各時代の希望
第52章 よい羊飼
本章はヨハネ10:1~30に基づく DA 922.1
「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。……わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はままた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」(ヨハネ10:11、14、15)。 DA 922.2
ふたたびイエスは、聴衆のよく知っている事がらについての連想を通して、彼らの心をとらえる道を見いだされた。イエスは、みたまの感化を、つめたい、清新な水にたとえられたことがあった。イエスはまた、ご自分が光であって、自然界にとっても人間にとっても生命とよろこびのみなもとであると言われたことがあった。いまイエスは、美しい田園的な描写をもって、イエスを信ずる者とご自分との関係を表現される。聴衆にとってこれほど見なれた光景はなかったので、キリストのみことばは、この光景を永遠にキリストご自身に結びつけた。弟子たちは、羊の群れを世話している羊飼たちを見ると、救い主の教訓を思い出さないではいられなかった。彼らは、一人一人の忠実な羊飼のうちにキリストを見るのであった。彼らは、たよっている無力な羊の群れの1頭1頭に、自分自身を見るのであった。 DA 922.3
預言者イザヤは、この譬をメシヤの使命にあてはめて、慰めのことばをこう語った。「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と、……主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ40:9~11)。ダビデは、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と歌った(詩篇23:1)。 DA 922.4
聖霊はまた、エゼキエルを通して、こう言明された、「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる…彼は彼らを養う。……わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついた者を包み、弱ったものを強くし……、わたしは彼らと平和の契約を結び……、彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく……彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない」(エゼキエル34:23、16、25、28)。 DA 922.5
キリストは、これらの預言をご自分にあてはめ、ご自身の性格とイスラエルの指導者たちの性格との相違をお示しになった。パリサイ人たちは、キリストの力についてあえてあかしをたてたという理由で、1人の人間をかこいの中から追い出したばかりであった。彼らはまことの羊飼イエスがご自分のもとにひきよせようとしておられた魂を追い出した。このことによって、彼らは、自分たちにまかされている働きについて無知であることと、羊の群れの牧者として信任される価値のないことをばくろした。イエスは、いま彼らとまことの羊飼との相違を彼らの目の前に示し、ご自身を主の羊の群れのまことの番人としてさし示された。しかしイエスは、その前に、別な譬で、ご自分のことを語っておられる。 DA 922.6
イエスはこう言われた、「羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である」(ヨハネ10:1、2)。バリサイ人たちはこのことばが彼らを非難して語られたことばであることに気がつかなかった、彼らがその意味を心の中でおしはかっていると、イエスは、はっきり彼らに言われた、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出人りし、牧草にありつくであろう。 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:9、10)。 DA 922.7
キリストは神の囲いの門である。大昔から、神の子らはみなこの門を通って入って行った。イエスは、型に示され、象徴に予表され、預言者たちの啓示にあらわされ、弟子たちに与えられた教訓を通してあらわされているが、そのイエスのうちに、また人の子らのためになされた奇跡のうちに、彼らは「世の罪を取り除く神の小羊」を見(ヨハネ1:29)、また、イエスを通して、主の恵みという囲いの中につれてこられた。多くの人々が現れて、世の信仰の対象としてほかのものを示した。人々は、儀式や制度を作り出し、それによって義とされ、神とやわらいで、神の囲いに入ることを望んでいる。しかしただ一つの門は、キリストである。キリストの代りになるような何かを置いたり、何かほかの道から囲いに入ろうと試みた者は、みな盗人であり、強盗である。 DA 923.1
パリサイ人は門から入らなかった。彼らは、キリスト以外の方法で、囲いによじのぼって入ったのであって、真の羊飼の働きを果たしていなかった。祭司たちや役人たち、律法学者たちやパリサイ人たちは、生きた牧草地をだめにし、生命の水のみなもとをけがした。霊感のみことばは、こうした偽りの羊飼をありのままにこうえがいている、「あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、……彼らを手荒く、きびしく治めている」(エゼキエル34:4)。 DA 923.2
