各時代の希望
第65章 ふたたびきよめられた宮
本章はマタイ21:12~16、23~46、マルコ11:15~19、27~32、12:1~12、ルカ19:45~48、20:1~19に基づく DA 979.2
キリストは、公生涯の始めに、けがれた商売によって宮をけがしていた者たちを宮から追い出された。そのきびしい、威厳のある態度はずるい商人たちの心に恐怖を与えた。公生涯のおわりに、主はもう1度宮にこられて、そこが前と同じようにけがされているのをごらんになった。事態は前よりもひどかった、宮の外庭は広い家畜置場のようであった。動物の鳴き声と貨幣のかん高い音に商人たちの怒った口論の声がまじり、その中に聖職者たちの声がきかれた。宮の当局者たちが自ら売り買いと金銭の両替をやっていた。彼らはまったく利欲に動かされていたので、神の御目にはどろぼうとかわらなかった。 DA 979.3
祭司たちと役人たちは、自分たちが果たさねばならない厳粛な任務にすこしも気づいていなかった。過越節と仮庵の祭のたびに、幾千の動物が殺され、その血が祭司たちの手によって祭壇にそそがれた。ユダヤ人は血をささげることに慣れてしまって、動物の血をこのように流さねばならないのは罪のためであるという事実をほとんど忘れていた。彼らは、それが神のいとし子の血を予表するものであって、それは世の人々のいのちのために流されるのだということ、人はいけにえをささげることによって、十字架につけられた救い主に心を向けるのであるということをみとめていなかった。 DA 979.4
イエスは、けがれのない犠牲の動物をごらんになって。ユダヤ人がこうした大きな集会を流血と残酷の場としているのをごらんになった。へりくだって罪を悔い改めることをしないで、彼らは、心のこもらない奉仕によって神をあがめることができるかのように、動物のいけにえの数を増していた。祭司たちと役人たちは、利己心と貧欲心のために心がかたくなになっていた。彼らは、神の小羊イエスをさし示している象徴さえ、金もうけの手段としていた。こうして、人々の目の前で、犠牲制度の神聖さは大部分失われていた。イエスの憤激がわき起こった。イエスは、もうすぐ世の罪のために流されるご自分の血が、たえず流されている動物の血と同じように、祭司たちと長老たちからすこしも理解されないことをご存じであった。 DA 979.5
こうした習慣に対して、キリストは預言者たちを通して語っておられた。サムエルは、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」と言った(サムエル上15:22)。またイザヤは、預言のまぼろしの中でユダヤ人の背信を見て、ソドムとゴモラの統治者としての彼らに告げた、「あなたがたソドムのつかさたちよ、主の言葉を聞け。あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教に耳を傾けよ。主は言われる、『あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか』」(イザヤ1:10~12)。「あなたが たは身を洗って、清くなり、わたしの日の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」(イザヤ1:16、17)。 DA 979.6
こうした預言を自らお与えになったキリストが、いま最後にもう1度この警告をくり返された。預言の成就として、民は、イエスをイスラエルの王として宣言していた。イエスは彼らの敬意を受け、王位を受けられた。王としてイエスは行動されなければならない。主は堕落した祭司制度を改革しようとするご自分の努力がむだであることを知っておられた。それにもかかわらず主の働きはなされねばならない。信じない民に、主天来の使命について証拠を与えねばならない。 DA 980.1
ふたたびイエスの鋭い視線がけがされた宮の庭にそそがれた。すべての目がイエスの方へ向けられた。祭司も役人も、パリサイ人も異邦人も、天の王の威厳をもって目の前に立っておられるイエスを驚きとおそれの念をもって見た。神性が人性を通してひらめき、キリストは、これまでかつてあらわされたことのなかった威厳と栄光を帯びられた。主のいちばん近くに立っていた人たちは、できるだけ群衆の方へ遠ざかった。少数の弟子たちのほかには、イエスは1人で立っておられた。あらゆる音がしずまった。深い沈黙は耐えがたいように思われた。キリストは、すさまじい嵐のように民をゆすぶる力をもって語られた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(マルコ11:17)。イエスの声はラッパのように宮じゅうに響きわたった。主のみ顔の不興は焼きつくす火のようにみえた。権威をもって、主は、「これらのものを持って、ここから出て行け」と命じられた(ヨハネ2:16)。 DA 980.2
