各時代の希望

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第57章 「あなたに足りないことが1つある」

本章はマタイ19:16~22、マルコ10:17~22、ルカ18:18~23に基づく DA 942.6

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、『よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』」(マルコ10:17)。 DA 942.7

この質問をした若者は役人であった。彼は非常な財産家で、責任のある地位を占めていた。彼は、キリストが、ご自分のもとに連れてこられた子供たちに対してあらわされた愛を知った。キリストがやさしく子供たちを迎えて、その腕にだきあげられるのを見て、彼の心は救い主に対する愛に燃えた。彼はキリストの弟子になりたいという願いを感じた。深く心を動かされた彼は、キリストが道を歩いておられる時、あとを追いかけて行って、その足下にひざまずき、彼の魂にとってまた人類の一人一人にとって重要な質問、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」ということを、真心から熱心にたずねた(マルコ10:17)。 DA 942.8

するとキリストは、「なぜわたしをよき者と言うのか。 神ひとりのほかによい者はいない」と言われた(マルコ10:18)。イエスは、この役人の真心をためし、彼がどういう風にキリストをよき師とみなしているかをさぐり出してみようと望まれたのであった。彼は自分が話しかけているお方を神のみ子として認めたのだろうか。彼の心の本当の思いはどうなのだろうか。 DA 942.9

この役人は、自分自身の義を高く評価していた。彼は自分に何か欠けたところがあるとは本当に思っていなかったが、そうかといって全く満足しているわけでもなかった。彼は自分の持っていないもの、何か足りないものを感じていた。イエスが小さな子供たちを祝福されたように、自分を祝福してくださって、自分の魂の欲求を満たしてくださることがおできになるのではないだろうか。 DA 943.1

この質問に答えて、イエスは、もし彼が永遠の生命を得たいなら、神のいましめに従うことが必要であるとお告げになった。そしてイエスは、同胞に対する人の義務をあらわしている幾つかのいましめを引用された。役人の答は肯定的で、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。「ほかに何が足りないのでしょう」であった(ルカ18:21、マタイ19:20)。 DA 943.2

キリストは、あたかもこの若者の生活を見通し、その品性をさぐられるかのように、彼の顔を見つめられた。イエスは、彼を愛され、彼の品性を実質的に変えるような平安と恵みと喜びを与えたいと熱望された。イエスは、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われた(マルコ10:21)。 DA 943.3

キリストはこの若者にひきつけられた。イエスは、この若者が「それらの事はみな、小さい時から守っております」と主張したことばが真心か出たものであることをご存知であった(マルコ10:20)。あがない主は、心をささげることと、クリスチゃンの慈善が必要であることとを認めさせる識別力を彼のうちに起こしたいと熱望された。イエスは、この若者のうちにへりくだって悔い改めた心が起こり、彼が神にささぐべき最高の愛を意識し、その愛の足りないところをキリストの完全によっておおっていただくのを見たいと熱望された。 DA 943.4

イエスは、もしこの若い役人が救いの働きにイエスの共労者となるなら、主にとってちょうど必要な助けとなることをお知りになった。もし彼がキリストのみちびきに従うなら、彼は善のために一つの力となるであろう。この役人は、きわだってキリストを代表することができたであろう。なぜなら彼は、もし救い主に結合するなら、人々の間で神の力となることのできる資格を備えていたからである。キリストは、彼の性格をごらんになって、彼を愛された。この役人の心に、キリストに対する愛が目覚めてきた。愛は愛を生むのである。イエスは、彼がご自分の共労者となろのを見たいと望まれた。イエスは、彼をご自分と同じように、神のみかたちをうつす鏡にしたいと熱望された。イエスは、彼のすぐれた品性を啓発し、それを主のご用のためにきよめたいと熱望された。もしこの役人がその時キリストに献身していたら、彼は主のこ臨在の雰囲気のうちに育ったのである。もし彼がそうなることを選択していたら、彼の将来はどんなに異なったものとなったことだろう。 DA 943.5

「あなたに足りないことが一つある」。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持っようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」とイエスは言われた(マルコ10:21、マタイ19:21)。キリストはこの役人の心を読まれた。彼にはただ一つ足りないことがあったが、しかしそれは重大な原則であった。彼はその魂のうちに神の愛が必要だった。の足りないところを補わなければ、それは彼にとって致命傷となるのである。彼の性質全てがだめになってしまうのである。甘やかしておくと、利己心がますます強くなるだろう。彼が神の愛を受け入れるためには、自我に対する最高の愛を克服しなければならない。 DA 943.6

キリストはこの男を試みられた。イエスはこの男に、 天の宝と世俗的な偉大さのどちらかを選ぶように要求された。もし彼がキリストに従うならば、天の宝が保証された。しかし自我を放棄しなければならない。彼の意思はキリストに支配されねばならない。神の聖潔そのものがこの若い役人に提供された。彼は神の子となり、キリストと共に天の宝を受け継ぐ者となる特権が与えられた。しかし彼は十字架をとりあげて、克己の道をキリストに従わねばならない。 DA 943.7

キリストのことばは、この役人にとって、実に、「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい」との招きであった(ヨシュア24:15)。選択は彼にまかされた。イエスは彼の改心を熱望しておられた。イエスは、彼の品性の欠点をお示しになり、そしてこの若者がこの間題をおしはかって考えた時、何という深い関心をもってその結果を見守られたことだろう。もし彼がキリストに従うことを決心するなら、彼はどんなことにおいてもキリストのみことばに従わねばならない。彼は自分の野心的な計画を捨てなければならない。何という熱心な思いと魂のかわきをもって、キリストは、この若者が神のみたまの招きに応ずることを望みながら、彼をごらんになったことだろう。 DA 944.1

