各時代の希望

58/87

第58章 「ラザロよ、出てきなさい」

本章はルカ10:38~42、ヨハネ11:1~44に基づく DA 945.4

キリストの一番しっかりした弟子たちの中にベタニヤのラザロがいた。キリストを信じるラザロの信仰は、初めてお会いした時から強かった。キリストに対する彼の愛は深く、彼は救い主から非常に愛された。このテザロのためにキリストの最高の奇跡が行われた。救い主はご自分の助けを求めるすべての者を祝福された。主は、人類家族のすべての人を愛されるが、しかしある人々に対しては特に目だってやさしいまじわりによって結ばれておられる。イエスの心は、べタニヤの家族に対して強い愛情のきずなで結ばれていた。そしてこの家族の1人のために、キリストの最もふしぎなみわざがなされたのであった。 DA 945.5

イエスはたびたびラザロの家でくつろがれた。救い主にはご自分の家庭がなかった。主は、友人や弟子たちのもてなしを受けられたが、それでもしばしば疲れて人とのまじわりがほしくなられると、怒っているパリサイ人たちの疑いやねたみからのがれて、このなごやかな家族のところへおいでになることを喜ばれた。ここにイエスは、心からの歓迎と、純粋できよい友情を見いだされた。イエスは、ここでは、ご自分のことばが理解され、心にとめられることを知っておられたので、率直に、何の遠慮もなくお話になることができた。 DA 945.6

救い主は、静かな家庭と、興味をもってご自分の話 を聞いてくれる人たちを喜はれた。主は人間的なやさしさ、礼儀、愛情を熱望された。主がいつも与えようとしておられる人の教えを受け入れた人たちは非常にめぐまれた。群衆が、ひらけた野原を通って、キリストについて行くと、主は自然界の美しさを彼らに説明された。神のみ手がこの世界を支えていることを彼らが認めるように、主は、彼らのさとりの目を開こうとされた。神の恵みといつくしみに対する感謝の思いを呼ひさますために、主は、聴衆の注意を、善人のためにも悪人のためにも、音もなくおりる露や、静かに降りそそく雨や、輝く日光に向けられた。 DA 945.7

主は、それにもまして、神かこ自分の創造された人間をかえりみてくださることを、人々か認めるように望まれた。しかし群衆はなかなか理解しなかった。キリストは、公生涯における披労の多い戦いからの休息をベタニヤの家でとられた。ここで主は、理解のある聞き手に神の書を開かれた。こうして個人的にお会いになっている時に、キリストは、雑多な群衆には語ろうとされなかったことを、聞き手たちに説明された。彼はご自分の友人たちに譬で語られる必要がなかった。 DA 946.1

キリストがすはらしい教訓をお与えになる時、マリヤは敬虔で熱心な聞き手となって、その足下にすわった。ある時、マルタは、食事の支度の苦労に困ったあげく、キリストのみもとへきて、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」と言った(ルカ10:40)。それは、キリストが初めてベタニヤにこられた時であった。救い主と弟子たちは、エリコから徒歩で、骨の折れる旅をしてこられた。マルタは彼らの疲れをねぎらうことに心をうばわれ、その熱心さのあまり、お客に対する当然の礼儀を忘れた。イエスは、おだやかな、忍耐強いことばで、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んたのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」と言われた(ルカ10:41、42)。マリヤは、救い主の口から出るとうといみことば、彼女にとっては地上のどんな高価な宝石よりもとうといみことばを心にたくわえていたのだった。 DA 946.2

マルタにとって必要な「一つのもの」は、落ちついた、信心深い精神、未来の永遠の生命について知りたいというもっと強い熱望、霊的進歩に必要な徳であった。彼女は、過ぎ去ってしまうものに対する関心よりも、永遠に続くものに対する関心の方か必要だった。イエスは、こ自分の子らに、救いに至ろ知恵を与える知識を得るあらゆる機会をつかむように教えようと望まれる。キリストのみわさには、注意深く、かつ精力的な働き人か必要てある。マルタの女うな人たちか熱心に宗教活動をする広い分野がある。しかし彼らをまずマリヤといっしょに、イエスの足下にすわらせなさい。勤勉と敏速と精力とをキリストの恵みによってきよめなさい。その時、そのような生活は、征服されることのない善の力となるのである。 DA 946.3