3年前に、宮の役人たちは、イエスの命令に逃げ出して恥をかいた。それ以来彼らは、自分たちが恐れを感じたことと、ただ1人のいやしい人間に無条件に従ったことをふしぎに思っていた。こんな不面目な屈服をふたたびくりかえしてはならないと彼らは思っていた。ところが彼らは、今度は前よりももっと恐ろしくなり、もっとあわててイエスの命令に従ったのである。イエスの権威を疑う者はだれもいなかった。祭司たちと商人たちは家畜を追い立てながら、イエスの前から逃げ出した。 DA 980.3
宮から逃げる途中、彼らは、大医師イエスをたずねながら病人を連れてきた群の人たちに出会った。逃げて行く人たちから話を聞いて、中には引き返す者たちもいた。彼らは、祭司たちと役人たちをひとにらみで目の前から追い払われたほどの力のあるお方に会うのがこわかった。しかし大勢の者たちが彼らの唯一の望みであるイエスのもとに行こうと熱望して、あわただしく逃げて行く群衆の中を押し進んだ。群衆が宮から逃げ出したあとには、まだ多くの者が残っていた。この人たちと新しくやってきた人たちとがいっしょになり、宮の庭はもう1度病人や死にかけている人たちでいっぱいになった。そこでもう1度イエスはこれらの人々に奉仕された。 DA 980.4
しばらくして、祭司たちと役人たちは思いきって宮へもどってきた。あわてふためいた気持ちがすこし落ちついてくると、彼らはイエスが次にどんな行動をとられるかを知りたいという思いにとりつかれた。彼らはきっとイエスがダビデの位につかれるのだと思った。そっと宮へもどってくると、彼らは、男や女や子供たちが神を賛美している声を聞いた。中へはいってみて、彼らは驚くべき光景の前にぼうぜんと立ちすくんだ。彼らは、病人がいやされ、目の見えない人が視力を回復し、聞こえない人が聞こえるようになり、足の不自由な人が喜びにおどりあがっているのを見た。子供たちがまっさきによろこんでいた。イエスが彼らの病気をいやされたのである。主は、彼らを両腕にいだき、彼らの感謝と愛情の接吻をお受けになった。子供たちの中には、人々に教えておられるイエスの胸によりかかって眠っている者もあった。いま喜びの声をあげて、子供たちは主を賛美した。彼らは前の日のホサナをくりかえし、救い主の前に意気 揚々としゅろの枝をふった。「主のみ名によってはいる者はさいわいである」「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得」、「ダビデの子に、ホサナ」と叫ぶ彼らの歓呼に、宮は反響をくりかえした(詩篇118:26、ゼカリヤ9:9、マタイ21:9)。 DA 980.5
このようなよろこぼしい、遠慮のない声の響きは宮の役人たちにとって不快であった。彼らはこのようなデモンストレーションをやめさせようとしはじめた。そして神の家が子供たちの足と喜びの叫び声にけがされたと人々に言った。自分たちのことばが人々の心を動かさないことを知ると、役人たちは、キリストに訴えて言った、「『あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか』。イエスは彼らに言われた、『そうだ、聞いている。あなたがたは「幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた」とあるのを読んだことがないのか』」(マタイ21:16)。キリストが王として宣言されるということが預言に予告されていたが、このことばは成就しなければならない。イスラエルの祭司たちと役人たちが、キリストの栄光を先触れすることをこばんだので、神は子供たちの心に働いて、彼らをキリストの証人とされた。もし子供たちの声が沈黙させられたら、宮の柱が救い主の賛美をひびかせたであろう。 DA 981.1
