各時代の希望

62/87

第62章 シモンの家での食事

本章はマタイ26:6~13、マルコ14:3~11、ルカ7:36~50、コハネ11:55~57、12:1~11に基づく DA 962.4

ベタニヤのシモンは、イエスの弟子とみなされていた。彼は、公然とキリストに従う者の仲間に加わった少数のパリサイ人の1人であった。シモンはイエスを教師として認め、イエスがメシヤであるようにと望んでいたが、救い主として受け入れてはいなかった。彼の品性は変えられていなかったし、彼の主義は変化していなかった。 DA 962.5

シモンはハンセン病をいやしてもらっていたので、彼がイエスにひかれたのはそのためであった。彼は、感謝の気持を表したいと望み、キリストの最後のベタニヤ訪問の時に、救い主と弟子たちにごちそうをした。このごちそうの席で多くのユダヤ人が一緒になった。そのころ、エルサレムでは人々が非常に騒いでいた。キリストとその使命は、かつてなかったほどに人々の注意をひいていた。ごちそうにやってきた人たちは、イエスの行動にこまかく注目し、中には悪意のある目で見ている人たちがいた。 DA 962.6

救い主は、過越の祭のわずか6日前にベタニヤに着かれ、いつもの習慣通り、ラザロの家で休息しようとしておられた。都へやってきた大勢の旅人たちは、イエスが、エルサレムへの道中にあって、安息日をベタニヤで休まれるという知らせをひろめた。人々の間には非常な熱心さがみられた。ある者たちはイエスに対する共鳴から、またある者たちは死からよみがえらされた者を見たいとの好奇心から、多くの者がベタニヤに集まってきた。 DA 962.7

多くの者は、ラザロが死後に見た光景についてふしぎな物語を聞かせてもらえると期待した。彼らはラザロが何も語らないので驚いた。彼はそうしたことについて語ることは何もなかったのである、霊感のことばに、「死者は何事をも知らない、……その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせ」ると宣言されている(伝道の書9:5、6)。しかしキリストのみわざについては、ラザロはすばらしいあかしをもっていた。彼はこの目的のために死からよみがえらされたのである。彼は力と確信とをもって、イエスが神のみ子であることを断言した。 DA 962.8

ベタニヤをおとずれた者たちによってエルサレムへ伝えられた報告は、騒ぎを大きくした。人々はイエスを見、イエスのことばを聞きたいと熱望した、ラザロ がエルサレムまでイエスについてくるかどうか、またこの預言者が過越の祭の時に王位につかれるかどうかということが世間一般の質問であった。祭司たちと役人たちは、民衆に対する自分たちの勢力が一層弱くなっていくことを知り、イエスに対する彼らの怒りはますます激しくなった。彼らはイエスを自分たちの道から永久に除いてしまう機会を待ちきれなかった。時が過ぎるにつれて、彼らは、結局イエスはエルサレムにこられないのではないかと心配しはじめた。彼らは、これまでもイエスがたびたび彼らの殺害計画の裏をかかれたことを思い出し、こんどもイエスがご自分に対する彼らの目的を見破って、エルサレムにこられないのではないかと恐れた。彼らはその心配をかくしきれず、お互いに、「あなたがたはどう思うか。イエスはこの祭にこないのだろうか」とたずねあった(ヨハネ11:56)。 DA 962.9

祭司とパリサイ人の会議が召集された。ラザロがよみがえってから、人々はキリストに対してとても良い好感をいだいていたので、彼を公然と捕らえることは危険であった。そこで、当局者たちは、キリストをひそかにとらえ、できるだけこっそり裁判をすることに決めた。キリストの有罪が知れ渡ったら、変りやすい世論の波が彼らを有利にしてくれることを、彼らは希望した。 DA 963.1

