各時代の希望
第61章 ザアカイ
本章はルカ19:1~10に基づく DA 959.7
エルサレムへの途中、「イエスはエリコにはいって、その町を通になった」(ルカ19:1)。ヨルダン川から数マイル離れ、谷の西端平原へひろがっているあたりに、この町は、熱帯的な緑と繁茂した美しい木立ちにかこまれていた。尽きることのない泉にうるおされるしゅろの木とぜいたくな庭園のあるこの町は、エルサレムとこの平原の町との間にはさまっている石灰石の丘と荒涼とした山峡とを背景にして、エメラルドのように輝いていた。 DA 959.8
多くの隊商が、祭りに行く途中、このエリコを通っ て行った。彼らの到着はいつも祭りの季節であったが、こんどは人々はいつもより深い興味にわきたっていた。最近ラザロをよみがえらせたガリラヤのラビが群衆の中におられるということがわかったのである。祭司たちの陰謀について盛んにうわさがささやかれていたが、群衆はキリストに敬意を表したいと熱望していた。 DA 959.9
エリコは、昔、祭司たちのためにとっておかれた町々の一つで、当時たくさんの祭司たちがここに住居を持っていた。しかしこの町にはまた非常に異なった性格の住民が住んでいた。ここは交通の中心地であって、各地からやってきた他国人にまじって、ローマの官吏や軍人たちが見受けられ、一方また関税を徴収するために多くの取税人たちが住んでいた。 DA 960.1
「取税人のかしら」ザアカイはユダヤ人で、同国人からきらわれていた。彼の地位と富は人々のいやがる職業の報酬で、この職業は不正と搾取の別名のように考えられていた。しかしこの富める税関役人のザアカイは、それほど冷酷な人間ではなかった。その世俗的で高慢な外観の下には、天来の感化力に動かされやすい心があった。ザアカイは、イエスのことを聞いていた。排斥されている階級の人々に対して親切と礼儀のある態度をとられたお方のうわさが遠く広くひろがっていた。この取税人のかしらの内には、もっとよい人生をあこがれる思いがあった。 DA 960.2
エリコからわずか数マイル離れたヨルダン川で、バプテスマのヨハネが福音を説いた時、ザアカイは悔い改めへの呼びかけを聞いた。「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」という取税人たちに対する教えは、外面的には無視されたが、それはザアカイの心に深い感銘を与えていた(ルカ3:13)。彼は聖書を知っていて、自分の行為がまちがってしることを自覚していた。いま彼は大教師イエスから出たものといわれているこのことばを聞いて、自分が神の前に罪人であることを感じた。しかし彼がイエスについて聞いていたことが、彼の心に望みの火をともした。悔い改め、すなわち生活の改革は、自分のような者にさえ可能なのだ。この新しい教師が最も信頼しておられろ弟子たちの1人も取税人ではないか。ザアカイは自分の心をとらえたこの自覚にただちに従い、自分が不正を働いた相手の人々の損害をさっそく償いはじめた。 DA 960.3
このように彼がすでに自分の歩みを正しい道へ戻し始めていた時に、イエスがエリコに入ってこられるといううわさが町じゅうに伝わった。ザアカイはイエスに会う決心をした。彼は罪の実がどんなににがいものであるか、また悪の道から引き返そうとする者の歩みがどんなに困難なものであるかを認め始めていた。自分のあやまちを直す努力が誤解され、疑いと不信の目でみられることは耐えきれないことだった。この取税人のかしらは、自分の心に望みをもたらしてくれたことばを語られたイエスのお顔を見たいと熱望した。 DA 960.4
町の通りは人々でいっぱいだった。ザアカイは背が低かったので、人々の頭にさえぎられて何も見ることができなかった。だれも彼に道をあけようとしなかった。そこで、この富裕な取税人は、群衆よりすこし先に走って行き、枝のひろがったいちじく桑の木が道におおいかぶさっているところへくると、その木にのぼって枝の間に座を占めた。そこなら、行列が下を通りすぎるのを見渡すことができた。群衆が近づき、通りすぎて行く。ザアカイは目をこらして、お会いしたいと熱望しているお方をみっけようとする。 DA 960.5
祭司たちとラビたちのさわがしい声や群衆の歓迎の叫び声をこえて、この取税人のかしらの無言の願いがイエスの心に語りかけた。突然、ちょうどこのいちじく桑の木の下で、一群が立ちどまり、その前後の群衆も動かなくなると、1人のお方が心の底まで餌み通すような目つきをして上をごらんになる。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」とのことばを聞くと、木の上の男はほとんど自分の耳を疑う(ルカ19:5)。 DA 960.6
群衆が道をあけると、ザアカイは、夢心地で歩きながら、わが家の方へ道案内をする。しかしラビたちはにがい顔をして、不満とあざけりのうちに、「彼は罪人の家にはいって客となった」とつぶやく(ルカ 19:7) DA 960.7
ザアカイは、自分のような無価値な者に目をとめられたキリストの愛とへりくだりに圧倒され、驚いて口もきけなかった。いまこの新しく見いだした主に対する愛と忠誠心が彼の口を開かせる。彼は自分の告白と悔い改めを公表しようとする。 DA 961.1