パリサイ人たちはすっかりまごつき、混乱した。彼らがおどかすことのできないお方が指揮しておられた。イエスは宮の保護者としての立場をとられた。主はこれまでこのように堂々たる権威のある態度をとられたことがなかった。主のことばとわざにこれほど大きな力があったことはこれまでになかった。主はエルサレムのいたるところでふしぎなわざを行われたが、これほど厳粛で印象的な態度をとられたことはなかった。主のふしぎなみわざを目撃した人々の前では、祭司たちと役人たちは、あえて主に公然たる敵意を見せようとしなかった。イエスの答に怒り、まごつきながらも、彼らはその日はそれ以上どうすることもできなかった。 DA 981.2
次の朝、サンヒドリンは、イエスに対してとるべき手段についてもう1度考慮した。3年前に、彼らは、イエスにメシヤであることの証拠を要求した。その時から、イエスは全国で偉大なわざを行われた。主は病人をいやし、数千人の人たちを奇跡的に養い、波の上を歩き、波立つ海をみことばでしずめられた。主は、人々の心をあたかも開かれた本を読むかのように何度も読まれた。主は悪鬼を追い出し、死人をよみがえらせられた。イエスがメシヤであるという証拠は、役人たちの目の前にあった。そこで彼らは、イエスの権威のしるしを求めないで、イエスから何らかの告白か宣言を引き出し、それによってイエスを罪に定めようと決心した。 DA 981.3
イエスが教えておられる宮へ入って行って、彼らはイエスに、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」と質問しはじめた(マタイ21:23)。彼らは、イエスが自分の権威は神からさずけられたのだと主張されるものと期待した。このような主張をされたら、彼らはそれを否定するつもりであった。しかしイエスは、ほかの問題に関連しているようにみえる質問で彼らに応じられた。そしてイエスは、この質問に彼らが答えたらわたしも答えようと言われた。「ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」とイエスは言われた(マタイ21:25)。 DA 981.4
祭司たちは、自分たちがどんな理屈を並べても、のがれることのできないジレンマに陥ったことを知った。もしヨハネのバプテスマは天からだと言えば、彼らの矛盾が明らかになる。ではなぜあなたがたはヨハネを信じなかったのかとキリストは言われるだろう。ヨハネはキリストについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とあかしした(ヨハネ1:29)。もし祭司たちが、ヨハネのあかしを信じるなら、どうしてキリストがメシヤであることを否定することができよう。もし彼らが本当の信念、すなわちヨハネの使命は人からだと宣言すれば、彼らは怒りの嵐を招くであろう。なぜなら人々はヨハネを預言者と信じていたからである。 DA 981.5
熱心な興味をもって、群衆は決定を待った。彼らは、祭司たちがヨハネの使命を受け入れると告白したのを知っていたので、ヨハネが神からつかわされたということを問題なくみとめるだろうと期待した。ところがひそひそと相談し合ってから、祭司たちは何にも言わないことにきめた。偽善的に無知をよそおいながら、彼らは、「わたしたちにはわかりません」と言った(マタイ21:27)。するとキリストは、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」と言われた(マタイ21:27)。 DA 982.1
学者たち、祭司たち、役人たちはみなだまった。彼らは、どうしてよいかわからず、失望し、それ以上キリストに質問を浴びせる元気もなく、まゆをよせて。立ったままであった。臆病と優柔不断のために、彼らは人々の尊敬を大部分失った。人々はいまそばに立って、これらの高慢な、自らを義とする入たちが敗北するのを見ておもしろがった。 DA 982.2
キリストのこうしたすべての言行は重要であって、その影響は、キリストが十字架につけられ、昇天されてから一層強くみられるのであった。イエスに対する質問の結果を熱心に待った人々のうちの多くは、はじめはこの出来事の多かった1日におけるイエスのみことばによってイエスにひかれ、最後にはその弟子になることになった。宮の庭の光景は彼らの心から決して消えなかった。イエスが大祭司と語られた時、2人の対照はきわだっていた。宮の最高位にあるいばった大祭司は、豪華で高価な衣服を身につけていた。その頭にはきらめくテアラー(宝冠)がのっていた。彼の挙動には威厳があって、その髪の毛と長くなびいているあごひげは老齢のために銀色をしていた。彼の外観は見る者を恐れさせた。 DA 982.3