こうして彼らは、イエスを殺害することを提案した。しかしラザロが生きているかぎり、祭司たちとラビたちは安心できないことを知っていた。4日間墓にいて、イエスのみことばによってよみがえらせられた男がいるということで、遅かれ早かれ反応が起こるであろう。民衆は、このような奇跡を行うことができたお方の生命をとったことについて、指導者たちに復讐するであろう。そこでサンヒドリンは、ラザロも殺すことに決めた。ねたみと偏見のとりこになる者たちはそこまで追いこまれるのである。ユダヤの指導者たちの憎しみと不信が高まり、ついに彼らは、限りない力によって墓から救い出された人間の生命までとろうとするのであった。 DA 963.2

この陰謀がエルサレムで進行している間、イエスと弟子たちはシモンのごちそうに招かれておられた。イエスは、いまわしい病気をなおしておやりになったシモンを一方に、死人の中からよみがえらせておやりになったラザロを一方にして、食卓におつきになった。マルタが食卓の給仕をしたが、マリヤはイエスの口から出るひとことばひとことばを熱心にきいていた。イエスが、その憐れみによって、マリヤの罪をゆるし、また愛する兄弟を墓からよみがえらせてくださったので、マリヤの心は感謝に満たされていた。彼女は、イエスがご自分の死が近づいていることを語られるのを聞いていたので、深い愛とかなしみのうちに、イエスに尊敬を示したいと熱望していた。彼女は、イエスのお体に油をそそぐために、自分で大きな犠牲を払って、「非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼ」を買っていた(マルコ14:3)。しかしいま、多くの者は、イエスが王位につかれるのだと宣言していた。マリヤの悲しみは喜びに変わり、彼女は自分が真先に主に尊敬を示したいと熱望した。香油のつぼを割ると、彼女は、中の油をイエスの頭と足にそそいだ。それから彼女は、泣きながらひざまずいて、その涙でイエスの足をぬらし、長くたれた髪の毛でぬぐった。 DA 963.3

マリヤは、人々の目を避けたいと思っていた。彼女の動作は、人々の目にふれないですんだかも知れないが、香油のかおりが部屋に満ちたので居合わせたすべての人たちにその行為が知れた。ユダはこの行為を非常に不愉快に思った。このことについてキリストが言われることばを聞くのを待たないで、彼は、そばの人たちに不満をささやき始め、キリストがこのような浪費をゆるされることを非難した。彼は、不満をひき起こすようなずるい言い方をした。 DA 963.4

ユダは弟子たちの会計係であった。彼は弟子たちのわずかな貯えの中からひそかに自分自身のためにひき出して使っていたので、彼らの貯えはだんだん減って、乏しいはした金になってしまっていた。彼は手に入れられるものは全部袋に入れたがった。袋の中の金はしばしば貧しい人たちを助けるために利用された。ユダが必要でないと考えるようなものを 弟子たちが買うと、「どうしてこんな浪費をするのか。どうしてこれだけの値段のお金を、わたしが貧しい人たちのために持っているこの袋に入れないのか」と彼はよく言った。いまマリヤの行為は、ユダを赤面させるほど、彼の利己心といちじるしい対照をなしていた。ユダは、いつもの通り、彼女の献げ物に反対する正しい動機を示そうとした。彼は弟子たちの方を向いてたずねた。「『なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか』。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった」(ヨハネ12:5、6)。ユダは、貧しい人たちに対して思いやりはなかった。もしマリヤの香油を売って、その収入をユダの手に渡したとしても、貧しい人は何の益も受けなかったのである。 DA 963.5

ユダは自分自身の実行的な能力を高く評価していた。彼は、自分が財政家として、仲間の弟子たちよりもずっとすぐれていると思い、彼らにもそう思いこませていた。彼は、弟子たちの信用を得、彼らに対して大きな勢力を持っていた。貧しい人々に対するユダの同情的なことばにだまされ、彼のたくみな暗示によって、彼らは、マリヤの信心を不信の目をもって見た。「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」というつぶやきが食卓のまわりにひろがった(マタイ26:8、9)。 DA 964.1

