各時代の希望
第64章 滅ぶべき民
本章はマタイ21:17~19、マルコ11:11~14、20、21に基づく DA 975.4
キリストの凱旋的なエルサレム入城は、天使たちの勝ち歌と聖徒たちの喜びのうちにキリストが力と栄光をもって天の雲に乗ってこられるありさまをかすかに予表していた。キリストが祭司たちとパリサイ人たちに、「『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」と言われたことばが、その時成就するのである(マタイ23:39)。ゼカリヤは、預言のまぼろしの中で、その最後の勝利の日を示された。彼はキリストの初臨の時に主をこばんだ人々の滅びを見た。「彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういこのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ」(ゼカリヤ12:10)。キリストは、都をごらんになってこの町のために泣かれた時、この場面を予見された。エルサレムの一時的滅亡のうちに、キリストは、神のみ子の血について罪のあるこの人たちの最後的な滅亡をごらんになった。 DA 975.5
弟子たちは、キリストに対するユダヤ人の憎しみを知っていたが、しかしそれがどういうことになるかはまだわかっていなかった。彼らはまだイスラエルの真の状態を理解してもいなければ、エルサレムにのぞもうとしている刑罰についてもわかっていなかった。このことを、キリストは、意味の深い実物教訓によって彼らにお示しになった。 DA 975.6
エルサレムに対する最後の訴えはむだであった。祭司たちと役人たちは、「これは、いったい、どなただろう」という質問に対する答として、過去の預言の声が群衆によってくりかえされるのを聞いたが、彼らはそれを神の声として受けなかった。怒りと驚きのうちに、彼らは人々を沈黙させようとした。群衆の中にはローマの役人たちがいたので、キリストの反対者たちは役人たちに向かって、イエスは反乱の指導者であると告発した。反対者たちはキリストが宮を占領し、主としてエルサレムを統治しようとしておられると主張した。 DA 975.7
しかしイエスが、自分はこの世の支配権を確立するためにきたのではないと、ふたたび断言された時、イエスの落ちついたお声は、一瞬間、騒々しい群衆をだまらせた。イエスはまもなく天父のもとにのぼられ、イエスを非難する者たちは、主が栄光のうちにふたたびこられるまでもう主を見ることはないのである。その時になって主をみとめても、彼らの救いはすでに手遅れである。そうしたことばを、イエスは悲しみとふしぎな力をもってお語りになった。ローマ人の役人たちは威圧されて沈黙した。彼らは天来の感化力というものを知らなかったが、これまでかつてなかったほど心を動かされた。イエスの落ち着いた、おごそかな顔から、彼らは愛と慈悲と静かな威厳とを読みとった。彼らは、理解できない同情に心を動かされた。イエスを捕らえるどころか、彼らはむしろイエスに敬意をささげたかった。彼らは、祭司たちと役人たちに向かって、騒ぎをひき起こしたのはあなたたちだと非難した。これらの指導者たちは、敗北してくやしがり、その不満を民衆に向け、怒って互いに議論し合った。 DA 975.8
その間にイエスは、気づかれないで、宮へ入って行かれた。そこではすべてが静かであった。オリブ山の騒ぎに人々はみな行ってしまっていたからである。しばらくの問イエスは宮にいて、悲しそうな目つきで宮をながめておられた。それから弟子たちといっし よに退いて、ベタニヤへ帰られた。人々がイエスを王座につけるためにさがし求めた時、イエスはみつからなかった。 DA 975.9
1晩中イエスは祈りのうちに過ごされ、朝になってふたたび宮にこられた。途中、イエスはいちじくの園を通りかかられた。主はおなかがすいておられたので、「葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである」(マルコ11:13)。 DA 976.1