この威風堂々たる人物の前に、天の大君が何の飾りもみえもなく立っておられた。主の衣は旅によごれ、その顔は青くてがまん強い悲しみがあらわれていた。しかしそこには、高慢で自信満々として、恐ろしい様子をしている大祭司と奇妙な対照をなしている尊厳と慈悲が書かれていた。宮の中でイエスのことばと行いを見聞きした者たちの多くは、その時から、イエスが神の預言者であることを、心の中に秘めていた。しかし人々の心がイエスに傾くにつれて、イエスに対する祭司たちの憎しみがました。イエスがご自分の足にしかけられたわなをのがれられた知恵は、イエスの神性についての新しい証拠となったので、彼らの怒りに油がそそがれた。 DA 982.4
ラビたちとの論争において、相手に恥をかかせることがキリストの目的ではなかった。主は彼らの苦境を見ることをよろこばれなかった。キリストはたいせっな教訓を教えようとされたのであった。主は、敵どもが主の前にかけたわなに彼ら自身が落ち込むままにして恥ずかしい思いを彼らにさせられた。ヨハネのバプテスマの性格について彼らが無知を告白したことによって、主は語る機会をつかみ、その機会を利用して彼らの真の状態を示し、これまですでに与えられた多くの警告にさらにもう1つを加えられた。 DA 982.5
イエスは言われた、「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は「いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」(マタイ21:28~31)。 DA 982.6
この不意の質問は、聞いている者たちに警戒心を忘れさせた。彼らはこの譬を注意深く聞いていたので、すぐに「あとの者です」と答えた(マタイ21:31)。イエスは彼らにじっと目をそそいで、きびしくおごそかな調子でこれに応じられた。「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31、32)。 DA 982.7
祭司たちと役人たちはキリストの質問に対して正しい答をしないわけにいかなかった。こうして主は、弟 の立場を支持する彼らの意見をはっきりさせられた。この息子は、パリサイ人たちから軽べつされ憎まれている取税人たちを代表していた。取税人たちはひどく不道徳であった。彼らは実際神の律法の違反者たちであり、神のご要求に対する頑固な抵抗をその生活に表していた。彼らは感謝することを知らず、けがれていた。主のぶどう園に行って働くように命じられた時、彼らは軽べつしてことわった。しかしヨハネがきて、悔い改めとバプテスマを説いた時、取税人たちは、ヨハネのことばを信じてバプテスマを受けた。 DA 982.8
兄の方はユダヤ国民の指導的な人々を代表していた。パリサイ人の中には悔い改めてヨハネのバプテスマを受けた者もあった。しかし指導者たちは、ヨハネが神からつかわされたことをみとめようとしなかった。ヨハネの警告と告発は、彼らを改革するにいたらなかった。彼らは、「彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした」(ルカ7:30)。彼らはヨハネのことばを軽べつ的にあしらった。呼ばれた時に、「おとうさん、参ります」と言いながら行かなかった兄のように、祭司たちと役人たちは、口では従いますと言いながら、行為においては従っていなかった。彼らは神を敬っていると大きな口をきき、また神の律法に従っていると主張したが、それは偽りの従順にすぎなかった。取税人たちはパリサイ人から不信心者として非難され、のろわれていた。しかし彼らは、大きな光を与えられていながらその行いが敬神の告白に一致しないで、しかも自らを義としているそうした人たちよりも先にみ国に入ることを、その信仰と行いによって示した。 DA 983.1
祭司たちと役人たちは、こうした鋭い真理をがまんしたくなかった。しかしイエスを攻撃する手がかりとなるようなことを何かイエスが言われるだろうと思って、だまっていた。しかし彼らはもっとがまんしなければならなかった。 DA 983.2
