各時代の希望

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第66章 論争

本章はマタイ22:15~46、マルコ12:13~40、ルカ20:20~47に基づく DA 986.7

祭司たちと役人たちはキリストの鋭い譴責をだまって聞いた。彼らはキリストの非難に反ばくすることができなかった。そこで彼らは、キリストをわなにかける決心を一層固めたにすぎなかった。この目的をも って、彼らはキリストのところヘスパイを送った。すなわち「義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕らえさせようとした」(ルカ20:20)。彼らはこれまでイエスがしばしば会われたような年とったパリサイ人でなく、熱烈で、熱狂的で、キリストが知っておられないと彼らの考えた若者たちを送った。この人たちにヘロデ党の人々が何人かっいて行った。それは、裁判の時に、キリストに不利な証言をたてられるように、キリストのことばを聞いておくためであった。パリサイ人たちとヘロデ党の人たちとはこれまで激しく敵対していたが、いまはキリストに対する敵意で1つになっていた。 DA 986.8

パリサイ人は、ローマ人から税金を取りたてられることにいつもいらだっていた。税金を払うことは神の律法に反すると、彼らは主張した。いま彼らはイエスをわなにかける機会を発見した。スパイたちがイエスのもとにやってきて、あたかも自分たちの義務を知りたいと望んでいるかのように、誠実さをよそおいながら、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」と言った(マルコ12:14)。 DA 987.1

もし彼らが誠実だったら、「わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています」ということばは、すばらしい告白であっただろう。しかしこのことばは、あざむくために語られたのであった。それにもかかわらず彼らのあかしは事実であった。パリサイ人たちはキリストが言われたこと、教えられたことが正しいということを知っていた。だから彼らは、彼ら自身のあかしによってさばかれるのである。 DA 987.2

イエスに質問した人たちは、彼らの目的を十分かくしたつもりであったが、イエスは、開かれた本を読むように、彼らの心を読み、彼らの偽善をばくろされた。「なぜわたしをためそうとするのか」とイエスは言われた(マルコ12:15)。こうしてイエスは、彼らのかくれた目的を見抜いておられることを示すことによって、彼らの求めなかったしるしをお与えになった。イエスが、「デナリを持ってきて見せなさい」とつけ加えられた時、彼らはますます困惑した(マルコ12:15)。彼らがそれを持ってくると、イエスは、「これは、だれの肖像、だれの記号か」と言われた。彼らは「カイザルのです」と答えた(マルコ12:16)。イエスは、貨幣の記号を指さしながら、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われた(マルコ12:17)。 DA 987.3

スパイたちは、イエスが彼らの質問に対して、よいとか、いけないとか端的に答えられるものと思っていた。もしイエスが、カイザルに税を納めるのは不当だと言われたら、ローマ当局に通報され、反逆を煽動したというので捕らえられるであろう。もしイエスが税を納めるのが正当だと宣言されたら、彼らは、神の律法に反していると言ってイエスを民の前に告発するつもりであった。しかしいま彼らは、どうしてよいかわからないほど敗北したことを感じた。彼らの計画は狂った。彼らの質問がその場で簡単に片づけられてしまったので、もはやそれ以上言うべきことがなかった。 DA 987.4

キリストの答は言いのがれではなく、質問に対する率直な答であった。カイザルの名前と肖像がきざまれているローマの貨幣を手に持ちながら、イエスは、彼らがローマの権力下に生活しているのだから、神に対する義務と矛盾しない限り、ローマの求める支持を与えるべきであると宣言された。しかしその国の法律に柔順に従う一方で、いつでも神への忠誠を第一としなければならなかった。 DA 987.5

「神のものは神に返しなさい」という救い主のことばは、陰謀をめぐらしているユダヤ人にとってきびしい譴責であった。もし彼らが神に対する義務を忠実に果たしていたら、彼らは敗北した国民となって外国の権力に服従するようなことにはならなかったのである。ローマの旗がエルサレムにひるがえることも、ローマの衛兵が城門に立つことも、ローマ総督が城内にいて統治することもなかったのである。ユダヤ国 民は、当時、神から離反した罰金を払っていたのであった。 DA 987.6

パリサイ人たちはキリストの答を聞いた時、「驚嘆し、イエスを残して立ち去った」(マタイ22:22)。イエスは彼らの偽善と独断を責められたが、そうすることによって、彼は、1つの大原則、すなわち一国の政府に対する人の義務の限界と神に対する人の義務とをはっきり定めている1つの原則を述べられたのであった。多くの人々の心の中で悩みの種であった問題が解決した。それからのちずっと、彼らはその正しい原則に従った。多くの者が満足しないまま立ち去ったけれども、彼らはその問題の根底となっている原則がはっきり示されたことを知って、キリストの深い洞察力に感嘆した。 DA 988.1