マリヤはこの非難の声をきいた。彼女の心はふるえた。彼女は、姉のマルタが自分の浪費を責めるだろうと恐れた。主もまた自分のことを思慮の足りない女だと思われるだろう。あやまりも、言い訳もしないで、彼女は引きさがろうとした。するとその時、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか」という主の声がきこえた(マルコ14:6)。主は、マリヤがまごつき、困っているのをごらんになった。主は、マリヤがこの奉仕の行為を通して、自分の罪のゆるしに対する感謝の気持を表したことをお知りになって、彼女を安心させられた。非難のつぶやきをおさえる声をあげて、主はこう言われた。「わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいっでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである」(マルコ14:6~8)。 DA 964.2

マリヤは、救い主の死体に惜しますふりかけようと思っていたかおり高い献げ物を、主の生きたお体にそそいだのである。葬りの時だったら、そのかおりは墓の中にたちこめるだけであるが、いまそれは、彼女の信仰と愛についての確証とともに主の心を喜ばせた。アリマタヤのヨセフとニコデモは、愛の献げ物を、イエスが生きておられる時にささげなかった。にがい涙とともに、彼らは、主の冷たい、意識のなくなったお体のために高価な香料を持参した。香料を墓に持って行った婦人たちは、主がよみがえられたので、自分たちの用事がむだであったことを知った。しかしマリヤは、救い主が彼女の信心を認めてくださることができる間に、主に愛をそそぐことによって、葬りのために主に油をそそいだのであった。こうして主は、その大いなる試練という暗黒の中を進んで行かれた時に、この行為の思い出、すなわちあがなわれた者が永遠に主に対してささげる愛の保証をたずさえて行かれたのであった。 DA 964.3

死人のために高価な献げ物を持参する人が多い。冷たい、無言のなきがらのそばに立つ時に、彼らは惜しみなく愛のことばを語る。見ることも聞くこともできない者に向かって、やさしさ、感謝、愛情のすべてがそそがれる。疲れ果てた心が最も必要としていた時に耳にきくことができ、心に感ずることができた時にそうしたことばが語られていたら、そのかおりはどれほどとうとかったことだろう。 DA 964.4

マリヤは自分の愛の行為の意義を十分に知らなかった。彼女は自分を非難する人たちに答えることができなかった。彼女はイエスに油をそそぐのになぜそんな機会をえらんだのか説明できなかった。聖霊 が彼女のために計画され、彼女はそのささやきに従ったのである。霊感はことさら理由を説明なさらない。目に見えない存在、それが心と魂に語り、心にはたらきかけて行動させる。それだけで正当な理由である。 DA 964.5

キリストは、マリヤに彼女の行為の意味をお告げになり、そのことによって、ご自分が受けられたよりも多くのものをマリヤにお与えになった。「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである」とキリストは言われた(マタイ26:12)。香油のつぼが割れて、そのかおりが家中に満ちたように、キリストは死なれて、そのお体がこわれるのであった。しかし主は墓からよみがえって、その生命のかおりが地を満たすのであった。キリストは、「あなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」(エペソ5:2)。「よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ26:13)。将来をごらんになって、救い主は、福音について確信をもって語られた。福音は全世界に宣べ伝えられるのであった。そして、福音がひろがるかぎりどこまでも、マリヤの献げ物はそのかおりを放ち、人々の心は彼女の自然に発した行為によって恵まれるのであった。国々は起こり、そして倒れるであろう。君主たちと征服者たちの名前は忘れられるであろう。しかしこの婦人の行為は、聖史のページに永久に残るであろう。世にあるかぎり、あの割られた香油のつぼは、堕落した人類に対する神の豊かな愛の物語を告げるのである。 DA 965.1

