各時代の希望
第60章 新しいみ国の律法
本章はマタイ20:20~28、マルコ10:32~45、ルカ18:31~34に基づく DA 956.5
過越節の時が近づき、イエスはふたたびエルサレムへ向かわれた。イエスの心の中には、天父のみこころと完全に一つであるという平安があったので、主は熱心な足どりで、犠牲の場所へ進んで行かれた。しかし弟子たちは、不可解と疑いと恐れの思いにおそわれた。「イエスが先頭に立って行かれたので、彼 らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」(マルコ10:32)。 DA 956.6
ふたたびキリストは、12人をまわりにお呼びになって、ご自分が裏切られ、苦難を受けられることを、これまでよりも一層はっきり打ち明けられた。イエスは言われた、「『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして3日目によみがえるであろう』。弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」(ルカ18:31~34)。 DA 957.1
自分たちはちょっと前までいたるところで、「天国は近づいた」と宣伝したではないか。多くの者がアブラハム、イサク、ヤコブとともに神の国にすわると、イエスご自身が約束されたではないか。キリストのために何かを捨てた者は誰でもこの世で100倍を受け、またみ国の一部を受けると、主は約束されたではないか。主はみ国の高い栄誉の地位——イスラエルの12の支族をさばく座につくことについて、特別な約束を12人にお与えになったではないか。いまでも主は、ご自分に関して預言者の書に書かれていることはすべて成就すると言われた。 DA 957.2
その預言者たちは、メシヤの統治の栄光を預言したではないか。こうした考え方に照らしてみる時、裏切り、迫害、死についてのイエスのことばはばく然としていて、はっきりしないように思えた。どんな困難が生じようと、み国はまもなく建てられるのだと、彼らは信じた。 DA 957.3
ゼベ列の子ヨハネは、イエスに従った最初の2人の弟子の中の1人であった。彼とその兄弟ヤコブは、キリストの奉仕にすべてを捨てた最初の人たちのグル一プに入っていた。彼らはキリストと一緒にいるために家も友だちも喜んで捨てた。彼らはイエスとともに歩み、ともに語った。彼らは家にひっこんでいる時も、公の集りの中にいる時も、イエスといっしょだった。イエスは、彼らの恐れを静め、彼らを危険から救い、彼らの苦しみをやわらげ、彼らの悲しみを慰め、忍耐とやさしさをもって彼らをお教えになったので、ついに彼らの心はイエスの心に結ばれ、イエスを愛するあまり、み国においてイエスに一番近いところにいたいとあこがれるようになった。機会のあるたびに、ヨハネは救い主の隣に席を占め、ヤコブはできるだけイエスに一番近いところにいたいとあこがれた。 DA 957.4
彼らの母親は、キリストに従う者であって、その財産を惜しまずささげてイエスに仕えた。息子たちに対する母親の愛情と野心から、彼女は息子たちのために新しいみ国の最高の地位をほしがった。彼女は息子たちにこのことをイエスにお願いするように促した。 DA 957.5
母親と息子たちは、一緒にイエスのところへやってきて、彼らの心にかかっている願いをかなえてくださるようにたのんだ。 DA 957.6
「何をしてほしいのか」とイエスはおたずねになった(マタイ20:21)。 DA 957.7
母親は、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」と答えた(マタイ20:21)。 DA 957.8
イエスは、兄弟たちよりも有利な立場を占めたいという彼らの利己心を責めないで、彼らのことをやさしく忍耐される。イエスは彼らの心を読まれ、彼らが深く主を慕っていることをお知りになる。彼らの愛はただの人間的な愛ではない。それは、人間の世俗的な水路によってよごれてはいるが、主ご自身のあがないの愛という泉から湧きあふれたものである。主は責めないで、それを深くし、清められる。イエスは、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバブテスマを受けることができるか」と言われた。彼らは、さばきと苦難をさし示しているキリストのふしぎなことばを思い浮べたが、それでも確信をもって、「できます」と答える(マルコ10:38、39)。彼らは、主に起ころうとしているすべてのことをわかち合うことによって、自分たちの忠誠心を証明することができれ ば、最高の名誉であると考える。 DA 957.9
「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう」とイエスは言われた(マルコ10:39)。キリストの前には、王座ではなく、十字架があった。その右と左には、2人の犯罪者が道連れとなるのであった。ヨハネとヤコブは、主の苦難を分かち合うのであった。ヤコブは兄弟たちのうちで最初に剣に倒れ、ヨハネは兄弟たちのうちで最後まで生き残って苦労と非難と迫害に耐えるのであった。 DA 958.1
イエスは続けて言われた、「しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」(マルコ10:40)。神の国では、地位はえこひいきによって得られるのではない。それは功績によって得られるものでも、独断的にさずけられるものでもない。それは品性の結果である。王冠と王座はある状態に到達したことのしるしである。それは主イエス・キリストを通して自我を克服したことのしるしである。 DA 958.2
ずっとのちになって、弟子ヨハネがキリストの苦難にあずかることによって主と一致するようになった時、主は、神の国において主の近くにすわることができる条件をヨハネにお示しになった。キリストはこう言われた、「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して2度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、……わたしの新しい名とを、書きつけよう」(黙示録3:21、12)。同じように使徒パウロもこう書いている、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」(Ⅱテモテ4:6~8)。 DA 958.3
