各時代の希望
第55章 見られるかたちでなく
本章はルカ17:20~22に基づく DA 936.4
一部のパリサイ人たちがイエスのところへやってきて、神の国はいつ来るのかとたずねた。バプテスマのヨハネが、「天国は近づいた」とのメッセージをラッパの音のように国中にひびきわたらせてからもう3年以上が過ぎていた(マタイ3:2)。それなのに、これらのパリサイ人たちは、まだ神の国が建設された徴候を見なかった。ヨハネをこばみ、事ごとにイエスに反対してきた人たちの多くは、イエスの使命は失敗したのだとほのめかしていた。 DA 936.5
イエスは、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とお答えになった(ルカ17:20、21)。神の国は心にはじまるのだ。神の国が来たこ とを表示する世俗的な権力の現れをここかしことさがし求めてはならない。 DA 936.6
主は、弟子たちの方をふり向いて、「あなたがたは、人の子の日を1日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」と言われた(ルカ17:22)。わたしの使命には世俗的なはなやかさが伴っていないので、あなたがたは、わたしの使命の栄光を認めない危険がある。人性におおわれてはいるが、生命であり人の光であるお方があなたがたのうちにおられる現在の特権がどんなに大きなものであるかを、あなたがたは認めていない。いまあなたがたが神のみ子と共に生活し共に語っているこの機会を、あこがれの思いをもってふりかえる日が来るであろう。 DA 937.1
利己心と世俗的な思いのために、イエスの弟子たちでさえ、イエスが彼らにあらわそうとしておられる霊的な栄光を理解できなかった。弟子たちが救い主の性格と使命とを十分に理解したのは、キリストが父のみもとへ昇天され、信者たちに聖霊が降下してからであった。彼らはみたまのバプテスマを受けてから、自分たちが栄光の主の前にいたのだということに気がつきはじめた。 DA 937.2
キリストの言われたことが思い出されるにつれて、彼らは、心が開かれて預言をさとり、キリストが行われた奇跡を理解したのであった。イエスの一生のふしぎなことが彼らの目の前を通りすぎた。すると彼らは、夢からさめた人たちのようであった。「言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」ということに彼らは気がっいた(ヨハネ1:14)。キリストは、堕落したアダムのむすこ、むすめらを救うために、実際に神のみもとから罪の世界においでになったのである。弟子たちは、このことをさとった時、自分たちが非常につまらない人間に思えた。破らは、イエスのみことばとみわざを繰り返し繰り返し語るのにあきなかった。彼らは、イエスの教えをこれまでかすかにしか理解していなかったが、それが、いまは新しい啓示となった。聖書は彼らにとって新しい本となった。 DA 937.3
弟子たちがキリストについてあかししている預言を調べた時、彼らは、神とまじわり、ご自分がこの地上にお始めになった働きを完結するために天に昇られたお方について学んだ。彼らは、神の力の助けなしにはどんな人間も理解することのできない知識がキリストのうちに宿っているという事実を認めた。王たち、預言者たち、義人たちが予告していたお方の助けが必要だった。彼らは、キリストの性格と働きについての預言の描写を驚きの念をもって繰り返し繰り返し読んだ。彼らは、聖書の預言を、何とかすかにしか理解していなかったことだろう。キリストについてあかししている大真理を納得することが何と遅かったことだろう。キリストが人々の中に住んでおられ時、屈辱のうちにあられるキリストを見て、彼らは、キリストの受肉の神秘、すなわちキリストの二重の性格を理解しなかった。彼らの目はふさがれていたので、彼らは人性のうちにある神性を十分に認めなかった。しかし聖霊の光を受けてから、彼らはキリストにもう1度お会いしたい、そしてその足下にすわりたいと、どんなにかあこがれたことだろう。彼らは、キリストのみもとに行って、自分たちの理解できない聖句を説明していただきたいとどんなに願ったことだろう。そうしたらどんなに注意深く彼らはキリストのみことばに耳をかたむけることだろう。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」と言われた時、キリストはどんなおつもりだったのだろう(ヨハネ16:12)。その全部をどんなにか知りたいことだろう。彼らは、自分たちの信仰が弱く、考え方がまとをはずれていたために、現実を理解しなかったことを悲しんだ。 DA 937.4
人々がキリストを受け入れる備えができるように、キリストの来臨を宣べ伝え、ユダヤ国民と世界の人々の注意をキリストの使命に向けるために、1人の先駆者が神からつかわされていた。ヨハネが布告したふしぎなお方は30年以上にわたって人々の中におられたが、彼らはそのお方が神からっかわされたお方であることを実際に知らなかった。弟子たちは、自分たちの考え方が世の全般的な不信に影響さ れ、理解がくもったことについて後悔につきまとわれた。この暗い世界の光であられるお方は、暗黒の中に輝いておられたが、彼らはその光がどこからきているかをさとらなかった。なぜ自分たちはキリストから譴責されなくてはならないような生活を送ったのだろうと、彼らは自問した。彼らはしばしばキリストの会話をくりかえし、なぜわれわれは世俗的な考慮や祭司たちとラビたちの反対のために頭を混乱させて、モーセよりも偉大なお方がわれわれの中におられることや、ソロモンよりも賢いお方がわれわれを教えておられることをさとらなかったのだろう、われわれの耳は何とにぶく、われわれの理解力は何と弱かったことだろうと言った。 DA 937.5