マリヤの行為は、ユダが意図していた行為といちじるしい対照をなしていた。キリストは、弟子たちの心に批判と悪い考え方の種をまいた者に、どんなにでも鋭い教訓をお与えになることができた。人を非難する者が非難されたとしても当然であった一人一人の心の動機を読み、一人一人の行為を理解される主は、食事の席にいる者たちの前に、ユダの生活の暗いページを開いて見せることもおできになった。裏切り者のことばがむなしいみせかけにすぎないことをばくろすることもおできになった。なぜなら、ユダは、貧しい人たちに同情するどころか、その救済にあてられる金を盗んでいたからである。やもめ、みなし子、雇い人たちに対する彼の圧迫について、憤激をひき起こすこともできた。しかし、もしキリストがユダの仮面をはがれたら、そのことが裏切りの理由として主張されたであろう。そして盗人と非難されても、ユダは、弟子たちからさえ同情を受けたであろう。救い主はユダを責められなかった。そのことによって、主は、彼に裏切りの口実を与えることを避けられた。 DA 965.2

しかしイエスがユダをごらんになる目つきは、救い主が彼の偽善を見抜き、彼の卑劣で軽蔑すべき品性を読んでおられることを彼に確信させた。しかもキリストは、きびしい非難を受けたマリヤの行為をほめることによって、ユダを譴責された。これより前にも、救い主はユダを直接に譴責されたことはなかった。いまこの譴責は、ユダの心に激しい苦痛を与えた。彼は報復しようと決心した。夕食の席からまっすぐ大祭司の邸(やしき)へ行くと、そこで会議が召集されていたので、ユダは、イエスを裏切って彼らの手に渡すことを申し出た。 DA 965.3

祭司たちは非常に喜んだ。このイスラエルの指導者たちは、金銭も価もなしに、キリストを救い主として受け入れる特権を与えられていた。しかし彼らは、最もやさしく迫る愛の精神で提供されているとうとい賜物を拒絶した。彼らは黄金よりも価値のある救いを受け入れることをこばみ、銀30枚で主を買った。 DA 965.4

ユダは貧欲をほしいままにしたので、ついには彼の品性のあらゆるよい面がこれに圧倒されてしまった。彼はイエスに香油がささげられたことが気にくわなかった。救い主が地上の君主たちにふさわしいような献げ物を受けられたことで、ユダの心はねたみに燃えた。香油のつぼよりもはるかに安い金額で、彼は主を裏切った。 DA 965.5

弟子たちはユダのようではなかった。彼らは救い主を愛した。しかし彼らは、主の高貴な性格を正し く評価していなかった。主が自分たちのためにしてくださったことを認めていたら、彼らは、主のためにささげられたものは何一つ浪費ではないことを感じたのである。東方の博士たちは、イエスについてすこししか知らなかったが、当然主にささげられるべき尊敬についてもっと真実な評価を示した。彼らは救い主にとうとい贈り物を持参し、馬ぶねを寝台にしておられた赤ん坊にすぎない主をひれ伏しておがんだ。 DA 965.6

キリストは心のこもった親切な行為をとうとばれる。だれかがイエスのために何かをしてさしあげると、主はその行為をした人を天来のていねいさをもって祝福された。主は、子供の手によってつまれ、愛をもってささげられたどんな粗末な花もこばまれなかった。 DA 966.1

主は子供たちの贈り物を受け取り、それをささげた者を祝福し、その名を生命の書にしるされた。マリヤはイエスに油をそそいだために、他のマリヤたちと区別して聖書にしるされている。イエスに対する愛と尊敬の行為は、イエスを神のみ子として信じる信仰の証拠である。聖書の中には、「聖徒の足を洗い、困っている人を助け、種々の善行に努める」ことを、キリストに対する女性の忠誠心の証拠として述べてある(Ⅰテモテ5:10)。 DA 966.2

キリストは、マリヤが主のみこころをなそうと熱心に望んだことをよろこばれた。主は、弟子たちが理解しなかった、また理解しようとしなかった純粋な愛という富を受け入れられた。主のためにこの奉仕をしたいというマリヤの願いは、キリストにとってこの世のすべての貴重な香油よりもとうとかった。なぜならこの願いに、世のあがない主に対する感謝があらわされていたからである。彼女にそうするように迫ったのはキリストの愛であった。キリストの品性の比類のない美しさが彼女の魂を満たしたのであった。あの香油は、ささげた者の心の象徴であった。それは天の流れを溢れるまで受け入れた愛が外に向かって表現されたのであった。 DA 966.3