どの時代にも、哲学者たちと教師たちは、魂の必要を満足させるための学説を世に示してきた。どの異教国にも、鰍な教師や宗教制度があって、キリスト以外のあがないの方法を提供し、人々の目を天父のみ顔からそらし、人々に祝福しかお与えになったことのない神について、恐怖を人々の心に満たしてきた。彼らの働きの傾向は、創造とあがないによって神ご自身のものであるところのものを、神力ら奪うことである。このような偽りの教師たちは人からもまた盗んでいる。幾百万の人間が偽りの宗教の下にあって、奴隷的な恐れとにぶい無関心という束縛につながれ、この世における望みもよろこびも抱負も奪われて、ただ来世についての重苦しい恐れを抱きながら、荷物を背負わされた動物のように骨おっている。魂を高めることができるのは神の恵みの福音だけである。み子のうちにあらわされている神の愛について瞑想する時、ほかのどんなことによるよりも、心が動かされ、魂の能力が呼び起こされる。キリストは、人間のうちに神のみかたちを再創造するためにおいでになった。人々をキリストから離れさせる者はだれでも彼らを真の向上のみなもとから離れさせているのであって、人生の希望と目的と栄光とを彼らからだましとっているのである、彼は盗人であり、強盗である。 DA 923.3
「門からはいる者は、羊の羊飼である」(ヨハネ10:2)。キリストは門であり、また羊飼である。主は1人でお入りになる。キリストが羊の羊飼となられるのはご自身の犠牲を通してである。「門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである」(ヨハネ10:3、4)。 DA 923.4
すべての動物の中で、羊は最も臆病で無力な動物の一種なので、東方の国では、羊飼はたえまなく、うむことなく、羊の群れを世話する。昔は、今と同じように、城壁をめぐらした町の外側は安全ではなかった。辺境をうろついている部族からの略奪者たちや、岩の間をかくれ場所にしている猛獣などが、羊の群れをあらそうとして待ち伏せていた。羊飼は、いのちがけの責任を自覚して見張った。ヤコブは、ハランの牧草地でラバンの羊の群れを飼ったが、自分自身のしんぼう強い働きを描写して、「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした」と言った(創世記31:40)。少年ダビデが、1人で、ししと熊に出会い、盗まれた小羊をそのきばから救い出したのは、父の羊の番をしていた時であった。 DA 923.5
羊飼が岩だらけの丘を越え、森林や荒れ果てた谷 を通って、羊の群れを草の多い川辺の安全な場所へ連れて行く時、また山の上で、淋しい夜の間、羊を盗賊から守り、病気の羊や弱い羊をやさしく世話しながら番をしている時、彼の生命は羊たちの生命と一体となる。一つの強いやさしいきずなによって、彼は、自分が世話をしているものに結びつけられる。羊の群れがどんなに大きくても、羊飼はどの羊も知っている。どの羊にも名前があって、羊飼が名前を呼ぶと答えるのである。 DA 923.6
この世の羊飼が自分の羊を知っているように、天の羊飼イエスは、世界中にちらばっているご自分の羊の群れを知っておられる。「あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。イエスは「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。「わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」と言われる(エゼキエル34:31、イザヤ43:1、49:16)。 DA 924.1
イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいる一人一人の名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の1匹をさがしなさいと命じられた。 DA 924.2
一人一人は、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。一人一人の悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人をみもとに引きよせるためにおいでになった。イエスは彼らに、「わたしに従ってきなさい」とお命じになる。するとみたまが彼らの心に働いて、彼らがみもとにくるように引きよせる。多くの者は引きよせられるのをこばむ。イエスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の呼び声をよろこんで聞いて、羊飼であられるイエスの守りに身をゆだねようとする者をご存知である。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」とイエスは言われる(ヨハネ10:27)。イエスは、この地上にほかにだれもいないかのように、一人一人を気づかわれる。 DA 924.3
「彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。……羊はその声を知っているので、彼について行くのである」(ヨハネ10:3、4)。東方の羊飼は羊を追いたてない。彼は、暴力や恐怖心に訴えないで、自分が先に行って羊たちを呼ぶ。羊たちは、彼の声を知っているので、その呼び声に従う。救い主であられる牧者イエスも、これと同じように、ご自分の羊をとり扱われる。聖書に、「あなたは、その民をモーセとアロンの手によって羊の群れのように導かれた」といわれている(詩篇77:20)。預言者を通して、イエスは、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」と宣言しておられる(注・英語訳には、「それゆえ、わたしはやさしく親切にあなたを引きよせた」となっている。エレミヤ31:3)。イエスは、わたしに従いなさいと、だれにも強制されない。「わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた」と、イエスは言われる(ホセア11:4)。 DA 924.4
