各時代の希望
第56章 子供たちを祝福される
本章はマタイ19:13~15、マルコ10:13~16、ルカ18:15~17に基づく DA 939.3
イエスはいつでも子供を愛されるお方であった。イエスは彼らの子供らしい共感と、うちとけた気取らない愛を受け入れられた。彼らの純潔な口から出る感謝の賛美はイエスの耳には音楽にきこえ、狡猾(こうかつ)で偽善的な人たちと接触して心が重くなられた時、その精神を生きかえらせた。救い主はどこへ行かれても、そのおだやかな顔つきと、やさしく親切な態度によって、子供たちの愛情と信頼とをかち得られた。 DA 939.4
ユダヤ人の間では、子供たちをラビのところにつれて行き、手をのせて祝福してもらう習慣があった。ところが救い主の弟子たちは、主が大事な働きをしておられるので、そんなことに邪魔されてはならないと思っていた。母親たちが、小さな子供たちをつれてイエスのところへやってくると、弟子たちは面白くない顔で彼らをながめた。彼らは、この子供たちがあまり幼いので、イエスのみもとにきても益を受けることはないと考え、主は子供たちがそばにくることをお喜びにならないと結論した。しかし主がお喜びにならなかったのは弟子たちのことであった。救い主は、子供たちを神のみことばに従って訓練しようとつとめている母親たちの心配と重荷を理解された。主は彼らの祈りを聞いておられた。主ご自身が彼らをみもとに引きよせられたのであった。 DA 939.5
1人の母親が子供をつれてイエスに会いに行くため家を出た。途中彼女は隣の人に自分の用向きを 話した、するとその隣人も自分の子供たちをイエスに祝福していただきたいと願った。こうして数人の母親たちが子供たちをつれて一緒にやってきた。中には幼児の年令をすぎて、少年少女の年ごろの子供たちもいた。母親たちがその願いを封ち明けると、イエスは、その内気な涙ぐましいたのみを、同情をもってお聞きになった。しかし主は、弟子たちが彼らをどう扱うかをごらんになるために待たれた。主は、弟子たちがイエスのために尽したつもりで母親たちを追い払うのをごらんになると、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国てある」と言って、彼らのまちがいを小された(マルコ10:14)。主は、子供たちをご自分の腕に受けとり、彼らの上に手をおき、彼らが受けにやってきたその祝福をお与えになった。 DA 939.6
母親たちは慰められた。彼らはキリストのみことばに力づけられ、祝福されて家へ帰った。彼らは、新しい元気をもって重荷をとりあげ、予供たちのために希望に満ちて働く力が与えられた。今日の母親たちも、同じ信仰をもって主のみことばを受け入れるのである。キリストは、人として人々の中に生活された時とまったく同じに、今日も個人的な救い主である。主は、ユダヤで小さい子らを両腕にいだかれた時とまったく同じに、今日も母親たちを助けてくださるお方である。われわれの家庭の子供たちは、昔の子供たちと同じように、キリストの血潮で買われた者である。 DA 940.1
イエスはどの母親の心の重荷もご存知である。貧乏や不自由と戦った母親をお持ちになったイエスは、苦労している母親の一人一人に同情される。カナン人の女の心配を除いてやるために遠い道を行かれたイエスは、今日の母親たちのためにも同じことをしてくださるのである(マタイ15:22参照)。ナインのやもめに1人息子を返しておやりになったイエス、また十字架上の苦悶のさなかにもご自分の母のことをおぼえておられたイエスは、今日も母親の悲しみに心動かされる。どの悲しみにも、どの必要にも、イエスは、慰めと助けをお与えになるのである。 DA 940.2
母親たちは、自分たちの悩みをたずさえてイエスのみもとに行きなさい、彼らは、子供たちを冶めるのに助けとなる十分な恵みを見いたすであろう。救い主の足もとに重荷を置きたいと願うすべての母親のために、門は開かれている。「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい」と言われたイエスは、母親たちが子供たちをイエスに祝福してもらうためにつれてくるようにといまでも招いておられる(マルコ10:14)。母親の腕のなかにある赤ん坊てさえも、祈る母親の信仰によって全能者のかけにやとろのである。パフテスマのヨハネは、生まれた時から聖霊に満たされていた。もしわれわれが神と美じわろ生活をしているならば、われわれもまた、神のみた柔かわれわれの子供たちを、生れ落ちたときから、形づくってくださることを期待できるのである。 DA 940.3