マリヤの行為は、キリストに対する弟子たちの愛の表現がキリストによろこばれるということを彼らに示すのに、ちょうど必要な教訓であった。キリストは彼らにとって全部であったが、彼らはまもなく主の存在が取り去られ、主の大いなる愛に対する感謝のしるしを示すことができなくなることに気がつかなかった。天の宮から離れ、人間として一生を送っておられるキリストの孤独は、弟子たちから正しく理解もされなければ、評価もされなかった。キリストは、弟子たちから当然受けられるべきものを彼らがささげなかったために、しばしば悲しまれた。もし弟子たちが、キリストにつきそっている天使たちの影響を受けていたら、彼らもまた心のうちにある霊的な愛情を十分にあらわすだけの価値のあるささげものはないと思うだろうということを、キリストは知っておられた。 DA 966.4

彼らは、イエスのおそばにいた時に心のうちにある愛と感謝の表現としてイエスのためになし得た多くのことについて、その真の意義をのちになって知った。イエスがもはや彼らと一緒におられなくなって、自分たちが実際羊飼のいない羊のようであることを感じた時、彼らは、イエスの心をよろこはせるような心づくしを示すことができたのだったということがわかり始めた。彼らはもうマリヤを非難しないで、自分自身を責めた。ああ、キリストにささげるよりも貧しい人たちに施した方がよいなどと非難したことばを取消すことができたら。彼らは、主のくだかれた体を十字架からおろしながら、激しく心を責められた。 DA 966.5

今日のわれわれの世界においても明らかにこのことが不足している。しかしキリストが自分にとってどういうお方であるかを全部理解している人はほとんどいない。もしそれが理解されているなら、マリヤの大きな愛があらわされ、惜しむことなく油がそそがれるであろう。高価な香料もむだ使いとはいわれないだろう。どんなものも、キリストにささげるには高価すぎるとか、キリストのために耐え忍ぶには克己と犠牲が大きすぎるということはないであろう。 DA 966.6

「なんのためにこんなむだ使をするのか」と憤慨して言われたことばは、最高の犠牲、すなわち失われた世のためにあがないの供え物としてご自身を献げられることを、ありありとキリストに思い出きせた。主は、もうこれ以上おできにならないと言えるほど、人類 家族に対して恵み深いのであった。キリストという賜物を通して、神は全天をお与えになった。人間的な見地からすれば、このような犠牲は無意味な浪費であった。人間の考えでは、救いの計画全体は憐れみと資産の浪費である。どちらを向いても克己と全心全霊の犠牲が見られる。人類家族が、キリストのうちにあらわされている限りない愛によって高められ豊かにされることをこばむのを見て、天使たちが驚くのも無理はない。天使たちが、これは何という大きなむだだろうと叫ぶのももっともである。 DA 966.7

しかし失われた世界のあがないは、欠けるところがなく、豊富で、完全なものとなるのであった。キリストの献げ物は非常に豊かで、神が造られたすべての魂にとどくのであった。この大いなる賜物であられるイエスを受け入れたいと望む人の数を越えないように制限することはできなかった。すべての人が救われるとはかぎらないが、あがないの計画は、豊富に用意されていることが全部達成されないからといってむだになるのではない。有りあまるほど十分なければならないのである。 DA 967.1

主人役のシモンは、マリヤの贈り物に対するユダの非難に心を動かされ、イエスの行為に驚いた。彼のパリサイ的な誇りは傷つけられた。彼は、お客たちの多くが不信と不快の思いでキリストを見ていることを知った。シモンは心の中で、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と思った(ルカ7:39)。 DA 967.2