トマスは、ローマの兵士たちから受けられた傷口に指を突っこんでみるまでは信じようとしなかった。ペテロは、屈辱と拒絶を受けられたイエスをこばんだ。このような苦痛の思い出が、はっきりした形で浮んだ。彼らは、イエスといっしょにいたのに、イエスを知りもしなければ、理解もしなかった。しかしいま自分たちの不信仰を認めた時、彼らの心は、こうした事がらに動かされた。 DA 938.1
祭司たちと役人たちがいっしょになって、キリストに従う者たちに反対し、彼らを法廷に引っぱり出し、獄に投げ込んだ時、彼らは、「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜」んだ(使徒行伝5:41)。彼らは、人々と天使たちの前で、自分たちがキリストの栄光を認め、一切のものを失ってもキリストに従うことを選んだことを喜んで証言した。 DA 938.2
使徒時代と同じように今日も、天来のみたまの光がなければ、人はキリストの栄光を認めることができないことは事実である。真理と神の働きは、世を愛する妥協的なキリスト教によっては理解されない。主に従う者たちは、安楽な道、世俗的な名誉や世俗と一致した道にいない。彼らは苦労と屈辱と非難の道に、また「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦い」の第一線のはるか前方にいる(エペソ6:12)。そしていまも、キリストの時代と同じように、彼らは現代の祭司たちとパリサイ人たちによって誤解され、非難され、圧迫されている。 DA 938.3
神の国は見えるかたちで現われない。神の恵みの福音は、克己の精神を伴っているので、決して世の精神と一致するはずがない。この両方の原則は互いに相反するものである。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解すろことができない」(Ⅰコリント2:14)。 DA 938.4
しかし今日、宗教界には、自分たちが信じる通りに、キリストのみ国を、この地上に、現世の支配権をもった国として建設するために働いている人たちが大勢いる。彼らは主イエスを、この世の王国の主権者、世の法廷、軍隊、議会、王宮、市場の主権者にしたいと望むのである、彼らは、主が人間の権威によって施行される法律を通して統治されるのを期待する。キリストがいまみずからこの地上におられないので、彼らは、キリストの代理をつとめ、キリストのみ国の律法を施行しようとする。このような国を建設することは、ユダヤ人がキリストの時代に希望したことである。もしキリストが、現世の主権を確立され、彼らが神の律法とみなしているものを施行され、彼らを神のみこころの解説者とし、神の権威の代理人とされる気があったら、彼らはイエスを受け入れたのである。しかしキリストは、「わたしの国はこの世のものではない」と言われた(ヨハネ18:36)。主はこの世の王座を受けようとされなかった。 DA 938.5
イエスの在世当時の政治は堕落していて、圧制的であった。棄てておけない悪弊——搾取、偏狭、暴虐な残酷さがいたるところに見られた。それでも救い主は、社会改革を試みられなかった。主は国民の悪弊を攻撃したり、国民の敵を非難したりされなかった。主は、権力者たちの権威や行政に干渉されなかった。われわれの模範であられたえ方は、現世の政治から遠ざかっておられた。それは、主が人々の不幸に対して無関心であられたからではなく、これを救う方法がただ人間の外面的な手段にはなかった からである。効果があるためには、救済策は個人に及び、心を生まれかわらせねばならないのである。 DA 938.6
キリストのみ国は、法廷や会議や立法議会などの決定や、世俗的に有力な人たちの後援によってではなく、聖霊の働きを通して、キリストの性質が人間性のうちにうえつけられることによって、建てられるのである。「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ1:12、13)。ここに人類を高めろことのできるただ一つの力がある。そしてこの働きをなしとげるために人間のできることは、神のみことばを教え、実行することである。コリントという町は、人口が多くて、富裕で、言いようもない異教の悪徳にけがれた邪悪な都市であった。使徒パウロがこの町で伝道を始めた時、彼は、「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と言った(Ⅰコリント2:2)。のちに彼は、かつて最もいまわしい罪にけがれていた人たちに手紙を書いて、「しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している」と言うことができた(Ⅰコリント6:11、1:4)。 DA 939.1
いまも、キリストの時代と同じように、神の国の働きは、世の支配者たちに認められ、人間の法律によって支持されることをやかましく求める人たちの手にはなくて、受け入れる人々に、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのであろ」とのパウロの経験をさせるような霊的真理を、キリストのみ名によって民に宣言する人たちの手にあるのである(ガラテヤ2:19、20)。その時彼らは、パウロのように、人々を益するために働くのである。「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」とパウロは言った(Ⅱコリント5:20)。 DA 939.2