各時代の希望
第63章 「あなたの王がおいでになる」
本章はマタイ21:1~11、マルコ11:1~10、ルカ19:29~44、ヨハネ12:12~19に基づく DA 969.4
「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(ゼカリヤ9:9)。 DA 969.5
キリストがお生まれになる500年前に、預言者ゼカリヤは、イスラエルの王がおいでになることをこのように予告した。いまこの預言が成就されるのである。長い間王としての栄誉をこばんでこられたお方が、いまダビデの王位の約束された後継者として、エルサレムにおいでになるのである。 DA 969.6
キリストがエルサレムに勝利の入城をされたのは週の第1日であった。キリスト見ようとベタニヤに集まった群衆は、キリストが歓迎を受けられるのを見ようと熱望して、いまそのあとに従った過越節を守るために多くの人たちが都へのぼる途中だったので、彼らはイエスについて歩いている群衆に加わった。自然界の万物もよろこんでいるように見えた。木々は緑につつまれ、その花はかぐわしい香りを空中にただよわせた。新しい生命と喜びが人々に生気を与えた。新しい王国の望みがふたたびめばえつつあった。 DA 969.7
イエスは、エルサレムに乗り入れるために、ろばと子ろばを引いてくるように、2人の弟子をおつかわしになった。救い主は、誕生の時には、見知らぬ人たちの好意にたよられた。イエスがおやすみになった馬ぶねは借りた休み場所であった。「丘の上の千々の家畜」はイエスのものであるのに(詩篇50:10)、いま彼は、主としてエルサレムに入城するためにお乗りになる家畜を手に入れるのに見知らぬ人の親切にたよられる。しかしこの用事のために弟子たちにお与えになったこまかい指示の中にさえ、ふたたびイエス の神性があらわされる。 DA 969.8
イエスが予告されたように、「主がお入り用なのです」というたのみはすぐに聞かれた(マタイ21:3)。イエスは、人が乗ったことのない小馬を、ご自分の用にえらばれた。弟子たちは、喜びいさんで、この家畜の上に自分たちの上着をひろげ、それに主をお乗せした。これまでイエスはいつも徒歩で旅行されたので、弟子たちは、主がいまご自分からろばに乗られることをはじめはふしぎに思った。しかし主がいま首都に人られ、王であることを宣言し、ご自分の王権を主張されるのだというよろこばしい思いで、彼らの胸は希望に燃えた。使いに行く途中、彼らはこの輝かしい期待をイエスの友人たちに伝えたので、興奮は遠近にひろがり、人々の期待は最高潮に達した。 DA 970.1
キリストは、王の入城について、ユダヤ人の慣例に従っておられた。キリストが乗られた動物はイスラエルの王たちが乗った動物であって、預言には、このようにしてメシヤが王国にこられるということが予告されていた。キリストが小馬にお乗りになるやいなや、勝利の叫びが大気をふるわせた。群衆は、キリストをメシヤ、彼らの王として歓呼した。イエスはいま、以前には決しておゆるしにならなかった敬意をお受けになったので、弟子たちはこのことを、イエスが王位につかれるのを見ることによって自分たちのうれしい望みが実現される証拠として受けとった。群衆は、彼らの解放の時が近づいたことを確信した。彼らは、ローマの軍隊がエルサレムから追われ、イスラエルがもう1度独立国家になる時のことを胸にえがいた。誰もが喜び、興奮した。人々は先を争ってキリストに敬意をささげた。彼らは、外面的なはなやかさやきらびやかさを示すことはできなかったが、楽しい心からの礼拝を主にささげた。彼らは高価な贈物をささげることはできなかったが、主の道に彼らの上着をひろげて敷物とし、葉のしげったオリーブの枝やしゅろの枝を道にまきちらした。彼らは、勝利の行列を王家の旗でみちびくことはできなかったが、自然界の勝利の象徴であるしゅろの木のひろがった枝を切りとり、それを高らかにうちふって声高く歓呼し、ホサナと叫んだ。 DA 970.2
進んで行くうちに、イエスのおいでを聞いて、行列に加わろうと急いでやってきた人たちで群衆はふえつづけた。見物人がひっきりなしに群衆に加わり、「これはどなただ。この騒ぎはいったい何ごとだ」とたずねた。彼らはみなイエスのことを聞いていて、イエスがエルサレムに行かれるものと期待していた。しかしイエスがこれまでご自分を王位につけようとする努力をいっさいゆるされないどいうことを聞いていたので、これがあのイエスであることを知ってすっかり驚いてしまった。わたしの王国はこの世のものではないと宣言しておられたお方が、いったいどうしてこのようにかわってしまったのかと、彼らはあやしんだ。 DA 970.3