群衆のいる前で、「ザアカイは立って主に言った、『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを4倍にして返します』。イエスは彼に言われた、『きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから』」(ルカ19:8、9)。 DA 961.2
富裕な若い役人がイエスから立ち去った時に、弟子たちは主が、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と言われるのを聞いて驚き、互に、「それでは、だれが救われることができるのだろう」と叫んだ(マルコ10:23、26)。いま彼らは、「人にはできない事も、神にはできる」と言われたキリストのみことばが事実であることを実際に示された(ルカ18:27)。彼らは、富裕な人でも、神の恵みによって、神の国に入ることができることを知った。 DA 961.3
ザアカイは、キリストのお顔を見る前に、彼が真に悔い改めた者である証拠となる働きを始めていた。人から非難される前に、彼は自分の罪を告白していた。彼は聖霊による罪の自覚に従い、古代イスラエルのために、またわれわれのために書かれたみことばの教えを実行しはじめていた。主は、ずっと昔こう言われた、「あなたの兄弟が落ちぶれ、暮して行けない時は、彼を助け、寄留者または旅びとのようにして、あなたと共に生きながらえさせなければならない。彼から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を恐れ、あなたの兄弟をあなたと共に生きながらえさせなければならない。あなた利子を取って彼に金を貸してはならない。また利益をえるために食物を貸してはならない」。「あなたがたは互に欺いてはならない。あなたの神を恐れなければならない」(レビ25:35~37、17)。こうしたことばは、キリストが雲の柱におおわれておられた時に、自ら語られたのであったが、キリストの愛に対するザアカイの最初の応答は、貧しく困っている人たちに対して同情を表すことであった。 DA 961.4
取税人たちは徒党を組んでいたので、彼らは民衆を圧迫し、お互いに自分たちの詐欺行為を支持し合うことができた。彼らは、搾取するにあたって、ほとんど全国的な慣例となっていたことを実行しているにすぎなかった。彼らを軽蔑していた祭司たちとラビたちさえ、聖なる職務のかげで不正直な行為によって私腹を肥やすような不義を行っていた。しかしザアカイは、聖霊の感化力に身をまかせるとすぐに、正直に反する行為を一切捨てた。 DA 961.5
改革を伴わない悔い改めは、真正なものではない。キリストの義は、告白されてもいなければ捨てられてもいない罪をおおう外衣ではない。それは品性を一変し、行為を規制する生活原則である。聖潔とは神のために完全になることである。それは内住する天の原則に対して心と生活をまったく屈服させることである。 DA 961.6
クリスチャンは、その実業生活において、主ならこのように事業を経営されるであろうという方法を世にあらわすのである。すべての取引において、彼は神が自分の教師であることを明らかにする。「主に聖なる者」ということが、日記帳にも元帳にも証書にも領収書にも為替手形にも書かれている(出エジプト28:36)。キリストに従う者であることを告白しながら、不正なやり方で取引をする者は、聖にして正しく、憐れみある神のご品性に反するまちがったあかしをたてているのである。悔い改めた魂はみな、ザアカイのように、自分の生活に目立っている不正な習慣を放棄することによって、キリストが心の中に入られたことを表明する。この取税人のかしらのように、彼は損害を償うことによって誠実心を証明する。主はこう言われる、「すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、……彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は……必ず生きる」(エゼキエル33:15、16)。 DA 961.7
もしわれわれが商売上の不正な取引で他人に損害を与えたり、商売上のごまかしをやったり、だれかをだましたりしたなら、たとえそれが法律を犯すことではなくても、われわれは、そのまちがいを告白して、力の及ぶかぎり償いをすべきである。われわれは、取ったものを返すばかりでなく、われわれがそれを所有していた間に正しく賢明に用いられたら蓄積されたはずの分まですべて返すのが当然である。 DA 962.1
救い主は、ザアカイに、「きょう、救がこの家にきた」と言われた(ルカ19:9)。ザアカイ自身が祝福されたばかりでなく、彼といっしょに家族の全部が祝福されたのである。キリストは、ザアカイに真理を教えるために、また彼の家族にみ国の事がらを教えるために、彼の家庭に行かれた。彼らはラビたちと礼拝者たちから軽蔑されて、会堂から閉め出されていた。しかしいま、エリコ中で最も恵まれた家族として、彼らは、自分の家で天来の教師のまわりに集まり、自分たちの力で生命のみことばを聞いた。 DA 962.2
魂に救いがのぞむのは、キリストが個人的な救い主として受け入れられる時である。ザアカイはイエスを自分の家庭の一時のお客としてばかりでなく、魂の宮に住むお方として受け入れた。学者たちとパリサイ人たちはザアカイを罪人として非難し、またキリストがザアカイの客となられたことについてつぶやいたが、主は彼をアブラハムの子として認められた。なぜなら、「信仰による者こそアブラハムの子である」からである(ガラテヤ3:7)。 DA 962.3