これまでイエスが休息されていた平和な家庭に不幸か起こった。ラザロが急に病気になったので、彼の姉妹たちは救い主に使いをやって、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた(ヨハネ11:3)。彼女たちは、兄弟を襲った病気の激しさを見たが、キリストかとんな病気でも直すことがおできになることを知っていた。彼女たちはキリストが困りきっている自分たちに同情してくださると信じた。そこで、キリストにすくおいでくださるようにというさし迫った要求をしないで、「あなたが愛しておられる者が病気をしています」という信頼に満ちたことばを申し送っただけであった(ヨハネ11:3)。姉妹たちは、キリストがすくに伝言に応じて、ペタニヤにお着きになったらすぐ自分たちのところにきてくださるものと思っていた。 DA 946.4

姉妹たちは、イエスからのことはを熱心に待った。兄弟に生気があるかぎり、彼女たちは祈りながらイエスのおいでを待った。しかし使いの者は、イエスをお連れしないで帰ってきた。それても彼が、「この病気は死ぬほどのものではない」とのイエスのみこ とばを伝えたので、姉妹たちは、ラザロが生きるという望みをすてなかった(ヨハネ11:4)。彼女たちは、ほとんど意識不明の病人にやさしく望みと励ましのことばを語ろうと努めた。ラザロが死んだ時、姉妹たちはひどく失望した。しかし彼女たちは、キリストの支えの恵みを感じ、救い主を非難する気持になれなかった。 DA 946.5

ラザロが死んだという知らせをキリストがきかれた時、弟子たちは、キリストがその知らせを冷淡に受け取られたように思った。キリストは、彼らが予想したような悲しみをあらわされなかった。イエスは、彼らを見て、「この病気は死ぬほどのものてはない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものてある」と言われた(ヨハネ11:4)。イエスは、2日間同じ場所にとどまられた。この遅延は弟子たちにとってふしぎであった。イエスがおられたら、あの不幸な家族がどんなに慰められるだろうと彼らは思った。弟子たちは、ベタニヤの家族に対するイエスの深い愛情をよく知っていたので、イエスが「あなたが愛しておられる者が病気をしています」という悲しい伝言に応じられなかったことに驚いた。 DA 947.1

2日の間、キリストは、その伝言を心の中から忘れておられるようにみえた。キリストがラザロのことを口にされなかったからである。弟子たちは、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネのことを思った。ふしぎな奇跡を行う力をもっておられるイエスが、どうしてヨハネを獄の中で衰弱して非道な死に方をするがままにしておかれたのだろうと、彼らはふしぎに思ったのだった。そのような力を持っておられるのに、なぜキリストは、ヨハネの生命を救われなかったのだろう。この質問はパリサイ入たちからもよくたすねられた。パリサイ人たちは、ご自分か神のみ子であるというキリストの主張に対して、答えることのできない議論としてこの質問を出した。救い主は、弟子たちに、試練と損失と迫害について警告しておられた。主は試練のうちに彼らを棄てられるのだろうか。自分たちはキリストの使命をまちがえたのではないだろうかと疑う者たちもいた。そしてみんなが深く思い悩んだ。 DA 947.2

2日待ってから、イエスは弟子たちに、「もう1度ユダヤに行こう」と言われた(ヨハネ11:7)。弟子たちは、もしイエスがユダヤに行かれるのだったのなら、どうして2日間待たれたのだろうとふしぎに思った。しかしいま彼らの心を占めているのは、キリストと彼ら自身についての心配てあった。彼らは主がたどろうとしておられる道に危険しか見ることができなかった。彼らは、「先生、ユダヤ人らが、さきほともあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と言った(ヨハネ11:8)。するとイエスは、「1日には12時間あるではないか」と答えられた(ヨハネ11:9)、わたしは天父の導きの下にある。わたしが父のみこころを行っているかぎり、わたしの生命は安全である。わたしの1日12時間はまだ終っていない。わたしは、わたしの日の最後の残りに入った。しかしこの残りがまだある限り、わたしは安全である。 DA 947.3

イエスはつづけて言われた、「昼間あるけば、人はっまずくことはない。この世の光を見ているからである」(ヨハネ11:9)。神のみこころをなす者、神が示された道を歩む者にとって、つまずいて倒れるということはあり得ない。神の導きのみたまの光は、彼の義務について明らかなさとりを与え、その働きの終りまで彼を正しく導く。「しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」(ヨハネ11:10)。自分自身でえらんだ道、神が召されたのではない道を歩む者は、つまずくであろう。彼にとって、昼は夜にかわり、どこにいようとも、彼は安全ではない。 DA 947.4

「そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、『わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く』」(ヨハネ11:11)。「わたしたちの友ラザロが眠っている」。何という感動させられることばだろう。何という同精に満ちたことばだろう。弟子たちは、エルサレムへ行くことによって主が招こうとしておられる危険に心がうばわれて、ベタニヤの遺族のことをほとんど忘れていた。しかしキリストはそうではなかった。弟子たちは心を責められた。彼らは、 キリストがもっとすばやく伝言に応じられなかったので、失望していた。彼らは、キリストがラザロとその姉妹たちにやさしい愛情を持っておられると思っていたのに、実際はそうでなかったのだ、そうでなければ主は使いの者といっしょに急いで行かれたはずだと、考えたくなっていた。しかし、「わたしたちの友ラザロが眠っている」ということばは、彼らの心のうちに正しい感情を呼びさました。キリストは悲しんでいる友人たちを忘れてはおられなかったのだと、彼らは確信した。 DA 947.5

「すると弟子たちは言った、『主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう』。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った」(ヨハネ11:12、13)。キリストは、信じる子らにとって死は眠りであると言っておられる。彼らの生命はキリストとともに神のうちにかくれているのであって、最後のラッパが鳴りわたる時まで、死ぬ者はキリストのうちに眠るのである。 DA 948.1

「するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、『ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう』」(ヨハネ11:14、15)。トマスは、もし主がユダヤに行かれるなら、死が待ちかまえているとしか思えなかった。だが彼は覚悟をきめて、ほかの弟子たちに、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」と言った(ヨハネ11:16)。彼は、キリストに対するユダヤ人の憎しみを知っていた。イエスの死をたくらむことが彼らの目的であったが、この目的は成功していなかった。なぜなら、イエスに定められた時の幾分かがまだ残っていたからである。この時の間、イエスは天使たちの守護を受けておられた。そして、ラビたちがイエスを捕らえて死に処することをくわだてているユダヤの地方においてさえ、どんな危害も、イエスにのぞむことはできなかった。 DA 948.2

弟子たちは、キリストが、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを……喜ぶ」と言われたことばに驚いた。救い主は、悲しんでいる友人の家庭をわざと避けられたのだろうか。マリヤとマルタと死にかけているラザロがうちすてられたようにみえた。だが彼らは1人ぽっちではなかった。キリストはすべての光景をごらんになっていて、ラザロの死後、あとに残された姉妹たちはキリストの恵みによって支えられた。イエスは、彼女たちの兄弟が強敵である死と戦っている時、彼女たちの引き裂かれた心の悲しみを目に見ておられた。主は、「ラザロは死んだのだ」と弟子たちに言われた時、心に激しい苦痛を感じられた。しかしキリストは、ベタニヤの愛する者たちだけのことを考えておられなかった。主は弟子たちを訓練することを考えられねばならなかった。天父の恵みがすべてのべをおおうことができるように、彼らは世に対して天父を代表する者となるのであった。彼らのために、主は、ラザロが死ぬことをおゆるしになった。もし主がラザロを病気から健康へ回復されたら、イエスの神としての性格についての最も絶対的な証拠であるこの奇跡は行われなかったのである。 DA 948.3

もしキリストが病室におられたら、サタンはラザロに権力をふるうことができないので、ラザロは死ななかったであろう。生命を与えるお方であるイエスのおられるところでは、死は、ラザロをめがけて矢を放つことができなかったであろう。そこでキリストは離れておられた。主は敵に権力をふるわせておかれたが、それはご自分が敵を征服して撃退されるためであった。キリストは、ラザロが死の支配下にはいることをお許しになった。悲しむ姉妹たちは、兄弟が墓に横たえられるのを見た。彼女たちが兄弟の死に顔を見る時、あがない可三に対する彼女たちの信仰が激しく試みられることを主はご存知であった。しかし主は、姉妹たちの信仰が、いま経験している戦いを通して、ずっと大きな力となって輝き出ることをご存知だった。主は、彼女たちが耐えた苦痛の一つ一つをご自分も経験された。主は手間どられたとはいっても、彼らを愛しておられることに変わりはなかった。主は、 彼女たちのために、ラザロのために、ご自身のために、また弟子たちのために、勝利が得られることをご存知だった。 DA 948.4