キリストは、シモンのハンセン病をなおすことによって、彼を生けるしかばねから救われたのだった。しかしいまシモンは、救い主が預言者であるかどうかを疑った。この女が近づくのをキリストがゆるされたので、ゆるすことができないほど大きな罪を持っている者としてこの女を憤然とキリストがはねつけられなかったので、またこの女が堕落していることをキリストが認めるような様子をされなかったので、シモンは、イエスが預言者でないと考えたかった。イエスはこんなに無遠慮にふるまっている女について何もご存じないのだ、そうでなければこの女がイエスにさわるのをおゆるしになるはずがないと、シモンは思った。 DA 967.3

しかしシモンがそのように考えたのは、彼が神についてまたキリストについて知らなかったからであった。彼は、神のみ子が神の方法に従って、憐れみ深く、やさしく、いつくしみをもってふるまわれなければならないということに気がっかなかった。シモンの方法は、悔い改めたマリヤの奉仕を無視することであった。彼女がキリストの足に接吻して香油を塗った行為は、シモンの冷酷な心をいらだたせた。キリストがもし預言者ならば、罪人をみわけて、譴責されるだろうと、彼は思った。 DA 967.4

この無言の思いに、救い主はこうお答えになった、「『シモン、あなたに言うことがある』……『ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは500デナリ、もうひとりは50デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか』。シモンが答えて言った、『多くゆるしてもらったほうだと思います』。イエスが言われた、『あなたの判断は正しい』」(ルカ7:40~43)。 DA 967.5

ナタンがダビデに対してそうしたように、キリストは譬のヴェールの下に急所を突くことばをかくされた。キリストは、自分自身に宣告をくだす責任を主人のシモンに負わせられた。シモンは、自分がいま軽蔑している女を罪に陥れたのであった。マリヤはシモンからひどく悪いことをされたのであった。シモンとマリヤは、譬の中の金を借りた2人に代表されていた。イエスは、この2人が異なった程度の義務を感じなければならないことを教えようとは考えておられなかった。なぜなら2人ともそれぞれ決して返すことのできないほどの感謝という負債を負っていたからである。しかしシモンは、自分の方がマリヤよりも正しいと思っていたので、イエスは、彼の不義が実際にどれほど大きいものであるかを彼に認めさせようと望まれた。500デナリの借金が50デナリの借金よりも大きいように、シモンの罪はマリヤの罪よりも大きいということを、イエスは、シモンにお示しになりたかったのである。 DA 967.6

シモンはいま自分自身を新しい光の中で見はじめた。彼は、マリヤが預言者以上のお方からどのように見られているかを知った。彼は、キリストが鋭い預言者の目をもって彼女の愛と信心を見抜かれたことを知った。彼は恥ずかしさにおそわれ、自分よりもすぐれたお方の前にいることに気がついた。 DA 968.1

「わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった」と、キリストはことばを続けられた(ルカ7:44)。しかしマリヤは、悔い改めの涙を流し、愛に迫られてわたしの足を洗い、自分の頭の髪の毛でわたしの足をふいた。「あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、」あなたが軽蔑しているこの女は、「わたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった」(ルカ7:45)。キリストは、シモンが、主に対する愛と、自分のためにしていただいたことについての感謝をあらわす機会があったことを語られた。救い主は、ご自分の子らが愛のことばと行為によって主に対する感謝の思いを示すことを怠る時に悲しまれるということを、率直に、しかし慎み深い礼儀正しさで、弟子たちに言明された。 DA 968.2

人の心を見抜かれるイエスは、マリヤの行為の動機を読まれ、またシモンのことばの動機となった精神をごらんになった。「この女を見ないか」と、イエスはシモンに言われた(ルカ7:44)。彼女は罪人である。「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47)。 DA 968.3

救い主に対するシモンの冷淡さと怠慢は、彼が自分の受けた恵みを感謝していないことをあらわした。彼は、イエスを自分の家へ招待することによってイエスを尊敬していると思っていた、しかしいま彼は、自分の本当の姿を見た。シモンがお客のイエスを見抜いていると思っていた間に、イエスはシモンの心を読んでおられた。シモンは、自分について言われたキリストの批評が真実であることを知った。彼の宗教はパリサイ主義という衣であった。彼はイエスの憐れみを軽んじていた。彼はイエスを神の代表者として認めていなかった。マリヤがゆるされた罪人であったのに、彼はゆるされていない罪人であった。シモンがマリヤに強要しようとした硬直した正義の法則が、彼を罪に定めた。 DA 968.4

