各時代の希望

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第67章 「パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」

本章はマタイ23章、マルコ12:41~44、ルカ20:45~47、21:1~4に基づく DA 992.1

キリストが宮で教えられる最後の日であった。エルサレムに集まったおびただしい群衆の全部の注意がイエスに引きつけられていた。人々は宮の庭におしよせて、論争の進行を見守り、イエスの口から出る一言一言に熱心に聞き入った。このような光景はこれまでかつて見られないことであった。この若いガリラヤ人は、この世の栄誉も王のしるしも身につけないで立っておられた。そのまわりを、豪華な服装をした祭司たち、高い地位をあらわす記章のついた服を着た役人たち、しばしば引用する巻物を手に持った律法学者たちがとりかこんでいた。イエスは、王の威厳をそなえて、彼らの前に冷静に立っておられた。天の権威をさずけられたお方として、イエスは、彼の教えをあざけってこばみ、その生命をねらっている反対者たちを、ひるむ気配もなく見渡された。彼らは、これまで大勢でイエスを攻撃したが、イエスを陥れて罪に定めようとする彼らの計略はむだであった。イエスは次から次へと挑戦に応じ、祭司たちパリサイ人たちの暗黒と誤謬と対照的に、純潔な輝かしい真理を示された。イエスは、これらの指導者たちの前に、彼らの真の状態と、彼らがあくまでも悪い行為を改めない場合にかならず伴う報いを示された。警告は忠実に与えられてきた。しかしキリストがなさらねばならないもう1つの働きが残っていた。もう1つの目的がまだ達成されていなかった。 DA 992.2

キリストとその働きに対する民衆の関心は着実に高まってきていた。彼らはキリストの教えに魅力を感じたが、同時にまた非常に困惑した。人々は、祭司たちとラビたちが知識があって信心深くみえるので、彼らを尊敬していた。どんな宗教上の事がらにおいても、民衆は彼らの権威にいつも絶対的に服従していた。それなのに人々は、攻撃されるたびにますます徳と知識が輝き出る教師イエスに、彼らが不信を投げかけようとしているのをいま見た。彼らは祭司たちと長老たちのしかめづらをながめ、そこにろうばいと混乱を見た。彼らは、キリストの教えが明白でわかりやすいにもかかわらず役人たちがイエスを信じようとしないのに驚いた。人々は自分たちがどんな道をとったらよいかわからなかった。彼らは、これまで自分たちがいつもその忠告に従ってきた人たちの行動を、熱心な心配のうちに、見守った。 DA 992.3

キリストがお語りになった譬を通して、役人たちに警告することと、よろこんで教えを受ける民衆に教えることとが、キリストの目的であった。しかしもっとはっきり語る必要があった。言い伝えに対する尊敬と、堕落した祭司制度に対する盲目的な信仰によって、人々はとりこにされていた。そのような鎖をキリストはたち切っておしまいにならねばならない。祭司たち、役人たち、パリサイ人たちの性格をもっと十分にばくろしなければならない。 DA 992.4

「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから」と、イエスは言われた(マタイ23:2、3)、律法学者とパリサイ人は、自分たちにはモーセと同等の権威がさずけられていると主張した。彼らは自分勝手にモーセに代って、律法の解釈者また民をさばく者となった。このような者として、彼らは民から最高の尊敬と服従を受けることを要求した。イエスは聴衆に、ラビたちが律法に従って教えたことを行うように、しかし彼らの手本にならわないようにと命じられた。彼らは自分たちが教えたことを自ら実行しなかった。 DA 992.5

彼らはまた聖書に反した多くのことを教えていた。彼らは「重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指1本も貸そうとはしない」と、イエスは言われた(マタイ23:4)。パリサイ人は、言い伝えをもとにしてたくさんの規則を強要し、個人の自由を不当に制限した。彼らはまた律法のある部分を、民に遵守をおしつけるような説明をしなが ら、自分たちはひそかにその遵守を怠り、都合次第で、自分たちはその遵守を免除されているのだと実際に主張した。 DA 992.6