彼らの質問は勝利の叫びで沈黙ざせられる。勝利の叫びは、熱心な群衆によって何度も何度もくりかえされる。ずっと向こうにいる人たちも勝利の叫びをあげ、それは周囲の山々や谷にこだまする。するとこんどはエルサレムからやってきた群衆が行列に加わる。過越節に集まった群衆の中から、幾千の人たちがイエスを歓迎するために出かけてくる。彼らはしゅろの枝をうちふり、聖歌を爆発させてイエスにあいさつする。宮の祭司たちはタベの礼拝を知らせるラッパを吹き鳴らすが、答える者はほとんどない。役人たちは驚いて、「世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」とお互いに言う(ヨハネ12:19)。 DA 970.4
イエスは、ご自分の地上生涯において、それまでこのようなデモンストレーションをおゆるしにならなかった。イエスははっきりと結果を予見しておられた。それはイエスを十字架につけることになるのであった。しかしこのように公然とご自身をあがない主として示されることはイエスのみこころであった。イエスは堕落した世に対するご自分の使命の最後の仕上げとなる犠牲に人々の注意を引こうと望まれた。人々は過越節を守るためにエルサレムに集まってきていたが、小羊の本体であられるイエスが、自発的な行為によって、ご自身を供え物として聖別された。これにつづく、すべての時代のキリスト教会は、世の罪の ためのイエスの死を、深い思想と研究の主題にすることが必要であった。 DA 970.5
これに関係のある1つ1つの事実が、疑いの余地がないまでに証明されねばならないのであった。だからいますべての人の目をイエスに向ける必要があった。イエスの大いなる犠牲に先立っいろいろな出来事は、人々の注意を犠牲そのものにひきつけるようなものでなければならない。イエスのエルサレム入城に伴うこのようなデモンストレーションのあとで、すべての人々の目は、イエスの最後の場面への急速な進展を追うのであった。 DA 971.1
この凱旋式に関連した出来事はすべての人々の話題になり、どの人の心にもイエスを思わせるのであった。イエスが十字架につけられたのち、多くの人たちが、イエスの裁判と死に関連してこれらの出来事を思い起こすのであった。彼らは預言を調べるようになり、イエスがメシヤであることをさとるのであった。そして全地において、この信仰に改宗する者がふえるのであった。 DA 971.2
キリストの地上生涯におけるこの1つの凱旋的場面において、救い主は、天使たちに護衛され、神のラツパに先導されて現れることもおできになった。しかしそのようなデモンストレーションは、イエスの使命の目的に反し、イエスの一生を支配していた原則に反するものであった。イエスはご自分がお受けになったいやしい身分に忠実であられた。世の人々の生命のためにご自分の生命がささげられるまで、イエスは、人性という重荷をお負いにならねばならないのであった。 DA 971.3
もしこの喜びの場面が主の苦難と死の前奏曲にすぎないことを知ったなら、弟子たちにとって生涯の最良の日のように思えたこの日は、暗雲にとざされたであろう。主はご自分の避けられない犠牲についてたびたび彼らにお語りになっていたのであるが、彼らは目の前のよろこばし勝利によって主の悲しいことばを忘れ、ダビデの位につかれた主の輝かしい統治を待ち望んだ。 DA 971.4
行列にはひっきりなしに新しい人たちが加わり、少数の人たちをのぞいて、これに加わった人々はみなその場の霊感を受けてホサナの叫び声を高め、丘から丘へ、谷から谷へこだまを反響させた。「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」と、叫び声はたえまなくあげられた(マタイ21:9)。 DA 971.5
世界はこのような凱旋式をかつて見たことがなかった。それは世の有名な征服者たちの凱旋式のようなものではなかった。そこには、こうした場面の呼び物となる王の武勇を記念する捕虜たちの悲嘆に暮れた行列はなかった、救い室のまわりには、罪人に対する主の愛の働きによる輝かしい戦勝記念となる人たちがいた。主がサタンの権力から救い出された捕虜たちが、彼らの救いについて神を賛美していた。主が視力を同復しておやりになった目の見えない人たちが先頭に立っていた。主が舌を動くようにしておやりになった口のきけない人たちが一番大きな声でホサナと叫んだ。主がなおしておやりになった足の不自由な人たちが喜びで足どりも軽く、一番元気よく、しゅろの枝を折って救い主の前でうち振っていた。やもめたちとみなし子たちが自分たちに対するイエスのいつくしみ深いみわざについて、み名をあがめていた。主がきよめておやりになった重い皮膚病の人たちがそのけがれていない衣を道にひろげ、栄光の王としてイエスに歓呼した。主のみ声によって死の眠りからよびさまされた人たちがその群れの中にいた。墓の中で肉体が腐敗していたラザロが、いますばらしい人間としての力を喜びながら、救い主の乗っておられる動物をみちびいた。 DA 971.6