「あなたがたのために」「あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ11:15)。神の導きのみ手を求めて手をさしのべているすべての者にとって、最も落胆している時が、神の助けが1番近い時である。彼らは自分たちの道の一番暗かったところを感謝をもってふりかえるであろう。「主は、信心深い者を試練の中から救い出」される(Ⅱペテロ2:9)。誘惑のたびに、試みのたびに、主はそこから彼らを、もっと固い信仰、もっと豊かな経験をもって、導き出される。 DA 949.1

ラザロのところに行くのを遅らせることには、まだ主を受け入れていない人々に対するキリストの憐れみの目的があった。ラザロを死人の中からよみがえらせることによって、頑固で不信な民に、ご自分がほんとうに「よみがえりであり、命である」という別な証拠をお与えになるために、キリストは出かけるのを延ばされたのであった(ヨハネ11:25)。主は、イスラエルの家の迷えるあわれな羊である民について、望みをまったく放棄することを好まれなかった。彼らがかたくなであるために、イエスの心は痛んでいた。憐れみ深い主は、ご自分が救い主であって、生命と不死を明らかにすることのできるただ1人のお方であるという証拠をもう1度彼らに与えようと意図された。これは祭司たちが誤解することのできない証拠となるのであった。これが、イエスがベタニヤに行くのを遅くされた理由であった。この最高の奇跡であるラザロのよみがえりは、キリストの働きと、神性についてのキリストの主張に、神の印をおすものであった。 DA 949.2

ベタニヤへ行かれる途中、イエスは、いつもの習慣通り、病人たちや困っている人たちに奉仕された。町へお着きになると、イエスは、使者を姉妹たちのところへつかわして、到着をお知らせになった。キリストは、すぐに家へお入りにならないで、道ばたの静かな場所に立ちどまっておられた。友人や肉親の者たちが死んだ時にユダヤ人がやるような大げさな外面的な表現はイエスの精神に調和しなかった。主は、やとわれた泣き人たちの泣き叫ぶ声をきかれたので、騒がしい光景の中で姉妹たちに会いたいと思われなかった。会葬者たちの中には、この家族の親戚の人たちがいて、そのある者はエルサレムで高い責任の地位を占めている人たちだった。その中にはキリストの最も激しい反対者たちが何人かいた。キリストは彼らの意図を知っておられたので、すぐには姿をお見せにならなかった。 DA 949.3

知らせはそっとマルタに伝えられたので、部屋の中のほかの人たちにはきこえなかった。マリヤは、悲しみに心を奪われていてそのことばが耳に人らなかった。マルタは、すぐ立ちあがると、主を迎えるために出て行ったが、マリヤは、マルタがラザロの葬られているところへ行ったのだろうと考え、泣き声もたてずに悲しみのうちに静かにすわっていた。 DA 949.4

マルタは、イエスを出迎えるために急いだが、彼女の心は矛盾する感情に波立っていた。マルタは、イエスのお顔の表情に、いつもと変らないやさしさと愛情を読みとった。イエスに対する彼女の信頼は裏切られなかった。しかし彼女は、イエスも愛しておられた自分の愛する兄弟のことを思った。イエスがもっと早くきて下さらなかったために彼女の心にわき起こっている悲しみと、今でも主は自分たちを慰めるために何かをして下さるだろうという望みとで、彼女は、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言った(ヨハネ11:21)。この姉妹たちは、泣き人たちのさわぎの中にあって、このことばを何度も何度も繰り返したのだった。 DA 949.5

人としてまた神としての同情をもって、イエスは悲しみと心配にやつれたマルタの顔をじっとごらんになった。マルタは過ぎ去ったことをくどくど繰り返したいとは思わなかった。すべては、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」との悲痛なことばに表現されていた。しかしイエスの愛のお顔をじっと見ながら、彼女は、「しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はか なえて下さることを、わたしは今でも存じています」とっけ加えた(ヨハネ11:21、22)。 DA 949.6

イエスはマルタの信仰を励まして、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と言われた(ヨハネ11:23)。イエスの答は、その場の変化について望みを起こさせるために言われたのではなかった。主は、マルタの思いを、彼女の兄弟の現在の回復をこえて、義人のよみがえりに向けられた。主がそうされたのは、彼女が、ラザロのよみがえりを通して、死んだすべての義人のよみがえりについての保証と、義人のよみがえりが救い主の力によってなしとげられるという確信とをみるためであった。 DA 950.1