彼らはいつも自分たちの信心を見せびらかすように心がけていた。この目的のためにはどんな神聖なものも利用された。神は、ご自分の戒めについて、モーセに「あなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし」なさいと、言われた(申命記6:8)。このことばには深い意味がある。神のみことばを瞑想し、実行するとき、人は身心ともに高められる。正しく、憐れみのある行為をとおして、手は、印として、神の律法の原則をあらわす。その手はわいろをとらず堕落的なこと欺隔的なことを何1つしない。その手は愛と憐れみのわざに活動的である。目は、とうとい目的に向けられ、澄んでいて、真実である。顔の表情、もの言う目は、神のみことばを愛しとうとぶ者の欠点のない品性をあかししている。しかしキリスト時代のユダヤ人は、そうしたことをすこしも認識しなかった。モーセに与えられた命令について、人々は、聖書のいましめをからだにつけるようにという命令に解釈した。そこで彼らは、その戒めを羊皮紙の一片に書きつけ、それを目立つように頭と腕首にしばりつけた。しかしそうしたからといって、神の律法が心と思いに一層固くきざみこまれたわけではなかった。そうした羊皮紙は人々の注意をひくために、記章としてからだにつけているにすぎなかった。これをつけていると、信心深く見え、人々から尊敬されると思われていた。イエスはこのむなしい見せかけに一撃を加えられた。 DA 993.1

「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」(マタイ23:5~10)。 DA 993.2

心は貧欲とねたみに満たされているのに、いつわりの謙遜をみせびらかしながら、たえず地位と権力を求めている利己的な野心を、救い主はこのようにはっきりしたことばでばくろされた。人々が宴会に招かれると、お客はそれぞれの階級にしたがって席をとったが、最も名誉のある席を与えられた人たちがいちばん先にもてなされ、特別な好意を受けた。パリサイ人は、こうした名誉を受けるようにたえずたくらんでいた、この習慣をイエスは責められたのである。 DA 993.3

主はまた、ラビとか師とかいう名称をほしがることに示されている虚栄心を責められた。このような名称は人に属するものではなく、キリストに属するものであると、主は言明された。律法の解説者であり施行者である祭司たち、律法学者たち、役人たちはみな兄弟であり、同じ天父の子らであった。自分たちの良心や信仰に対する支配をあらわしているとうとい名称をだれにも与えてはならないということを、イエスは人々に印象づけられた。 DA 993.4

もしキリストが今日地上におられて、「師」とか「尊師」とかいうような名称をもった人たちにかこまれておられたら、「あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわちキリストである」とのことばをくりかえされはしないだろうか(マタイ23:10)。聖書には神について「そのみ名は聖にして、おそれおおい」と宣言されている(詩篇111:9)。どんな人間にこのような名称がふさわしいだろうか。この名称に示されている知恵と義をあらわしている人がどんなに少ないことだろう。この名称を帯びている者の中には、神のみ名と品性について誤った印象を。与えている者がどんなに多いことだろう。ああ、高位の聖職者の縫い取りされた衣のドには、世俗的な野心と専制と最も卑劣な罪がかくされていることがどんなにしばしばあることだろう。救い主はつづけて言われた。 DA 993.5

「そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕 える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ23:11、12)。真の偉大さは道徳的な価値によってはかられるということを、キリストは、これまで繰り返し繰り返し教えられた。天の評価によれば、品性の偉大さは人類同胞の幸福のために生きること、すなわち愛と憐れみのわざをなすことにある。栄光の王キリストは堕落した人類のしもべであられた。 DA 993.6

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない」(マタイ23:13)。聖書を曲解することによって、祭司たちと律法学者たちは、人々の心を盲目にした。そうでなかったら、人々は、キリストのみ国についての知識と真の聖潔になくてはならない内面的なきよい生活を受け入れていたのである。 DA 994.1

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない」(マタイ23:14)。パリサイ人は民の間に大きな勢力を持っていたので、彼らはそのことを利用して、自分たちの利益に役立たせた。彼らは、信心深いやもめたちの信頼を受けると、彼女たちがその財産を宗教上の目的にささげることを義務として教えた。やもめたちの金を自由にすることができるようになると、このずるい策略者たちはそれを自分たちの利益のために用いた。彼らは、自分たちの不正直をかくすために、人前で長い祈りをささげ、非常に信心ぶった様子をした。この偽善のゆえに、彼らはもっときびしいさばきを受けるとキリストは断言された。 DA 994.2