イエスはこ自分のもとにつれてこりれた子供たちのうちに、主の恵みの相続人またキリストのみ国の民となる男女をごらんになったが、その中のある者たちは、キリストのために殉教老となるのであった。イエスは、これらの子供たちがみことばに封を傾け、世才がたけて強情な大人たちよりもはるかにたやすくイエスを救い主として受け入れることをご存知であった。イエスはお教えになる時、子供たちの水準にまでくだられた。天の君であられるイエスは、子供たちの質問に答えることや、大切な教訓を彼らの幼稚な理解力に向くようにわかりやすくすることをおろそかにされなかった。イエスは彼らの頭に真理の種をうえつけられたが、それは後年になって身を出し、永遠の生命にいたる実を結ぶのであった。 DA 940.4
子供たちは今でも福音の教えを最も素直に受け入れる。彼らの心は天来の感化力に対して開かれ、受けた教訓を固くもちつづける。小さい子供たちは、それぞれの年令にふさわしい経験をもったクリスチャンとなることができる。彼らを霊的な事がらに教育する必要がある。両親は、子供たちかヤリストのご品性に型どって品性を形成するように、あらゆる便宜を彼らに与えねばならない。 DA 940.5
父と母は、その子供たちを主の家族の子供として、すなわち天のために教育するように委託れた者と みなすべきである。われわれは鈴供たちに、われわれ自身がキリストから学ぶ教訓を、その若い頭脳が受け入れることができるにしたがって、すこしずつ天の原則の美しさをわからせながら与えねばならない。こうしてクリスチャンの家庭は一つの学校となり、そこではキリストご自身が主任教師となられ、両親が助手として奉仕するのである。 DA 940.6
われわれは、子供たちの悔い改めのために働く時、罪の自覚の重要な証拠として激しい感情を期待してはならない。また彼らが悔い改める正確な時を知る必要もない。われわれは、彼らが罪をイエスに告白して、そのゆるしを願い、イエスが自らこの地上におられた時に子供たちを受け入れてくださったように、彼らをゆるし、受け入れてくたさることを信ずるように、彼らに教えねばならない。 DA 941.1
子供たちは母を愛するから母に従うのだということを母親が彼らに教える時、彼女は子供たちにクリスチャン生活の最初の教訓を教えているのである。母の愛は子供たちにキリストの愛を代表しているのであって、母親に信頼し従う子供たちは、救い主に信頼し従うことを学んでいるのである。 DA 941.2
イエスは、子供たちのお手本であられたが、また父親の模範でもあられた。主は権威をもっている者としてお語りになったので、そのみことばには力があった。しかし無作法で乱暴な者たちとのまじわりには、どんな時にも、一つも不親切なことばや無作法なことばを用いられなかった。心のうちにあるキリストの恵みは、天来の威厳と礼儀正しさについての感覚を与える。それはどんな苛酷なものもやわらげ、粗野で不親切なものをすべて抑制する。それは父親と母親に、自分たちがとり扱われたいと願うように、子供たちをものわかりのよい者としてとり扱うようにさせる。 DA 941.3
両親がたよ、あなたがたか子供たちを教育する時に、神が自然界の中にお与えになった教訓を学びなさい。なでしこやばらやゆりを栽培するとしたら、あなたがたはどうするだろうか。どんなやり方で、枝や葉をあんなに美しく茂らせ、形のよい美しいものに仕立てるかを園芸家にたずねなさい。彼は、手荒な扱い方や無理な手入れは弱い茎を痛めるだけだから、そんな育て方は決してしないと教えてくれるだろう。彼は、こまかい注意を何度も繰り返して育てたのてある。彼は、土をしめらせ、成長する植物を激しい突風や焼けつく太陽から守ったのである。その時神がその植物を茂らせ、美しい花を咲かせてくださったのである。あなたがたの子孔供たちをとり扱う時、園芸家の方法に従いなさい。やさしいとり扱い、愛の奉仕によって、子供たちの品性をキリストのご品性の型にならって形づくるように努力なさい。 DA 941.4