マルタは、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えた(ヨハネ11:24)。 DA 950.2

イエスはなおマルタの信仰に正しい方向を与えようとして、「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言された(ヨハネ11:25)。キリストのうちには、借りたものでもなければ、ほかから由来したものでもない、本来の生命がある。「御子を持つ者はいのちを持」つ(Ⅰヨハネ5:12)。キリストの神性は、永遠の生命についての信者の確信である。「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」とイエスは言われた(ヨハネ11:25、26)。キリストはここでご自分の再臨の時を予期しておられる。その時、死せる義人は朽ちない者としてよみがえり、生ける義人は死を見ないで天へ移されるのである。キリストがラザロを死人の中からよみがえらせることによって行おうとしておられた奇跡は、死せるすべての義人のよみがえりを代表するのであった。キリストはみことばとみわざによって、ご自分がよみがえりの創始者であることを宣言された。まもなくご自分が十字架上で死のうとしておられたキリストは、よみの征服者として死の鍵をもって立ち、永遠の生命を与える権利と権力とを主張された。 DA 950.3

「あなたはこれを信じるか」との救い主のことばに、マルタは、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と答えた(ヨハネ11:26、27)。彼女は、キリストが語られたみことばの意味を全部理解したわけではなかったが、キリストの神性についての信仰と、キリストがみこころのままにどんなことでも行うことがおできになるという確信とを告白した。 DA 950.4

「マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、『先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます』と小声で言った」(ヨハネ11:28)。マルタはできるだけそっと知らせを伝えた。祭司たちと役人たちが、機会があったらイエスを捕らえようと、待ちかまえていたからである。泣き人たちの泣き声のために、彼女のことばは聞かれなかった。 DA 950.5

知らせを聞くと、マリヤは急いで立ちあがり、緊張した顔つきで部屋を出た。彼女が墓に泣きに行ったのだろうと考えて、泣き人たちがあとをついて行った。マリヤは、イエスが待っておられるところへくると、イエスの足下にひざまずき、ふるえる唇で、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言った(ヨハネ11:32)。泣き人たちの泣き声は彼女にとって苦痛だった。彼女は、イエスとだけ静かに二言三語りたかったからである。しかし彼女は、そこに居合わせた人たちの心にキリストに対するねたみやしっとが宿っていることを知っていたので、自分の悲しみを充分に表に出すことをひかえた。 DA 950.6

「イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ」られた(ヨハネ11:33)。主は集まっているみんなの心を読まれた。悲しみの表現として通っていることが、多くの者にとっては見せかけにすぎないことを、主はごらんになった。いま偽善的な悲しみを表している人々の中に、偉大な奇跡を行うお方ばかりでなく、死入の中からよみがえらせられろラザロの死もまもなくたくらむ人たちがいることをご存知だった。キリストは、彼らのみせかけの悲しみという衣を引きはがすこともおできになった。しかし主は、その正しい怒りを抑えられた。主は、事実のままに語ることのおできになることばを、口から 出されなかった。なぜなら、そこには、悲しみのうちに主の足下にひざまずきながら本当に主を信じている愛する者がいたからである。 DA 950.7

「彼をどこに置いたのか」とイエスはおたずねになった。「彼らはイエスに言った、『主よ、きて、ごらん下さい』」(ヨハネ11:34)。彼らはいっしょに墓の方へ進んで行った。それは悲しみに満ちた光景であった。ラザロは大層愛されていたので、その姉妹たちは心をたち切られるような思いで泣き、一方ラザロの友人だった人たちも、あとに残された姉妹たちといっしょに涙を流した。人としてのこのような悲嘆を思い、また世の救いセがそばに立っておられるのに、友人たちが死人についてこんなにも悲しみ苦しんでいるのをごらんになって、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。イエスは、神のみ子であられたが、人性をとっておられたので、人の悲しみに心を動かされた。主のやさしい、憐れみに満ちた心は、苦悩をごらんになることによっていつも同情をよび起こされる。主は泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ばれるのである。 DA 951.1