「もう1つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を堀り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した、このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」(マタイ21:33~40)。 DA 983.3
イエスは居合わせたすべての人に語りかけておられた。しかし祭司たちと役人たちが答えた、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」(マタイ21:41)。こう言った人たちは、この譬の適用が最初わかっていなかったが、しかしいま彼らは、自分自身の罪の宣告をくだしたことに気がついた。この譬の中で、家の主人は神を、ぶどう園はユダヤ国民を、かきは彼らの保護となっている神の律法をあらわしていた。やぐらは宮の象徴であった。ぶどう園の主人は、その繁栄のために必要ないっさいのことをした。「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか」と彼は言っている(イザヤ5:4)。 DA 983.4
このように、イスラエルに対する神のたゆまない守りがあらわされた。そして、農夫たちがぶどう園の収穫のきまった一部を主人に返すべきであったように、神の民はその聖なる特権にふさわしい生活を送ることによって神をあがめるべきであった。しかし、わけ前を受け取るために主人からつかわされたしもべたちを農夫たちが殺してしまったように、ユダヤ人は、神が彼らに悔い改めを呼びかけるためにつかわされた預言者たちを殺してしまった。使者たちは次々に殺された。ここまでは譬の適用に疑問はなかったが、つづく話の中でもその適用はこれにおとらないほど明らかであった。ぶどう園の主人が不従順なしもべ たちに最後につかわし、しかもしもべたちにとらえられて殺された愛する子のうちに、祭司たちと役人たちはイエスとそのさし迫った運命についてはっきりした描写を見たのであった。すでに彼らは天父が最後の訴えとして彼らに送られたお方を殺す計画をたてていた。忘恩的な農夫たちの上に加えられた報復のうちに、キリストを死刑にする者たちの運命がえがかれていた。 DA 983.5
憐れみの思いをこめて彼らを見わたしながら、救い主は続けて言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(マタイ21:42~44)。 DA 984.1
この預言をユダヤ人はしばしば会堂でくり返し、それをきたるべきメシヤにあてはめていた。キリストはユダヤ人の制度と救いの計画全体の隅のかしら石であった。この土台石を、ユダヤ人の建築家、すなわちイスラエルの祭司たちと役人たちはいま捨てようとしていた。救い主は、彼らの危険が示されている預言に彼らの注意を呼び起こされた。主は、可能なかぎりあらゆる手段をつくして、彼らがしようとしている行為の性格を明らかにしようとされた。 DA 984.2
主のみことばにはほかの目的もあった。「このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」と質問することによって、キリストはパリサイ人たちがあのような答え方をするようにはかられた(マタイ21:40)。主は彼らが自分自身の上に罪の宣告をくだすようにはかられたのであった。主の警告が彼らのうちに悔い改めを起こさない時に、それは彼らの運命を決定的なものとするのであった。 DA 984.3
そこで主は、彼ら自身が自分たちの上に破滅を招いたことをみとめるように望まれた。主は、彼らの国家的な特権が取り去られることに含まれている神の公義を彼らに示すように計画された。この特権の喪失はすでに始まっていて、その結果は彼らの宮と都との破滅ばかりでなく、国民の離散となろのであった。 DA 984.4
聞いている人たちはこの警告に気づいた。しかし祭司たちと役人たちは、彼ら自身宣告をくだしたにもかかわらず、「あれはあと取りだ。さあ、これを殺」そうと言うことによって、その場面を実現しようとしていた(マタイ21:38)。彼らは「イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた」。なぜなら世論がイエスを支持していたからである(マタイ21:46)。 DA 984.5