今日も、口先だけで信心ぶったことを言う多くの者に、同じ譴責がくだるのである。彼らの生活は利己心と貧欲にけがれているが、彼らはそれらのすべてを見せかけの信心という衣でおおって、しばらくは人々の目をごまかす。しかし神をだますことはできない。神は心の意図をどれも見抜かれ、各人をその行為にしたがってさばかれる。 DA 994.3

キリストは、悪用を容赦なく非難されたが、しかし義務を軽くしないように用心された。主はやもめのささげ物を強要したり、それをまちがったことに用いたりすることを責められた。同時に主は、神の庫にささげ物を持参したやもめをおほめになった。人がささげ物を悪用しても、それをささげた人から神の祝福を取り去ることはできなかった。 DA 994.4

イエスは、さいせん箱がおいてある庭にいて、献金を入れにやってくる人たちを見守っておられた。多くの金持ちが多額の金を持参しては、それを見せつけながらささげた。イエスは彼らを悲しげに見ておられたが、その多額な献金については何もぼわれなかった。1人の貧しいやもめが、人に見られるのを恐れるかのように、おずおずと近よってくるのを見られた時、イエスのお顔は、たちまち明るくなった。高慢な金持ちたちが、献金を箱に入れるために、風をきって通り過ぎると、彼女はもう前へ進む勇気もないかのようにしりごみした。それでも彼女は、自分の愛するみわざのために、どんなに小さくても、何かをしたいと熱望した。彼女は手に持っている献金を見た。まわりの人たちの献金にくらべれば、わずかなものであったが、それは彼女の全部であった。機会を見て、彼女は急いで2枚のレプタを投げ入れ、いそいで引きかえそうとした。しかしそうしている時に、彼女はイエスの御目にとまり、それは彼女の一上にじっとそそがれていた。 DA 994.5

救い主は弟子たちをみもとに呼んで、このやもめの貧しさに注目するようにお命じになった。その時、主のおほめのことばが彼女の耳にきこえた。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ」(マルコ12:43)。自分の行為が理解され、認められたことを感じ時、彼女の目に喜びの涙が浮かんだ。多くの者は、そんなわずかな収入は自分自身の用にとっておきなさい、あの食物の満ち足りた祭司たちの手にささげても、庫に持ってこられる多くの 高価なささげ物にまじって見落されてしまうと彼女に忠告しただろう。しかしイエスは、彼女の動機を理解された。 DA 994.6

彼女は宮の奉仕が神に定められたものであることを信じていたので、それをささえるために全力をつくそうと願った。彼女は自分のできることをした。彼女のこの行為は、各時代を通じて彼女の思い出の記念となり、また永遠にわたって彼女の喜びとなるのであった。彼女はささげ物といっしょに心をささげた。そのささげ物の価値は、貨幣の価値によってではなく、彼女の行為の動機となった神への愛とそのみわざに対する関心によってはかられた。 DA 995.1

イエスは、この貧しいやもめについて、彼女が「だれよりもたくさん入れた」と言われた(マルコ12:43)。金持ちたちは豊富な中からささげ、しかもその多くの者が、人々から見られ、あがめられるためにささげた。彼らは多額の寄付をしても、そのために安楽な生活あるいはぜいたくな生活ができなくなるといりのではなかった。その寄付は、犠牲の必要がなく、価値においてもやもめのレプタと比較することはできなかった。 DA 995.2

われわれの行為に性格を与え、これに不名誉もしくは高い道徳的価値の印をおすものは動機である。神は、すべての人の目が見、すべての人の口が称賛する偉大な事がらを、最もとうといものとしてごらんにならない。快活に果たした小さな義務、何の見せびらかしもなく、人間の目には無価値に見えるような小さなささげ物が、神の御目には最高に見えることがしばしばある。信仰と愛の心は、神にとって、最も高価なささげ物よりもとうといのである。この貧しいやもめのしたことは小さなことであったが、彼女はそのために自分の生活費をささげた。彼女は、愛するみわざにあの2枚のレプタをささげるために食物を節約した。しかも彼女はそのことを信仰をもって、天父が自分の大きな必要を見のがされないことを信じてやったのである。救い主からおほめのことばをいただいたのは、この無我の精神、子供のような信仰であった。 DA 995.3