シモンは、イエスが自分を客たちの前で公然と非難されなかった親切さに、心を打たれた、シモンは、マリヤに望んだような扱い方をしなかった。彼は、イエスが彼の不義をほかの人たちにはくろすることを望まれないで、この問題の事実を述べろことによって彼の心を自覚させ、憐れみ深い親切さによって彼の心をやわらげようとされたことを知った。公然ときびしく非難されたら、シモンは、心をとざして悔い改めなかったであろうが、忍耐深い教えによって、彼は自分の誤りをさとった。彼は自分が主に対して大きな負債を負っていることを知った。彼の高慢心はへりくだり、彼は悔い改めた。そしてこの高慢なパリサイ人は、けんそんで、自己犠牲的な弟子なった。 DA 968.5

マリヤは非常に悪い罪人として見られていたが、キリストは、彼女をそうした生活に追いやった事情をご存じだった。主はマリヤの魂から望みのともし火をすっかり消してしまうこともおできになったのであるが、そうはなさらなかった。マリヤを絶望と滅亡から引きあげたのはイエスであった。彼女の心と思いを支配していた悪魔を責められるイエスのことばを、彼女は7回聞いた。彼女は、自分のために天父に祈ってくださるイエスの強い叫びを聞いた。彼女は、イエスのけがれない純潔さのうちにあって罪がどんなに憎むべきものであるかを知り、キリストの力によって勝利したのだった。 DA 968.6

マリヤの問題が人間の目には絶望的に見えた時にも、キリストは彼女のうちに善への可能性をごらんになった。キリストは彼女の性格のよい面をごらんになった。あがないの計画によって、人類は大きな可能性をさずけられていたので、こうした可能性がマリヤのうちに実現されるのであった。キリストの恵みを通して、彼女は、神の性質にあずかる者となった。堕落し、心が悪霊の住み家となっていた者が、交わりと 奉仕を通して救い主に近づけられた。イエスの足下にすわって、イエスから学んだのはマリヤであった。イエスの頭に貴重な香油をそそぎ、イエスの足を涙で洗ったのはマリヤであった。マリヤは十字架のそばに立ち、イエスについて墓に行った。マリヤは、イエスの復活ののち1番先に墓にいた。よみがえられた救い主のことを1番先に言いひろめたのはマリヤであった。 DA 968.7

イエスは、一人一人の魂の事情をご存じである。自分は罪深い者だ、とても罪深いとあなたは言うだろう。あるいはそうかも知れない。しかしあなたが悪ければ悪いほど、イエスが必要なのである。主は泣いて悔い改める者を決してしりぞけられない。主は明らかに示すことがおできになることを全部だれにでもお告げになるとは限らない。主は、ふるえている魂に勇気を出しなさいと命じられる。主はゆるしと回復とを求めてみもとに来るすべての者を心よくゆるしてくださる。 DA 969.1

キリストは、神の怒りの鉢(はち)をこの世に傾けるように、そして神への憎しみに心が満ちている人々を滅ぼすようにと天使たちに命じることもおできになる。主は宇宙からこの暗い地球を消し去ることもおできになる。しかし主はそうはなさらない。主は、きょう香壇のそばに立って、神の助けを望む者の祈りを神のみ前にささげておられる。 DA 969.2

イエスを避け所として求める魂を、主は告発とことばの争いから高めてくださる。だれも、またどんな悪天使も、このような魂を訴えることはできない。キリストはそうした魂をご自身の神また人としての性質に結びつけられる。彼らは、罪を負うてくださるお方のそばにあって、神のみ座から出る光のうちに立つのである。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(ローマ8:33、34)。 DA 969.3