キリストの一番近くに立つ者は、この地上においてキリストの自己犠牲的な愛、すなわち、「高ぶらない、誇らない、……自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない」ところの愛、また主の心を動かしたように、人類を救うために死にいたろまで、すべてを献げ、生き、働き、犠牲を払うように弟子の心を動かすところの愛、——そうした愛の精神を最も深く飲んだ者である(Ⅰコリント13:4、5)、この精神はパウロの一生にあらわされた。パウロは、「わたしにとっては、生きることはキリストであ」ると言った。なぜなら彼の一生は人々にキリストをあらわしたからである。そして「死ぬことは益である」——キリストにとって益である。死そのものは主の恵みの力をあらわし、魂を主のもとに集めるであろう。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられる」と彼は言った(ピリピ1:21、20)。 DA 958.4
10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネのたのみについて聞くと、非常に不愉快に思った。み国の最高の地位は、彼らの一人一人がねらっていたものだったので、彼らは、この2人の弟子たちが自分たちに1歩先んじたようにみえることを怒った。 DA 958.5
だれが一番えらいかということについてもう1度新たに争いが起こりそうにみえた、その時、イエスは、弟子たちをそばにお呼びになり、憤慨している彼らにこう言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない」(マタイ20:25、26)。 DA 958.6
この世の国では、地位は自分を高めることを意味した。民衆は支配階級の利益のために存在していると思われていた。勢力、富、教育は、指導者たちが大衆を自分のために使用するために彼らを支配する手段であった。上層階級が考え、決定し、楽しみ、支配し、下層階級は従い、仕えるのであった。ほかのすべてのこと同様に、宗教も柏かの問題であった。民衆は目上の人から命じられる通りに信じ、実行するものと期待されていた。自分で考え、実行する人間としての人権はまったく認められなかった。 DA 958.7
キリストは、これと異なった原則の上にみ国を築いておられた。主は人々を権力の立場にではなく、奉仕の立場に召し、強い者を弱い者の欠点を負うために召された。権力、地位、才能、教育のある人は、それだけほかの人々に仕える一層大きな義務を負わされた。キリストの弟子の中の一番小さな者にさえ、「すべてのことは、あなたがたの益……である」と言われている(Ⅱコリント4:15)。 DA 959.1
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)。ご自分の弟子たちの間にあって、キリストは、あらゆる意味で、世話人、すなわち重荷を負う人であられた。主は弟子たちと貧乏を共にし、彼らのために克己を実行し、彼らの先に立って、もっと困難な場所を平らにし、まもなくご自身の生命を捨てることによって地上におけるご自分の働きを完成されるのであった。キリストが実行された原則は、ご自分の体である教会の信者を行動させる動機となるのである。救いの計画と土台は愛である。キリストのみ国では、キリストがお与えになった模範に従い、キリストの羊の群れの牧者として活動する者が最も大いなる者である。 DA 959.2
パウロの次のことばは、クリスチャン生活の真の威厳と栄誉を示している。「わたしは、すべての人に対して自由であるが……すべての人の奴隷になった」。「多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている」(Ⅰコリント9:19、10:33)。 DA 959.3
良心の問題において、人を束縛してはならない。だれも他人の心を支配したり、他人の代りに判断したり、他人の義務を規定したりすべきでない。神は、一人一人に考える自由と、自分自身の確信に従う自由をお与えになっている。「わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである」(ローマ14:12)。自分自身の個性を他人の個性の中に没入させる権利はだれにもない。原則にかかわるすべての問題において、「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」(ローマ14:5)。キリストの国には、横平な圧制もなければ、強制的なやり方もない。天使たちは、支配したり、尊敬を強要するためではなく、人類の向上に人々と協力するために、恵みの使者としてこの地上にくるのである。 DA 959.4
救い主この教えの原則は、ことばそのものまで、聖なる美しさをもって、愛された弟子ヨハネの記憶にいつまでも残った、晩年にいたろまで、教会に対するヨハネのあかしの趣旨はこうであった、「わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである」。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(Ⅰヨハネ3:11、16)。 DA 959.5
これが初代の教会にみなぎっていた精神であった。聖霊の降下があってから、「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、……彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった」。「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした」(使徒行伝4:32、34、33)。 DA 959.6