パリサイ人たちが沈黙したとたんにサドカイ人たちが巧妙な質問をもって進み出た。サドカイ人とパリサイ人は互いに激しく対立していた。パリサイ人は言い伝えを厳格に守る人たちであった。彼らは外面的な儀式に厳格で、手足を洗うことや、断食や、長い祈りを励行し、施しを見せびらかした。しかしキリストは、彼らが人間の戒めを教理として教えることによって、神の律法をむなしくしていると宣言された。彼らは階級としては頑迷であり、偽善的であった。しかし彼らの中には真に敬虔な人たちがいて、その人たちはキリストの教えを受け入れて弟子となった。サドカイ人はパリサイ人の言い伝えを否定していた。彼らは、口では聖書の大部分を信じ、それを行為の原則とみなすと言っていたが、実際には懐疑主義者であり、物質主義者であった。 DA 988.2

サドカイ人は天使の存在や死人の復活や、報いと刑罰を伴う来世についての教えを否定した。そうしたすべての点において、彼らはパリサイ人と異なっていた。特に両者の間の論争のまとは復活についてであった。パリサイ人は復活をかたく信じていたが、こうした議論になると、来世の状態について彼らの見解は混乱するのであった。死は不可解な神秘となるのであった。サドカイ人の議論に応ずることができないので、彼らはいつもいらだちを感じた。両者の議論はたいてい怒りの口論に終わり、彼らはこれまでよりも一層遠く離れるのであった。 DA 988.3

数においては、サドカイ人はその対抗者よりはるかに劣り、また一般民衆に対する勢力もそれほど強くなかった。しかし彼らの多くは富裕であり、したがって富が与える勢力を持っていた。たいていの祭司たちはサドカイ人の階級に属しており、大祭司もたいてい彼らの中からえらばれた。しかしこのことには、彼らが懐疑的な意見を公表しないということがはっきり規定されていた。パリサイ人が数と人気においてまさっていたために、サドカイ人は祭司職につく時、外面的にはパリサイ人の教えに譲歩しなければならなかった。しかし彼らがこのような職務につく資格があるということが彼らの誤りに力を与えた。 DA 988.4

サドカイ人はイエスの教えを拒否しだ。イエスは1つの目的に動かされておられたが、サドカイ人はそれがこのようにあらわれることをみとめようとしなかった。神と来世についてのイエスの教えは、彼らの理論と矛盾した。彼らは神が人間よりもすぐれた唯一の存在であることは信じたが、支配的な摂理と神の先見性は人間から道徳的自由意志を奪い、人間を奴隷の地位に堕落させるものであると論じた。神は人間をおつくりになって、これを上からの力に左右されない独立した者とされたというのが、彼らの信念であった。人間は自由に自分自身の生活を支配し、世の出来事を形成し、自分の運命を自分自身の手ににぎっているのだと、彼らは主張した。彼らは神のみたまが人間の努力すなわち生来の手段を通して働くことを否定した。それでも彼らは、人間は自分の生まれつきの能力を正しく用いることによって、高められ、啓発される、またきびしくはげしい苦行によって生活をきよめることができると主張した。 DA 988.5

神についての彼らの考え方によって、彼ら自身の品性が形成された。彼らは神が人間に何の関心も示されないと考えていたが、そのように彼らもお互いに対してすこしの関心も持たなかった。彼らの間には一致というものがほとんどなかった。人間の行為に及ぼす聖霊の働きをみとめようとしないために、彼ら の生活にはみたまの力が欠けていた。ほかのユダヤ人たちと同じように、彼らはアブラハムの子としての家督権を持っていることと、律法の要求を厳格に守っていることを非常に自慢にしていた。しかし彼らは、律法の真の精神とアブラハムの信仰といつくしみに欠けていた。彼らの自然な同情心は狭い範囲に限られていた。彼らは、人はみな生活の慰安と祝福を手に入れることができると信じていた。だから彼らの心は、他人の欠乏や苦しみに動かされなかった。彼らは自分のためだけに生活した。 DA 988.6

キリストは、みことばとみわざによって、超自然的な結果を生じる神の力、現在のかなたにある末来の生活、人の子らの父としてたえず彼らの真の利害を見守っていて下さる神についてあかしされた。主は、サドカイ人の利己的な排他心が責められるようないつくしみとあわれみの中に天来の力のわざをあらわされた。主は、神がこの世における人間の幸福のためにも永遠の幸福のためにも聖霊によって人の心に働かれることをお教えになった。品性を生まれ変わらせることを人間の力にたよることはまちがっている。それは神のみたまによってのみ行われるのだということを主はお示しになった。 DA 989.1