多くのパリサイ人たちが、この光景を見て、ねたみと敵意に燃え、民衆の人気の流れを変えようとした。彼らは、あらゆる権威をもって、人々を沈黙させようと試みた、しかし彼らの訴えとおどかしは熱心さを増したにすぎなかった。彼らはこの大群衆が、数の力で、イエスを王にすることを恐れた。最後の手段として、彼らは群衆を押しわけて救い主のおられるところへ近づき、非難と脅迫のことばで、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」とイエスに呼びかけた(ル カ19:39)。彼らは、こんな騒がしいデモンストレーションは不法であり、当局から許可されないだろうと断言した。しかし彼らは、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」というイエスの答えに沈黙させられた(ルカ19:40)。この勝利の光景は、神ご自身がお定めになったものであった。それは預言者によって予告されていて、人間には神の目的をそらす力はなかった。 DA 971.7
もし人間が神のご計画を実行しなかったら、神はいのちのない石に声を与え、石が賛美の叫びをもってみ子を歓呼したであろう。沈黙させられたパリサイ人たちが引きさがると、幾百の人々の声がゼカリヤのことばをとりあげた。「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの主はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(ゼカリヤ9:9)。 DA 972.1
行列が丘のはずれにきて、ちょうど町へ向かってくだろうとした時、イエスが立ちどまられたので、いっしょにいたおおぜいの者たちもみな立ちどまった。彼らの目の前には、いま沈んでいく太陽の光を浴びて輝かしいエルサレムがひろがっていた。みんなの目は宮にひきつけられた。それは堂々たる威厳をそなえて、他のすべてのものの上にそびえ立ち、ただ1人の真の生ける神を民に示すかのように天を指さしているようにみえた。宮は長い間ユダヤ国民の誇りであり、栄光であった。ローマ人もまた宮の壮麗さを誇りにした。ローマ人によって任命された王が、ユダヤ人と協力して宮を再建してこれを飾り、ローマ皇帝がささげ物によって宮を富ませた。宮は、その力と富と壮麗さのゆえに世界の驚異の1つとなっていた。 DA 972.2
西に傾いた太陽が空を色どって輝かせると、そのまばゆい輝きが宮の純白な大理石の壁を照らし、黄金をかぶせた柱をきらめかせた。イエスとそのあとに従っている者たちが立っている山の頂からみると、宮は黄金の尖塔をもった巨大な雪の建物のようにみえた。宮の入口には、最もすぐれた芸術家たちによって製作された金銀のぶどうの木があって、それには緑の葉とたくさんのぶどうの房がっいていた。このデザインは、イスラエルを繁栄するぷどうの木として象徴していた。金銀と新鮮な緑とが、すぐれた趣向と精巧な細工と1つになっていた。それは、白く輝く柱に優美にまきつき、光るまきひげが柱頭の金の飾りにまつわりついて、夕日の輝きを受け、天から借りた栄光のように光っていた。 DA 972.3
イエスはそのながめにじっと目をそそがれ、大群衆はこの突然の美しい光景にうっとりとなって叫び声を静める。すべての人の目が救い主に向けられ、自分たちの感じている感嘆が主の顔付きにも見られることを期待する。ところが彼らは、感嘆ではなくて、悲しみの暗い影を見る。主の目に涙かたまっており、主のお体が嵐の前の木のように前後に揺れ、あたかも傷心の奥底からつきあげてくるような苦悩のうめきが主のふるえる唇からもれるのを見て、彼らは驚き、失望する。これはまた天使たちが見ても何という光景であったことだろう。彼らの愛する主が苦悩の涙をためておられるのである。勝利の叫びをあげ、しゅうの枝をうちふりながら主につき従って栄光の都へ行き、主はいまにも統治されるのだと勝手な望みによろこんでいた群衆にとって、これは何という光景だったことだろう。イエスはラザロの墓で泣かれたが、それは人間の悲しみに対する神の同情であった。しかしこの突然の悲しみは、偉大な勝利の合唱のさなかにおける悲嘆の調べのようであった。すべての人々が敬意をささげている喜びの場面のさなかで、イスラエルの王が涙を流しておられる。それは喜びの無言の涙ではなく、おさえきれない苦悩の涙とうめきであった。群衆は突然暗い気持ちになった。歓呼の叫び声が沈黙した。多くの者が理解のできない悲しみに同情して泣いた。 DA 972.4