しかし、イエスが泣かれたのはマリヤとマルタに対する人間的な同情のせいばかりではなかった。イエスの涙には、天が地よりも高いように、人間的な悲しみよりも深い悲しみがあった。キリストは、ラザロを墓から呼び出そうとしておられたのだから、ラザロのために泣かれたのではなかった。主は、いまラザロのために悲しんでいる多くの者が、生命でありよみがえりである主の死をまもなくくわだてるので、泣かれたのであった。しかし不信のユダヤ人に、イエスの涙を正しく解釈することがどうしてできよう。ある者たちは、イエスの悲しみの原因として、イエスの目の前の外面的な事情しか見ることができないで、そっと「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と言った(ヨハネ11:36)。またある者たちは、そこに居合わせた人々の胸に不信の種をまこうとして、嘲笑的に、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」と言った(ヨハネ11:37)。ラザロを救う力がキリストにあるのなら、なぜラザロを死なせたのかというのである。 DA 951.2

キリストは、預言の目で、パリサイ人とサドカイ人の敵意をごらんになった。主は、彼らがキリストの死をくわだてていることをご存知だった。いま同情しているように見えるこれらの人々の中には、まもなく望みの戸口と神の都の門とを目の前に閉ざしてしまう者がいることを、主は知っておられた。まもなくキリストの屈辱と十字架の光景が起こり、それはエルサレムの滅亡へとつづくのであった。しかもその時には誰1人死者のために嘆き悲しむ者はないのであった。エルサレムにのぞもうとしていた報復がキリストの前にはっきりえがかれた。主は、エルサレムがローマの軍団によってかこまれるのをごらんになった。いまラザロのために嘆き悲しんでいる多くの者たちが、エルサレム包囲のうちに死に、彼らの死には何の望みもないことを、キリストは知っておられた。 DA 951.3

キリストが泣かれたのは、目の前の光景のせいばかりではなかった。各時代の悲しみの重さがキリストの上にかかっていた。神の律法を犯した恐るべき結果を、主はごらんになった。主は、この世の歴史には、アベルの死をはじめとして、善悪の戦いにたえまがなかったことをごらんになった。幾年も後の世まで見わたされて、主は、人類の運命となる苦難と悲しみ、涙と死をごらんになった。イエスの心は、各時代すべての国の人類家族の苦痛によって刺しつらぬかれた。罪深い人類のわざわいはキリストの魂に重かった。主が人類のすべての苦しみを救いたいと熱望された時、その涙の泉が破れた。 DA 951.4

「イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた」(ヨハネ11:38)。ラザロは岩のほら穴の中に寝かされていて、大きな石が入口におかれていた。「石を取りのけなさい」とキリストが言われた(ヨハネ11:39)。マルタは、主がただ死人を見たいと望まれたのだと考えたので、死体は葬られてから4日もたっていてすでに腐りはじめていますと言って、反対した。ラザロのよみがえりの前にマルタが言ったこのことばは、キリストの反対者たちに欺瞞が行われたのだと言わせる余地を与えなかった。これまでもパリサイ人たちは、 DA 951.5

神の力の最もふしぎなあらわれについて、いつわりのことばを言いふらしていた。キリストは、ヤイロの娘をいのちによみがえらせられた時、「子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われた(マルコ5:39)。彼女はちょっとの間しか病気をしていなくて、死ぬとすぐよみがえらせられたので、パリサイ人たちは、その子が死んだのではない、キリストがご自身言われたように眠っていただけなのだと断言した。彼らは、キリストが病気を直すことがおできにならないこと、またキリストの奇跡はごまかしであるということを明らかにしようと試みたのだった。だがこんどの場合、ラザロが死んでいたということを否定できる者は1人もなかった。 DA 952.1

主が働きをしようとされると、サタンはだれかが反対するように働きかける。「石を取りのけなさい」とキリストは言われた。できるだけ、わたしの働きに道を備えなさい。しかしマルタの積極的で野心的な性質が表面にあらわれた。彼女は、腐りかけた体を見せたくなかった。人間の心は、キリストのみことばをなかなか理解できないので、マルタの信仰は、キリストの約束の真の意味を把握していなかった。 DA 952.2

キリストはマルタを責められたが、そのことばはこの上なくやさしく語られた。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11:40)。なぜあなたはわたしの力について疑うのか。何の理由でわたしの要求に反対するのか。あなたはわたしのことばを持っている。もしあなたが信じるなら、あなたに神の栄光を見させてあげる。自然の不可能は、大能の神の働きを妨げることができない。懐疑と不信は謙遜ではない。キリストのみことばを絶対に信ずることこそ、真の謙遜であり、真に自己を放棄することである。 DA 952.3