この教えを、サドカイ人は信用しないことに心をきめていた。イエスと論争することによって、彼らは、イエスを罪に定めることはできないまでも、不評判に陥れることができると確信していた。彼らがイエスに質問するために選んだ主題は復活の問題であった。もしイエスが自分たちに同意されたら、パリサイ人をますます怒らせることになる。もし自分たちと意見がちがったら、その教えを嘲笑するつもりであった。 DA 989.2

サドカイ人の議論によれば、もし肉体が来世においても現世の時と同じ物質の分子で構成されるとすれば、死からよみがえった時、それは肉と血(肉体)をそなえていなくてはならない。そしてこの地上で中断された生活を永遠の国において続けるべきであるというのである。その場合、地上の関係が続き、夫と妻は再会し、結婚が行われ、すべてのことが死ぬ前と同じように続けられ、この世の弱さと欲望が来世においてもそのまま続くと彼らは結論した。 DA 989.3

彼らの質問に答えて、イエスは来世の生活の幕を開かれた。「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」と主は言われた(マタイ22:30)。主はサドカイ人の信念がまちがっていることをお示しになった。彼らの前提がまちがっているのであった。「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」と、主はつけ加えられた(マルコ12:24)。主は、パリサイ人を非難された時のようにサドカイ人を偽善者呼ばわりしないで、彼らの信念のまちがいを示された。 DA 989.4

サドカイ人は、すべての人たちの中で自分たちが一番聖書に忠実であるとうぬぼれていた。しかしイエスは、彼らが聖書の真の意味を知っていないということを示された。聖書の知識は聖霊の光によって心にきざまれねばならない。聖書と神の力について知らないことが、彼らの信仰の混乱と心の暗さの原因であると、イエスは言明された。彼らは神の奥義を彼らの限られた考え方で理解しようと努力していた。キリストは、理解力を広くそして強くするような聖なる真理に、彼らの心を開くように呼びかけられた。限りある頭脳で神の奥義をさとることができないために、幾千の人たちが無神論者になる。彼らは神の摂理のうちにあらわされているふしぎな神の力を説明することができない。そこで彼らは、このような力の証拠をこばみ、それをもっと理解することのできない自然の力のせいにする。われわれをとりまいている神秘を解く唯一の鍵は、それらのすべての中に神の存在と力とをみとめることである。人は神を宇宙の創造者、すべてのことを命令し実行されるお方としてみとめなければならない。彼らは、神のご品性と神の力の神秘についてもっと広い見解を持つ必要がある。 DA 989.5

もし死人の復活がなければ、彼らが信じると告白している聖書は何の役にもたたないであろうと、キリストは聴衆に言明された。「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、 ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と主は言われた(マタイ22:31、32)。神は無いものを有るかのようにごらんになる。神は始めから終わりをごらんになり、ご自分の働きの結果をあたかもいま完成されているかのようにごらんになる。アダムを始めとして、死んだ最後の聖徒にいたるまで、とうとい死人たちは神のみ子の声を聞き、墓から現れて永遠の生命をうけるのである。神は彼らの神となり、彼らは神の民となる。神とよみがえった聖徒たちとの間には密接で親しい関係がある。神の御目的の中に予期されているこの状態を、神はそれが現在の状態であるかのようにごらんになる。死んだ者は神に生きるのである。 DA 989.6

キリストのことばでサドカイ人は沈黙させられた。彼らはキリストに答えることができなかった。キリストを罪に定めるためにすこしでも乗ずることのできるようなことばはひとことも語られなかった。キリストの敵どもは民衆の軽べつ以外に何も得るところがなかった。 DA 990.1

しかしながらパリサイ人たちは、イエスを不利におとしいれるために用いることのできることばをイエスに語らせることをあきらめなかった。彼らはある学識のある律法学者を説き伏せて、律法の10の戒めの中でどれが最も重要かということをイエスに質問させた。 DA 990.2

パリサイ人は、創造主に対する人の義務が示されている最初の4つの戒めを、人間同胞に対する人の義務を規定している他の6つの戒めよりもはるかに重要なものとしてとうとんでいた。その結果、彼らは実際的な信心に非常に欠けていた。イエスは人々に彼らの大きな欠点を示し、木はその実によって知られるのだと言明して、よいわざが必要であることを教えられた。そのためイエスは、はじめの4っの戒めよりもあとの6つの戒めをとうとんでおられるという非難を受けておられた。 DA 990.3

律法学者は、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」との率直な質問をもってイエスに話をもちかけた(マルコ12:28)。キリストの答は率直で説得力のあるものであった。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をっくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』」(マルコ12:29)。第二の戒めも、第一の戒めと同じである、なぜならそれは第一の戒めから出るものだからであると、キリストは言われた。「『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。「これらの2つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マルコ12:31、マタイ22:40)。 DA 990.4