神に対する愛と、お互いの間の愛を表現するように奨励なさい。世の中に無情な男女が多い理由は、真の愛情が弱さとみなされ、それが阻止され、おさえつけられてきたからてある、こうした人々のよい面の性質は、子供の時に押さえつけられたのてあって、神の愛の光か彼らのつめたい利己主義を溶かさない限り、彼らの幸福は永遠に失われる。もしわれわれが自分の子供たちにイエスのやさしい精神と、天使たちがわれわれにあらわす同情心とを持ってもらいたければ、子供時代のおおらかな、愛の衝動を育てねばならない。 DA 941.5
自然界の中にキリストを見るように子供たちに教えなさい。彼らを戸外の大木の下や、庭につれ出しなさい。そして、創造のあらゆるすばらしいみわさの中で、キリストの愛のあらわれを見ることを彼らに教えなさい。キリストが、すべての生物を支配する法則をお定めになったこと、主がわれわれのための法則をおつくりになったこと、しかもそれらの法則はわれわれの幸福と喜びのためであることを、彼らに教えなさい。長い祈りと退屈な訓戒で彼らを疲れさせるようなことをしないで、自然の実物教訓によって、神の律法に服従することを彼らに教えなさい。 DA 941.6
あなたかたか、キリストに従う者として、子供たちから信頼されるようになったら、主がわれわれを愛されたその大きな愛を彼らに教えることはたやすい。救いの真理を明らかにし、子供たちにキリストを個人的な救い主としてさし示す時、天使たちはあなたがたのそばにいる。主は、ベツレヘムの赤ちゃんの尊い物 語に子供たちの興味を向ける力を父親と母親にお与えになる。まことにこのお方こそ世の望みなのである。 DA 941.7
イエスが弟子たちに、子供たちがわたしのもとにくるのをとどめるなと言われた時、主は各時代のキリストに従う者たち——教会の役員に、牧師に、助手たちに、すべてのクリスチャンに語りかけておられた。イエスは子供たちをひきよせ、彼らをわたしのところにこさせなさいとお命じになる。それはあたかも、もしあなたがたがじゃまをしなかったら、子供たちはわたしのもとに来るのだと言っておられるかのようである。 DA 942.1
キリストに似ないあなたの品性によって、イエスについて誤った印象を与えてはならない。あなたの冷淡さときびしさのために、子供たちをイエスからひき離してはならない。もしあなたが天国にいるなら天国は楽しいところではないと、彼らに思わせてはならない。宗教というものは子供たちの理解できないものであるかのように語ったり、子供たちが幼い時にキリストを受け入れることは期待できないかのようにふるまってはならない。キリストの宗教は陰気な宗教だとか、救い主のみもとに行くためには、人生を楽しいものにするようなものはすべて捨てなくてはならないなどという誤った印象を子供たちに与えてはならない。 DA 942.2
聖霊が子供たちの心に働く時、みたまの働きに協力しなさい。救い主が彼らを召しておられるということ、彼らが元気のよい若さにあふれた年ごろに主に献身することぐらいキリストをおよろこばせすることはないということを彼らに教えなさい。 DA 942.3
救い主は、ご自身の血で買われた魂を、限りないやさしさをもってごらんになる。彼らは主の愛によって当然主のものである。主は彼らを言うに言われぬ熱望をもってごらんになる。主の心は一番行儀のよい子供ばかりでなく、生れつき好ましくない品性の傾向を持っている者にもそそがれる。子供たちのこうした傾向にどれほど親の責任があるかを理解していない親が多い。彼らは自分が子供たちをそうしたまちがった者にしてしまったのに、そうした1先供たちをとり扱う知恵とやさしさを持っていない。しかしイエスはそうした子供たちを同情をもってごらんになる。イエスは原因から結果をつきとめられる。 DA 942.4
クリスチャンの働き人は、こうした子供たちを救い主に引きよせるのに、キリストの代理人となることができる。彼は知恵と機知とによって、彼らを自分の心に結びつけ、彼らに勇気と望みを与え、キリストの恵みによって、彼らの品性が一変し、その結果彼らについて「天国はこのような者の国である」と言われるようにすることができるのである(マダイ19:14)。 DA 942.5