その時は、ある場所を除けば、いちじくの熟する季節ではなかった。エルサレム周辺の高地では、当然「いちじくの季節でなかった」。しかしイエスがおいでになった果樹園の中では、1本の木がほかのすべての木よりも早いようにみえた。その木はすでに葉におおわれていた。葉が開く前に実がみのるのがいちじくの木の性質である。だから葉の茂ったこの木にはよく熟した実がありそうにみえた。しかしそれは見かけ倒しであった。木の枝を1番下からてっぺんの小枝までさがしても、「葉のほかは何も見当らなかった」(マルコ11:13)。見かけだけたくさんの葉が茂っていたが、それ以外には何もなかった。 DA 976.2
キリストは、その木が枯れるようにというのろいのことばを出された。「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と主は言われた(マルコ11:14)。次の朝、救い主が弟子たちともう1度都へ行かれる途中、枯れた枝としおれた葉が彼らの注意をひいた。ペテロが、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが枯れています」と言った(マルコ11:21)。 DA 976.3
キリストがいちじくの木をのろわれた行為は、弟子たちを驚かせた。それはキリストの方法やみわざにふさわしくないものに思えた。これまでしばしば彼らは、わたしは世を罪に定めるためではなくわたしを通して世が救われるためにきたのだと、キリストが宣言されるのをきいた。彼らは、「人の子は人の生命を滅ぼすためではなく、これを救うためにきたのである」と言われたキリストのことばを思い出した(ルカ9:56・英語訳聖書)。これまでキリストのふしぎなみわざは、決して滅ぼすためではなく、回復するためになされた。弟子たちは回復してくださるお方、いやしてくださるお方としてしかキリストを知らなかった。しかしこの行為だけは目立っていた。その目的は何であろうと、彼らはたずねた。 DA 976.4
「神はいつくしみを喜ばれ」「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない」(ミカ7:18、エゼキエル33:11)。神にとって滅ぼすわざと刑罰の宣言とは、「異なったものである」(イザヤ28:21)。しかし神が未来の幕を開いて、罪の行為の結果を人々に示されるのは、憐れみと愛によるのである。 DA 976.5
いちじくの木がのろわれたのは、実地に示された譬であった。キリストの面前で、見せかけの葉をひらひらさせている実のならないこの木は、ユダヤ国民の象徴であった。救い主は、イスラエル滅亡の原因と必然性を弟子たちにはっきり示したいと望まれた。この目的のために、主はこの木に道徳的性質をさずけ、これを天来の真理の解説者とされた。ユダヤ人はほかのすべての国民とは異なっていて、神への忠誠を公言していた。彼らは神から特別に恵まれ、ほかのどんな民にもまさる義を主張していた。しかし彼らは世俗への愛着と利欲によって堕落していた。彼らは知識を誇ったが、神のご要求については無知であり、偽善に満ちていた。実のならないいちじくの木のように、彼らはみせかけの枝を高くひろげて外観を誇り、目に美しかったが、「葉のほかは何も」生じなかった(マルコ11:13)。ユダヤ人の宗教は、壮麗な神殿、その聖なる祭壇、帽子をかぶった祭司たちと印象的な儀式があって、外観はまことに美しかったが、謙遜、愛、慈悲に欠けていた。 DA 976.6
いちじくの園の木には全部実がなかった、しかし葉のない木は期待をいだかせず1したがって失望を与えなかった。このような木によって異邦人が象徴されていた。彼らはユダヤ人と同じように信心に欠けていた。しかし彼らは神に仕えるとは告白していなかった。彼らはみせかけの善を誇っていなかっ た。彼らは神のみわざと道がわからなかった。彼らにとって、いちじくの実のなる時はまだきていなかった。彼らは、光と望みが与えられる日をまだ待っていた。ユダヤ人は、彼らよりも大きな祝福を神から受けていたので、そうした賜物の悪用に責任があった。ユダヤ人が自慢していた特権は彼らの不義を増しただけであった。 DA 976.7