捨てられた石についての預言を引用された時、キリストは、イスラエルの歴史に実際に起こったことを語られた。この出来事は最初の宮の建築と関係があった。それは特にキリストの初臨の時代にあてはまり、ユダヤ人に特別な力をもって訴えるはずであったが、同時にまた、われわれのためにも教訓となっている。ソロモンの神殿が建てられた時、壁と土台のための巨大な石は全部石切場で用意された。それらの石が建築場へはこんでこられると、手を加えないでそのまま用いられ、職人たちはその場所にすえつけさえすればよかった。ところがここに土台として用いるために、異常に大きく特殊な形をした1つの石がはこばれてきた。しかし職人たちはその石の場所をみつけることができないので、これを受け入れようとしなかった。それが用いられないでじゃまになっているのは、彼らにとって迷惑であった。長い間それは捨てられた石であった。しかし建築家たちが隅のおや石を据える段になると、この特別な場所を占め、その上にかかる巨大な重みに耐えるのに十分な大きさと力と独特な形をした石をみつけるために、彼らは長い間さがした。この重要な場所のために選択を誤れば、建物全体の安全がおびやかされるのであった。彼らは、太陽や霜や嵐の作用に耐えることのできる石をさがし出さねばならなかった。何度かいくつかの石が選ばれたが、巨大な重さの圧力の下にこなごなにくだけた。またほかのものは大気の突然の変化のテストに耐えられなかった。 DA 984.6
しかし最後に、長い間捨てられていたあの石に注意が向けられた。それは空気と太陽と嵐にさらされながら、すこしの割れ目もみせていなかった。建築家たちはこの石を検査した。それはあらゆるテストに合格し、ただ1つのテストが残った。もしこの石が激しい圧力のテストに耐えることができたら隅のおや石として受け入れようと、彼らはきめた。テストが行われた。石は受け入れられ、指定された場所へはこばれ、ぴったりと合った。預言のまぼろしの中で、イザヤは、この石がキリストの象徴であることを示された。彼はこう言っている、 DA 985.1
「あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。主はイスラエルの2つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕らえられる」(イザヤ8:13~15)。イザヤは、預言のまぼろしの中で初臨の時までつれて行かれ、キリストが、ソロモンの神殿における隅のおや石の取り扱いに象徴されていたような試みとテストに耐えられることを示される。「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに1つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。「信ずる者はあわてることはない」』」(イザヤ28:16)。 DA 985.2
神は、限りない知恵をもって、隅のおや石をえらび、それをご自分で据えられた。神はそれを「堅くすえた隅の石」と呼ばれた。全世界の人々が彼らの重荷と不幸をその上にのせても、この石はそれらの全部にもちこたえるのである。彼らがその上に築いても絶対に安全である。キリストは「試みを経た石」である。主は、ご自分に信頼する者を決して失望させられない。主はどのテストにも耐えられた。主は、アダムの不義と、その子孫の不義の圧力に耐え、悪の勢力に打ち勝って余りある者となられた。主はすべての悔い改める罪人がのせる重荷に耐えられた。不義の心は、キリストのうちに救いをみいだした。主は「堅くすえた隅の石」である。主によりたのむ者はみな絶対に安全である。 DA 985.3
イザヤの預言の中に、キリストのことが「堅くすえた隅の石」とも「つまずきの岩」とも宣言されている。使徒ペテロは、聖霊の感動によって書いた時、キリストがだれにとっては堅くすえられた石であり、だれにとってはつまずきの岩となるかをはっきり示している。 DA 985.4
「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』。この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである」(Ⅰペテロ2:3~8)。 DA 985.5
