために実を結ぶのであった。植物界の法則にしたがって、キリストの死の結果は生命であった。 DA 1000.2

土地をたがやす者は、この実例を始終みえる行為によって、年々穀物の補給を維持しているのである。それはしばらく畑のうねの下にかくれて、主から見守ってもらわねばならない。それから葉が現れ、次に穂が現れ、その穂の中に実がみのる。しかしその穀物が目に見えないところに埋もれ、かくされ、どう見ても失われたようになるまでは、このような発育は行われないのである。 DA 1000.3

地中に埋もれた種は実を生じ、こんどはその実が播かれる。こうして収穫は増大する。同様に、カルバリーの十字架上におけるキリストの死は、永遠の生命にいたる実を結ぶのである。この犠牲について瞑想することは、その実として永遠の時代にわたって生きる者の輝かしい喜びである。 DA 1000.4

自分自身の生命を保存する穀物は実を生ずることができない。それは一粒のままである。キリストは、もしその気になられたら、ご自分が死なれなくてもよかったのである。しかし、もし死なれなかったら、キリストは1人のままでなければならない。息子娘たちを神につれて行くことはおできにならない。ご自分の生命を放棄することによってのみ、キリストは人類に生命を与えることがおできになる。死ぬために地に落ちることによってのみ、キリストはあの大収穫、すなわち諸国諸族諸民の中から神のみもとにあがなわれた大群衆の種となることがおできになるのである。 DA 1000.5

キリストはこの真理にすべての人が学ばねばならない自己犠牲の教訓を結びつけておられる。「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」(ヨハネ12:25)。キリストとともに働く者として実を生じさせたい者は、みなまず地に落ちて死なねばならない。生命はこの世の必要といううねの中に投げ込まれねばならない。自己を愛する思い、自己中心の思いは滅びなければならない、自己犠牲の法則は、自己保存の法則である。農夫は穀物を投げ捨てることによってそれを保存する。人間の生命も同様である。与えることは生きることである。保存される生命は神と人との奉仕に惜し気なく与えられる生命である。キリストのためにこの世の生命を犠牲にする者は永遠にいたる生命としてこれを保つのである。 DA 1000.6

自分のために費やされる人生は食べてしまった穀物のようなものである。それは消えて無くなり、何の増加もない。人はできるだけ自分のために集めるかもしれない。自分のために生き、考え、計画するかもしれない。しかし彼のいのちは過ぎ去って、何ものも残らない。自分に仕える法則は自分を滅ぼす法則である。 DA 1000.7

「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」(ヨハネ12:26)。イエスとともに犠牲の十字架を負うた者はキリストとともにそ の栄光にあずかる者となる。ご自分の弟子たちがキリストとともに栄光を受けるということが、屈辱と苦痛の中にあってキリストの喜びであった。彼らはキリストの自己犠牲の実である。彼らのうちにキリストご自身の品性と精神が完成されることがキリストにとって報いであり、永遠にわたる喜びある。彼らは自分たちの骨折りと犠牲の実がほかの人たちの心と生活にみられる時、キリストのこのよろこびにあずかるのである。彼らはキリストとともに働く者であって、天父はみ子をあがめられるのと同じに、彼らをあがめられる。 DA 1000.8

ギリシャ人たちのことばは、異邦人が集められる前兆であったが、イエスの心にその使命の全体を思わせた。あがないの働きが、天で計画された時から、死が迫った今にいたるまで、イエスの前を通り過ぎた。神秘の雲が神のみ子をおおっているようであった。その暗さがイエスの近くにいる人々に感じられた。イエスは物思いにふけっておられた。ついにその沈黙はイエスの悲しみに沈んだ声によって破られた。「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい」(ヨハネ12:27)。事前にキリストはすでににがいさかずきから飲んでおられた。キリストの人性は、ご自分が捨てられる時を思って、たじろいでいた。その時には、どう見ても、キリストは神からさえ捨てられ、キリストが神から打たれ、たたかれ、苦しめられるのをすべての者が見るのであった。キリストは、人目にさらされ、極悪の罪人のように取り扱われ、恥ずかしい不名誉な死にあうことをちゅうちょされた。暗黒の勢力との戦いについての予感、人類の罪とがについての恐るべき重荷の思い、罪のゆえの天父の怒りが、イエスの精神をめいらせ、死の青白さをイエスの顔にひろがらせた。 DA 1001.1