「石を取りのけなさい」(ヨハネ11:39)。キリストは、石にそこをどきなさいとお命じになることもできたし、また石もその声に従ったであろう。キリストはこ自分のそば近くの天使たちに石を取りのけるように命じることもおできになった。キリストのご命令に、目に見えない手が石を取りのけたであろう。しかしそれは人間の手で取りのけられねばならなかった。こうしてキリストは、人は神と協力することを示そうと望まれた。人の力でできることには、神の力は呼び求められない。神は人の助けなしにはすまされない。神は人を強め、彼が自分に与えられている才能と能力とを用いる時、その人と協力される。 DA 952.4

命令に従って、石がとり除かれる。すべてのことが公然とわざわざ行われる。何の欺瞞も行われていないということを見る機会がすべての人に与えられる。岩の墓の中に、ラザロのからだが死のうちに冷たく無言のまま横たわっている。泣き人たちの泣き声が静まる。人々は、驚きと期待の思いで、次に何事が起こるかを見ようと待ちかまえて、墓のまわりに立っている。 DA 952.5

静かにキリストは墓の前に立たれる。神聖な厳粛さが、居合わせる一同の上に流れる。キリストは墓の方へ進まれる。「イエスは目を天にむけて言われた、『父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します』」(ヨハネ11:41)。このすこし前、キリストの反対者たちは、キリストが神のみ子であることを主張されたために、彼に冒瀆の罪があるといって石を取りあげ、キリストに投げつけたことがあった。彼らはキリストがサタンの力によって奇跡を行っておられるといって非難した。しかしここでキリストは、神をご自分の父と呼び、完全な確信をもって、ご自分が神のみ子であることを宣言しておられる。 DA 952.6

キリストはご自分がなさったすべてのことにおいて、天父と協力しておられた。キリストはいつもご自分が独力で働かれるのではないということを注意深く明らかにされた。キリストが奇跡を行われたのは信仰と祈りによってであった。キリストは、すべての人がキリストと天父との関係を知るように望まれた。「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」と主は言われた(ヨハネ11:41、42)。ここで、弟子たちと人々は、 キリストと神との間に存在する関係について、最も確信させられる証拠を与えられるのであった。キリストの主張が欺瞞ではないことが彼らに示されるのであった。 DA 952.7

「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた」(ヨハネ11:43)。はっきりした、鋭いキリストのみ声が死者の耳をつらぬく。キリストが語られると、神性が人性の中にひらめく。神の栄光に照されたキリストのみ顔に、人々はキリストの力についての確信を見る。どの日もほら穴の入口に釘づけにされる。どの耳も、ほんのかすかな音でも聞きのがすまいとする。苦痛なまでの非常な関心をもって、どの人もみなキリストの神性がためされるのを待ち受ける。それは神のみ子であるというキリストの主張を実証するか、それとも望みを永遠に消滅させるか、そのどちらかの証拠となるのであった。 DA 953.1

静かな墓の中に動く気配がして、死んでいた者が墓の戸口に立つ。彼の動作は、寝かされる時に体にまかれた布のために妨げられる。するとキリストは、驚いて見ている人たちに、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」と言われる(ヨハネ11:44)。ふたたび彼らは人間の働き人が神ど協力することを示される。人は人のために働かねばならない。ラザロは自由になり、病気でやつれ果てて手足のよろめく弱々しい人間としてではなく、人生の盛りにある、力に満ちたりっぱな人間として人々の前に立つ。彼の目は知性と救い主への愛に輝いている。彼は、賛美のうちに、イエスの足下にひれ伏す。 DA 953.2

これを見ていた人たちは、はじめは驚きのあまりことばが出ない。それから言い表しようのない再びと感謝の場面がつづく。姉妹たちは命によみがえった兄弟を神の賜物として受けとり、喜びの涙にくれながらとぎれとぎれに救い主への感謝を言いあらわす。しかし、兄弟姉妹たち友人たちがこの再会を喜びあっている間に、イエスはその場から立ち去られる。彼らが命をお与えになったお方をさがすと、その姿はもうどこにも見当らなかった。 DA 953.3