十戒のはじめの4つは、「心をつくして主なるあなたの神を愛せよ」という1つの人きな戒めに要約される。あとの6つは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というもう1つの戒めに含まれる。これらの戒めは2つとも、愛の原則の表現である。第二の戒めを破りながら第一の戒めを守ることはできないし、また第一の戒めを破りながら第二の戒めを守ることもできない。神が心の王座に正当な座を占められる時に、正当な場所がわれわれの隣人に与えられる。われわれは自分自身と同じように神を愛するようになる。こうして神を最高に愛する時にのみ、隣人を公平に愛することができるのである。 DA 990.5

すべての戒めは神と人とに対する愛に要約されるので、1つの戒めを破ればこの原則を犯すことになる。こうしてキリストは、聴衆に、神の律法は、あるものは非常に重要であるが、あるものはそれほど重要ではないから無視してもさしつかえないといったような、多くの別々な戒めではないということをお教えになった。主ははじめの4つとあとの6つの戒めを聖なる全体として示し、神への愛は神のすべての戒めに従うことによって示されることをお教えになっている。 DA 990.6

イエスに質問した律法学者は、律法について博学だったので、イエスのことばに驚いた。彼は、イエスが聖書についてこんなに深く完全な知識を表明されるとは予期していなかった。彼は聖なる戒めの根底となっている原則についてもっと広い見方をするよう になった。彼は祭司たちと役人たちが集まっている前で、キリストが律法の正しい解釈をくだされたことを正直にみとめてこう言った。 DA 990.7

「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」(マルコ12:32、33)。 DA 991.1

キリストの賢明な答が律法学者を心服させたのであった。律法学者は、ユダヤ人の宗教が内部の信心にはなくて、外面的な儀式にあることがわかった。彼は単なる儀式的なささげ物や、罪のあがないとして信仰もなく血を流すことが無益であることにいくらか気づいた。神への愛と服従、人に対する無我の関心が、そうしたすべての儀式よりもとうといものに思えた。この男がキリストの議論の正しさをすぐにみとめ、人々の前ではっきりとただちに応答したことは、祭司たちや役人たちとまったく異なった精神をあらわしていた。自分の心の確信を語るために、祭司たちの不興と役人たちのおどかしにあえて直面したこの正直な律法学者に、イエスの心は同情となってそそがれた。「イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、『あなたは神の国から遠くない』」(マルコ12:34)。 DA 991.2

この律法学者は、正しい行為は燔祭や犠牲よりも神に受け入れられるということをみとめた点において、神の国に近かった。しかし彼は、キリストの神性をみとめ、イエスを信じる信仰によって義のわざを行う力を受ける必要があった。儀式は、生きた信仰によってキリストとっながっていないかぎり、何の価値もなかった。道徳律でさえ、それが救い主との関連において理解されないかぎり、その目的を達しない。天父の律法には単に権威のある命令よりももっと深い何ものかが含まれているということを、キリストはくりかえし示された。律法には、福音にあらわされているのと同じ原則が具体的にあらわされている。律法は人の義務を指摘し、その不義を示す。人は罪のゆるしと、律法に命じられていることを行う力をキリストに求めなければならない。 DA 991.3

キリストが律法学者の質問に答えられた時、パリサイ人たちがイエスのすぐそばに集まっていた。そこでイエスは、彼らに向かって、「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」とおたずねになった(マタイ22:42)。この質問は、メシヤについて彼らの信念をためすため、すなわち彼らがイエスを単に人間として見ているのか、それとも神の子として見ているのかをはっきりさせるためであった。彼らは口をそろえて、「ダビデの子です」と答えた(マタイ22:42)。これは預言の中でメシヤについていわれた肩書きであった。イエスがその偉大な奇跡によって神性をあらわされた時、また病人をいやし、死人をよみがえらせられた時、人々はお互いに、「この方はダビデの子ではないか」とたずねた。スロ・フェニキヤの女や、盲人のバルテマイや、その他の多くの者も、イエスに助けを求めて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と叫んだ(マタイ15:22)。イエスがエルサレムへ乗りこまれる時にも、人々は喜びの叫びをあげて、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ」と歓呼した(マタイ21:9)。宮の中にいた子供たちも、その日、よろこぼしい賛美をひびかせた。しかしイエスをダビデの子と呼んだ多くの者は、イエスの神性をみとめなかった。彼らはダビデのみ子が神のみ子でもあることをさとらなかった。 DA 991.4

ダビデの子であると彼らがのべたことばに答えて、「イエスは言われた、『それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち「主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい」。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか』。イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった」(マタイ22:43~46)。 DA 991.5