その時、天父のみこころに対する気高い服従がみられた。「わたしはこのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」(ヨハネ12:27)。キリストの死によってのみ、サタンの王国は打ち倒されるのである。そうすることによってのみ、人があがなわれ、神はあがめられるのである。イエスは苦悩に同意され、犠牲を受け入れられた。天の大君イエスが罪を負う者として苦難を受けることに同意された。「父よ、み名があがめられますように」と、イエスは言われた(ヨハネ12:28)。キリストがこれらのことばを語られると、頭上にただよっていた雲の中から、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」という応答があった(ヨハネ12:28)。キリストの全生涯は、かいばおけの時からこのことばが語られた時まで、神の栄光をあらわしていた。そしてきたるべき試練に、神および人としてのキリストの苦難によって、実に天父のみ名があがめられるのであった。 DA 1001.2

この声がきこえると、光が雲からさして、あたかも無限な力の神の両腕が火の壁のようにキリストをかこむかのように、キリストをとりまいた。人々は恐れと驚きの念でこの光景を見た。だれもあえて口を開こうとしなかった。だまって息をころしたまま、みんなはイエスを見つめて立っていた。天父のあかしが与えられると、雲は晴れて天に散った。天父とみ子との目に見えるまじわりはその時やんだ。 DA 1001.3

「すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使が彼に話しかけたのだ』と言った」(ヨハネ12:29)。しかしたずねてきたギリシャ人たちは、その雲を見、その声をきき、その意味をさとって、実際にキリストをみとめた。彼らには、キリストが神からつかわされたお方としてあらわされた。 DA 1001.4

公生涯の初めにイエスがバプテスマを受けられた時に、神のみ声がきこえ、それは山上の変貌の時にふたたびきこえた。いま公生涯の終わりに、それはもっと大勢の人々によって、特殊な事情のもとに3度聞かれた。イエスはユダヤ人の状態について最も厳粛な事実を語られたばかりであった。主は最後の訴えをなし、ユダヤ人の滅亡を宣告されたのだった。いま神はふたたびみ子の使命に印をおされた。神はイスラエルがこぼんだお方をみとめられた。「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである」とイエスは言われた(ヨハネ12:30)。 それはイエスがメシヤであられることについての最高の証拠、すなわちイエスが事実を語られ、神のみ子であられるという天父のしるしであった。 DA 1001.5

イエスは続けて言われた、「『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである」(ヨハネ12:31~33)。いまは世界の危機である。もしわたしが人類の罪のためにあがないの供え物となれば、世は明るくなるであろう。人の魂をとらえているサタンの束縛はたちきられるであろう。けがされた神のみかたちは人性のうちに回復され、信じる聖徒たちの家族はついには天国を嗣ぐであろう。 DA 1002.1

これがキリストの死の結果である。救い主は、目の前に浮かぶ勝利の光景について瞑想にふけられる。主は十字架が、それも残酷で不名誉な十字架が、あらゆる恐怖を伴っているにもかかわらず、栄光に輝いているのをごらんになる。 DA 1002.2

しかし人類のあがないの働きが十字架によってなしとげられる全部ではない。神の愛が宇宙にあらわされる。この世の君が追い出される。サタンが神に向けた非難が反ばくされる。サタンが天に投げかけた非難は永遠に除かれる。人類はもちろん天使たちもあがない主に引きよせられる。「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」と、イエスは言われた(ヨハネ12:32)。 DA 1002.3

キリストがこれらのことばを語られた時、周囲に多くの人々がいたが、その1人が言った、「『わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか』。そこでイエスは彼らに言われた、『もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい』」(ヨハネ12:34~36)。 DA 1002.4

「このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった」(ヨハネ12:37)。彼らはかつて救い主に「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか」とたずねたことがあった(ヨハネ6:30)。無数のしるしが与えられたが、彼らは目をとじ、その心はかたくなであった。いま天父がご自身で語られ、彼らはそれ以上のしるしを求めることができないのに、それでも彼らは信じようとしなかった。 DA 1002.5

「しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである」(ヨハネ12:42)。 DA 1002.6

彼らは神の承認よりも人の称賛を好んだ。非難と恥をまぬかれるために彼らはキリストをこばみ、さし出された永遠の生命をこばんだ。それ以来幾世紀の間、これと同じことをしている者がどんなに多いことだろう。「自分の命を愛する者はそれを失い」という救い主の警告のことばは、このようなすべての者にあてはまるのである(ヨハネ12:25)。イエスは言われた、「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ12:48)。 DA 1002.7

おとずれの時がわからない人たちは気の毒である。ゆっくりと悲しそうに、キリストは宮の境内を永久に去られた。 DA 1002.8