信じる者には、キリストは堅くすえられた隅のかしら石である。これらの人々は、岩なるキリストの上に落ちて砕ける人たちである。ここにキリストへの服従とキリストを信じる信仰があらわされている。岩なるキリストの上に落ちて砕けることは、自らを義とする思いを捨てて、子供のようなへりくだりをもってキリストのみもとに行き、罪とがを悔い改め、キリストのゆるしの愛を信じることである。われわれが隅のかしら石であられるキリストの上に築くのも、信仰と服従によってである。 DA 985.6
この生ける石の上に、ユダヤ人も異邦人も同様に築くことができる。それはわれわれがその上に安全に築くことのできる唯一の隅のかしら石である。それはすべての者のために十分な広さがあり、全世界の重さと重荷を支えるのに十分な強さがある。そして、生ける石であられるキリストにつながることによっ て、この隅のかしら石の上に築く者はみな生ける石となるのである。 DA 985.7
多くの人々が自分自身の努力によって切られ、磨かれ、美しくされる。しかし彼らは、キリストとつながっていないので、生ける石となることはできない。このつながりがなければ、だれも救われない。われわれのうちにキリストのいのちがないならば、試みの嵐に耐えることができない。われわれの永遠の安全は、堅くすえられた隅のかしら石に築くことにかかっている。今日多くの者が試みを経ていない土台の上に築いている。雨が降り、嵐が吹き荒れ、洪水になると、彼らの家は倒れる。なぜなら、それは永遠の岩、隅のかしら石であられるイエス・キリストの上に建てられていないからである。 DA 986.1
「彼らがつまずくのは、御言に従わないからであ」る(Ⅰペテロ2:8)。キリストはつまずきの岩である。しかし「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」である(Ⅰペテロ2:7)。捨てられた石と同じように、キリストは、地上の公生涯において、無視され、侮辱を受けられた。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で……侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)。しかし主が栄光を受けられる時が近づいていた。死からよみがえることによって、主は「御力をもって神の御子」と宣言されるのであった(ローマ1:4)。イエスは、再臨の時に、天と地の主としてあらわされるのであった。主をいま十字架につけようとしている人々は、主の偉大さをみとめるのであった。捨てられた石は、宇宙の面前で隅のかしら石となるのであった。 DA 986.2
また「それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(マタイ21:44)。キリストをこばんだ民は、まもなく彼らの都と国が滅ぼされるのを見るのであった。彼らの栄光はうち砕かれ、風の前のちりのように吹き散らされるのであった。 DA 986.3
ではいったいユダヤ人を滅ぼしたものは何であったのだろうか。それは、もし彼らがその上に築いていたら彼らの安全となったはずの岩であった。それはあざけられた神の恵み、拒絶された義、軽んじられたいつくしみであった。人々は神に反対したので、彼らの救いとなるはずだったものがすべて滅亡とかわった。神がいのちにいたるように定められたものが死にいたるものとなったことを彼らは知った。 DA 986.4
ユダヤ人がキリストを十字架につけたことの中に、エルサレムの滅亡が含まれていた。カルバリーで流された血は、ユダヤ人をこの世ときたるべき世において滅亡へ沈めた重さであった。神の恵みをこぼんだ者に対してさばきがのぞむ大いなる最後の日もこれと同じである。彼らにとってはつまずきの百であるキリストは、その時彼らには復讐の山とみえるのである。主のみ顔の輝きは、義人にはいのちであろが、悪人には焼きつくす火となるのである。愛をこばみ、恵みをあなどったために、罪人は滅ぼされるのである。 DA 986.5
多くの例をあげ警告をくりかえして、イエスは、ユダヤ人が神のみ子をこばむ結果がどんなものであるかを示された。これらのみことばを通して、キリストはまた、彼をあがない主として受け入れようとしない各時代のすべての人々に語りかけておられた、1つ1つの警告は彼らのためである。けがされた宮、不従順な息子、いつわりの農夫、侮べつ的な建築者などはみな1人1人の罪人の経験に反映している。罪人は悔い改めないかぎり、そうしたものに予表されていた運命が彼のものとなるのである。 DA 986.6