イエスは、おなかがすいて、食物をみつけるためにいちじくの木のところへこられたのだった。同様に主は、イスラエル人の中に義の実をみつけようと熱望して、彼らのところにこられたのであった。主は彼らが世の祝福のために実をむすぶように、惜しげもなく賜物を彼らにお与えになった。あらゆる機会と特権が彼らに与えられたが、こんどは主が、ご自分の恵みの働きに、彼らの共鳴と協力とを求められた。主は彼らのうちに自己犠牲、同情、神への熱意、同胞の救いに対する魂の底からの熱意を見たいと望まれた。 DA 977.1
もし彼らが神の律法を守っていたら、彼らはキリストと同じ無我の働きをしたのである。しかし神と人とに対する愛は、誇りと自己満足によっておおわれていた。彼らは人に奉仕することをこばんで自らの上に滅びを招いた。彼らは、神が彼らに委託された真理の宝を世に与えなかった。実のなっていないいちじくの木を通して、彼らは自分たちの罪とその刑罰とを読みとることができたはずである。救い主ののろいの下にしおれ、枯れしなびて立ち、根のかわいたこのいちじくの木は、神の恵みが取り去られた時にユダヤ民族がどうなるかを示していた。祝福を与えようとしなかったために、彼らはもはや祝福を受けられないのであった。「イスラエルよ、あなたはあなたを滅ぼした」と主は言われる(ホセア13:9・英語訳)。 DA 977.2
この警告はどの時代にもあてはまる。キリストがご自分の力でつくられた木をのろわれたこの行為は、すべての教会とすべてのクリスチャンにとって1つの警告である。人に奉仕しないならば、だれも神の律法を生活に実行しているとはいえない。ところがキリストの憐れみ深い、無我の生活を実行していない人が多い。自分はりっぱなクリスチャンであると考えている人々が、神に奉仕することがどんなことであるかをわかっていない。彼らは自分自身をよろこばせるために計画し、学ぶ。彼らは自分自身に関してのみ行動する。時間は自分の利益になる時だけ値うちがある。生活のすべての点において、これが彼らの目的である。人のためではなく、自分自身のために、彼らは奉仕するのである。神は、無我の奉仕を行わねばならない世界に住まわせるために、彼らをつくられた。神は、彼らがあらゆる方法で同胞を助けるように計画された。しかし自我があまりに大きいために、彼らはほかのものは何も見ることができない。彼らは人間と接触していない。このように自我のために生きる者は、すべてがみせかけだけで実のならないいちじくの木と同じである。彼らは礼拝の形式を守っているが、悔い改めもなければ信仰もない。口先では神の律法を敬っているが、服従が欠けている。彼らは口では言うが、行わない。 DA 977.3
いちじくの木に対する宣告の中に、キリストは、このようなむなしいみせかけがキリストの御目にどんなに憎むべきものであるかを実際に示しておられる。神に仕えると告白しながら神のみ栄えのために実をむすぼない人間よりは、公然たる罪人の方がまだ罪が軽いということをキリストは宣言しておられる。 DA 977.4
キリストのエルサレム訪問の前に語られたいちじくの木の譬は、実のならない木をのろうことによって教えられた教訓と直接に関係があった。譬の中の実のならない木について園丁はこう懇願した、「ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやってみますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」(ルカ13:8、9)。実をむすぼない木にもっと手入れを施すことになった。これにあらゆる利点を与えることになった。しかしそれでも実がならなかったら、どんなこともそれを破滅から救うことはできない。 DA 977.5
この譬の中には、園丁の働きの結果は予告されなかった。それはキリストがこのことばを語られた人々の態度にかかっていた。彼らは実のならない木によ って象徴されていた。彼らの運命を決定するのは彼ら自身であった。天の神がお与えになることのできるあらゆる利点が彼らに与えられたが、彼らは増し加えられた祝福から益を受けなかった。その結果は、実のならないいちじくの木をのろわれたキリストの行為によって示された。彼らは自分自身の破滅を決定したのであった。 DA 977.6
1000年以上にわたってユダヤ国民は神の恵みを悪用し、神の刑罰を招いた。彼らは神の警告をこばみ、その預濠者たちを殺した。キリストの時代の人々も同じ道に歩むことによって、こうした罪に責任があった。この世代の不義は、その時の恵みと警告をこぼむことにあった、幾世紀にわたってこの国民が作ってきた足かせを、キリストの時代の民は自らの身にむすびつけつつあった。 DA 978.1