貧しい人々の中には、神の恩恵と真理に対して神に感謝を示したいと願う人々が大勢いる。彼らは、神のみわざをささえるためにもっと富んでいる兄弟たちと力をあわせたいと熱望する。このような魂をことわってはならない。彼らのレプタを天の銀行に積ませよう。神に対する愛に満たされた心からささげられるならば、見たところとるに足りないようなこれらのものが、きよめられたささげ物、はかり知れない価値のあるささげ物となり、神はよろこんでこれを祝福される。 DA 995.4

イエスがやもめのことを、彼女は「だれよりもたくさん入れた」と言われた時、そのみことばは、彼女の献金の動機についてばかりでなく、その結果についても事実であった。1コドラントに当るレプタ2枚によって、これらの富裕なユダヤ人の寄付よりもずっと大きな金額が神の庫に入れられた。このわずかな献金の影響は、川の流れのように、はじめは小さかったが、各時代を流れくだるにしたがって、広く深くなった。それは、多くの方法によって、貧しい者の救助と福音の宣伝に役立った。彼女の自己犠牲の模範は各国、各時代の幾千幾万の人々の心に働きかけた。それは金持ちにも貧しい人にも訴え、彼らの献金は、彼女の献金額をまし加えた。やもめのレプタは、神の祝福によって大いなる結果を生じるみなもととなった。神の栄えをあらわしたいとの真心からの願いによってささげられる献金や、なされる行為はみなこれと同じである。それは全能者の目的につながっている。それが善に及ぼす結果はだれもはかり知ることができない。 DA 995.5

救い主は、律法学者とパリサイ人に対する攻撃をつづけられた。「盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』ど。愚かな盲目の人たちよ黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。盲目な人たちよ。供え 物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか」(マタイ23:16~19)。祭司たちは神のご要求を自分たちのまちがった狭い標準にしたがって解釈した。彼らは、僣越にもいろいろな罪の軽重についてこまかい区別をつけ、あるものは軽く見過ごし、それほど重大でもない罪を、ゆるすことのできない罪として扱ったりした。彼らは、お金の心付けをもらえば、人々をその誓いから免除してやった。多額の金をもらうと、重大な犯罪を見のがすことさえあった。同時に、これらの祭司たちと役人たちは、他の場合には、ちょっとした違反にもきびしい刑罰を宣告するのであった。 DA 995.6

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである、はっか、いのんど、クミンなどの薬味の10分の1を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」(マタイ23:23)。こうしたことばで、キリストはふたたび聖なる義務の悪用を非難しておられる。キリストは、義務そのものを廃しておられるのではない。10分の1制度は神によって定められたもので、最古の時代から守られてきた。信仰の父アブラハムは、所有しているすべてのものの10分の1を納めた。ユダヤの役人たちは、10分の1の義務をみとめたが、そのことは正しかった。しかし彼らは、民がそれぞれの確信にもとついてこの義務を果たすのにまかせなかった。1つ1つの場合について、独断的な規則が定められた。要求があまりにも複雑になったため、それを果たすことは不可能だった。だれもいつ自分が義務を果たしたかわからなかった。神がお与えになった時、この制度は正しく道理にかなっていた。しかし祭司たちとラビたちがそれをうんざりするような重荷にしてしまっていた。 DA 996.1

神が命じられることはすべて重要である。キリストは、10分の1を納めることを義務としてみとめられた。しかし主は、そのことがほかの義務を怠ることの言い訳にならないことを示された。バリサイ人は非常にきちょうめんに、はっか、いのんど、うん香など畑の薬草の10分の1を納めた。これは彼らにとって大した犠牲ではなく、しかもそのために彼らはきちょうめんで高潔であるという評判をとった。 DA 996.2

同時に彼らの無用な制限は民の重荷となり、神ご自身がお定めになった聖なる制度に対する尊敬を失わせた。彼らは人々の頭をとるにたりないような区別でいっぱいにし、人々の注意を重要な真理からそらした。律法の中でもっと重要な公平と憐れみと真実が見のがされた。「それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」と、キリストは言われた(マタイ23:23)。 DA 996.3