キリストは、この役人がクリスチャン品性を完成できるただ一つの条件を示された。キリストのみことばは、きびしく強要的に思えたが、しかしそれは知恵のことばであった。この役人が救われる唯一の望みは、そのみことばを受け入れ、これに従うことにあった。彼の高い地位と財産が、彼の品性に微妙な悪い影響を及ぼしていた。そうしたものに執着していると、彼の愛情の中から神が押しのけられるであろう。多くても少なくても、神にさし出さないでおくことは、彼の道徳的な力と能力とを低下させるようなものをとどめておくことになるのであった。なぜならこの世の物を大事にしていると、それがどんなにあてにならない無価値なものであっても、それはすっかり心を奪うようなものとなるからである。 DA 944.2

役人はキリストのみことばの意味を全部すぐにさとって、悲しく思った。もし彼が提供された賜物の価値を認めたら、彼はすぐにキリストに従う者の1人として加わっただろう。彼はユダヤ人の名誉ある議会の議員だったので、サタンは有望な前途で彼を誘惑していた。彼は天の宝がほしかったが、自分の富によってもたらされるこの世の特典もほしかった。彼はこんな条件があることが残念だった。彼は永遠の生命を望んだが、犠牲は払いたくなかった。永遠の生命の代価は大きすぎるように思えた。そこで彼は、「悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(マタイ19:22)。 DA 944.3

神の律法を守ってきたという彼の主張は欺瞞であった。彼は、富が彼の偶像であることをあらわした。世俗が彼の愛情の中で首位を占めている間は、彼は神のいましめを守ることができなかった。彼は物をお与えになった神よりも、神がお与えになった物を愛した。キリストはこの若者にご自身との交わりを申し出られた。イエスは、「わたしに従ってきなさい」と言われた。しかしこの役人にとって、救い主は、人々の間における彼自身の名前や、彼の財産ほど大事ではなかった。目に見えない天の宝のために、目に見えるこの世の宝を捨てることはあまりに大きな冒険であった。彼は、永遠の生命の申し出をことわって立ち去り、その後は世俗が彼の礼拝を受けることになった。幾千の人々がキリストと世俗をはかりにかけて、このきびしい試練を味わっている。そして多くの者が世俗をえらぶ。この若い役人と同じように、彼らは、「わたしはこの人をわたしの指導者とすまい」と心のうちに言いながら、救い主から離れて行くのである。 DA 944.4

この若者に対するキリストの態度は、一つの実物教訓として示されている。神は、神のしもべの一人一人が従わねばならない行為の法則をわれわれにお与えになった。それは、神の律法への服従であるが、ただ義務的に従うことではなくて、生命へ至る服従であって、品性にあらわされる。神は、神の国の民になりたいと望むすべての人のために、品性についての神ご自身の標準をおたてになった。キリストの共労者となる者、「主よ、わたしの持っているもののすべて、わたしの全人格はあなたのものです」と言う者だけ が、神の息子娘として認められる。天国を望みながら、しかも定められた条件をみて離れ去ることがどういうことになるかを、人はみな考えてみなければならない。キリストに、「いやです」と言うことが、何を意味するかを考えなさい。この役人は、「いや、わたしはあなたに全部をさしあげられません」と言った。われわれはこれと同じことを言うだろうか。救い主は、神がわれわれになすようにお与えになった働きをいっしょにしてあげようと申し出ておられる。主は、神がわれわれにお与えになった金銭を、世にみわざを進めるために用いなさいと申し出ておられる。この方法によってのみ、主はわれわれをお救いになることができるのである。 DA 944.5

この役人の財産は、彼が忠実な家つかさになるように彼に委託されたのであった。彼はそうした財産を、困っている人々に恵むために分配すべきであった。同様に神は、今も、人に金銭、才能、機会を委託されるが、それは、彼らが神の代理人となって貧しい人々や苦しんでいる人々を助けるためである。委託された賜物を神の望まれる通りに用いる者は、救い主と共に働く者となる。彼は魂をキリストに導く。なぜなら彼はキリストのご品性の代表者であるからである。 DA 945.1

この若い役人と同じように、高い信任の地位にあって、大きな財産を持っている人々にとっては、キリストに従うためにすべてを放棄することは犠牲が大きすぎるように思えるかもしれない。しかしこれはキリストの弟子になりたいと望むすべての人の行為の法則である。服従に欠けるものは何も受け入れられない。自我を屈服させることがキリストの教えの本質である。それはしばしば高圧的とも思えるようなことばで示されたり、命じられたりする。なぜなら、心のうちにいだかれる時全人格を破壊するようなものを切り捨てる以外に、人を救う道がないからである。 DA 945.2

キリストに従う者たちが主ご自身のものを主にお返しする時、彼らは宝をたくわえているのであって、それは、彼らが、「良い忠実な僕よ、よくやった。……主人と一緒に喜んでくれ」とのみことばをきく時に、彼らに与えられるのである(マタイ25:23)。「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(ヘブル12:2)。あがなわれた魂、すなわち永遠に救われた魂を見る喜びこそは、「わたしに従ってきなさい」と言われたキリストのみ足跡に従うすべての者にとって報いである。 DA 945.3