どの時代にも、光と特権の日、すなわち神と和解する恩恵の時が人々に与えられている、しかしこの恵みには限度がある。何年間人々に訴えても、恵みは軽んじられ、こばまれるかも知れない。しかし恵みが最後の訴えをする時が来る。心はかたくなになって、神のみたまに答えなくなる。すると、人をひきつけるやさしいみ声はもはや罪人の心に訴えなくなり、譴責と警告はやむ。 DA 978.2
その日がエルサレムにきていた。イエスは滅ぶべき都のために苦しんで泣かれたが、エルサレムを救うことがおできにならなかった。主はありとあらゆる手段をつくされた。神のみたまの警告をこばむことによって、イスラエルは、唯一の助けの方法をこばんだ。彼らを救うことができる力はほかになかった。 DA 978.3
ユダヤ国民は、限りない愛の神の訴えをあざける各時代の人々を象徴していた。キリストがエルサレムについて泣かれた時の涙は、すべての時代の罪のためであった。神の聖霊の譴責と1近警告をこばむ者は、イスラエルに宣告された刑罰のうちに、自分自身の罪の宣告を読むことができる。 DA 978.4
いまの世代に、不信のユダヤ人と同じ道を歩んでいる者が多い。彼らは神の力のあらわれを目に見た。聖霊は彼らの心に語った。しかし彼らは不信と抵抗をあくまでもやめない。神は彼らに警告と譴責を送られるが、彼らは自分の誤りを告白したがらないで、神の使命と使者をこばむ。彼らの回復のために神が用いられる方法までが、彼らにとってはつまずきの石となる。 DA 978.5
神の預言者たちは、かくれた罪を明るみに出すので、背信のイスラエルから憎まれた。頂言者エリヤは、アハブ王の秘密の不義を忠実に責めたので、彼はアハブ王から敵とみなされた。同様に、今日キリストのしもべ、すなわち罪を責める者は、嘲笑と拒絶に出あう。聖書の真理、すなわちキリストの宗教は、道徳的不純という強い風潮にさからって戦う。今日、人々の心の中の偏見は、キリストの時代よりも強い。キリストは人々の期待を実現されなかった。主の生活は彼らの罪にとって1つの譴責であったので、彼らは主をこばんだ。そのようにいまも、神のみことばの真理は人々の習慣や生来の傾向と調和しないので、幾千の人々がその光をこばむ。サタンにそそのかされる人々は神のみことばに疑いを投げかけ、独自の判断を働かせることをえらぶ。彼らは光よりも暗黒をえらぶが、彼らは自分の魂の危険をかけてそうするのである。キリストのみことばのあらさがしをした者たちは、あらさがしのもとをますます多く発見し、ついには真理でありいのちであるお方から離れて行った。今日も同様である。神は、肉の心が神の真理にさからって生じさせる障害の1つ1つを取り除こうとは言っておられない。暗黒を照らすとうとい光をこばむ者には、神のみことばの神秘は永遠に神秘である。真理は彼らの目からかくされている。彼らは盲目のままに歩むので、目の前にある滅びを知らない。 DA 978.6
キリストは、オリブ山の高いところから、世界と各時代を見渡された。彼のみことばは神の恵みの訴えを軽んじるすべての魂にあてはまる。キリストの愛をあざける者よ、主は今日あなたに語られる。平和をもたらす道を知っているべき者は「あなた」である(ルカ19:42参照)、キリストはあなたのために涙を流しておられるのに、あなたは自分自身のために流す涙がない。パリサイ人たちを破滅させたあの致命的 な頑固な心はすでにあなたのうちにあらわれている。神の恵みの1つ1つの証拠、天来の光の一筋一筋は、魂をとかして従わせるか、絶望的な頑迷さを一層固くするかのどちらかである。 DA 978.7
キリストは、エルサレムがいつまでも頑固に悔い改めないことを予見された。しかしすべての不義、しりぞけられた憐れみのすべての結果は、エルサレム自身の門口にあった。同じ道を歩むすべての魂にとっても同様である。主はこう宣告しておられる。「イスラエルよ、あなたはあなたを滅ぼす」「地よ、聞け、見よ、わたしはこの民に災をくだす。それは彼らのたくらみの実である。彼らがわたしの言葉に気をつけず、わたしのおきてを捨てたからである」(ホセア13:9・英訳、エレミヤ6:19)。 DA 979.1