イエスの涙は、ご自分の苦難を予想されたためではなかった。イエスのすぐ前にはゲッセマネがあって、そこではまもなく非常な暗黒の恐怖が主をおおうのであった。羊の門も見えたが、それは幾世紀もの問いけにえとしてささげられる動物がそこを通って行った門であった。これらのすべてのささげ物は、世の 罪のためのいけにえであられるイエスを本体としてさし示していたが、その大いなる本体であられるイエスのために、まもなくこの門が開かれるのであった。近くにカルバリーがあったが、それは迫りつつあるイエスの苦悶の場所となるのであった。しかし救い主が泣かれ、心の苦しみにうめき声を出されたのは、主がご自分の残酷な死を思い出させるこうしたものをごらんになったからではなかった。イエスの悲しみは決して利己的な悲しみではなかった。 DA 972.5
ご自身の苦悩についての思いは、主の高貴な、自己犠牲的な魂をおびやかさなかった。イエスの心を刺し通したのは、エルサレムの光景であった。神のみ子をこばみ、その愛をあざけり、その大いなる奇跡を見ても罪を自覚しようとしないで、主の生命をとろうとしているエルサレムであった。あがない主をこばむ罪のうちにあるエルサレムの現状と、エルサレムが、その傷をいやすことのできるただ1人のお方であるイエスを受け入れていたらどうなっていたかということを、イエスはご存じであった。主は、エルサレムを救うためにおいでになったのである。どうしてこの都をあきらめることができよう。 DA 973.1
イスラエルは恵まれた民であった。神は彼らの宮をご自分の住居とされた。それは「うるわしく、全地の喜び」であった(詩篇48:2)。父親が独り子に対するようなキリストの守りとやさしい愛について1000年以上の記録がそこにあった。この宮の中で、預言者たちは厳粛な警告を語った。そこでは、燃える香炉が揺れ、香煙が礼拝者の祈りにまじって、神のみもとへのぼって行った。そこでは、キリストの血を象徴して、動物の血が流された。そこでは、エホバが贖罪所の上でご自身の栄光をあらわされた。そこでは、祭司たちが職務をとり行い、長年にわたってきらびやかな象徴と儀式が続けられた。しかしこうしたことのすべては終わらねばならない。 DA 973.2
イエスは、これまでたびたび病める者と苦しむ者とを祝福されたそのみ手をあげ滅ぶべき運命に定められた都の方を指さして、とだえがちな悲しい口調で、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……」と叫ばれた(ルカ19:42)。救い主は、ここでことばをきり、もしエルサレムが、神が与えようと望まれた助け、すなわち神の愛するみ子を受け入れていたら、どういう状態になっていたかについては何も言われなかった。もしエルサレムが知る特権のあった事柄を知って、天の神が送られた光に心をとめていたら、それは輝かしい繁栄のうちに、国々の女王として、神から与えられた豊かな力をもって続いていたかもしれなかった。武装した兵士たちがエルサレムの門に立つことも、ローマの旗が城壁にひるがえることもなかったであろう。 DA 973.3
もしエルサレムが救い主を受け入れていたら、エルサレムのものとなったかもしれない輝かしい運命が、神のみ子の前に浮かんだ。エルサレムは、救い主を通して、その悲しむべき病気をいやされ、束縛から解放されて、地上の偉大な首都として固く立ったかもしれないということを、イエスはごらんになった。エルサレムの城壁から平和のはとがすべての国々に飛んで行ったであろう。エルサレムは、世界の栄光の王冠となったであろう。 DA 973.4
しかしエルサレムがそうなっていたかもしれない輝かしい光景は、救い主の視界から消える。主は、エルサレムがいまローマのくびきの下にあって、神の不興を招き、神の報いの刑罰を受ける運命にあることに気がつかれる。主は切れた嘆きの糸をとりあげられる。「しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の1つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ19:42~44)。 DA 973.5