ほかの律法も同じように、ラビたちによってゆがめられていた。モーセを通して与えられた戒めの中に、けがれたものを食べることが禁じられていた。豚肉、その他ある種の動物の肉を用いることは、血液を不純にし、寿命をちぢめるというので、禁じられていた。しかしパリサイ人は、こうした制度を神が命じられたままにしておかなかった。彼らは是認されていない極端に走った。中でも民は、水を全部こして使うように要求されたが、それはけがれた動物と同類の微小な虫が水の中に入っているといけないからというのであった。イエスはそうしたつまらない要求を彼らの実際の罪の大きさと比較して、パリサイ人に「盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる」と言われた(マタイ23:24)。 DA 996.4

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは自く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである」(マタイ23:27)。白く塗られ、美しく飾られた墓が、その内側に腐敗する死体をかくしているように、祭司たちや役人たちの外面的な聖潔は不義をかくしていた。イエスは続けて言われた。 DA 996.5

「偽善な律法学者、バリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫で あることを、自分で証明している」(マタイ23:29~31)。死んだ預言者たちに対する。尊敬を示すために、ユダヤ人は彼らの墓を飾るのに熱心だった。しかし彼らは、預言者たちの教えから益を受けず、その譴責に注意を払わなかった。 DA 996.6

キリストの時代には、死人の休み場所に対して迷信的な尊敬心がいだかれ、その場所を飾ることに莫大な額のお金が気前よく使われた。このことは神の御目には偶像礼拝であった。死人に対する過度の尊敬によって、人々は、神を最高に愛しているのではないということ、また自分と同じように隣人を愛しているのではないということを示した。 DA 997.1

今日も同じ偶像礼拝が広く行われている。多くの者は、死人のために高価な記念碑をつくるために、やもめ、みなし子、病人、貧しい者をかえりみないという罪を犯している。この目的のために、時間と金銭と労力が惜しげなく使われているのに、生きている者に対する義務——キリストがはっきりお命じになった義務は実行されないでいる。 DA 997.2

パリサイ人は預言者たちの墓をたて、その墓所を飾って、もしわれわれが父祖たちの時代に生存していたら、神のしもべたちの血を流すことに加わるようなことはしなかったであろうと、互いに言った。同時に彼らは、神のみ子の生命をとろうと計画しているのであった。このことはわれわれにとって教訓とならねばならない。このことによって、われわれの目は、真理の光にそむく者を欺くサタンの力に対して開かれねばならない。多くの者がパリサイ人と同じことをしている。彼らは信仰のために死んだ人たちを尊敬する。彼らはキリストをこぼんだユダヤ人の盲目をふしぎに思う。もしキリストの時代に生存していたら、われわれはよろこんでその教えを受け入れたであろう。われわれは救い主をこばんだ人々の罪にあずかるような者とは決してならなかったであろうと、彼らは断言する。しかし神に従うために、克己と屈辱が要求されると、当の本人たちがその確信を押えつけて、従うことをこばむ。こうして彼らは、キリストが非難されたパリサイ人と同じ精神をあらわすのである。 DA 997.3

ユダヤ人は、キリストをこばむことがどんなに恐るべき責任を意味しているかにほとんど気づいていなかった。罪のない血がはじめて流された時、すなわち義人アベルがカインの手に倒れた時から、同じ歴史がくりかえされ、不義が増大してきた。どの時代においても、預言者たちは、神が彼らにお与えになったことばを語り、生命の危険をおかして神のみこころに従いながら、王たちや役人たちや民衆の罪を警告した。 DA 997.4

世代をかさねるにしたがって、光と真理をこばむ者たちに対する恐るべき刑罰がつみあげられてきた。キリストの反対者たちは、いま自分自身の頭上にそれを招こうとしていた。祭司たちと役人たちの罪は、前のどの世代の罪よりも大きかった。救い主をこばむことによって、彼らはアベルからキリストにいたるまで、殺されたすべての義人たちの血に対して責任のある者になろうとしていた。彼らは不義のさかずきをあふれるところまでいっぱいにしようとしていた。しかもそれはまもなく正義の報復として彼らの頭上にそそがれるのであった。このことについて、イエスは彼らにこう警告された。 DA 997.5

「こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう」(マタイ23:35、36)。 DA 997.6

イエスのことばを聞いていた学者たちとパリサイ人たちは、そのことばが真実であることを知っていた。彼らはザカリヤが殺された事情を知っていた。ザカリヤが神からの警告のことばを告げていた時に、背信の王は悪魔のように激怒し、その命令によってこの預言者は殺されたのであった。彼の血は宮の庭石を染め、それを消し去ることはできなかった。それはいつまでも背信のイスラエルに対してあかしをたてていた。宮が立っているかぎり、あの義人の血のしみは、神に報いを求めて叫びつづけるであろう。イエスがこのような恐るべき罪のことを言われると、群衆の中 に恐怖の身ぶるいが伝わった。 DA 997.7

これから先のことをお考えになって、イエスは、ユダヤ人の頑迷さと、神のしもべたちに対する彼らの偏狭さは、将来も昔と同じであろうと断言された。 DA 998.1

「それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう」(マタイ23:34)。 DA 998.2

信仰と聖霊に満たされた預言者たちと知者たち——ステパノ、ヤコブ、その他の人々が有罪の宣告を受けて殺されるのであった。手を天に挙げ、体のまわりを天来の光にかこまれて、キリストは、口の前にいる人々に裁判官のように語られた、イエスのお声は、これまでたびたびやさしく嘆願するような調子にきこえていたが、いまは譴責と罪の宣告にきこえた。聴衆は身ぶるいした。キリストのことばと顔つきから受けた印象は決して消え去ることがなかった。 DA 998.3

キリストの憤激は、偽善という卑劣な罪に向けられた。人々はそのために自分自身の魂を滅ぼし、人々をあざむき、神をけがしていた。祭司たちと役人たちのもっともらしい欺瞞的な議論の中に、イエスは、サタンの勢力の働きをみわけられた。罪に対するキリストの攻撃はするどかった。しかし主は報復的なことばを語られなかった。主は、暗黒の君に対して聖なる怒りをおぼえられた。しかしかんしゃくを破裂させるようなことをなさらなかった。同様に、神との調和のうちに生きているクリスチャンも、愛といつくしみという美しい特性を備えているが、罪に対しては憤激をおぼえるのである。しかし彼は、自分をそしる者に対して怒りのあまりののしり返すようなことをしない。暗黒の勢力に動かされて虚偽を主張する者に対しても、彼はキリストのうちにあって、冷静と沈着を保つのである。 DA 998.4

神のみ子が神殿に、それから聴衆にためらいがちな一べつを投げかけられた時、その顔には天来の憐れみがみられた。心の深い苦悩にとぎれる声とにがい涙のうちに、主は叫ばれた、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ23:37)。これは別れの苦しみである。キリストの嘆きのうちに、神の心がそそぎ出されている。それは神の長く耐え忍ぶ愛の神秘的な別れである。 DA 998.5

パリサイ人もサドカイ人も何も言えなくなってしまった。イエスは弟子たちを呼んで、宮を去るしたくをされた。それは敗北して敵の前から逃げ出さねばならない者としてではなく、働きをなしとげた者としてであった。主は勝利者として、論争から退かれた。 DA 998.6

この重大な日にキリストの口から出た真理の宝石は、多くの人々の心にたくわえられた。彼らにとって、新しい思想が生まれ、新しい抱負がめざめ、新しい歴史が始まった。キリストの十字架とよみがえりのあとで、これらの人々は前線に現れて、この働きの偉大さにふさわしい知恵と熱意とをもって神からの任命を達成した。彼らは人々の心に訴えるメッセージを伝え、長年の間幾千の人々の生活をいじけさせていた古い迷信を弱めた。彼らのあかしの前に、人間の理論と哲学はむなしいおとぎ話になった。エルサレムの宮で、驚きとおそれの思いにうたれた群衆に語られた救い主のことばから生じた結果は偉大であった。 DA 998.7

しかしイスラエルは、国家として、神から離れた。オリーブの木の自然の枝は折りとられた。宮の内部を見おさめにして、イエスは悲しい調子で言われた、「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マクイ23:38、39)。これまで主は宮を父の家と呼ばれた。しかしいま神のみ子が宮から離れられるとともに、神のご臨在は、み栄えのために建てられたこの宮から永久に離れるのであった。これからは宮の儀式は無意味となり、その奉仕は物笑いとなるのであった。 DA 998.8