弟子たちがキリストに従うのは、罰を恐れるとか、永遠の報いを望むからではない。彼らは、ベツレヘムの馬ぶねからカルバリーの十字架にいたるまで、この地上における旅路を通じてあらわされた救い主の比類のない愛を見る。そのキリストのお姿が彼らをひきつけ、魂をやわらげ、征服するのである。イエスを仰ぎ見る者の心のうちに愛がめざめる。彼らはみ声を聞き、イエスに従うのである。 DA 924.5
羊飼が羊たちの前に行って、自分がまず道中の危険に遭遇するように、イエスもまたご自分の民に対して同じようになさる。「自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く」(ヨハネ10:4)。天への道は、救い主のみ足跡によってきよめられている。道はけわしく荒れているかもしれないが、イエスがその道を歩まれたのである。イエスの足は、ひどいいばらをふみつけて、われわれがその道を通りやすいようにされた。イエスは、われわれが負うように召されて いるどの重荷もご自分で負われた。 DA 924.6
今イエスは、神のみもとにのぼって、神と共に宇宙の王座についておられるが、その慈悲深いご性質をすこしも失ってはおられない。今日も同じように、やさしい同情に満ちたイエスの心は、人類のすべての苦悩に向かって開かれている。刺されたみ手は、世にあるご自分の民をもっと豊かに祝福するために今日もさし出されている。「だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」(ヨハネ10:28)。キリストに献身した魂は、キリストの御目には、全世界よりもとうといのである。救い主は、ひとりがみ国に救われるためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。主は、ご自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。イエスに従う者たちが自分からイエスを離れようとしない限り、イエスは、彼らを固くひきとめておられる。 DA 925.1
われわれには、どんな試練の時にも、決してわれわれを裏切られることのない助け主がいる。主は、われわれが誘惑に抵抗し、悪と戦い、ついには重荷と悲しみにおしつぶされてしまうがままに、放っておかれない。いまは、イエスは人間の目からかくされているが、信仰の耳は、イエスのみ声が、「恐れるには及ばない、わたしがあなたといっしょにいるのだ」と言われるのを聞くことができる。「(わたしは)また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である」(黙示録1:18)。わたしは、あなたの悲しみに耐え、あなたの戦いを経験し、あなたの誘惑に会った。わたしはあなたの涙を知っている。わたしもまた泣いたのである。人間の耳に聞かせられないほどの深い悲しみをわたしは知っている。あなたは、自分がうち捨てられた孤独な人間だと思ってはならない。この地上にはあなたの苦しみを心の琴線に感じてくれる人がなくても、わたしを見、そして生きなさい。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる」(イザヤ54:10)。 DA 925.2
羊飼は、自分の羊をどんなに愛しても、やはり自分の息子娘はもっとかわいいのである。イエスは、われわれの羊飼であるばかりでなく、われらの「永遠の父」であられる。だからイエスは、「わたしは……わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われる(ヨハネ10:14、15)。これは何というとうといみことばだろう。天父の愛されるひとり子、神が「わたしの次に立つ人」(ゼカリヤ13:7)と宣言されたお方、そのお方と永遠の神との間のまじわりをもって、キリストと地上の子らとの交わりを描写されるとは。 DA 925.3
われわれは天父の賜物であり、イエスの働きの報いであるから、イエスはわれわれを愛されるのである。イエスは、われわれをご自分の子として愛される。読者よ、イエスはあなたを愛される。天そのものは、イエスよりも偉大なもの、イエスよりもよいものを与えることができない。だから信頼なさい。 DA 925.4
イエスは、にせの羊飼によってまちがった道へ連れて行かれた全地の魂に思いをよせられた。イエスがご自分の牧場の羊として集めようと熱望された人たちが、狼の間にちりぢりになっていた。そこでイエスは、「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」と言われた(ヨハネ10:16)。 DA 925.5
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)。すなわち、父はあなたを深く愛されたので、あなたをあがなうために自分の生命をささげたわたしをますます愛してくださるのである。わたしの生命をささげることによって、あなたの負債、あなたの罪とがを引き受けることによって、わたしがあなたの身代りまた保証となったために、わたしは父から愛されているのである。 DA 925.6
「命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わ たしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」(ヨハネ10:17、18)。イエスは、人類家族の一員として死ぬべき身であられたが、一方また、神として世の人々のための生命の泉であられた。イエスは死の前進をとどめ、その主権の下に人ることをこばむこともおできになった。だが主は、生命と不死を明るみに出すために、自発的にご自分の生命をお捨てになった。イエスは、人類が永遠に滅びることがないように、ご自分が世の罪を負い、罪ののろいに耐え、ご自分の生命をいけにえとしてささげられた。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった……彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ53:4~6)。 DA 925.7