キリストは、エルサレムをその民とともに救うためにおいでになった。しかしパリサイ人の誇り、偽善、ねたみ、敵意が主の目的の達成をさまたげていた。イエスはこの滅ぶべき運命に定められた都をおとずれる恐るべき報復を知っておられた。エルサレムが軍隊にとりかこまれ、包囲された住民が飢えと死に追 いこまれ、母親たちが自分自身の子供たちの死体を食べ、親も子も互いに最後のひと口の食物を奪い合い、激しい飢えの苦しみによって自然の愛情が滅ぼされることをお知りになった。主の救いをこばんだことにあらわれたユダヤ人の頑固さは、侵入軍への降伏をこばむようになることを、イエスはごらんになった。イエスは、ご自分があげられるカルバリーに、十字架が林の木々のようにたくさん立つのをごらんになった。主は、あわれな住民が拷問台や十字架で苦しめられ、美しい場所が荒され、宮が破壊され、その巨大な壁が1つの石もほかの石の上に残されず、都は畑のようにたがやされるのをごらんになった。この恐るべき光景をごらんになって、救い主が苦悩のうちに泣かれたのは当然である。 DA 973.6
それまでエルサレムは、主の保護の下にある子供であった。やさしい父親がわがままな息子のことを嘆くように、イエスは愛する都について泣かれた。どうしてわたしはあなたをあきらめることができよう。あなたが破壊されるままになるのをどうして見ていられよう。あなたが不義のさかずきを満たすのをそのままにしておかねばならないのか。1つの魂は、それにくらべればもろもろの世界もとるにたりないものとなるほど価値があるのに、ここに全国民が滅びようとしている。急速に西に沈む太陽が天から姿を消せば、エルサレムの恵みの日は終わるのであった。行列がオリブ山のはしにたちどまっている間に、エルサレムが悔い改めてもまだ遅すぎないのであった。恵みの天使はその時まさに翼をたたんで、正義と急速にのぞみつつあるさばきに座をゆずるために、黄金の座からおりようとしていた。しかしキリストの大いなる愛の心は、ご自分のなさけをあざけり、その警告を軽んじ、まさに主の血に手を染めようとしていたエルサレムのためにまだ弁護していた。もしエルサレムが悔い改めさえすれば、まだ手おくれではなかった。沈んで行く太陽の最後の光が宮と塔と、尖塔のあたりにまだ消えやらないでいるうちに、誰かよい天使がエルサレムを救い主の愛にみちびいて、滅びの運命を避けさせないであろうか。預言者たちを石で打ち、神のみ子をこばみ、その頑固さのために束縛の足かせに身をしばっている美しくそしてけがれた都。その恵みの日はほとんど暮れかけていた。 DA 974.1
しかしふたたび神のみたまはエルサレムに語る。日が暮れる前に、キリストについてもう1つのあかしがたてられる。預言に示された過去からの呼び声に応じて、あかしの声があげられる。もしエルサレムがその呼び声をきくならば、もしエルサレムがその都に入ろうとしておられる救い主を受け入れるならば、エルサレムはまだ救われるのである。 DA 974.2
イエスが大群衆とともに都へ近づいておられるという知らせがエルサレムの役人たちにとどいた。しかし彼らには神のみ子を歓迎する気持ちはない。彼らは群衆を追い払いたいと望みながら、恐る恐るイエスに会いに出かける、ちょうどオリブ山をくだろうとするところで、行列は役人たちにさえぎられる。彼らはこのさわがしい喜びの理由をたずねる。彼らが、「これは、いったい、どなただろう」とたずねると、弟子たちは霊感に満たされて、その質問に答える。彼らは雄弁な口調で、キリストに関する預言をくりかえす。 DA 974.3
アダムはあなたがたに告げるであろう、彼は蛇の頭をくだく女のすえであると。 DA 974.4
アブラハムにたずねるならば、彼はあなたがたに告げるであろう、それは「サレムの王メルキゼデク」平和の王であると(創世記14:18)。 DA 974.5
ヤコブは告げるであろう、彼はユダ族のシロであると。 DA 974.6
イザヤは告げるであろう、「インマヌエル」「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」であると(イザヤ7:14、9:6)。 DA 974.7
エレミヤは告げるであろう、彼はダビデのわかれ、「主はわれわれのの正義」と(エレミヤ23:6)。 DA 974.8
ダニエルは告げるであろう、彼はメシヤであると。 DA 974.9
ホセアは告げるであろう、「主こは万軍の神、その名は主である」と(ホセア12:5)。 DA 974.10
バプテスマのヨハネは告げるであろう、彼は「世の罪を取り除く神の小羊」であると(ヨハネ1:29)。 DA 974.11
大いなる神エホバはそのみ座から宣告された、「これはわたしの愛する子」であると(マタイ3:17)。 DA 975.1
キリストの弟子であるわれわれは宣言する、これはイエス、メシヤ、いのちの君、世の救い主であると。 DA 975.2
しかも暗黒の勢力の君でさえ、イエスをみとめて言う、「あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」と(マルコ1:24)。 DA 975.3